【試し読み】従順な御曹司の執着愛~ニセモノ悪女は永遠の恋に囚われつづける~
あらすじ
「お前が見るのは俺だけ。俺しか見るな」――とある事件をきっかけに、由愛に尽くすようになった幼馴染みの潤。由愛は御曹司である彼の未来を守るため、自らが悪女として振る舞うことで、彼の行き過ぎた従順さを覆い隠してきた。しかし、……自分の存在は彼の枷でしかない。そう思った由愛は、大学卒業と共に彼の前から去ると決め、最後に媚薬の力で潤に抱かれる。伝えられない想いと本能で求め合った夜を忘れられないまま、誰も知らない田舎町でひっそりと暮らしていたのだが――「由愛を探してた」由愛の前に突然潤が現れて……?
登場人物
事件以来、過剰に尽くす潤の未来を守る為、あえて悪女としてふるまう。
由愛の幼馴染。ある事件をきっかけに由愛に尽くすように。
試し読み
雨に煙る街は、まるで精巧なCGみたいだ。
エメラルドグリーン色に発光するビルは、光る苔生した巨木。所狭しと街に連なり、眠らない森を形成している。
神秘的で、幻想的。
でも、この森はただ美しいだけの場所じゃない。これは、人間の欲望と願望を駆り立てる魅惑の光だ。魅入られた者たちはふらふらとその光へと集まり、うたかたの享楽に耽る。
そんな人たちを川島由愛は愚かだと思っていた。
(でも、一番愚かだったのは、私――)
道路を流れる赤い閃光の波を見ていると、魂も一緒にどこかへ連れて行かれてしまいそうになった。
いっそ胸に巣くって消えない陰鬱さも流してくれればいいのに。
窓硝子を伝う幾つもの水滴を、由愛は快感地獄の中で見つめていた。
「ふ……ぁん、んっ! ふ……ぐぅ、んんっ!!」
嬌声とも悲鳴とも取れる声と、間断なく続くぐちゃぐちゃという蜜音、そして肌がぶつかる湿った音が薄暗い部屋に響いている。
「中……もっと、擦って。いっぱい掻い……てっ!」
最奥も蜜壁も、どこもかしこも熱く疼いてたまらないの。
耐えきれない悶絶に由愛は自ら腰を突き出した。揺さぶられる律動に合わせて腰が振れてしまう。そのたびに口からは、獣じみた呻き声が漏れた。
はめ殺しの窓に二の腕をついて、背後から攻め立てられる律動を受け止めているも、下肢の感覚などないに等しい。窓硝子は秘部から噴き出した飛沫でしとどに濡れていた。
剛直が蜜道をごりごりと擦ってくる。屹立の先端が子宮の入り口を叩く。
もっと降りてこい。
そう言われているみたいだ。
どれだけ太いもので突いてもらっても、彼を求める渇望は鎮まらない。まるで、轟々と燃え盛る炎みたいに由愛の劣情をかき立てた。
ごつごつとしたもので擦ってもらうときだけ、至極の快感となる。
硝子には悦楽に蕩けただらしない自分が映っている。頬を上気させ、歓喜に喘いでいる様を惨めだと思いながら、そんな自分の姿に興奮も覚えていた。
二本の太い指に口腔をぐちゃぐちゃと掻き混ぜられるのが苦しいのに、由愛は悦びの涙を流しながらそれに舌を這わせ、むしゃぶりついた。
(あ……あぁ、これ……好き。気持ち……いいっ!)
口端から垂れた唾液が、顎へと伝い流れていても構わない。どれだけ自分が浅ましくなっていようと、自分を犯すこの男の熱が欲しかった。
(潤、潤……)
もっとひどく抱いて。
愛が欲しいなんて欲張れないから、せめて痛みだけを残していって。
「は……、はっ」
背後から獣じみた息遣いが聞こえる。硝子越しに見る相沢潤の野性味溢れる凜々しく強い眼差しには、欲情の光が色濃く宿っている。
彼もまた額に汗を浮かべ、口端から呑み込めない唾液を零していた。飛び散る汗が、小雨みたいに背中に降ってくる。尋常でない発汗は、この行為に興奮しているだけではないことを、由愛は知っていた。
(全部、私のせいにして)
こんな冷静さを失った潤を見るのは、何年振りだろう。
今夜、初めて潤と身体を繋げた。
ずっと好きだった人。
恋心を自覚したのは、潤の心の強さと潔さを肌で感じたときだ。でも、いつから好きだったかなんて、わからない。気がついたときには潤は兄妹みたいに側にいて、大好きでいるのが当たり前だった。
家族のようで、家族にはなれない。
手を伸ばすことすらできなくなってしまった、大事な大事な幼馴染み。
煙たがられても、大好きだった。
意地悪をされても、その後で必ず「ごめんね」と言って優しくしてくれるから、潤がくれるものなら、痛みでも喜びでも嬉しかった。
彼が自分を見てくれていることこそ、由愛の幸せだったから。
どうして、あのままでいられなかったのだろう。
世間が自分たちを何と言っているかは知っていた。
潤が下僕になることを望む限り、由愛は高慢な主でなければならない。彼を縛りつけているのは、この私。由愛なのだと周囲に見せつける必要があったのだ。
(でも、もうおしまい)
絡まり縺れた絆は、解くことすらできなくなってしまったから、最後にとっておきのわがままをせがんだ。
潤に嫌われていることくらい、側にいたから知っている。それでも、由愛は彼との一夜を望んだ。
媚薬を使い、潤を無理やり興奮させたのだ。
だから今、彼が避妊具を着けていないことも知っている。そのことで、万が一のことが起こっても、潤が責任を感じることはない。全部、由愛のせいにしてくれればいいのだ。
(もっと……もっと乱れてっ)
潤の熱を身体の最奥に刻みつけて。消えない傷が欲しいの。
「ふっ、んん……っ!」
指を動かしながら、欲望で中を掻き混ぜられる。下と上の口を同時に犯されることで、息苦しさがもたらす快感の数値が跳ね上がった。
先端が子宮の入り口を突くたびに、軽い絶頂に意識が白む。
(こんなの……っ、イく……!)
さんざん蕩けさせられた身体だ。潤の前で達することに悦びすら覚え始めたこの身が、また絶頂の兆しに震えた。
身体中に乱舞した肉欲が急速に子宮へと集まってくる。その瞬間を期待した刹那。
「ん、ん――っ!!」
激しく痙攣し、ぐるりと眼球が回った。叩きつけられた熱い飛沫に、秘部が悦んでいる。
(あ……あぁ、き……たぁ)
忙しなく蠢く粘膜が嬉々として潤のものに絡みついた。扱き、吸い上げ、最後の一滴まで搾り取らんと蠕動する。
(――好き、……全部……すき……)
たとえ、潤に好かれていなくても、彼以上に由愛の心を捉える存在はいない。
被害者から悪者へと転げ落ちてでも、譲りたくなかった場所だ。
でも、そこは苦しさと愛おしさが表裏一体となっている居場所でもあった。
一緒にいるのが辛くて息苦しくて、大好きで。自分なんかいない方がいいと、何度も真剣に思っていた。
製薬会社の御曹司である潤が、その社長専属運転手の娘である由愛を主と定め、付き従っている。
中学、高校、大学と続いた主従関係は、由愛たちの間に深い溝を作った。
年を重ねるごとにその立ち位置にあぐらをかき高飛車になっていく由愛を、潤は軽蔑していたのを知っている。徐々に交わす口数も減り、顔を合わせれば険悪になった。それでも、一緒にいる意味はあったのだろうか。
潤も、文句ばかり言う幼馴染みなど面倒だったに違いない。だったら、いっそ見限ってくれればいいのに、幼い頃に立てた誓いに縛られた彼は、そんな由愛を見捨てられないでいた。
(ごめん……ね、潤)
由愛があの日、ひとりで帰ったりしたから、潤は負い目を背負うことになってしまった。
(潤を追い詰めているのは、私)
こんなことになるなら、いつもみたいに潤に嫌がられても彼の後を走って追いかければよかった。
小学生の三歳差にどれほど大きな隔たりがあるかなんて、当時の由愛にはわからなかった。幼い頃から一緒にいた大好きなお兄ちゃん。格好良くて、少し意地悪で、でも由愛と遊んでくれる由愛の王子様だった。
それは、由愛が小学校へ上がっても変わらなかった。いや、変わらないと思っていた。
潤にはすでに彼の世界ができていて、そこに由愛の居場所はなかったのだろう。両親から由愛の面倒を見るよう言われていても、友達との遊びのほうが魅力的だったのも今ならわかる。
だから、潤は下校時になると、よく由愛を鬼ごっこに誘った。
それは、どちらかが捕まるまで続くゲーム。制限時間は家にたどり着くまで。
『もし俺を捕まえられたら、由愛の願いを何でもひとつ聞いてやるよ』
潤が鬼になれば、一分とかからず捕まってしまうのに、由愛が鬼になると、途端に難しくなる。潤の足は速く、十数えている間に姿が見えなくなってしまうからだ。
一所懸命追いかけているうちに家へとたどり着き、それでおしまい。
潤は家に戻っておらず、夕方近くにランドセルを背負って戻ってきた。彼は鬼ごっこという体のいい理由を付けて、ただ由愛を追い払いたかっただけなのだ。
それでも、由愛は潤の鬼ごっこを断らなかった。
彼が由愛を撒くのは必ずではない。だから、今日は潤を捕まえられる日かもしれないと思えば、断ることなんてできなかった。
でも、あの日は違った。
潤が帰り際に、友達と遊ぶ約束をしていたのを聞いてしまったからだ。学校帰りに友達の家で最新の格闘ゲームで対戦しよう、そう目を輝かせながら話していたっけ。
『由愛なんて、うざいだけなんだよ。でも、あいつチョロいし、五秒で撒けるから!』
大好きなお兄ちゃんは、由愛を好きなんかじゃなかった。
(私はうざくて、チョロい)
だから、その日は由愛が鬼をやると言い、十数えた。
『五、六、七、八……』
遠ざかっていく足音が完全に聞こえなくなると、由愛は数えるのをやめた。どうせ、潤は捕まらない。きっと今頃、嬉々としながら友達のところへ向かっているだろう。
「もう、いいや」
諦めの言葉がつい口を衝いて出てしまうほど、潤が放った言葉は、重たく胸にのし掛かっていた。
願いを叶えてくれる気なんて、最初からないに決まっている。
(潤君は、私のこと……嫌いなんだ――)
実感は、涙となり視界を滲ませた。ぽろぽろと目尻から雫を零して家路を歩く。慣れた道だったからこそ、誰も事件が起こるなんて思わないではないか。
まさか、不審者に声をかけられ、抵抗したら背中を切りつけられるなんて。
もう痕はほとんど消えてなくなっているが、それでも潤には見えているのだろう。まるで、舐めていれば傷が癒えるとでも言わんばかりに、背中の傷口に何度も唇を這わしていた。
(潤、ごめん。……こんなことさせて、ごめんね)
意識を朦朧とさせた潤には、どれほどの理性が残っているだろう。
けれど、こんなこと潤は覚えてなくていい。
(私が思い出を欲しかっただけだもの)
硝子にしがみつく手に、今夜の夜景を閉じ込めたみたいなネイルが輝いている。今日の日のために綺麗にしてもらったのだ。
『片思いを終わらせにいくんです』
だから、見ているだけで勇気が湧いてくるようなネイルにしてほしい。そう依頼すると、担当してくれた店員は『任せてください!』とガッツポーズを作ってみせた。
(これで全部終われる)
はじめる前に飲んでもらった媚薬の効果は、ネットの評判どおり抜群だった。
十分もしないうちに、彼の息遣いは乱れ、目は据わってきた。じっとりと額に汗を浮かべた潤の前に一糸まとわぬ姿で立ち、由愛は言った。
「抱いて」と。
潤は由愛の言葉に逆らわない。
だから、彼に隠れて媚薬を仕込む必要もない。自分がこれからどんなものを飲むのか、彼自身にわからせた方が潤も安心すると思った。
その後は、伸びてきた手に抱き込まれた。ベッドに押し倒され、身体中に噛み痕と愛撫を受け、長い指で秘部を弄られた。
誤算だったのは、自分も媚薬を盛られたこと。
予備として持ってきていた媚薬の一本が鞄から零れ出るのを見つけると、潤はそれをすべて秘部に注いだ。
粘膜から直接取り込んだ媚薬の効果は絶大で、由愛もまたたく間に快楽の虜となってからは、地獄か天国かの違いがわからないほど、行為に没頭した。
愛欲に耽って、どれくらいの時間が過ぎただろう。
「……まで、……てろ」
あぁ、潤が何か言っている。
けれど、悦楽に溺れた思考じゃ彼の言葉を拾えない。
ずるり……と潤の欲望が抜けると同時に、中に放たれたものも伝い流れてきた。内股を流れる量の多さを感じて、口端に愉悦が浮かぶ。
(――虚しい)
でも、身体は満たされていた。
そのまま床に膝をつき、潤を振り仰ぐ。爆ぜてもまだ天を向く雄々しい欲望に、うっとりと目を細めると、由愛は口を開けて顔を近づけた。
ぐちゅ……と音を立てて入ってきたものの質量が苦しかった。独特の味わいには喜びを感じた。今まで生きてきた中で一番の美味だとすら思った。
(潤の……美味しい)
両手で頭を掴まれ、喉の奥を突かれる恐怖に身体が強ばる。鼻から抜ける息の音がやたら生々しかった。
「ぐ……うっ、ふっん、ン!」
生理的な涙と涎で顔中をぐちゃぐちゃにしながら、それでも口を閉ざすことだけはしない。必死で潤のものを咥え込み、欲望に舌を這わせる。辛さと苦しさがもたらす恍惚に、涙が零れた。
(潤、好き。大好き。――なのに、ごめんね)
最後までひどいことしてごめん。
今までずっと、最低な態度しか取ってこなかった私をどうか許さないで。
潤になら物のように扱われたっていい。
上目遣いで見上げた潤の劣情に塗れた顔が、どうしようもなく由愛の心を煽ってくる。
決別を決めても、恋慕は未練たらしく潤にしがみつこうとしている。唇を窄め熱心に潤を扱くのも、彼の記憶に今夜のことを刻み込もうと必死だからだ。
離れたいのに、忘れられたくないなんてどこまで身勝手なのだろう。
口腔内で、びくびくと潤のものが脈打った。
(あぁ、……くる)
興奮に胸が高鳴った。きゅんと秘部が切なさを訴えた次の瞬間。
「――ッ!!」
喉奥で爆ぜた欲望に由愛は目を見開いた。気管を塞ぐ粘ついた粘液に一瞬、意識が白む。噎せながらどうにか嚥下するも、飲みきれなかった残滓が口端から溢れ出た。
潤の精が、ゆったりと身体を満たしていくのがわかった。
(あぁ……、これが潤の)
むっとする匂いですら、今の由愛にはご褒美だった。
緩い絶頂感に身を震わせると、腕を掴まれ乱暴に立ち上がらされた。背中を硝子に押しつけられ、右足を持ち上げられ、ひたりと欲望の先端が蜜穴にあてがわれる。
「――あ……」
まだ終わらない。
獰猛な目に宿る欲情の炎に、由愛の胸は高鳴った。
「いいよ、来て……」
浮かべた歓喜の笑みに答えるように、剛直がひと息で由愛を貫いた。
「は、あぁ……っ」
そんな二人を隠すように六月の雨が情事に耽る姿を隠していった――。
◆◇◆
「――での実用化が決定されれば、エコ産業にとって大きな飛躍になると期待されております。続いてのニュースです。昨夜未明、――市で帰宅途中の二十代女性が……に切りつけられる事件が……――」
窓の外からかすかに聞こえてきた午後のラジオの音声に、由愛はパン生地を捏ねる手を止めた。
この手の事件を聞くたびに、じくりと背中が疼く。
またひとり、世界を恐怖で塗り替えられた人がいる。
犯人たちの利己的で自己中心的な欲望によって望まぬ人生を歩かなければならない人たちのことを、彼らは考えたりするのだろうか。
そんな人に自分のことを思い出されたくない、とも思った。
(もう過去のことなんだから)
忌まわしい記憶が呼び起こされかけるのを、由愛は頭を振ることで追い払った。
大学卒業と同時に都会から出てきて、もうすぐ一年が経とうとしている。
最初は気候も風土も違うこの場所で、ひとり暮らしていける自信がなかった。けれど、すべてを捨てた由愛に、戻る場所などない。覚悟を決めるしかなかった。
夏と秋が駆け足で過ぎると、またたく間に辺りは白く雪化粧に覆われた。毎朝、マイナスになる気温に手をかじかませながら、ストーブに薪をくべる。空に残る星を眺めながら、温めたミルクに蜂蜜を垂らして飲めば、眠たい身体がゆっくりと目覚めていった。
馴染むまでに苦労した生活リズムも、身についてしまえばどうということはない。むしろ、朝日が昇る前の静寂と清涼感が漂う世界は、疲れ切っていた心を癒やしてくれた。
由愛は今、パン屋の後継者として暮らしている。
それが、この地に来た理由だった。
畳むつもりだったパン屋が後継を探している、という記事をたまたまネットで見つけた由愛は、店主の陽子と連絡を取った。記事に載っていた人里離れた場所に建つ店舗の写真も、由愛の心を惹きつけた。それこそ山の麓にぽつんと一軒だけ佇んでいたからだ。
陽子と初めて会ったのは、移住してきた初日だった。それまではメールと電話のみのやりとりだけだったことに多少の不安はあったが、もう後には引けなかった。
(あの頃は、潤から離れたい一心だったもの)
潤に見つからないよう連絡を取り合うのは苦労したが、そのかいあって今は穏やかな生活を送れている。
四六時中、潤が側にいる生活は、大学進学と同時にいっそう濃密になった。当時、由愛にプライベートなんてなかった。ひとり暮らしを始めると、潤は当たり前のように私物を持ち込んだ。同じように潤の部屋には由愛の私物も置いてあった。お互いの部屋を行き来しつつ、ひとつのベッドで眠り、潤の作った物を食べる。その繰り返しだ。
(私を嫌っているくせに)
窮屈さが嬉しいなんて、どこまで自分は潤に溺れているのだろう。
でも、鬱陶しがられているからこそ、一緒にいることが辛くて怖かった。過ごす時間の長さ分だけ、心が押しつぶされていくみたいだった。
陽子との連絡は彼が大学に行っている間だけ。やりとりの痕跡もその都度、削除した。
絶対に知られまいと細心の注意を払った一世一代の計画は、もうすぐ実を結ぼうとしている。
なぜ陽子が後継者を探しているのかは、それまでのやりとりで知っていた。彼女は近々、海外に行ったきり戻ってこない恋人に特攻をかける算段なのだとか。
恋人に会いに行きたい陽子と、愛しい人から逃れたい由愛は、対照的な立ち位置ではあったが、陽子は由愛の弟子入りを受けてくれた。
それまでパン作りなどをしたことのない、ずぶの素人が応募してきたというのに後継として受け入れてくれたのは、由愛以外の応募者がいなかったからだ。陽子にしてみれば、苦渋の決断だったに違いない。
『一応受け入れるけど、店を任せるかは由愛次第ね』
店舗と廊下で繋がっている住宅の一室を間借りしながら、由愛は日々パン作りをしている。最初こそ目も当てられない代物しか焼き上がらなかったが、最近はそれなりのものを作れるようになった。
陽子との生活は、思っていた以上に快適で、さっぱりとした彼女の性格に随分と助けられてきた。人好きな彼女の店には、パンを買いに来るだけでなく、彼女と話をしたくてやって来る人も多い。雑談に花を咲かせるのも得意なら、彼女はその話に由愛を巻き込むのも得意だった。おかげで、由愛も顧客たちに顔を覚えてもらえるようになった。
パン屋を経営するに当たり必要な資格も取った。当面はパンの数を絞り、おいおい陽子が出していた分量にまで展開できればいいと思っている。
まずは、陽子の味を覚えている顧客たちに、由愛の作ったパンを認めてもらうことが先決だからだ。
パンは生き物だ。酵母と対話するように、その日の湿度や気温によって発酵時間をも調整していく。
今は丁度、形成し終えた生地を焼き型に詰めていたところだった。
庭先では、陽子が花壇の手入れをしている。耳寂しいからと流しているのがラジオだ。
軽快なMCの語りで構成される番組の合間に流れる自治ニュースの大半は、どこそこで火事があっただとか、交通事故で重傷者が出たとかだ。あとは天気とこの時期ならではの花粉情報が少し。
たまにはこの春、牧場で生まれた子羊たちの話題でもしてくれないだろうか。
(幸せになれる話題を知りたいの)
止めていた作業を再開させて、次々とパン生地を分量分に切っていく。型に収めれば、あとは焼くだけだ。
由愛のパンが店舗に並ぶようになって、徐々に任せてもらえる品目も増えてきた。今焼いているのは、夕方に予約が入っている顧客たちの分と、夕飯用にと食パンを買い求める人たち用だ。
すると、店舗の方から来客を知らせるベルが鳴った。
急いで、作業場の扉から店舗へと向かう。
「いらっしゃいま……せ」
「あ、由愛ちゃん。こんにちは」
入ってきたのは、最近越してきたという佐久間だ。
陽子の店は街から離れているが、せいぜい車で二十分ほどの距離だ。佐久間は建設会社の支店に配属されてきたと言っていた。左遷なのか、出世街道の最中なのかはわからないが、佐久間からはどこか軽薄そうな雰囲気がする。
年は、潤よりも少し上くらいに見えるから、三十歳前後だろうか。潤よりも細身で、潤ほど背も高くない。顔立ちも派手ではないが不細工というわけでもなく、潤よりも愛想はよかった。
(潤は滅多と笑わなかったもの)
それは由愛の前だけだったのか、笑顔を忘れる状況に自分が追い込んでしまったからかはわからないが、整った顔立ちをしていた分、表情のない潤はどこか近寄りがたい雰囲気があった。
商店街でこの店の話を小耳に挟んだのがきっかけとかで、佐久間は週に二度のペースで通ってきている。
「……こんにちは」
ただし、由愛はこの客が苦手だ。
やたら馴れ馴れしいのもしかり、どうにも笑顔が胡散臭くてならない。見ていると背中がぞわぞわする。
特別嫌なことをされたわけではないから、生理的に苦手なタイプなのだろう。
(私は、潤以外の男の人とは、あまりかかわらなかったから)
潤は人前だろうと、当たり前のように由愛を腕の中に入れていた。そうすることで、彼は明確に、由愛とそれ以外の人間の線引きをしていたのだ。
一見すれば、彼の特別にも見えるが、それは形だけのこと。
潤は由愛に甘い言葉も囁かなければ、優しい微笑も向けてくれない。
露骨な態度で邪険にすることはなくても、冷めた目つきはいつだって不機嫌そうだった。
自分たちの間に愛や恋という柔らかくて甘い感情はない。
あるのは、悔恨でできた誓いだけ。
それでも、傍目には潤の特別に見えていたのだろう。
(やっかみもあったもんね)
潤は誰の目にも格好いい男だ。
由愛に顎で使われる潤を軽視する男たちは何人もいたが、文武両道、質実剛健な潤に適う男はそうはいなかった。
加えて、あの美貌だ。長身でありながらも引き締まったしなやかな体躯はたくましく、凜々しい顔立ちの潤は、よくナンパやスカウトをされていた。
そんな潤が守る由愛に、近づける男がいるはずもなく、由愛は誰ともつき合った経験がない。こちらに出てきてからは、パン作りの修行に手一杯で、よそ見をしている余裕などなかった。
だから、由愛はいまだに年齢と彼氏いない歴が同じなのだ。
(別にいいけど……)
どうせ、自分に恋ができるとは思っていない。
今、身近にいる年の近い異性が佐久間だが、この纏わり付くような視線には正直辟易している。彼とどうにかなりたいとは微塵も思っていないが、客であることには変わりないので、由愛はできるだけ失礼に当たらないよう努めていた。
「今日のお勧めは何?」
「えっと、……もう数もだいぶ少なくなってるので、今からだと食パンでしょうか? 四つ切りにしましょうか?」
佐久間は毎回食パンを購入するときは、四つ切りにするよう由愛に注文をかける。店に並べてあるのは五つ切りと六つ切りばかりで、それ以外は注文を受けてから切るようにしていた。
「これは由愛ちゃんが焼いたの?」
「あ……いえ、それは店長です」
「じゃ、由愛ちゃんが焼いたのって、どれ?」
なぜそんなことを聞くのだろう。
「ねぇ、今度個人的に焼いてもらうっていうのは、無理なのかな」
「個人的にですか?」
そもそも個人で営んでいるパン屋に個人的も何もないのではないだろうか。
首を傾げると、佐久間は「だから」と何も載せてないトレイを持ったまま、カウンターに近づいてきた。
そのとき、「由愛ー!」と外から陽子の呼ぶ声がした。
「あ、すみません」
佐久間にひと言詫びて、店の窓に手をかけた。
窓を開けると、桜の花びらが舞い散る中で清々しい笑顔をした陽子が手を振っていた。日よけにかぶった麦わら帽と桜吹雪のアンバランスさをもお洒落にみせる陽子は、溌剌とした美人だ。刈り上げた襟足から伸びるうなじの艶めかしさとは似つかわしくない泥だらけのゴム手袋をした陽子が「コーヒー豆買ってきてーー」と死にそうな声で叫んだ。
「まだ冷凍庫に残ってませんでしたか?」
確か、先週買いに行ったはずだがと思いつつ答えると、「違う、違う」と陽子が首を振った。
「それじゃなくて、アイスコーヒー用の。ひとっぱしりイイモダコーヒーさんのところまで行ってきて。アイスコーヒー用のだって言えば、わかるから!」
陽子がパンの次に好きなのが、コーヒーだ。
三番目が恋人だと言うわりに、一番を捨てて会いに行こうとしているのだから、陽子の優先順位は由愛には理解不能だ。
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