【試し読み】偽りの黒髪乙女と海賊の嘘~逃奔する王子の滴る情愛~

作家:長曽根モヒート
イラスト:逆月酒乱
レーベル:夢中文庫プランセ
発売日:2020/11/6
販売価格:900円
あらすじ

彼氏の浮気現場を目撃した夜、ひとり浜辺にいたはずが、なぜか異世界に来てしまったOLの亜梨子。そこで出会った海賊のジェラルドは、15年前に国を追われた王族の生き残りで、その国では「異世界から来た黒髪の乙女が国を救う」という伝承があるという。国を取り戻すために力を貸してほしいと頼まれた亜梨子は、本当は黒髪でないことを隠したまま、元の世界に帰してもらうことを条件に、ジェラルドの王位奪還に協力すると約束してしまう。「心配するな。お前だけは何があっても俺が守る」――秘密を抱えたまま、亜梨子は次第にジェラルドに惹かれていき……? 元・王子の海賊と平凡なOLが織り成す、大人の異世界ラブストーリー。

登場人物
美月亜梨子(みつきありこ)
彼氏の浮気現場を目撃。浜辺でひとり深酔いしていたが、目が覚めた時には異世界の船の上で…
ジェラルド
極悪海賊と噂されるが、実は王族の生き残り。国を取り戻すために伝承の乙女である亜梨子に協力を求める。
試し読み

 轟々と大地が怒っているような波の音が鼓膜を震わせている。
 盛夏らしい湿気にまみれた潮風は長い黒髪を掻き乱し、肌にまとわりついて鬱陶しい。崩れているだろうメイクが、毛穴の隅々にまで溶け出すような不快感をもたらした。
 見上げれば、霧がかかって薄ぼんやりした月がか弱い光を放っている。もしかしたら明日は雨かもしれない。
(どうでもいいけど)
 美月みつき亜梨子ありこはコンビニの袋から三本目のビール缶を取り出した。
 傍らに置いたバッグのポケットからは半分だけ顔を出したスマホが見える。さっきまで頻繁に着信を告げていたが、そのどれもを無視したせいか、今はもう止んでいる。そのことに亜梨子は少しだけほっとして、それ以上にがっかりした。
(やっぱり、その程度なんじゃない)
 手に取ると、画面は同じ人物の着信で埋まっていた。
 元彼だ。正確に言えば二時間前、夜の八時にその関係は終わりを告げた。
 知り合ったのは友人の結婚式だ。お互い二十五歳で結婚願望があって、お互い自分の仕事が好きで、共働きでいいよねなんて話をしていて。だからなんとなく、この流れでこの人と結婚するのかななんて考えていた。
 けれど先週、彼に転勤の話が出た。そして「考えてほしい」と告げられた。
 転勤先は亜梨子が今まで行ったこともない県で、電車でも今住んでいる都内からは一時間以上かかる場所。工業地区で他にはポツポツ離れたところにスーパーやファミレスがあるくらいだ。電車は三十分に一本で、それも駅周辺にいればの話。基本的には車がなければどこにも行けないような田舎だった。
 亜梨子は就職を機に一人暮らしをしていたけれど、現在は学生時代から仲のいい友人たちの家も近く、電車で十五分かからない地元に住んでいる両親や、その近くに住む二つ違いの姉との仲も良好だ。就職して以来ずっと勤めている玩具メーカーの通販部門の仕事も好きだった。今は通販部門の一社員だけれど、ゆくゆくは企画を通したり開発に携わりたいと思っている。
 生まれ育ち、馴染みのある人たちに囲まれ充実した今の生活と、知り合いが誰もいない働き口も少ない場所での新生活は、今思えば比べるまでもなかった気がする。
「遠距離恋愛でも上手くいくカップルは多い」。そんな友人の言葉に光明を得て、気持ちを告げに仕事終わりサプライズで向かうと、彼は金曜の宵の口だというのに他の女をベッドに連れ込んでいた。
「亜梨子だって、別に俺のことそこまで好きじゃないでしょ」
 呆然とする亜梨子に、彼が放った言葉が未だに耳にこびりついて離れない。
 確かに熱愛というほどのめり込んでいたわけではない。告白してきたのは男からだったけれど、薄々好意があるんだろうなと感じていたし、自分も嫌悪感は覚えなかった。付き合う理由なんてそんなものでよかった。亜梨子は学生の頃から今までずっと、「なんとなく」人と付き合ってきたのだ。
 両親は平凡だった。家族仲は悪くない。けれど家族イベントを見ると、平凡というよりもないようなものだった。おそらく両親二人ともがそういうことに興味がなかったのだと思う。テレビで見るような華やかな誕生日会だの、クリスマスパーティーだのとは無縁で、普通の日と変わりなく過ぎた。正月はお年玉をくれたけれど、特別な挨拶はなく机の上に名前が書いてあるポチ袋が並んでいるだけ。
 そのことがどれくらい影響したのかわからないが、亜梨子は人生のわりと早い段階から他人に期待をしなくなっていた。ドキドキするようなドラマティックな出来事なんて漫画や映画の中だけのもので、現実にはそんなこと早々起きないと諦めていたのだ。
 周りの友人もちらほら結婚し始めて、姉の子供はもうすぐ小学校に上がる。SNSに日々アップされる人数の多い家族写真を見て、なんとなくいいなと思った。それと、ちょっともやっとする。好きな人たちの写真を見て、そんな感覚を持つことが嫌だった。
 焦りがないわけじゃない。結婚願望もある。でも今は、将来のイメージが上手くできない。
 元彼の名前が連なる着信履歴を見ていると、あんなことを言ったくせに今はスマホの向こうで焦っているんだろう彼の姿を想像して、少し溜飲が下がる思いがした。
(そんなに好きじゃない、か)
 そうなのかもしれない。でも衝動的にビンタして、飛び出して、電車に飛び乗ってそのまま降りたこともない駅に辿り着くくらいには多分ショックで、好きだったんだと思う。
 そして帰る気にもなれなくて、ぶらぶら知らない土地を歩いて、この浜辺に辿り着いた。
 遠くから地響きのような波の音が聞こえて、足下はさらさらとした砂。インドア派の生活を送ってきて、友人と遊ぶときは大抵カラオケやカフェでお喋りと決まっている亜梨子には海なんて馴染みがなくて新鮮だった。近づく気にはなれないけれど、轟くような波の音がする暗闇の先には、多分水平線があるんだろう。
 失恋にぴったりじゃないか。近くのコンビニで腕力が許す限り酒を買った甲斐がある。
(ああ、私って今ドラマティックかも)
 そう思うと笑えた。
 潮風に煽られる染めたばかりの黒髪をぐしゃりとやる。生まれつき色素が薄い亜梨子の髪は、本来ならば薄茶色だ。母方にイギリス人の血が入っていることが影響しているらしいが、顔つきだけは純日本人なのでクォーターと言ったところで誰にも信じてもらえない。頭髪検査に引っかかる学生時代ならまだしも、社会人になってあえて髪を染めたのは、他ならぬ彼が「黒髪の子って清楚っぽくていい」と言ったからだ。
 たとえば、全てを捨ててついて行くと即答していたら違っていただろうか。たとえば、浮気現場を見てか弱い女のようにその場に崩れて泣き出せば違っていただろうか。考えたところで、答えは見えている。そんなことができるしたたかさがあったなら、こんなことにはならなかっただろう。亜梨子はいい意味で嘘がつけない、悪い意味で頑固な女だった。
 二人が出会ったきっかけをくれた友人にはなんて伝えよう。自分の結婚式で出会った二人が結婚してくれたら嬉しいと言っていた笑顔を思い出すと、ありのままを伝えることに躊躇してしまう。
 そう考えながら何気なくSNSを開いたら、よくある広告が目に入った。
 ──運命の相手があなたを探しています。
「ふざけんじゃないわよ」
 本当にそんなものがこの世にいるなら、浮気された挙げ句そこまで好きじゃないだろうと言われたそのとき、運命の相手は何をしていたんだ。一人家に帰る気にもなれなくて、別れた理由を友人に告げることもできなくて、情けなく海で飲んだくれている今、その相手はどこで何をしているんだ。
「本当にいるんなら、ここに連れてきなさいよ」
 普段なら気にも留めない無責任な広告に悪態をつくほど、自分は酔いが回っているのか、それとも冷静さを失うほど傷ついているのか、亜梨子は知りたくなかった。だから目を背ける代わりにスマホを放り投げた。
 そして手にしていた何本目かわからないビール缶をあおって、砂まみれになることも構わずにごろりと横になる。
 目の前にはぼやけた月。頭がぐらぐらして、目が回る。月がぐにゃりと歪んでいった。
(……月が、二つ?)
 横になったせいか、急激に眠気を感じて瞬きをした。
 錯覚か、ぼやけた月が二つ並んでいる。夢でも見ているのだろうか。
 目を閉じたくない。ベッドで二人が重なったシーンがはっきりと焼き付いているからだ。頭が回る。色んな場面が瞼の裏に現れては消えていった。
 ──「考えてみて」
 ──「遠距離恋愛でも上手くいくカップルは多い」
 ──「別に俺のことそこまで好きじゃないでしょ」
 ──「運命の相手があなたを探しています」
 見たくない。思い出したくない。何も考えたくない。いっそこのまま、誰も知らないところへ行ってしまおうか。全てを捨てて、一から新しい自分として人生をスタートさせるのだ。
(なんて、そんなの無理)
 そんな強さがあったなら、きっと今自分はこうしていなかった。
 とりとめもないことが浮かんでは消えていく。次第に目を閉じているのか開けているのかもわからなくなる。聞こえるのは波の音だけだ。
 ゆっくり泥の中に沈んでいくように、亜梨子の意識はどんどん遠のいていった。
 
 
 
 ──とぷん。
 息苦しい。
 体は重く動けない。冷たくて、苦しくて、酸素が失われていく。
 ──……、……、
 耳がおかしい。遠くで何か音がする。反響して聞き取れない。音なのか、声なのか。
 ──……、
 ぼわんぼわんと繰り返し響くが、音量を上げすぎたスピーカーのように音が割れて認識できない。何の音だろう。
 夏だというのに、肌が氷に触れるように冷たい。
(何……?)
 足の先には何も触れない。目を開いてもぼやける。でもわかる。頭の先まで水の中だ。
 漂っているのか、落ちているのか、わからないまま四肢を必死で動かした。時折来る大きな波に体が流されるのを感じるが、抵抗する力もない。
 これは夢の中なのか、現実なのか。わからない。呼吸ができない。
(溺れる──!)
 必死で手脚を動かすと、強い力で腕を掴まれた。そのまま引っ張り上げられる。
「──っぷぁ! っ、はっ、ゲホッ」
 酸素を取り込もうとするが、それより先に口から水が出た。肺にも入っていたのか、そのままむせる。合間合間に僅かばかりの酸素を取り込んだ。猛烈にしょっぱい。
 誰かが、その背中を撫でた。そこで初めて亜梨子は助けられたのだと気づき顔を上げた。
「大丈夫か? ねーちゃん。……なんでこんなとこに」
「あ、りが……」
 ありがとうと言おうと思った。昨夜、愚かにも酒に酔って海に入り、そのまま沖のほうに流されてしまったのだろうと想像したからだ。
 しかし助けてくれた男はどう見ても日本人ではなかった。
 薄汚れているからはっきりした年齢はわからないが、目元の皺は深く、彫りも深い。ただ全体的に丸っこい体型と髪の薄さから、父親と同じくらいだろうかと想像した。白髪とは違う薄い色素の髪と髭が海から反射した太陽光を燦々と浴びて白々と輝いている。
 カラーコンタクトではない青い目が過剰なまでに心配そうに向けられていた。まるで取り返しのつかない事故にでも遭ったような視線である。
 老水夫の姿に言葉を失うと、ガクンと乗っていた船が揺れた。
 見れば乗せられていたのは簡易的な木造の小舟だ。前と後ろにロープがついていて、真横についた帆船に引っ張り上げられていた。
 三本の帆柱マストを持ったそれは大きく立派だけれど木造だ。今まで船なんてまともに見たことがない亜梨子でも、助けてくれたこの船が随分と古いものだとわかる。今時、田舎の漁師だってもっと先進的な材質の船に乗っているだろう。
「え? ここ……どこ?」
 自分は一体どこまで流されてしまったのか。
 不安を抱えながら救助してくれた船に降り立つと、その気持ちはますます強いものになった。
 時代錯誤なのは船だけではなかった。乗組員は全体的に日に焼けた浅黒い肌をした顔で、ファンタジー映画でしか見ないような薄汚れたシャツや脚衣を着込んで、忙しなく船上を走り回っている。
 その奥で、数人だけが軍服のような、やはり古めかしいデザインの服を着ていた。遠目からこちらを眺め、信じられないものを見るようにコソコソ話し合っている。その中の一人が、代表するようにゆっくりとした動作で歩み出た。
「大丈夫ですか、お嬢さん。私はこの船の船長をしております」
(外人だ……日本語話してる外人の船……)
 人好きのする笑顔を浮かべた男は、さっき海から引き上げてくれた男よりもずっと若く見えた。それでも亜梨子よりは年上だろう。
 状況に困惑するあまり彼の名前を聞き逃したが、見た目通りの横文字だ。亜梨子は急いで頭を下げる。
「あっ、私は、美月亜梨子です」
「ん、みつ……」
「あ、亜梨子でいいです」
「アリス」
「いえ、亜梨子」
 ゆっくり繰り返してもイントネーションの違いなのか発音が難しいらしく、「アリス」になってしまう。何度も訂正するのも気が引けて、結局アリスのままにした。
(アリスだなんて)
 不思議の国のアレではないか。この状況では全くもって笑えない。
「アリス。ようこそ、私の船へ」
 船長は静かに微笑んだ。どこか気が許せない陰湿さのある笑みだ。奥でヒソヒソ話している男たちも、何か思わぬ好機に恵まれたようににやにやしている。
 あまり長居すべき場所ではないと本能的に察し、アリスはその視線から逃げるように船を見渡した。
「すみません、これ、映画の撮影とかですか?」
 そうとしか思えない。けれど、周囲を見渡してもカメラの類いは見つからない。
 船長の男はきょとんとして何度か瞬きをしてから、誤魔化すように笑った。
「まだ少し錯乱しているようですね。おい、水を持ってこい……少しお休みになられるといい。こちらへ」
 近くにいたボロを着た乗組員にぞんざいな命令をすると、またにこやかな笑顔をアリスに向ける。その態度の差が、なんとなく心をざわつかせた。
 歩き始めてすぐに、昨夜履いていたはずのサンダルがなくなっていることに気がついた。海を漂っていたのだから当然と言えば当然だ。会社帰りだったからくるぶし丈の白のパンツに黒っぽいカットソーだけで、他に持ち物は何もない。バッグやスマホはきっとあの浜辺に置きっ放しだろう。湿った木の感触が直に足の裏に触れて、なんとなく木の表面のささくれを心配してしまう。
(最悪だ……)
 酒の失敗にしても、ここまでの事態はそうないだろう。
 船長について行くと、船尾甲板の真下にある船室に通された。
 執務室なのか中央に大きく重厚なテーブルがあり、船長はそこに腰掛けアリスを手前にある椅子に座るよう勧めた。
 目の詰まった上等な生地に、金刺繍と繊細な細工が施された、素人目にも豪華な椅子だ。全身ずぶ濡れのアリスは躊躇いながら、おずおずと浅く腰掛けた。
「それで、アリス」
 ゆっくりともったいつけた間をとって、彼は軽く組んだ膝の上で両手の指を絡ませる。
「どこから来たのかな。乗っていた船が事故にでも遭ったとか」
「ああ、いえ……その、お恥ずかしい話なんですがお酒に酔っていて……全然覚えていないんです」
「ふうん……それでは、乗っていた船はどこの国のもので?」
「いえ、船には乗っていなくて……日本にいたはずなんですけど」
 アリスの言葉に、男は眉をひくりと動かした。それから濡れねずみのまま体を抱き締めている正体不明の女をじろじろ不躾に眺めると、胸の内から来る喜びを隠しきれないように目を細めた。
「ははあ。訳ありの様子ですね」
「いえ、そういうわけじゃなくて」
 酔ってどこかに流されてしまった、では納得されない事態にあることは理解しているが、アリス自身も困惑しているのだ。しかし不思議と、この男にはどこかアリスよりも彼女の状況を理解しているような雰囲気がある。偶然海の真ん中で怪しげな女を拾い上げたことを、嬉々としているようにも見えた。
 なぜ。どうして。聞いたところで真実を話してくれるのだろうか。
 様々な疑問が沸き起こる。けれどアリスは、このどこか信用のおけない笑みを貼り付けた男に尋ねることを躊躇った。
 男はふいに立ち上がり、ゆっくりとした足取りでアリスの周りを歩む。
「まあ、安心してください。この船はバスティートに向かっています。それから身のふりを考えてもよろしいでしょう」
「バスティート?」
 知らない名前だ。どこかの街の名前だろうか。
 自分は一体どこまで流されたのか。アリスはこの一連の奇妙な出来事に、ただ酒に酔った以上の何かが起こっていることを確信した。
「海の女神に愛された国──まあ、それも近年は疑わしいところですが、そちらに着けば身のふりは如何様にも。貴女のような婦人なら尚のこと」
「あ、ありがとうございます」
 彼の言葉にどこか引っかかりを覚えつつ、返事が怖くて聞き返すことはできなかった。
 柔らかな口調とは裏腹に、まるで品定めでもされるような冷たい視線に、アリスは心臓の音が徐々に速まる。
 男の足音は真後ろで止まり、冷たい指がついっと濡れた髪を一房掴んだ。
「な、なんですか……?」
 驚いて振り向くと、船長は覗き込んでいたのかやや屈ませていた体を起こし、何事もないようにまた笑顔を貼り付かせる。
「いいえ。何かついていたような気がしまして。気のせいでした」
「そう、ですか……」
 確かに海にいたのだから何かがついていても不思議ではない。そう思っても、なんとなくいい気はしないものだ。アリスは平然を装いながら、乱れていた髪を掻きまとめてぎゅっと掴んだ。
 船長は満足したのか、それ以上触れてくることはなく、すぐに外にいた者に命令してタオルや食べ物を用意してくれた。最初こそ船の揺れにひどく酔ったものの、甲板に出て外の風に触れると、ほっと息をつく。
(なんだか全然知らないところに来ちゃったみたい)
 さっきまでは晴れていたのに、今は霧が出て雲の中にでも入ったように周囲が薄らと霞み始めている。しかし頬を撫でる風や船が切っていく海の色、湿り気を帯びつつどこか甘さを残す潮の匂いは、アリスが知っているものとはまるで違っている。
(言葉が通じるなら、そんなに遠くじゃないと思うけど)
 船長以外の人間に話を聞いてみようかと思ったが、甲板の上を行き来する乗組員たちは皆どこか気安く話しかけるのを躊躇するような鋭い眼つきと柄の悪さが目立つ。そして全員が外国の者で構成されているらしかった。アリスのように黒髪やアジア系の顔つきは見当たらない。
「わっ」
 そのとき、ぐらりと船が揺れた。欄干から落ちそうになったアリスの腕を誰かが掴む。
 見れば最初に小舟で引き上げてくれた老水夫だった。あのときと同じように、不憫そうな目をしてアリスを見つめる。
「船の上は危ねえ。慣れてないなら、船室に戻っとけ」
「あっ……ありがとうございます」
 確かにこのまま再び海に落ちたら目も当てられない。アリスは素直に礼を告げ、船室に戻ろうとした。けれど、水夫は何かを言い淀むようにこちらを見ている。その視線が気になって、アリスは勇気を出して口を開いた。
「あの……なんですか?」
「ねーちゃん、帰る国はあるのか」
 不思議な質問だと思った。確かに人によっては事情により国に帰れないということはあるだろうが、アリスは誰が見たって日本人だ。それに国から逃げ出したならもっとまともな準備をしている。もしかしてこの船の人は皆、アリスを這う這うの体で国から逃げ出した人間だと思っているのだろうか。
「あ、あります! 帰りたいです!」
 勢い込んで答えると、男は眉間の皺を深くし、視線を周囲に向けて声を落とした。
「いいか、それなら陸に着いたらすぐ逃げろ。あんたのその髪はあの国のお偉いさんにはお宝だ。きっとバスティートに着いてもろくなことにはならんだろう」
「髪……?」
 特別なところなどない髪にどんな価値があるというのだろう。思いがけない言葉に首を傾げるが、老水夫は周囲に聞かれないかとそればかりに気がいっているようで、アリスの疑問に答えをくれない。
「俺の娘もあんたくらいの歳だ。もし娘が、と思うと堪らねえよ」
 自分の娘を思い返したのか、それともアリスの今後に同情しているのか、沈痛な面持ちで首を振った。その反応がより一層アリスの胸をざわつかせる。

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