【1話】不埒なあなたはこの愛に沈む~狡猾な夫の思惑と従順な妻のはかりごと~
序章
口づけを交わした。
横たわるあなたの口に、この唇をつけて。
とうとうと流し込む。
この毒を。私だけの毒を。
一生解けることのない毒を頭の先からつま先まで、全身に染み渡るようにと願いを込めて。舌の上に乗せ、咽喉に滑り落とし、あっという間に腹の中。
不埒なあなたを罰するのは私だけ。
愛するのも私だけ。
あなたが見るのも私だけ。
今このとき、二人だけで終始する世界が、始まる。
一章
ふと気が付いたことがある。ほんの些細な変化だが、けれども如実にそれを予兆させるには充分なものだった。
彼はいつそれを言うのだろうと、エヴァリンは目の前にいる家令の口元を盗み見る。そして話を切り出す気がないと分かったら次は目元に視線を上げて、彼に『早く言え』と無言の圧力をかけた。
どうせ、分かっている。
何ごとも卒なくこなす初老の家令は、案外その癖を見破るとその心の内を読みやすい。今日も隠しきれず、エヴァリンの食事中に側に立ちすくむ彼のこめかみがヒクヒクと震えていた。
「……奥様」
――ほら、きた。やはりそうだ。
エヴァリンは前菜のミモザサラダに添えられたベーコンを口に運びながら、次にくる言葉を頭の中に思い浮かべた。
「旦那様は今日も遅くなるとのことです」
一言一句間違いない。そしてそれをエヴァリンに告げる家令の顔が涼やかなのもいつもと同じだ。何度も同じ状況で同じ人から同じ言葉を聞いたのだから、嫌でも予測できてしまうし、その言葉が出てくる予兆も掴むことができる。
「そう」
それを聞いたエヴァリンは悲しむわけでも悋気を起こすわけでもなしに、ただ一言手短に返事をしてこの会話は終わる。
それでも家令がその額の横皺が微かに震えるほどにこめかみを揺らすのは、エヴァリンがいつ帰るとも分からない夫に対して、怒りを爆発させるやもしれないと危惧しているからなのだろう。本当にこの家令には気苦労をかけていると、自分でも申し訳なく思った。
けれども、エヴァリンは怒らない。
泣きもしないし、夫がどこに行っているか聞き出すために詰め寄りもしない。
夫が夜に家に帰ってこない日にどこに行き、何をしているかなど、エヴァリンは嫌というほど知っているからだ。
そして、怒っても意味がないということも。
黒い緞帳が空を覆い隠すほどに夜が深まった頃。
サイドテーブルに置かれたランプがその闇を溶かすかのように淡い光を放ち、エヴァリンを読書へと駆り立てる。
眠れないわけではなかったが、ただ一人で過ごす夜を早々に寝て終わらせるのはもったいなく、どうせならばと昼間読みかけていた本を読み切ってしまおうとページを捲った。
もちろんベッドで横になっていじらしく夫の帰りを待とうかとも考えたが、それでは少々あざとすぎるかと思い直し、自分のしたいようにすることにした。何ごともやりすぎはよくない。
それに本が面白くてページを捲る手を止められないというのも大きかった。
だからだろうか。
夢中になりすぎて、ついつい周りに気を配るのを忘れてしまっていた。
「――そういう顔の君もいいものだね。顔に翳が出来て、ことさら艶っぽく見える」
自分の夫はいつの間にか帰宅していたらしい。
エヴァリンが予測していた以上に早く帰ってきた夫のウィルフレッドは、そのアッシュブロンドの癖のある髪を扉の柱につけて、榛色の瞳でこちらを見ている。
口元には笑みが浮かんでいて、どうやら相当ご機嫌な様子が見て取れた。
仕事の話が上手くいったのかそれとも他にいい話を聞くことができたのか、――はたまた、今日のお相手の女性との時間がとても素敵なものだったのか。あまり本心を多く語らないこの夫の心はとんと分からない。
けれどもこれだけは分かる。
今日はすこぶる機嫌がいいのだと。
「おかえりなさいませ。申し訳ございません、お出迎えもせずに」
本を閉じてサイドテーブルに置いたあとにベッドから出たエヴァリンは、ウィルフレッドのところに赴いて腕にかけてあった外套を受け取る。
そのとき、ふわりと甘ったるい匂いが鼻腔を突いて思わず指に力が入った。
「気にしないで。もう夜遅いし、寝ていると思ったからこっそり帰ってきたんだ」
こちらを気遣うように優しく笑う夫は、その言葉を後押しするようにエヴァリンの頬に口づける。それを粛々と受け入れながら、エヴァリンの心はどこかすぅっと冷めていくような感じがした。
――今宵もきっと、この唇が他の女性の肌に触れたのだ。
そう思うと、このキスを受け入れるのは癪なような気がした。
こんなご機嫌取りのためのキスではない、愛を囁き相手を喜ばせるための親愛のキス。自分には与えてもらえないそんなキスを他の女性が受け取ったのだと思うと、心が焼き切れそうなくらいに焦りを覚えた。
――まだだ。まだ、私はこの人の心を掴めてはいない。
それをまざまざと実感するような瞬間は、いつだってエヴァリンを遠い気持ちにさせる。
その甘いマスクに貴公子然とした出で立ちの夫は、爵位を持たない平民出でありながらも社交界では一目置かれる存在だった。
父親の代から受け継いだ事業を急成長させたのはここ五年の話だ。
これまで外貨獲得のために輸出に重きを置いていたこの国は工業力の増幅に伴い、さらなる海外市場の拡大を目指して輸入規制の緩和に乗り出した。
その際、いち早く動いたのはウィルフレッドで、――どこにどういうコネがあったのかはエヴァリンには分からないが、貴族たちから投資を募り、近隣国から嗜好品を中心に輸入をしたのが大きく当たった。それから、ウィルフレッドの会社は大きく成長をし、その功績は上流階級の人間も認めるものとなる。
社交シーズンには誘いはひっきりなしにやってきて、オフシーズンも紳士クラブに顔を出す。その枚挙に暇がない様子は、第一線で活躍する成功者そのものだった。
そんなウィルフレッドだからこそ、世の女性たちが放っておくわけがない。
いつだって女性たちはより良い地位や名誉、財産、そして容姿を持つ男に惹かれずにはいられないのだから。
これで、ウィルフレッドが身持ちが堅く、女性たちの秋波に当てられても跳ね返すような誠実な男であればエヴァリンも苦労はしなかった。家令も毎度毎度心苦しい報告をエヴァリンにする必要もなかっただろうし、エヴァリンも彼の一挙手一投足にこんな悔しい思いをすることもなかったのだ。
だが残念なことに、ウィルフレッドは簡単に女性たちの誘いに乗ってしまう。花の蜜を求めて飛び舞う蝶のように、ふわりふわり、ゆらりゆらりと。妻がいたとしても自由気ままに飛び立つ。
エヴァリンはそんな夫をいまだに羽休めさせることのできない、不甲斐ない妻。
それを常々もどかしく思っていた。
「本を読んでいたのかい?」
「はい。昼間に途中まで読んでいたものですから、今日のうちに読み切ってしまおうかと思って」
気を取り直し無邪気な愛らしい妻の皮を被ったエヴァリンは、本を手に取ってパラパラとページを捲るウィルフレッドに寄り添い、ニコリと笑ってみせる。いつだったか、ウィルフレッドが好きだと言ったエヴァリンなりの最上級の笑みだ。
「面白い? これ」
「ええ、とても」
一点の淀みもなくそう言い放ったエヴァリンを見やって、ウィルフレッドは信じられないといった顔をして肩をすくめる。『こんなものが?』とでも言いたげだ。
それもそのはず。彼が今手に持っているのは植物に関する専門書で、およそ淑女の教養には程遠いものだ。何故エヴァリンがこんなものに興味があるのか、ウィルフレッドも図りかねているところなのだろう。