【試し読み】明けに輝く標の星~転身没落令嬢のささやかな反乱記~

作家:文庫妖
イラスト:鈴ノ助
レーベル:夢中文庫アレッタ
発売日:2021/8/13
販売価格:900円
あらすじ

名家ながらも没落寸前の伯爵家の長女、静流は生家のため職業婦人となり、今では小さいながらも女性向け書籍の出版社「黎明社」を経営している。誇りを胸に仕事に生きるも、妹からは家に戻ってきてほしいと懇願されていた。あらゆる壁に阻まれ、悩みの尽きない静流は今日も唯一の友、カズヤが待つ「さざなみ亭」へ。彼に悩みを打ち明けた静流は背を押され、避けていた問題に向き合う決意をする。だがその矢先にある事件が起き――。『誰にも等しく朝は来る。朝に至る道はある。ならば私は、たとえそれがただ一つきりしかない細い道であろうと、せめて精一杯に歩こう』――転身した元没落令嬢の、朝に至るまでの記録の物語。

登場人物
水王寺静流(すいおうじしずる)
没落寸前の伯爵家令嬢。雑誌記事など書いて生活費を稼ぎつつ、「黎明社」を設立する。
鳴海カズヤ(なるみかずや)
「さざなみ亭」で出会い、意気投合。静流が悩みを打ち明けることができる唯一の友人。
試し読み

『誰にも等しく朝は来る。朝に至る道はある。ならば私は、たとえそれがただ一つきりしかない細い道であろうと、せめて精一杯に歩こう』

黎明社れいめいしゃ発行「払暁ふつぎょう」より抜粋

第一章 黎明社の女社長

 大陸極東部に位置する水穂みずほ皇国こうこくは、大小数多の島からなる群島国家である。数千の島を領有し、外洋に面する最大の島には都が築かれ、それ以外の主だった島々には州が置かれた。それぞれの島は橋や定期船で結ばれ、各州都の沿岸部では縦横無尽に張り巡らされた水路を渡し船が行き交う。通り沿いの運河は露店の小船で賑わい、国全体がさながら水上都市の様相を呈していた。
 東方のエメラルド。あおい海と青々と茂る豊かな森に恵まれた美しいこの国は、外つ国ではそう称されていた。
 その宝石に喩えられる皇国は今、夏を迎えようとしていた。空は抜けるようにどこまでも高く青く、野原には色鮮やかな草花が咲き溢れ、陽光は確かな熱を伴って大地に降り注いでいる。しかし高緯度地域付近に位置する皇国の夏は涼しく爽やかで、動いても軽く汗ばむ程度の過ごしやすさだ。ゆえに多くの異国人が避暑に訪れる皇国の夏は、一年で最も賑わう季節であった。
「──おはよう、静流しずる嬢ちゃん! いい果物が入ってるぜ!」
 朝日を受けた川面の煌めきに目を細めて歩いていた女は、威勢のいい声に呼び止められて振り返る。白い指先で帽子のつばを軽く押し上げた女の顔が露わになった。
 黒い髪と黒い瞳に乳白色の肌、そして彫りの浅い顔立ちは皇国人に共通するもので特筆すべきところはない。しかし艶めく黒髪の下の黒曜石のような瞳は涼やかで、淡い薔薇色の紅を引き真珠色の粉を品良く刷いた薄化粧が女の容貌を際立たせていた。流行りの洋装を嫌味なく着こなしているその立ち姿は凛として美しい。さり気ない仕草の隅々まで洗練されている立ち居振る舞いは、彼女が良家の子女であろうことが知れた。
「……嬢ちゃんなんて呼ばれるには少し図々しい年になったわ。もう二十五は過ぎたのだもの」
 苦笑気味に言った女はそれでもさして気を悪くした様子もなく、呼び止めた馴染みの亭主に歩み寄った。運河に停泊した小船には棚代わりの木箱が整然と並べられ、その上に色とりどりの果実が山盛りに置かれている。
 大粒の雨粒のような薄紫色の雫葡萄しずくぶどう、幼子の頬のように紅く艶やかな夏林檎なつりんご、陽光に透けるほど水分を含んだ淡黄色たんこうしょく水桃みずもも、蕩けそうに甘く芳醇な香りの砂糖苺さとういちご──いずれも初夏に旬を迎える果実ばかりである。
「なんて甘い香り。美味しそうね」
琉麗島りゅうれいとうから今朝届いたばかりの新鮮なやつさ。今年はいい雨が多かったからどれも果汁たっぷりで美味いよ。どうだい、一つ」
 常連さんだからお安くするからと、そう言って片目を瞑ってみせた気のいい店主を前に女──水王寺すいおうじ静流はしばしの間考え込んだ。
「そうねぇ……」
 甘く瑞々しい夏の果実は生気の源。
 ふと、締め切りに追われる社員の姿が脳裏に浮かんだ。仕事熱心であるのは結構なことだが、無精をしてビスケットと紅茶だけで食事を済ませている者もいるようだ。経営者としては社員には健康にも気を使ってほしいと思うのだ。
「雫葡萄と水桃を頂くわ。雫葡萄は三房、水桃は……そうね、六つ頂けるかしら」
「毎度! 葡萄は常温でいいが、桃は食べ残したらすぐ保冷庫に入れとくれ。今年はえらく糖度が高くて傷みやすいからな。あと、この林檎はおまけだよ」
「ええ。いつもありがとう」
「いいんだよ、いつも沢山買ってくれるからな」
 支払いを済ませ紙袋を受け取った静流は、優雅にひらりと手を振りその場を立ち去った。その後姿を見送る亭主は感慨深いといった様子で長く嘆息した。
「……立派になったもんだなぁ」
「そうだねぇ……」
 なんとはなしに二人のやりとりを眺めていた隣の露店の女将もしみじみ頷く。
 ──十年にはなるだろうか。その日初めて客として訪れたみすぼらしい少女の姿を、彼らは今でも覚えている。母親どころか祖母のお下がりかもしれない、時代遅れも甚だしい型のドレスと、雪交じりの風が吹きつける中で、色褪せたショール一枚という決して十分とは言えない防寒具を身に纏った娘が、傷んで値下げされていた林檎を一つだけ買っていった──その悲壮感と強い決意が入り乱れた複雑な表情を、今でも忘れられずにいるのだ。
 みすぼらしい身形ではあったが、纏うドレスが仕立ての良いものであることは下町育ちの彼らでも分かった。洗練された立ち居振る舞いや受け答えは明らかに町娘のものではなかった。恐らくは没落した貴族の娘だったのだろう。
 ──長らく鎖国していた国を開き、いくつかの戦争を経験した後にようやく終戦を迎えて数十年。老若男女貴賎問わず太平の世を満喫しているかのように見える皇国であったが、その裏では財政難に陥った多くの貴族が爵位を返上していた。
 財政難の主な原因は領地収入の減少だ。戦後、異国の安い米や魔法石が輸入されるようになったほか、良質な人口魔法石の製造法が確立されたことでこれらの価値が下がったのだ。領主たちは新たな事業をおこすなどして窮地を乗り越えたが、時流に乗れず衰退を余儀なくされた家は決して少なくはなかったのだ。
 何度か客と店主としてのやりとりを経た後に彼女から聞き出せたのは、やはり元はさる貴族のご令嬢だったという事実だ。生家が領地を失い、祖父と幼い妹を養うために外に働きに出たというのが彼女の身の上である。なんとか文筆業の職と雑用仕事を得、僅かばかりの給金でどうにか生計を立てているということだった。
 いつも彼女が訪れる時間を見計らって、傷んでもいない売り物をお勤め品の箱に放り込んでおいたことは一度や二度ではない。落ちぶれたとはいえ相手は貴族の娘。どう手を差し伸べたものかと悩んだ結果、果物屋の亭主が考え付いた支援がそれだった。同じ年頃の子を持つ人の親として、どうしても見殺しにすることはできなかったのだ。
 それが功を奏したとは言わないが、少しずつ暮らし向きが良くなった彼女はその後も良いお得意様になってくれた。
「どこのお貴族様かは分からんが……ほんとに良かったよ」
 身を粉のようにして働き資金を貯め、今では小さいながらも出版社を経営する立場にあるという。生活にも随分と余裕ができたようだ。
 粥と僅かなスープ、そして偶の贅沢に果物を齧る程度だった食事事情も改善されたのだろう、やつれて色が悪かった頬は赤みが差し、ぱさついていた黒髪は艶やかに輝いている。ひび割れていた唇はふっくらと張りがあり、荒れてあかぎれていた指先は手入れが行き届いていた。
 そして身に纏う衣装は決して華美ではないものの、流行の紳士服仕立てのドレスである。余計な装飾は取り払われた実用的かつ女性らしい優美な線を描くデザインは、主に「職業婦人」向けの仕事着として仕立てられたものだ。
 ──婦人参政権及び女系同等継承制の導入、そして特権階級の側室制度が廃止されておよそ三十年。女性の社会的地位は飛躍的に向上し、男性中心の職業に女性が就くことも決して珍しくはない時代を迎えていた。侍女職といったごく一部の職業以外はほとんど認められることがなかった貴族の娘でさえ、職を得て働くことが許される時代だ。いわゆる職業婦人の台頭である。
 そして水王寺静流は、今や成功した職業婦人の一人に数えられるようになっていた。現代貴婦人の模範。それが世間の静流に対する評価である。

 運河沿いの通りを抜けた先にあるのは商業地区だ。船着き場に近く荷運びに最適な地域には大規模な商社が立ち並び、そこから奥まった地域には中小規模の商社や貸し事務所がひしめき合う。運河から離れるほど物件は安くなり、それに比例して治安が悪くなっていく。転貸借てんたいしゃくを悪用した違法風俗店などの、堅気ではない物件が紛れているからだ。
 静流が経営する婦人向け書籍専門出版社「黎明社れいめいしゃ」は、賃料が高くはなくそれでいて治安が良い、商業地区の中ほどの場所にある。大通りに面した立地は人通りが多く、勤め人のための飲食店が営業時間ぎりぎりまで店を開けていて夜遅くまで明るい。警邏けいら隊の巡回数も多く、黎明社の社員が安全に通える場所だった。
「でも、いずれはもう少し条件の良い場所に移りたいわね……」
 一冊の婦人誌から始めた黎明社は昨年から文庫本や詩集を手掛けるようになり、事務所はすっかり手狭になってしまっていた。編集室を兼ねた小さな事務所には、片隅に申し訳程度の給湯室と、衝立で間仕切りしただけの即席の応接室があるだけだ。壁際の棚には過去の原稿や資料などが溢れ、社員同士がすれ違うことすら難しい有様だった。見苦しくはないよう整理整頓を心がけてはいるが、既に限界に達しつつある。
「お客様をお通しするのにも最近は少し気が引けるのよね」
 独りちながら瀟洒しょうしゃな洋館の正面玄関をくぐる。黎明社が事務所を構える七王国しちおうこく風建築のこの洋館には、ほかにいくつかの商社が入居していた。管理人や顔見知りの商社員と挨拶を交わし、二階の角部屋の扉を開ける。
 早出したのか既に仕事を始めていた社員たちは、手を休めないまま顔だけ上げて「おはようございます!」と挨拶した。女社長であると同時に名門伯爵家の令嬢という肩書を持つ静流に、わざわざ席を立ちカーテシーをするなどといった仰々しい挨拶はいらない。無論社員同士であったとしてもだ。ここでは身分の上下などなく、あるのはただ同じ職場で働く同志という立場だけだ。職業婦人としての礼儀作法さえ持ち合わせていれば、それで事足りる。
「ごきげんよう、皆さん」
 軽やかに挨拶を返した静流は、自身の机の上を見回して小さな苦笑を漏らした。前日綺麗に片付けたはずの机の上には、既にいくつかの書類束が置かれていたのだ。持ち帰りか朝早く出勤して仕上げたかしたものだろう。
「……仕事熱心なのは結構だけれど、きちんと休んでるのかしら?」
 出版業は激務である。いくつも同時に走らせた企画を期限に間に合わせるために、各所への依頼や交渉、日程調整を始めとした綿密なやりとりが必要だ。期日までに原稿が集まらなければ再調整しなければならない。
 しかし黎明社は社員が女性だけという事情から、泊まり込みの作業や深夜残業は厳しく制限している。そのために婦人文芸誌「払暁」は季刊、婦人誌「皇国婦人の友」は隔月刊とし、実用書や文庫本などの書籍を含めた年間刊行数は控えめにしていた。
 それは社員の健康と身の安全をおもんぱかった結果でもあるし、まだ手の掛かる幼子を抱える母親や未婚の娘──中には静流のような貴族もいる──を預かる身としては、あまり遅くまで働かせて家族を心配させたくもなかったのだ。
 激務ゆえに女性の就職先としてはまだ珍しい、それも国内初の婦人向け書籍専門出版社で働くにあたって、当人や家族の精神的な敷居を下げたかったという事情もある。
 じっとりと室内を見回した静流から、幾人かがさっと目を逸らした。化粧で誤魔化してはいるようだが、目の下の隈や血色の悪い肌はいまいち隠しきれてはいない。
「今のところ、それほど締め切りが差し迫っているものはないわ。あまり無理をしないでちょうだいな」
「……仕事が楽しくって、つい」
 黎明社では一番年若い春華はるかが、可愛らしく肩を竦めた。彼女は皇都近郊に小さな領地を持つ男爵の末娘だ。女学院在学中、あらゆる少女誌に投稿を繰り返して「実績」を積み、小娘が憧れだけでできる仕事ではないと渋る父親をどうにか説き伏せて、黎明社の扉を叩いたという逸話の持ち主である。娘の熱意が本物だと知った父親は、今では「払暁」の片隅を飾る彼女のコラム記事の愛読者だそうだ。
「仕事が楽しいのは分かるわ。でもね」
 静流は少々艶が悪くなっている春華の肌を指先で撫でる。男爵家の方針でどれだけ忙しくとも食事はしっかり取らされているようではあるが、睡眠は不足気味のようだ。
「何事も身体が資本よ。もっと大事になさいな」
「……はい、社長」
 眉尻を下げて困ったような笑みを作る静流に、春華は気まずそうに笑った。
「皆も気を付けてちょうだいね。仕事は大事だけれど、睡眠と食事を削るのはもってのほかよ。というわけで」
 通勤途中で買ったばかりの果実を広げる。瑞々しい果実の甘く芳醇な香りに、華やいだ歓声が上がった。
「皆で食べてちょうだい。お茶とおにぎり一つとか紅茶にビスケットだけとかで、ろくな栄養を取ってない人もいるみたいだから」
 やはり何人かがそろりと視線を逸らした。図星だったようだ。
 そうしているうちに残りの社員も出社し、始業時間を迎える。手ずから果実を配った静流は、「さぁ、今日も一日頑張りましょう」と手を叩いた。一日の始まりだ。

「そうそう、今日は皆に見てもらいたいものがあるの。藤谷ふじや先生の表紙絵よ」
 注目する社員の前で、丁重に梱包された一枚の原画を取り出した。今をときめく挿絵画家、藤谷虹之丞こうのじょうの美人画だ。凛々しく涼やかな眼差しの妙齢の美女が、黎明社の婦人たちに流し目をくれている。
 わぁ、といううっとりとした感嘆の溜息がそこかしこで漏れる。
「凄い……生の絵なんて初めて見たわ。なんて綺麗なの」
「見てよこの髪の毛の質感。まるで黒絹のよう」
「お召し物も素敵ね。立ち襟と袖のレース模様がとても繊細だわ」
 興奮気味の声が重なる。
「藤谷先生の絵を表紙にできるだなんて……夢みたいですぅ」
 創業当時から静流を支えてくれた、副編集長の沙也香さやかが感慨深く呟いた。
 藤谷虹之丞は婦人誌の挿画などで活躍する新進気鋭の挿絵画家だ。写真に見紛うほどの滑らかな筆使いもさることながら、表情や仕草を繊細に描き分けた情緒溢れる画風は人々を魅了した。特に、瑞々しい健康的な美と危うい色香が混在した、少女から大人の女へと羽化する年頃の娘を描かせれば右に出る者はいない。
 名立たる婦人誌や少女誌の表紙絵のほか、詩集や児童文学の挿画や装丁、紙文具のデザインなどを手掛けることで有名である。
 そんな藤谷が「払暁」の表紙絵を引き受けてくれたのだ。多忙ゆえに継続依頼はできなかったが、記念号の表紙と口絵を二つ返事で受けてくれたことは大きかった。
 手広く仕事をしている印象があるが、自分の価値を十分に理解していた藤谷は、自身が認めた相手でなければ依頼を決して受けることはない。それは即ち、黎明社が認められたという証左しょうさである。
『私を傲慢だという輩もいるが、それは違う。相互に認め合い、相応の額を提示してくれた相手の仕事しかしたくないというだけの話さ。私は分相応の仕事がしたいんだ』
 契約を取り付けたとき、彼──否、彼女はそう言った。この男装の麗人にも、人知れない苦労があるようだ。
 藤谷としては自分を安売りするつもりは毛頭ないが、だからといって自惚れて法外な報酬を要求するつもりも決してなかった。ただ相場通りであれば良いのだ。しかし女の遊びに払う金などこの程度で十分と端から安い金額を提示する者もいれば、パトロン気取りで相場を遥かに超える報酬を提示する者もいる。中には箔を付けたいがために、その知名度を目当てにすり寄る者もあるという。
『君にも覚えがあるのではないか。黎明社の女社長殿』
 同情を滲ませた藤谷の言葉には苦笑するしかなかった。図星だったからだ。
 美人画を丁寧にしまい、各々の仕事に戻る。有名画家の美しい原画を見た興奮と浮ついた空気がようやく消えかけた頃、来客の報せがあった。
 客の名を聞いた静流は柳眉を顰めた。追い返したいところだったが、応対に出た事務員を半ば強引に押し切ったその招かれざる客は、艶やかに微笑む。
「ごきげんよう、静流様。どうしても会っていただけないようでしたから、こうして押し掛けてきてしまいましたわ」
「……ごきげんよう、百合絵ゆりえ様。私としては話すべきことは全て申し上げたつもりでおりましたから」
「貴女にとってはそうかもしれませんけれど、わたくしとしてはまだ大切なお話がございましたもの」
 暗に拒絶する静流の言葉を、百合絵は笑みを浮かべたままさらりと躱した。けれどもその顔色は冴えない。平静さを装っているようではあるが、帽子や襟元を忙しなく無意味に触れる細い指先から、余裕のなさが見て取れる。とにかく言うことを言ってしまうまでは帰るつもりはないという意思がひしひしと感じられた。
 このまま戸口で押し問答を続けたのでは他社の迷惑になると判断した静流は、苦々しさを呑み下して百合絵を招き入れた。狼狽えている事務員の背をなだめるようにそっと叩き、不安げに二人を見ている社員に仕事に戻るよう言い付けてから、自ら客を応接室に案内する。応接室といっても事務所の一角を三つ折りの衝立で仕切っただけのものだ。よほど声を潜めない限り会話は筒抜けになるが、それは先方も承知の上だろう。
「大切なお話とやらをするのに約束も取り付けずに訪問するなんて、個人ならまだしも一団体の代表が一企業の代表に対するものとしては、あまりにも礼儀を欠いているのではなくて? それともこれから政治家を目指す『先生』にとって、一企業の社長など些末さまつなものだと仰りたいのかしら」
 応接室に通されはしたが、茶の一杯も出されないことの意味には気づいたはずだ。歓迎されてはおらず、用件を切り出す前に既に交渉は決裂していることにもだ。それでも冷静さを保っていた百合絵の表情が、この辛辣な言葉にぐらりと揺れた。取り繕うことさえ難しくなっている彼女が、どれだけ追い詰められているのかがよく分かる。
(……本当に、もう後がないのね)
 まかり間違えば静流が辿っていたかもしれない「もう一つの結末」を、百合絵はこれから迎えようとしている。そのことに幾許かの憐憫れんびん寂寥せきりょう感を覚えたが、それは静流の個人的な感傷だ。一企業の代表としては微塵も同情できない。
「お願いですわ、静流さん。貴女の力が必要なの。皇国婦人の未来を切り開きより良いものにするために、わたくしには貴女のような強力な同志が必要なのです」
 とうとう彼女は切羽詰まった表情を隠しもせずにそう切り出した。
 彼女──川井かわい百合絵は、若い貴族婦人たちとともに婦人運動団体「青薔薇会あおばらかい」を立ち上げた才媛だ。青薔薇会は婦人参政権や女系同等継承制実現の道を作った先達の意志を受け継ぐ、新世代の婦人運動団体である。
 百合絵は静流をこの青薔薇会に迎えたいと、そう言うのだ。勧誘のための訪問はこれで既に五回になる。初回から断り続けているが、それでも百合絵は食い下がった。
「青薔薇会同志としてこれほど相応しい方は貴女をおいてほかにおりませんの。ですからどうか、わたくしとともに来てはいただけませんか」
 百合絵の口上はほとんど懇願に近い。初めて顔を合わせたときには対等であったはずのものが、今は明らかに上への者に対する態度になっていた。今現在置かれている立場ゆえか、彼女自身が自ら下に降りてしまったことの現れだった。
 ──それだけ追い詰められているのだ。しかし同情はいらない。
「お断りします」
 きっぱりと静流は言った。
「私はこの黎明社の社長。そして黎明社は女性の自己表現を助ける場でもあるの。彼女たちの作品を活字にして、世の女性たちに届けることが私たちの仕事よ。私も、そして黎明社も、決して政治活動の道具にはならないわ」

※この続きは製品版でお楽しみください。

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