【試し読み】午前0時のおいしい魔法2~先生のためのスフレオムレット~

作家:烏丸紫明
イラスト:Laruha
レーベル:夢中文庫アレッタ
発売日:2021/12/10
販売価格:600円
あらすじ

神戸元町、旧居留地。街の一角にひっそりと佇む、お夜食専門店『tete-a-tete』(テテ・ア・テテ)。深夜にだけ開店するその店には、今夜もまた癒しを求めてお客さまがやってくる。明るく元気なウェイトレス・莉乃とオネェ言葉の謎めくイケメンシェフ・千紘が今夜提供するのは、ふわっと軽くてしゅわっと溶ける、卵とバターのコクがたまらない『スフレオムレット』──40歳を目前に8年間付き合った恋人にフラれてしまった高校教師。年齢を重ねることで自分の価値を見失いかけていた彼女にあえて〝時間制限のある料理〟を出した理由とは……? 『先生のためのスフレオムレット』の他、そっと背中を押してくれる2本を収録。

登場人物
結城莉乃(ゆうきりの)
好奇心旺盛な22歳。『tete-a-tete』の美味しい料理に魅了され給仕を手伝う。千紘には基本塩対応。
須藤千紘(すどうちひろ)
長身美形の29歳。『tete-a-tete』のシェフで、調理技術とセンスは天才的。なぜかオネェ言葉。
試し読み

先生のためのスフレオムレット

莉乃りの!」
 店内に一歩入ったとたん、大声で名前を呼ばれる。
 ビクッと身を弾かせた私──結城ゆうき莉乃のもとに、紺の三つ揃いのスーツでビシリとキメたおじさまが駆け寄ってくる。
 そして満面の笑顔で私の手を取ると、ギュ~っと力いっぱい握り締めた。
 神戸旧居留地にある、紅茶好きだったら知らない人はいないとまで言われる有名な紅茶専門店『livre d’imagesリーヴルディマージュ』。店名はフランス語で『絵本』の意。昭和初期に建てられた、フランスはパリの小さな集合住宅メゾネットのような、石造りのレトロな二階建ての建物。クリーム色の壁のいたるところに精緻な彫刻が施されていて、窓には優美なデザインのアイアンフェンス。異国感溢れる観音開きの巨大で重厚なドアから一歩中に入ると、その名のとおり絵本で見るような『非日常』が広がる。
 一階は、紅茶と雑貨のショップ。白い漆喰の塗り壁に、ギシリと鳴く古い飴色の床。所狭しと並ぶ、紅茶や食器たち。毎日キッチンで焼き上げられる、たくさんの種類の焼き菓子たちも。見ているだけで心がときめく。
 階段を上がった二階は、サロン・ド・テ。つまりティーサロン。メルヘンチックな一階とは違い、しっとりと落ち着いた雰囲気。アンティークの家具や雑貨に囲まれて、美味しい紅茶を楽しむことができる。
 私はため息をつくと、おじさま──叔父の結城和成かずなりの手を振り払った。
「……うるさいです、叔父さん」
 お客さまに迷惑です。
 しかし叔父さんはまったくめげることなく、「いいんだよ、僕の店なんだから」と、とんでもないことを言って、にっこりと笑った。
「嬉しいよ! ようやく来てくれたんだね! 僕がどれだけ待っていたか! さぁ! 上へ! すぐに上へ! 七月の新メニューも最高だよ! ぜひ食べて!」
 ……相変わらず圧がすごい。
 以前から、叔父さん自慢のこの紅茶店に「もっと来てくれ」ってしつこくうるさく催促されていたんだけど、こんな感じで普通のお客さまとして扱ってもらえないのがもうわかりすぎるほどわかり切っていたから避けていたんだよね……。
 特別扱いされるのが好きな人もいるけど、私は駄目。必要以上に気を使っちゃうし、ほかのお客さまの『あの人はなぜあれほどのサービスを受けられるの?』という目も気になっちゃうしで、まったくくつろげない。
 お洒落で素敵な空間で美味しい紅茶を飲んで、気疲れして帰るなんて、店に行った意味がないじゃない?
 でも、会うたびに叔父さんは紅茶店に来てくれ来てくれってうるさいし、確かに公式サイトで発表された七月の新商品は美味しそうで食べてみたかったし、おまけに今は仕事があまり上手くいっていない──と言ってしまうと少し語弊があるけれど、執筆中の小説の展開に悩んでいたところでもあったから、息抜きしようと思って来たんだけど、入店一秒で後悔することになろうとは。
 私はため息をついた。
 叔父さんは事務所で仕事をしていることがほとんどだし、店員さんからの報告さえ止めれば、気づかれずに済むんじゃないかなんて淡い期待を抱いていたけれど……。やっぱり無理だったか……。ほかの店に行くべきだった? でも、ここが一番近いんだよね……。
 季節は、もう七月下旬。先日梅雨明けしたばかり。もちろん今年の夏も暑い!
 体力は執筆のために使わなきゃいけない。息抜きで大幅に消耗したくないとなると、場所的にはここが一番ベストなんだよね……。
「引っ越そうかな……」
 でも、『tete-a-teteテテアテテ』が遠くなっちゃうのは嫌だしなぁ……。
「何? 僕の家に戻ってくる話? いいよ~! 大歓迎!」
「全然違います」
「いいんだよ? いつでも帰ってきてくれて。もっと親子関係を堪能しようよ!」
「親子じゃないじゃないですか」
「今日も返事の切れ味が鋭いね。スマホのAIだってもっと温かみのある受け答えをしてくれるというのに……。でも僕は、そんな莉乃が大好きだよ!」
「そうですか、ウケますね」
 叔父さんの実に鬱陶しい言葉をスパンと切り捨てながら二階のサロンへと上がって、ひどくクラシカルなブックケースの脇の一人席に腰を下ろす。
「莉乃、今日のオススメはね?」
「あ、自分で選べます。本当にうるさいんで、ほかのお客さまの迷惑にもなりますし、奥に引っ込んでてもらえますか? じゃないと、もう二度と来ませんよ」
 最後の一言に力を込めると、叔父さんがビクッと身を震わせる。
 しばらく名残惜しそうにモジモジしていたけれど、無視を決め込むと、諦めたのかすごすごと奥へと戻っていった。
 ……普段はほとんど奥の事務所にこもって仕事しているくせに、私が来た時だけ、なぜか一階の物販スペースにいることが多いんだよね。どういう嗅覚してるのよ? 怖いんだけど。
 私はもう一つため息をついて、気を取り直してメニューを開いた。
「白桃のスイーツは七月末で終了か。白桃とアールグレイジュレのパルフェはすごく美味しそうだよね。白桃とアールグレイのフロマージュティーも美味しそう。でも、ゴールデンパインも捨てがたいよね。ゴールデンパインのショートブレッド、そしてゴールデンパインのティーソーダ。涼やかで美味しそう……!」
 ゴールデンパインのメニューは八月中旬までだけど、叔父さんストレスを考えると、一ヵ月以内にもう一度ここに来ようと思えるかな? それを考えると、今食べておくべきなのかもしれない。
「う、うーん……。あ、かき氷はじめたんだ? へぇ……」
 昨今のかき氷ブームに、ついに乗っかったんだね。
「食べる紅茶……。新体験の紅茶かぁ……! うーん……これも食べたい……!」
 オリジナルの紅茶シロップを使ったかき氷に、思わず唸ってしまう。
 とくに、オリジナルのチャイシロップをたっぷりかけた上になめらかなクリームとフレッシュなマンゴーとマンゴーソースを重ねたマンゴーとチャイのかき氷なんて、ものすごく食べてみたい!
 ミントティーのシロップの上になめらかなクリーム、削ったチョコレートをかけたチョコっとミントなティーかき氷もなかなか変わってて、すごく美味しそう。
「うーん……」
 さて、困ったぞ。どうしようか。
 ほかのお客さまは何を選ばれたんだろう? あからさまにならないようにこっそり店内を見回して、私はふと窓際の席に座る女性に目を留めた。
「……?」
 年齢は、四十歳前後といったところだろうか? 長い黒髪をきっちりとまとめて、主張の少ないナチュラルなメイクに、銀縁眼鏡。きちんと感のあるシャツワンピ姿。『先生』と呼ばれる職業が似合う──そんな印象の女性だった。
 その女性のテーブルには、ゴールデンパインのティーソーダとゴールデンパインのショートブレッドが手つかずのままあった。提供されてからかなりの時間が経過しているようで、ひどく汗をかいたグラスの中の氷は溶けて透明な水の層ができており、ショートブレッドの上に乗っているはずのアイスはすでに見る影もなく、その端からポタポタと滴り落ちている。
 女性はそれをじっと見つめたまま、微動だにしない。その横顔は悲壮感しかなく、何かあったのかと思ってしまうほど。
 ふと視線を巡らせると、店員さんたちも女性が壮絶な顔でスイーツを見つめたまま動かないのが気になっているようで、気遣わしげにチラチラと様子を窺っている。
 私は少し考え、手を上げて店員さんを呼んだ。
「ゴールデンパインのティーソーダとゴールデンパインのショートブレッドをお願いします」
「かしこまりました」
 店員さんが恭しく頭を下げて、厨房へ戻ってゆく。
「…………」
 心を込めて作ったものを、ろくに手をつけることなく残されてしまうのは悲しい。店員さんの気持ちを思うとやり切れない。
 でも、そもそも食べる気がないのに注文したわけではなくて、注文してから商品が届くまでにそれを食べる気をなくしてしまうほどの何かが女性の身に起こったのかもしれない。
 それを確かめないまま、安易に女性を批判するのはよくない。そうしたところで、溶けたアイスが、失われた美味しさが元に戻るわけでもないんだから。
 そんなことしたって、店員さんが喜ぶわけもない。
 だったら、女性の前で無惨な姿を晒しているアレを今さら救済することはできないけれど、ほかのお客さまにこのメニューがイマイチだなんて誤解をされないように、私がことさら美味しそうに食べてやろうと思う。悲しい思いをした分、大いに喜んでもらおうと思う。
 だって、叔父さんがOKを出したメニューだもの。「最高だよ!」って愛する私に薦めまでしたんだもの。それが、美味しくないはずがない!
 だてに、紅茶と食に命を懸けてる変態じゃないのよ。うちの叔父さんは。
「そうと決まれば……」
 ゴールデンパインのメニューだけじゃなくて、ほかのものも食べよう。お腹が許すかぎり、たらふく食べよう。
 もちろん、食べ時を逃さないように、一気に頼むことはしない。
 時間はたっぷりあるもの。焦らずに。
『食事は待つ時間も含めて楽しまなきゃもったいない』
 それは──大好きなお店で教わったこと。
 一旦仕事のことは忘れて、お店の雰囲気を──ゆったりと流れる時間を楽しんで、叔父さん自慢の美味しい紅茶とスイーツを堪能しよう。
 それはそれは、とても素晴らしいに違いないから。

◇*◇

 まだ街が眠るには早い時間。
『livre d’images』の地下階にある、お夜食スペ専門のビストロ──『tete-a-tete』。
 開店は二十三時。でも、私がお店に行くのは、その一時間と少し前。
 ビルの裏手──関係者以外はほぼ立ち入ることはないであろう細い路地に面した、古めかしく重厚な真紅の扉が私を待っている。
 今日のメニューはなんだろう? ルンルンしながら通りを曲がった時だった。
「……!」
『livre d’images』の前に、誰かが立っていた。
『livre d’images』の閉店は二十時。二十二時にもなると、もちろん出入口は施錠され、ポーチの灯りも消えている。店の前の歩道は街灯もあってさほど暗くはないんだけど、出入口は建物の影になっていて、ポーチの灯りがないと真っ暗だ。
 そこに、扉に縋りつくようにして立ってたもんだから、私は思わず叫び声を上げてしまった。
「ッ……!」
 私の声に、その人がビクッと身を弾かせ、素早くこちらを見る。
 あの女性だった。『livre d’images』で頼んだものにまったく手をつけることなく、悲壮な顔をしてじっと座っていた、あの。
「……! え……? だ、大丈夫ですか……?」
 お店で見かけた時も、大丈夫なのかなと思うところはあったけど、今はあきらかに様子がおかしかった。大粒の涙がボロボロと零れ落ち、細い肩も、スマホを握る手もブルブルと震えている。
「あ……」
 女性が私を見て何やら言おうとした瞬間、スマホが音を吐き出す。
 女性は再度身を弾かせると、慌てた様子でスマホを耳に当てた。
「な、なんでもない……! な、泣いてる、私を、心配してくれた人が……こ、声をかけてくれた、だけ……」
 女性がしゃくりあげながら言う。どうやら、誰かと通話している最中のようだった。
 それなら邪魔するのはよくない。私は『理解しました』というジェスチャーをして、そっとその場を離れようとしたのだけれど。
「え……? そ、外にいるよ。だって、ずっと待ってたんだもの……。さ、さっきもそう言ったじゃ……えっ!? ひ、被害者ヅラだなんて……そんな言い方……」
 被害者ヅラぁ!?
 聞き捨てならないひどい言葉に、思わず足を止めて振り返ってしまう。
「そ、そんなつもりじゃ……。ち、違うよ……! ただ、私は……あ! 待って! 紘一こういち! 待ってよ! 待っ……!」
 女性が叫び、スマホの液晶画面を見る。
 すでに泣き腫らした両目に、新たな涙が溢れた。
「ううっ……! う、うっ……! ど、どうして……!」
 そのままズルズルとその場にへたり込み、肩を落として両手で顔を覆う。
 私は慌てて女性に駆け寄り、その傍らに膝をついた。
「あ、あの、大丈夫ですか?」
「う、うう……う、う……」
 本当なら声を上げて泣きたいんだろう。だけど、ここは外。『tete-a-tete』ではなく、『livre d’images』の出入口前。夜も深まる時間帯だけれど、通りを行き交う人の数は決して少なくない。だから──わずかに残った理性で、必死に嗚咽を噛み殺している。そんな様子だった。
 傍らに投げ出されている女性のスマホを見ると、二十二時まであと五分。うーん、どうしよう? もちろんこのまま放っておくことなんてできないけれど、かといって出勤時間も迫っている。
 私は少し考えて、女性の震える細い肩をそっと叩いた。
「あの、お姉さん。三十秒だけ歩けませんか? 泣ける場所にお連れしますから」
「……? 泣け、る……場所……?」
「はい。ここは人の目もありますし、お店の迷惑になってもいけませんし……」
「っ……」
 女性がボロボロと涙を零しながら、それでも慌てた様子で周りに視線を巡らせる。そして、道行く人がかなり無遠慮にじろじろとこちらを見ていることに息を呑むと、その視線を避けるように俯いた。

※この続きは製品版でお楽しみください。

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