【試し読み】歪んだ旋律に絡めとられた二人は堕ちてゆく
あらすじ
ピアノのコンクールの帰り道、詩乃と響介は事故に遭う。響介は事故の怪我がもとでプロの道を断念。詩乃は留学までしたものの、事故のトラウマから失敗続き。とうとう日本へ逃げ帰ってきてしまった。それでも捨てることができないピアノ。響介と離れ離れになって四年が経った大学二年の春、やっとピアノを捨てると決意する。そんな矢先、詩乃の前に響介が現れ「俺のためにピアノを弾け。それが俺への償いだ」と冷たく言い放つ。そして、詩乃は気づいてしまう。ピアノを捨てられなかったのは響介を求めていたのだと。頷く詩乃。だが響介が求めたのは旋律だけではなかった……もうお前を逃がさない――響介の執着は詩乃の心を絡めとってゆく。
登場人物
事故のトラウマによりオーストリア留学に失敗。日本へ戻りピアノを捨てる決意をするが…
ピアニストとして将来を嘱望されながらも、事故の怪我がもとでプロの道を絶たれてしまう。
試し読み
プロローグ
「やっぱり響介くんが最優秀賞だったね。おめでとう」
詩乃がころころと笑いながら言うのに合わせ、彼女の息が白く濁る。
木枯らしの吹く寒い冬の帰り道……楽しそうな詩乃の隣には、彼女と背丈の変わらない少年がいた。
彼の名は、西園寺響介──ピアノコンクール全国大会の常連で、高い技術で周囲を圧倒する天才ピアニストだ。
今日のコンクールでも、彼は最優秀賞を受賞した。ちなみに詩乃は優秀賞だ。
「……悔しくないのか?」
固い声で問う響介は、ピアノコンクールの全国大会で最優秀賞を獲得したとは思えないほど浮かない顔をしている。
「う~ん、悔しい気持ちはあんまりないかな。楽しかった!」
少し考えてから答えた詩乃は、赤信号の横断歩道前で立ち止まった。
「響介くんだって知ってるでしょ? 私はピアノが楽しくて続けているだけで、コンクールの成績は関係ないって」
コンクールに参加するきっかけも、ピアノ教室の先生に勧められてなんとなく……という程度。名誉な賞が欲しいとか、将来有名なピアニストになりたいとか、そういう希望があるわけでもない。
「まぁ、そのせいでみんなはいい顔しないけど……」
詩乃の態度は周囲の反感を買う。軽い気持ちでコンクールに臨むなんて不真面目だ、不謹慎だと思われているのだ。
そのため、詩乃はみんなから敬遠されていた。彼女が常に響介とトップ争いをするのも原因の一つである。
「別に……コンクールに出る目的が『ピアニストになるための踏み台』である必要はない。ピアノを弾く理由は人それぞれだしな」
「そう言ってくれるのは、響介くんだけだよ」
詩乃が苦笑すると、響介は眉間の皺を深めた。
「……あいつらは嫉妬しているだけだ。お前の才能に」
マフラーを口元に上げながらもごもごと言う彼の言葉がよく聞こえず、詩乃は首を傾げる。
「ん? 何?」
「いや……適当な練習で優秀賞が取れるほど甘くないと言った」
「ふふ、ありがとう」
コンクールというのは、いわゆる競争だ。
参加する同級生たちはその勝負に賭けているのだから、お気楽気分の詩乃が勝ち上がることに納得いかないと感じるのも仕方のないことかもしれない。
とはいえ、詩乃は練習に関して手を抜いているわけではない。響介と同じ舞台に立つために毎日練習を怠らないし、今やコンクールには自発的に参加している。
ただ、彼女には他の子たちのような闘争心がないというだけだ。
もちろんコンクールともなれば、会場にいる全員がライバルなのに仲良しこよしというわけにはいかないのも理解できるけれど……
(別に普通に話すくらいしてもいいのに)
音楽の評価──特に表現面の基準は曖昧で、審査員の好みもある。スポーツやテストの点数のように絶対的な記録や数字が出るわけではない芸術の定めだ。
そこに執念とも言えるこだわりを見せる周囲を、詩乃は理解できなかった。
「響介くんは、ちゃんとわかってくれてるから……それだけでいいよ」
「演奏を聴けばわかるだろ、詩乃が練習してるのは」
当然だと言わんばかりの響介に、詩乃は苦笑する。
「響介くんには敵わないけどね」
詩乃と響介は、同い年でいつもトップを競い合っている。そんな関係は、ともすればギスギスしたライバル同士にもなりかねない。
特に響介は母親が世界で活躍するピアニストで、厳しく指導されている。母親にしてみれば、英才教育で育てた息子が詩乃のように趣味程度でピアノを弾く小娘に負けることなど許されないし、馴れ合うなんてもっての外だろう。
たまに仕事の合間を縫ってコンクールを見にくる彼の母親には、詩乃は目の敵にされている。
それでも、唯一彼女と普通に会話をしてくれるのが響介だった。
さすがに母親の前でわざわざ詩乃と接するようなことはしないが、彼女の目がなければ仲良くしてくれていた。
とは言っても、響介は大人しい性格で口数も少ないので詩乃の話を聞いていることが多い。あとは、コンクール終了後に一緒に帰るくらいだ。
今日も、響介の母親は海外での仕事でコンクールには現れなかったため、二人は自然と一緒に帰ることになった。
「でもさ、今日は……悔しくはないし、楽しかったけど……ちょっと、寂しいかな」
「……詩乃」
響介に出会ったのはいつだったか……初めてコンクールに出た頃だから、小学生の頃だ。もう五、六年ほど経つ。
学区は違うし、普段はほとんど会わないのに……学校の友達よりも身近に感じる気がする。
だから、寂しい。
彼と一緒にいられるわずかな時間さえなくなってしまうこと。今日で彼に会えるのは最後かもしれないことが……
「ヨーロッパ留学かぁ。すごいな」
今日のコンクールは、日本で最も有名で実力があったと言われるピアニスト──前田俊彦の後継者育成を目的として開催された。
彼はすでに亡くなっており、没後十年ということで企画されたようだ。
高校生以下の有望なピアニストの発掘、そして育成──最優秀賞の副賞はヨーロッパ留学である。つまり、響介がその権利を獲得した。
「ベルガー先生……だっけ? 響介くんのこと、すごく褒めてたもんね」
今日のコンクールには、オーストリアの音楽学校から審査員として教授が一人招かれていた。すでに一線からは退いているが、音楽学校で後進の育成に励んでいる初老のピアニストである。
前田氏とも交流があったらしく、今回のコンクールの趣旨に賛同し、審査員を引き受けたらしい。
副賞と言っても、留学は無条件ではない。教授に気に入られることが必須で、彼から推薦をもらう必要がある。それをクリアした場合、財団が留学費用を全面的に援助してくれるというものだった。
そして、響介は見事に教える価値がある生徒だと認められたのだ。
「響介くんに会えなくなっちゃうのは寂しいよ。私も一緒に行ければよかったな……なんてねっ!」
「それなら、詩乃も行けばいい。ベルガー先生は、お前のことも気に入っていたようだし」
「そんな簡単に言わないでよ。うちは響介くんのお家と違って、お父さんはただのサラリーマン。お母さんは週三日のパートだよ?」
「それは……」
詩乃が苦笑すると、響介は気まずそうに押し黙る。
一流ピアニストに師事するためのレッスン代に異国での生活費……三年間の留学費用は安くない。それこそ、最優秀賞を取らなければ詩乃の家は破産してしまう。
(私の場合は目指すものもはっきりしないし……)
ベルガー教授に褒められただけでも満足だ。彼は「留学に興味はないか」と聞いてくれたが、軽い気持ちではできない。
「でも、私と仲良くしてくれるのは響介くんくらいだし……これからは肩身が狭いなぁ」
今もっぱらの問題は、響介がいなくなった後ことだ。
コンクールで彼に会える、彼の演奏を間近で聴けるという特権は、詩乃にとって音楽を続ける大きな理由だった。
しかし、これからもコンクールに出るとなると……詩乃と仲良くしてくれそうな人はいないし、あのギスギスした空間にいると息が詰まる。
今までは響介がいたから、気にならなかっただけだ。
「私も最後にしようかな」
信号が青に変わったのと同時にぽつりと呟いた声は、視覚障がい者のための音でかき消されたかに思えた。
「──っ、ピアノを辞めるのか?」
だが、響介は詩乃の言葉をしっかり聞いていたらしい。珍しく焦った様子で先を歩く詩乃を追いかける。
「それはわからないけど……コンクールに出るのは義務じゃないし、響介くんがいないなら楽しみがないっていうか」
「俺がいれば続けるのか?」
「もう、なによ? 響介くんは私のことより自分のことを考えなくちゃ。これから留学準備が大変なんだし」
「俺は今回のコンクール結果に関係なく、いずれ留学させられることになってた。詩乃が俺と競いたいなら、それでピアノを続けるって言うなら、留学は辞退する。それでお前に留学権が移れば、経済的な心配もなくなる。お前も俺も同じ場所で──」
「何言ってるの!」
響介が突拍子もないことを言い出すので、詩乃は横断歩道も渡りきらないまま思わず振り返った。
顔を歪めた響介の後ろで、青色が点滅し始める。
横断歩道の途中で二人して立ち止まるなんて……
「もう、危ないじゃない。変なことを言わないでよ」
詩乃がため息をついて踵を返そうとしたとき、黒い車が右折してくるのが視界の隅に映った。
車のほうへ顔を向けると運転席の男性は俯いていて、詩乃と響介にまったく気がついていない様子だ。横断歩道の前で止まるどころか、スピードが緩む気配すらない。
「詩乃!」
人間、本当に驚いたときは声が出なくなるものなのか。いや、声を出す前にすべてのことが起こったのかもしれない。
響介に名を呼ばれた瞬間、ドンっと両肩を押されて歩道の端に尻もちをついた。
目の前を横切った黒い物体は車だろうと予想はできたものの、すでに視界から消えていて混乱する。
(え、なに……?)
ドク、ドクと心臓の音が嫌に響くのは、周りの音が聞こえないせいだ。
震える手を両耳に当てると、だんだんと自分の呼吸音や周りの喧騒が戻ってきた。
「お嬢さん、お嬢さん! 大丈夫!?」
身体を揺らされて初めて喧騒の音が自分に向けられていることに気づく。
「あ……」
大丈夫と言いたいのに、うまく声が出ない。
「救急車! おい、意識はあるか? 誰か、止血できる人は……」
「待て、あまり動かさないほうがいいんじゃないか?」
遠くの音も拾えるようになってきた詩乃は、それを聞いて弾かれたように立ち上がった。
「響介くん!」
そのときのことは、あまり覚えていない。
だが、道路に倒れ込んでいた響介の腕が変な方向に曲がっていたことだけはしっかりと詩乃の目に焼き付いた──
第一章
ハッとして目を開けると、いつもと変わらない寝室の天井が目に入った。
まるで、まだ夢が続いているかのように、心臓は嫌な音を立て続けている。詩乃は上体を起こし、汗で濡れた手でパジャマの合わせを握り締めた。
(また、この夢……)
もう何度、夢に見たのだろう。
悪夢のような過去の記憶は、目覚めるたびに詩乃の罪悪感を濃くしていく。
「本当に夢ならばよかった」なんて、軽い言葉では拭いきれない。忘れられない。許されない。
あの事故の日から、四年が経った今も……
詩乃はふらふらとベッドを抜け、冷蔵庫からペットボトルを取り出した。
冷たい水を飲むと、身体がすぅっと冷えて夢から現実に戻ってくる。詩乃は閉まった冷蔵庫の扉に額をぶつけ、そのままずるずると座り込んだ。
四年前のあの日、詩乃と響介はコンクールの帰り道で事故に遭った。
車を運転していた若い男はスマートフォンを操作しながら交差点に入り、二人の中学生に気がつかぬまま右折。響介は咄嗟に詩乃をかばって、車に撥ねられた。
事故は運転手の前方不注意による過失が原因だ。さらに彼はそのまま逃げてしまったため、後に逮捕された。
(だけど……)
本当に詩乃たちは──否、詩乃は悪くなかっただろうか。
響介が「留学を辞退する」と言い出して驚いたとはいえ、横断歩道の途中で立ち止まったのは詩乃だ。
ほんの数秒、それが命取りだった。
あのとき、きちんと横断歩道を渡りきってから話の続きをしていれば、響介も詩乃も車が右折する前に反対側の歩道に辿り着いていたかもしれない。
それが間に合わなかったとしても、詩乃がもっと早く車に気がついていたら、響介にかばわれるようなことにはならなかったのではないか。
詩乃が響介のことをかばっていたら……
(響介くんは今でもピアノを弾いてたはずなのに……)
震える左手を右手で掴み、詩乃は嗚咽を漏らす。
一度も折れたことのないはずの腕が軋んで痛い。ぽたぽたと涙が落ちていく。
(私が、響介くんの人生をめちゃくちゃにした。響介くんの才能を、未来を、奪った)
そうだ。全部詩乃のせいなのだ。
響介は左腕を複雑骨折し手術を受けた。指も二本折れたと聞いている。頭も強く打ち、詩乃と病院に運ばれたときは意識がなかった。
一方の詩乃は尻もちをつき、手を擦りむいたくらい。
どうして響介が、と……なぜ自分が轢かれなかったのかと本気で思った。それは響介の母親も同じだったのだろう。
事故当日の夜、ちょうど日本に帰国した彼女は病院に駆け込んできた。そして、ほぼ無傷の詩乃と息子の容態を知って取り乱し、泣き叫んだのだ。
『あなたのせいよ!』
今でも耳の奥にこびりついている金切り声。
それ以降、見舞いには通してもらえなかった。持っていった見舞品を投げつけられたこともある。
響介が退院したと噂を聞いて、西園寺家に謝罪へ出向いてもすべて門前払い。両親は辛抱強く詩乃と一緒に西園寺家に通ってくれたけれど、響介には会えないまま足が遠のいた。
父が「少し時間を置こう」と提案したからだ。
響介の母親は、息子が大怪我をして動揺している。あまりしつこく訪れるのも、事故を知ったときの気持ちを思い出させるのかもしれないと。
そうして、詩乃たちが西園寺家を訪れる間隔は長くなり、回数が少なくなって……ついに訪問をやめてしまった。
もう謝らなくていいと思ったわけではない。
ただ、その後は詩乃自身の環境が変化してしまい、響介を見舞うことができなくなったのだ。
(そんなの、言い訳だ……)
西園寺家に行っても、どうせ響介には会えない。そんなふうに考えるようになった詩乃を、誰が許すだろう。
彼の母親に責められるだけの日々に疲れてしまったと言ったほうが、まだ潔い。
(もう……やめたい……)
響介に会いにいくのも諦め、謝りもしない詩乃が、こうして普通の生活を送っているのはおかしい。
そうだ。
やめよう。
もう、終わりにするべきだ。
響介に会えないのなら──彼の音楽が聴こえないのなら、詩乃が音楽を続ける理由はないのだから。
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