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【5話】不埒なあなたはこの愛に沈む~狡猾な夫の思惑と従順な妻のはかりごと~

作品詳細

「それに、夫は誰のもとに行こうとも、どんなに遅くなろうとも必ず泊まらずに家に帰ってきます。それって、彼が帰る場所は私のところだと思っている証拠ではありません? ねぇ、カリアン夫人?」
 やりすぎたと思っても後悔はない。実際にこの胸の中に爽快感がいっぱいだ。
 それ以降何も言わずに大人しくしおらしくなった彼女を横目で見て、エヴァリンは極上の笑顔を浮かべた。
「ポンファール夫人、せっかくの楽しい場を物々しくさせてしまって申し訳ございません。さぁ、お茶会を続けましょう。お菓子もお茶もこんなに美味しいんですもの。時間いっぱい頂かないともったいないですわ」
 エヴァリンのその言葉に、カリアン夫人以外の参加者は曖昧な笑みを顔に貼り付けて頷いた。そしてちらほらと会話をし始めて、先ほどまで張りつめていた空気は徐々に穏やかなものに変わっていく。
 ようやくいつものお茶会に戻ったことに安堵したポンファール夫人は、調子を取り戻してもてなしに精を出していた。
 芳醇なローズティーの香りを嗅ぎながら一口味わったエヴァリンは、その美味しさに頬を綻ばす。だが、その静かな笑みの下に、収まりきらない気持ちが炎となってこの心を燃やしていた。
 ローズティーとともにその炎を飲み下すが、その一口一口がこの腹をさらに焦がしているように、重苦しく熱いおりのようなものを溜めていく。
 気分は最低だった。
「そう言えばお聞きになって? クーベルチュオン伯爵のお話」
「ええ。聞きましたわ。何とも笑えるといいますか……いえ! 夫人のことを思うとお気の毒ではあるのですが……」
 暗い気持ちを引きずったまま何とか愛嬌を振りまいてお茶を飲んでいると、ふと耳に興味をそそる話が聞こえてきた。向かいに座る夫人二人が何やら噂話に興じている様子。エヴァリンは二人の会話に口を挟んだ。
「伯爵がどうかなさったのですか?」
「あら! クルゼール夫人、ご存知ではないのですか? 先日、クーベルチュオン伯爵家で刃傷沙汰にんじょうざたがあったんです。どうやら夫人が伯爵を刃物で刺したとか」
 そこら中からご婦人方の控えめな驚嘆の声が聞こえてくる。エヴァリンも目を瞠り本格的に話に入り込んだ。
「何故そのようなことに……」
「元々夫人は嫉妬深くて伯爵を束縛したがる方だったんですけど、そんな夫人を厭ってか伯爵が密かに愛人をつくっていたらしくて。それがばれてしまって夫人が刃物を持ち出して、伯爵のお腹を刺したんですって」
 昔から色恋沙汰と刃傷沙汰は隣りあわせ。男と女の間に第三者が現れれば、事件になり得ることが往々にある。
 だが、人々はその話を聞いて怖がるどころか、面白おかしいスキャンダルとして口さがのない噂話として楽しんでいた。口元に笑みを浮かべて、皆一様に笑うのだ。
「みっともないですわね。伯爵夫人ともあろう方が、そんな風に悋気を起こして刃物まで持ち出すなんて」
「淑女の振る舞いとは思えませんわ」
「うちの夫もその話を聞いて呆れていました。妻の管理もできていないのは夫としてどうなのかって」
「まぁ! 管理とか! 貴女の旦那様も言いますわね」
「でもその通りでございましょう? 伯爵ともあろう高貴な方は女性の管理もできて当たり前。妻に刺されるだなんてお笑い種ですわよ。愛人一人で目くじらを立てるなんて夫人も……あら、すみません。私ったら出過ぎたことを」
 ちらりとエヴァリンとカリアン夫人を見たその噂好きの女性は、わざとらしく笑ってみせた。それにエヴァリンは静かに微笑んで返し、カリアン夫人は仏頂面で返す。
 皆、他人の醜聞を好む。競い合うようにそれを他人に伝え、そしてまた他人の耳へと伝わっていくのだ。皆で話のタネにして笑い、その一時を楽しむ。
 それを否定するほどエヴァリンは高潔ではないが、その恐ろしさは嫌というほどに知っていた。きっと自分がウィルフレッドと結婚したときも、面白おかしく人々の話に上がったのだろう。
 今もそうだ。
 ウィルフレッドとカリアン夫人の仲も、愛人と遊ぶ夫を持つエヴァリンのことも社交界では、いまやどんな話になっているか分かったものではない。
 人の口に戸は立てられない。それは好奇心がなせる業なのだろう。
 だからこそ、人は面白いほどに夢中になる。
 

「醜いものですね」
 時間もそこそこにお茶会の席から退出し、ポンファール夫人に見送られながら乗った馬車の中でのことだった。
 余計な気力と愛想を使って疲れていたエヴァリンは、何となしに外を見ていたその視線をおもむろにスージーへと向けた。
「クーベルチュオン伯爵夫人のことです。自分を見失って夫を刺すだなんて愚の骨頂。今回貴女にしてやられたカリアン夫人も相当なものですけど、あれに比べたら……」
「そうかしら。情熱的じゃない? 激しいほどの愛情がそうさせてしまった、ということでしょう?」
 素っ気なく返事をし、視線をまた窓の外に戻す。
 話を聞くだけなのであれば『みっともない』の一言で終わるだろう。けれどもその一言では終われない人間模様と感情が、当人たちにはあったはずだ。他人なんかに推し量ることができない、複雑でそして熱く滾るものが。
 もしその熱源が『愛情』だとしたのなら、エヴァリンには笑うも嘲ることもできなかった。
 覚えがある。愛する人のためならばどんなことでもできるものだ、人間は。
 それに愛情が過ぎれば憎悪にもなる。
「あら、ではエヴァリン様も、そのうち旦那様のことを刺したりなさるんですか?」
 スージーはエヴァリンの否定的な言葉を聞いてムッとしたのだろう。皮肉るように鼻で笑ってきた。
 そんな彼女をエヴァリンはじぃっと見据え、そして視線を自分の手に落とす。
「……そうね。それが一番簡単な手なのかもしれないわね」
 虚ろな目でぽつりと零して自嘲した。
「や、やめてくださいよ。そもそも別に旦那様を愛しているわけでもないでしょうに」
「でも、それが手っ取り早い手であるのは確かよ」
「よくそんな恐ろしいことが言えますね!」
 スージーとしてはエヴァリンを上から見下ろしたいがゆえに言った冗談だったはずなのに、当のエヴァリンが本気にとる発言をしたことでたじろいでしまったらしい。
 笑える話だ。人間の本性など恐ろしいものだとスージーも知っているだろうに。
「こんなことを言うような真似をさせているのは、そちらでしょう?」
 仄暗い思いでスージーを睨み付ければ、彼女は生唾を飲んだ。
 だが、そこで引くというしおらしさを見せないのがスージーという女。彼女はいつだってエヴァリンに対して強気だ。
「そうすることを選んだのは貴女でしょう? したくないのであれば捨てればよかったんです。見捨ててお好きに逃げればよかったじゃないですか」
 こう言ってしまえばエヴァリンが何も言えなくなるのを知っているから、彼女はどこまでも強く出られる。
「――まぁ、それができれば、の話ですが」
 いつだって優位に立ち、エヴァリンを見下ろすのだ。
「そうね。貴女の言う通り、そんな恐ろしいことを考えるべきじゃないわね」
 だから、エヴァリンもここは冗談にして自らが一歩退いた。争っても意味のない人間と対峙していても詮なきこと。それにこの先のスージーの言葉を聞くのは堪えられない。

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