【5話】高良さんに逆らえません!~過保護な俺様社長は甘すぎて危険。~
否定はしたものの、手が止まっていたのは事実に違いないし、この状態の高良にこれ以上抵抗するだけ無駄だ。それは今までの付き合いから学んでいる。
歩いて行って千円札を取ろうと手を伸ばすと、キーボードを操作している手を止めて明莉を見上げた。
「お前さ、あれどうなった? ツクイの案件。調整ついた?」
不意を突かれたかのように伸ばした手を止めた明莉は、それでもほとんど条件反射で口を開いた。
「はい。小川さんのチームが早めにヘルプに入ってくれて、スケジュールを少し前倒しできました」
それを聞いた高良の口にふっと満足気な笑みが浮かぶ。
「上出来。ま、お前なら上手くやると思ったけど」
褒められて、明莉は少し慌てた。あれは自分が何とかしたというよりも、佐和田のアシストがあってこそだった。それを自分の手柄のようにするのが、気が引けたのだ。否定しようと口を開こうとしたが、その前に高良は次の言葉を喋り出した。
「これで自分の分も買ってこいよ」
「え?」
「やることやってんだから少し休憩入れてこい。すぐに戻ってこなくていいから」
その言葉に驚いて明莉は高良をまじまじと見つめた。
「あ……いえ、でも」
もごもごと曖昧に返すと、高良は行ってこいと言わんばかりに出入り口のドアがある方を指し示すように顎を軽くしゃくった。そして視線をパソコンの画面に戻す。それきり明莉の方は見なかった。明莉は困ったように立ち尽くす。高良がどう思ったのかは知らないが、明莉が気を取られていたのは仕事のことではない。個人的な事情だ。なのにこんな風に気を遣われて、罪悪感のようなものが込み上げた。
しかし高良は既に今言ったことは決定事項で異論は認めないという態度だ。今までの経験から言って、遠慮したとしてもおそらく受け入れてはもらえないだろう。
「……ありがとうございます」
明莉はぺこりと頭を下げた。そしておずおずとデスクの端に置かれた千円札を手に取る。いいのかな、と逡巡しながらも高良のデスクを後にした。
(そんなに顔に出てたかなあ)
明莉は財布を持っていない、空いている方の手で自分の頬のあたりをぺたぺたと触った。千円札をそのまま持って歩くのはちょっと恥ずかしいので、自分のデスクに寄って財布を持ってきたのだ。ぼんやりと考えながらエレベーターまで廊下を歩く。
――こういうところなのだ。
明莉が高良を好きになってしまった理由の一つ。明莉が落ち込んでいる時、何か問題を抱えている時、高良は必ず気付く。仕事に関連することはもちろん、その原因がプライベートな時でも。
今日はたまたまぼんやりしてしまっていたが、何かあってもそれをそこまで表に出す方ではないと思う。
大体、そこまで分かりやすく落ち込んでいなければ同僚の気分や雰囲気の変化なんて普通はそんなに気付かないだろう。
つまりは、高良は意外と明莉のことを見ているという訳で。
それは存外に嬉しいものだった。初めは偶然だと思った。けれど高良が気を遣ってくるのは決まって明莉が心になにか憂鬱さを抱えている時だ。
例えば、今日みたいに。
しかし、そのやり方は直接的ではなく、ともすれば気付かないような、遠回し的なものが多くて、直球で慰めたりは絶対しない。だからこそ、それが結構心にクるのだ。
ある時、あれ? もしかして、と考えてその厚意に気付いた瞬間、不覚にも胸がぎゅっとなってしまった。今考えるとそれが分かれ目だったように思う。そこから段々と高良を意識するようになってしまったのだ。
傍若無人なように見えて、実は周囲へけっこう気を回しているのだと気付いた時に、自分だけが特別扱いされていた訳ではないと察したのだが、その時にはもう手遅れだった。
(こういうことされるから諦められないんだよなあ)
何度も何度も何度も。「好き」を自覚してから、明莉は何度となく、高良を諦めようとしてきた。だって最初から結果が見えているのだ。高良と自分じゃ釣り合わない。向こうは時にはメディアにまで取り上げられている、急成長中の会社のやり手イケメン社長。自分は一社員。別に飛び切り可愛い訳でもなく、何かに秀でている訳でもない。
むしろ外見はどちらかと言うと地味な方だろう。二重瞼の瞳は黒目がちで、見ようによっては可愛らしく映るかもしれないが、その他のパーツは小ぶりで、華やかな顔立ちでは絶対にない。肩下の肩甲骨あたりまで伸ばしたストレートの髪は、仕事中は一つに結んでいることも多いし、服装は比較的自由な社風だが、どちらかと言えばシンプルなコーディネートを好んでいるので、おしゃれさとも無縁だ。
――それに。
「あれ、七海さん?」
その時、不意に声を掛けられて、明莉ははっと顔を上げた。
見れば、前から佐和田が歩いてくる。近付くと、どちらからともなく足を止めた。
「外出ですか?」
「ううん。ちょっと下のコンビニ行くだけ。お遣いもかねて」
明莉が手に持った財布を軽く振って見せると、佐和田はああ、と納得したような顔を見せた。
「佐和ちゃんは? 打ち合わせ?」
「はい。上で」
そう言って、天井を指差す。ACTのオフィスはフロアが二階分に渡っていて、今いる階の一つ上の階には、スタジオと会議室がある。今いるこの階にもミーティングスペースはあるのだが、部屋として独立して分かれている造りではないので、社外の人達との打ち合わせには上階の会議室が使われていることが多い。佐和田はそこを使用していたのだろう。
そこで佐和田は、あ、と声を上げて何かを思い出したような顔をした。
「そう言えば上でdressの社長に会いましたよ。ほら、なんでしたっけ」
「……椿さん?」
明莉は言いながら少ししまったと思った。
思ったより硬い口調になってしまったかもしれない。動揺が声に出てしまったかも。気まずさから明莉は取ってつけたような笑みを浮かべた。
「あ、そうですそうです。実はここ最近何回か見かけてるんですよ。ほら、目立つじゃないですか、あの方」
そんな明莉の態度はあまり気にしてないような素振りで話した佐和田は、そこで人目をはばかるかのように声のトーンを落とすと、おもむろに明莉に顔を近付けた。
「それでちょっと周りに聞いてみたんですけど、この頃打ち合わせに妙に同席するようになったって。……社長ってdressの社長とヨリ戻したりしてないですよね?」
明莉は無言で佐和田を見つめた。不覚にも心に立ったさざ波が大きさを増して、心を揺さぶるのを感じていた。それを表面に出さないよう、腹に力を込めると、わざと自信なさそうにへらっと笑った。
「……うん。と、思うけど……」