【試し読み】堅物上司が実は溺愛オオカミだった件~この夜は甘すぎて想定外です!~

作家:椋本梨戸
イラスト:蔦森えん
レーベル:夢中文庫クリスタル
発売日:2020/11/4
販売価格:500円
あらすじ

取引先との接待が温泉宿と知って大喜びの夏川柚。ただし同行するのは『社内一怖い上司』の瀬田樹。稀に見るほどのイケメンで、とにかく怖い……のだが、接待中のセクハラから毅然と守ってくれる樹の姿に柚はトキメキを覚える。そうしたなか、食事のみで日帰りの予定が悪天候の影響で宿に急遽一泊することに。空いている部屋の都合で樹とともに一晩を過ごす事態になった柚は、憧れの温泉宿にハイテンション。一方、実は柚にずっと片想いをしている樹。今夜は上司の顔を守り柚に手を出すまいと必死に自制するのだが、アクシデントが続発。「限界だ──お前が可愛くて仕方ない」その鋼鉄の理性はついに崩壊!? こんなに甘い夜になるなんて……

登場人物
夏川柚(なつかわゆず)
物怖じしない性格で『社内一怖い上司』瀬田の補佐役。温泉宿での接待に大喜びだったが…
瀬田樹(せたいつき)
容姿端麗で仕事もデキるが、無愛想できつい物言いをするため部下から恐れられている。
試し読み

1 日帰り接待のはずだったのに

「温泉宿ですか!?」
 上司のデスクに身を乗り出して、夏川なつかわゆずは目をきらめかせた。
 営業二課課長であるところの瀬田せたいつきは、怖ろしいほど整った顔立ちに、いつもの強面こわもてを貼りつけたままうなずく。
「ああそうだ。明後日の接待は風雅ふうが温泉の旅館で行う」
 その言葉に、柚は歓喜して感動を噛みしめた。一方で、樹はしかめっ面のままである。
 これは、いま現在彼が柚に対して怒っているということではない。このしかめっ面が瀬田樹の標準装備というだけのことである。
 普段の柚であれば、樹の眉間に刻まれたシワにおののきつつ、「課長、顔が怖いです」とクレームを奏上するところだ。しかし、『次の接待は温泉宿。しかも、名湯として大人気の風雅温泉にて』というすばらしい予定を聞いたいまとなっては、樹の強面も天使像のように慈悲深く見えるから不思議である。
 柚はさらに身を乗り出した。
「ぜひ、わたしも連れていってください!」
「そのつもりでいる。おまえには俺の補佐としての役割を担ってもらわなければならないからな」
「もちろんです、任せてください! 課長の補佐として、十二分に役目を果たしてみせます」
 樹の補佐役に柚が指名されたのは半年前の夏だ。その夜柚は、あまりのショックに茶碗二杯分しかごはんを食べられなかった。
 いつもなら生卵を落として三杯を堪能するところなのだが、食欲がわかなかったのである。おかずも豚の生姜焼き二百グラムしか入らなかった。三百グラムを余裕で平らげるのが柚の通常運転だからこそ、まさに異常事態であった。
 柚の大食いに慣れている友人たちは、「いつも(無駄に)元気なあの夏川柚にいったいなにがあったのか」とものすごく心配し、「わたしのデザートあげるから、元気出しなよ」と、シャーベットの皿をそっと差し出しながら慰めてくれたものだ。
 瀬田樹の補佐役に選ばれたことがなぜそんなにもショックだったのかというと、彼が『社内一怖い上司』として名を馳せていたからによる。
 瀬田樹はたぐいまれなるイケメンだ。黙って立っていれば、すれちがう老若男女全員の視線と感嘆のため息を得ることが可能なほどに、輝かしい容貌をしている。ほほ笑んで立っていようものなら、女性陣から声をかけられまくりのモテモテ人生であっただろう。
 しかし残念極まることに、彼は愛想という二文字を母親のお腹に置き忘れて生まれてきたような男であった。
 眉間に深く刻まれたシワと、不機嫌にも見える無表情が、瀬田樹の怖さを増幅させている。長身でガタイがいいからこそ、余計に怖い。
 ゆえに女子社員勢からは「遠くから眺める分には眼福としか言いようがないほどのイケメン」として、半径十メートル外からの鑑賞対象に認定されている存在であった。
 彼女らと同じく、柚も樹には近づきたくないとつねづね思っていた。それなのになんのまちがいか、補佐役として彼から直々に指名されてしまったのである。
 柚はそのとき、樹に必死に訴えた。
「どうしてわたしなんですか? 嫌ですよ、辞退します。だって瀬田課長、顔怖いですし。言葉遣いも怖いですし。わたし、出社拒否症になんてなりたくないです」
 樹は強面を崩さないまま、しびれるような低音のイケボで返事をした。
「それだ。そのセリフだ」
「へっ?」
「俺にそこまで堂々と意見を言えるのはおまえくらいだ。だから補佐役に指名した。話しかけるたびにいちいちビクビクされていては、仕事にならないからな」
 自分は確かに、ほかの人より物怖じしない性格をしているかもしれない。けれどそのせいで、瀬田樹の補佐に選ばれることになるとは思いも寄らなかった。
 しかしながら、ただ「怖いから」という理由だけで上司の命令を蹴るわけにはいかない。自分はれっきとした社会人であり、働くこと自体は嫌いではないからである。
 ご指名を渋々ながらも受け入れた柚は、樹の仕事のサポートをてんてこまいになりながらこなしていった。そこでわかったのは、瀬田樹がどれほど仕事ができる男かということだ。
 この会社は業績が良く給料も高水準だ。その分仕事内容と量は超ハードである。給料がいいからブラック企業とは言いきれないが、それでも樹のような管理職ともなると、そのハードワークっぷりは尋常ではない。
 まさに社畜といっても過言ではないほどの仕事量を抱え、それらを超スピードで完璧にこなし成果を挙げていく樹の様子を、誰よりも近くで柚は見てきた。だからこそ、いつしか彼を尊敬するようになった。
 鑑賞対象から尊敬する人物に移り変わったといっても、樹の怖さが軽減されるようなことはない。彼の顔や言葉が怖かったりしたときは、「課長、怖いです。お言葉・表情共に控えめにどうぞ」と物申すのが常であった。そんなときの樹は、ややバツが悪そうに顔をしかめつつ「俺は怒っていない。眉間にシワを寄せているのは、照明が眩しいからだ」などと往生際の悪い言い訳をするのであった。
 さらにもう一つ発見があった。それは、彼が意外にも部下思いだということだ。
 社畜課長・瀬田樹につられて、補佐をこなす柚もだんだん帰社時間が遅くなってきていた。それを彼はどうやら気にしていたらしい。
 ある日の夜七時ころ、キーボードを打っていた柚は、樹から「いまから夕メシに出る。おまえも来い」と言われ、なんとうなぎ屋に連れていかれた。
 そこは老舗で、それはそれは良いお値段のする料亭だった。柚がびっくりして遠慮すると、「なんだおまえらしくもない。いつもみたいに好きなようにしろ」と樹はしかめっ面で言った。柚は「それならば」ということで、うな重の特上二倍盛りを注文した。樹は唖然とした顔をしたのだが、やがて可笑しげに小さく笑った。
「俺にここまで遠慮しないのは、やはりおまえくらいだな」
 強面課長の意外にも可愛いほほ笑みに、柚は驚いた。そして、以下のように提案した。
「課長はどうして普段から笑わないんですか? 眉間のシワをやめて、いまみたいにニコっとすれば、みんなから慕われる上司になれること請け合いなのに」
「俺は別に」
 樹は戸惑ったような動揺を見せたあと、咳払いをした。
「全員から慕われたいなどと思っていない。だからわざとらしく笑顔を見せる必要もないだろう」
「でも、みんなから怖がられたいとも思ってないんでしょう?」
「待て。俺はそれほどまでに怖がられているのか? いや、怖がられてはいるだろうが、そこまでのレベルでは……」
「自覚ないんですか?」
「…………」
 深刻な表情で、樹は考え込んでいる様子だ。どうやら本当に自覚がなかったらしい。
 このときの、眉間にシワの寄った表情もやはり強面だったのだが、元が果てしなくイケメンであるため、鑑賞対象としてはやはり完璧だった。
 このような調子で、樹の補佐を半年ほどこなしていた柚だったのだが、ここへきてやっと日頃の苦労が報われたようである。
「風雅温泉って、近場にある温泉として有名なところですよね。いつか行きたいと思ってたんです! でも、お金持ち御用達といった感じの旅館ばっかりで、なかなか財布が追いつかなくて。そんな場所に会社のお金で行けるなんて、最高です。瀬田課長の補佐をやっていて良かったといま初めて感じました」
「遊びに行くのではなく、仕事をしに行くんだ。それを忘れてもらっては困る。ところで、俺の補佐をやるのはそんなに苦痛なのか」
「課長は半径十メートル外の鑑賞対象なので……」
「なんだ、その鑑賞対象とは」
「深く考えていただかなくて大丈夫です」
 樹はいつものしかめっ面でため息をついた。
「とにかく、温泉には仕事で行くんだからな。宿泊しないのはもちろんのこと、温泉にも入らないぞ」
「えー! 温泉にすら入れないんですか?」
「あたりまえだ。取引先の社長がその旅館の料理が大好物だということだから、そこを接待場所にしただけだ。夕食をご馳走して社長を気分良くさせて、次の商談の約束を取りつけたら、どこにも寄らず直帰する」
「課長お一人で帰ってください。わたしは温泉に入ってから帰ります」
「俺の車で行くんだから、帰りも俺の車におまえを乗せて連れて帰る。第一、夜に女一人で山奥の温泉街をぶらぶらするなど、危ないだろう」
 柚はがっかりした。その一方で、樹が自分を女性扱いして心配してくれたことを、意外に思った。
「課長って、実は女性に優しいんですね」
「……別にどんな女性にも優しいというわけじゃない」
「優しくしたほうがいいですよ。そうしないと半径十メートルがいつまでたっても縮まりませんよ。課長、そんなにイケメンなのにいまだに彼女さんいないじゃないですか。もったいないですよ」
「無駄話は終わりだ。とにかく、明後日は午後三時に会社を出るからな。そのつもりで準備をしておけ」
「はい、了解です」
 そして二日後。
 柚は樹とともに会社の駐車場に出て、彼所有のセダンに乗り込んだ。助手席のシートは広々としていて、座り心地がとってもいい。
「今日は営業車じゃないんですか?」
「ああ、直帰する予定だからな。それに、営業車よりこの車の方が広い。社長を途中で拾っていく予定だから、おまえも広い車のほうがいいだろう?」
「はい、乗り心地はこの車のほうが断然いいですね。さすが課長、高そうなお車にお乗りです。このシート気持ちいい~」
「まったく、おまえというやつは」
 樹はため息をつきながらも、どことなく楽しそうな様子でハンドルを握った。
 営業車を運転する彼の姿はこれまで何度も見てきたが、彼自身の車を操縦するのを見たのはこれが初めてだ。仕立ての良さそうなスーツを完璧に着こなす樹は、メンズ雑誌の一部分になっていてもおかしくないほどの仕上がりである。
「ああもったいない。この素材で雑誌モデルみたいににこやかにしていたら、半径十メートル外の鑑賞対象どころか、たくさんの女性から接近戦で声かけられまくりのモテ人生だろうに……」
「ん? なにか言ったか」
「いいえ、こっちの話です。さあ、早く出発しましょう」
 樹は取引先の会社に寄り、山下やました社長を車に乗せた。この社長は定年を目前にした五十九歳の男性である。
 一代で自分の会社を築き上げて大きくした、やり手のビジネスマンだと聞いている。しかし、後部座席にちょこんと座っている小さなおじさんを見ると、とてもそうは感じないから不思議だ。『おっとりして優しそうな親戚のおじさん』というイメージがぴったりである。
「やあ瀬田くん、わざわざ会社まで迎えに来てもらってすまないね」
「いえ、とんでもございません」
「柚ちゃんも、ありがとう。瀬田くんに今日連れていってもらう旅館は、料理がとっても美味しいんだよ。柚ちゃんもきっと気に入ると思うよ」
「はい、山下社長のお勧めのお店はいつも最高なので、期待しかありません! それよりも社長、おひさしぶりですね。お会いできて嬉しいです」
「私も嬉しいよ。柚ちゃんや瀬田くんと揃って食事するのは半年ぶりだからね」
 柚ちゃん、という呼び方は、現代ではセクハラ判定を受けてしまいかねない。けれどこちらの社長──山下聡一郎そういちろう氏が言うと、親戚のおじさんに呼びかけてもらっているような気がして、逆にリラックスできる。
 これも社長の人徳というものだろう。取引先の接待は、物怖じしない柚ですら少なからず緊張するものである。けれど山下社長には、気を張る必要がないと思わせてくれるようななにかがあった。だから柚は、山下社長との食事が大好きなのである。
 しかし今回は、少々勝手がちがった。
 柚は、バックミラー越しに後部座席をチラ見する。ちょこんと座ってニコニコしている山下社長の隣にいるのは、柚と同じ年くらいの青年だ。無造作に脚を組んで、ついでに腕まで組んで、不遜ふそんな態度で鎮座している。
 彼は飛び入りで参加を希望してきた人物である。おっとりしたおじさんとは雰囲気がまったくちがう、チャラそうな外見の若者だ。
 この若者は、なんと山下社長の一人息子らしい。名を山下和也かずやというそうだ。
 やり手と名高い名社長も、一人息子にはどうやらすこぶる甘いらしい。息子はスーツのネクタイを外し、シャツのボタンを二つか三つ開けただらしない格好で、
「俺、腹減ってんだよ。チンタラ走ってないで、前の車さっさと抜いて早く旅館に連れてってよ」
 などと、ぶっきらぼうに樹に催促するのだ。樹は「安全運転を心がけておりますので」と、社長子息のわがままをかわしていたが、眉間のシワがもう一本増えていたのは柚の見まちがいではないだろう。
 そんな息子を叱るでもなく、山下社長はニコニコしながら「今日は道が混んでいるようだね」とのんびりしゃべっている。息子に甘い。甘すぎる。
 山下和也の登場によって、楽しみだったはずの温泉接待が雲行きのあやしいものになってきた。柚は内心ため息をついた。

※この続きは製品版でお楽しみください。

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