【試し読み】本気の北瀬くんはわざと眼鏡を外させる
あらすじ
酔った勢いのワンナイトをきっかけに、優秀な後輩・北瀬と付き合い始めた理彩。職場で誰にでも人当たり良く接する彼は、しかし理彩とふたりきりになると途端に顔を強張らせてしまう。その癖、眼鏡を外すとスイッチが入ったように情熱的に理彩を求めてくる。何度肌を重ねても、付き合ってほしいと切り出してきた相手の真意が見えず――どんどんぎこちなくなっていく関係に悩み、やがて理彩は、真面目な彼が一夜の責任を取ろうとして交際を申し出てきたのだと考えるように。だがある夜、意図せず同僚に言い寄られた理彩に、北瀬は「なんで彼氏いるってはっきり言わねえんだよ」と独占欲も顕わに口づけを迫り……!?
登場人物
ワンナイトをきっかけに北瀬と付き合うことに。ぎこちなくなっていく関係に不安を感じている。
誰にでも分け隔てなく接し人当たりがいいが、理彩とふたりきりの時はなぜだか無愛想で…
試し読み
プロローグ
金曜、時刻は午後九時手前。
壁にかかる時計は自室のそれよりも数字の表記が大きく、遠目であっても眺めやすい。寝慣れないベッドに横たわりながら、やはり見慣れない天井を、私はぼんやりと見つめていた。
この部屋に泊まるのは初めてだ。立ち寄る程度にお邪魔したことは何度かあるけれど、一緒に夜を過ごすとき、今まではホテルに泊まっていた。
ベッドは私の部屋のものよりもマットレスが硬く、また、天井は自室のそれよりも高い。うとうとと瞼が落ちかけること数回、ここどこだっけ、と我に返っては、そのたび知らない世界に迷い込んでしまったような違和感を覚える。
ピリリリリ、と不意に甲高い音がして、私は思わず息を詰めた。
携帯の着信音だ。一瞬、自分のそれが鳴っているのかと思ったけれど、違った。
「……はい」
通話に応じる低い声が聞こえ、着信音は途絶えた。
彼の声は少しずつ遠くなっていく。寝室の隅に移動したらしい。私が寝ていると思ったのか、さして広いわけでもない部屋の端で通話を続ける声は、先ほどまでよりずっと聞こえにくい。
カーペットの上に脱ぎ散らかした自分の服が、ふと視界に入り込む。
スーツのスカートとジャケット、薄手のブラウス、下着……ストッキング。生々しい。頭の中が急に羞恥に染まる。
「……すみません。今日は……ちょっと」
微かに聞こえてくる彼の声に耳を欹てる。
用事かな、と思う。例えば、週末に誰かと約束をしていて、それをうっかり忘れてしまっていたのかも。
……少し怠いけれど、帰れないほどかと問われれば、多分そこまでではない。
上体だけを起こし、ベッドの縁を爪でとんと軽く叩く。途端に、彼がはっとした顔でこちらを振り返った。
帰るよ、と小さく囁くと、彼はわずかに眉を寄せた。怒られている気分になって、私はそっと目を逸らす。そのまま、床に散る自分の服に手を伸ばした。
彼の視線があるから、タオルケットから肌が出ないように……なんて、いまさらそういうことに神経を割いている自分がなんだか滑稽だ。
「……理彩さん」
通話を終えた彼が、服を着終えた私を不機嫌そうに見下ろした。
どんな顔をしていいか分からない。謝るのも違う気がする。
不機嫌そうにしている原因は、きっと私なのだと思う。でも、今謝ったら彼はもっと顔をしかめる。そんなことだけはすぐに想像がついてしまう。
結局、私は口元を緩め、曖昧に笑い返すに留めた。
私たちには、こうして週末に会うくらいしかプライベートの繋がりがない。しかも、それもまだまだ短い期間での話だ。
納得いかなそうな顔をしていた彼は、やがて小さく溜息を落としてから口を開いた。
「……送ります。すみません」
目を逸らしてそう告げる彼を、静かに見つめ返す。
相手が自分を見ていないと分かっていながら、私は笑って頷いた。
第1話 年下彼氏は私の前で笑わない
酔った勢いのワンナイトラブなんて、絶対にやめるべきだと思う。
とはいえ、日頃からそう思っていたとして、実際には酔っているからこそまともな判断がつかなくなるものなのだろう。
現に、やめるべきと思っていたはずの私は、まさに酔いによってその判断を誤った。
私──永村 理彩は、現在、後輩同僚の北瀬 晴くんと交際している。
よりによって、酔った勢いでのワンナイトラブを経て。
*
「じゃあ私、帰りますね。お疲れ様でした」
「あ、はい。お疲れ様でした……」
定時五分前からちらちらと時計を見てばかりいた新入社員は、午後五時三十分ちょうどに席を立った。
他の社員が揃って外出している中、彼女の席の隣に立って業務指導を続け、かれこれ三十分。覇気のない声で挨拶を告げた私は、タイムカードに手を伸ばす彼女の背を呆然と見つめながら、とりあえず自席に戻った。
私が勤めているのは、デンタルケア製品を主体に開発・販売している会社の地方支社だ。歯科クリニックや薬局などを相手にしたルート販売業務に加え、郊外に軒を構えるふたつの大型工場を管轄している。
ようやく梅雨が明けるか明けないかというこの季節。今年、我が支社の営業一課に配属されてきた新入社員は、彼女──板津さんただひとりだ。
当社の新入社員研修は、本社にて行われるマナー研修に始まり、支社に配属されて以降は実務的な研修が続く。各部署にてそれぞれ十日程度の研修を受け、その後、勤務態度や能力などを考慮されて正式な配属を迎える。
板津さんの配属が決まり、間もなく一ヶ月。
今年、うちの支社に配属された新入社員は、板津さんを含めて三人だ。部署別の研修期間中から、私は、営業一課の代表として新入社員の指導を担当していた。
新入社員と年齢が近く親しみやすい、社歴の浅い社員が任命されることの多い業務だ。だが、私よりも後に入社したスタッフが部署内にいるにもかかわらず、私に声がかかった。
板津さんの指導係に選ばれた件に限っては、同性だからという理由が挙がってはいるみたいだ。けれど、きっと理由はそれだけではないと簡単に察せてしまう。
板津さんは、はっきりした性格をしている。上役を前にしても物怖じすることなく、はきはきと自分の意見を述べる。相手の顔色を窺うような態度を取りがちな私とは、正直、真逆に近いタイプだ。
そんな板津さんからは、私の指導を話半分にしか聞いていない素振りも垣間見える。
最初からこの営業一課を目指して入社を決めたという彼女は、外見も性格も、挙句の果てに営業成績までいまひとつパッとしない私のような社員に指導を受けることを、あまり快く思っていないらしい。
板津さんの、手入れの行き届いた綺麗な爪を思い出す。ぱっちり開いた大きな瞳と、女性らしくも爽やかな印象を受けるメイクも。
支社の女性社員には制服の貸与があるものの、外出を伴う業務が多くなりがちな営業一課の女性社員たちは、皆、自前のスーツで働いている。私もそうだし、板津さんも配属から一週間が経つ頃にはスーツで出社するようになった。
……営業一課は、支社内でも花形と呼ばれる部署のひとつだ。
実際、彼女は向いていると思う。客先での商談やプレゼンの機会が多い我が課においては、私よりもむしろ彼女のような人材がふさわしいとも。
どちらかといえば、私は自分の成績をどうこうするよりも、他の社員のフォローに回ることが多い。フォローと呼べば聞こえはいいかもしれないが、他人のミスの尻拭いも含めて、だ。
営業成績が良いからといって、すべての仕事が優秀というわけではない人も、事実、いる。
「……ふう」
自席に腰を下ろした途端、溜息が零れた。
板津さんへの指導やフォローをしているだけで勤務時間が終わってしまう。業務に対する私の時間配分がヘタクソだという、理由は単にそれだけだと頭では分かっていても、一ヶ月もこの状況が続くとなかなかつらい。
新入社員の指導は、リーダーを中心に部署内の社員全員で行うことになっているが、この課においてそれは建前でしかない。結局は、あまり仕事を取ってこられない私が大半を担うことになる。分かってはいた。
自分の仕事は、これから済ませなければならない。見積書の用意が一件、取引先の担当者へのメール確認が三件。急ぎで進めるべきことはそのくらいか。
残業は、つけてはいけない気がした。本来なら時間内に十分終わらせられたはずだから。
もう一度口をつきそうになった溜息を噛み殺した、そのときだった。
「ただいま戻りました」
「戻りました……あら、永村さんひとり?」
男性と女性、ふたり分の声が唐突に沈黙を割き、はっとして声の方向を振り返る。
そこには、北瀬くんと上林課長の姿があった。そういえば、今日は午後から、これまで課長が担当してきた得意先にふたりで向かうと言っていた。
「あ……と、おかえりなさい。お疲れ様です」
裏返ったような声での挨拶になってしまい、ひとりで勝手に気まずくなる。
北瀬くんと目が合い、仕事中だというのにそれとは関係ない種類の緊張を覚えた。
いつもこうだ。うっかりプライベートでのやり取りを──肌に触れられる感触を思い出しそうになり、気まずさが嵩を増していく。
フロア全体に視線を向ける課長と、じっと私に焦点を合わせてくる北瀬くん、ふたりに曖昧に笑い返し、私は早々に自分のデスクへ視線を戻した。だが。
「永村さん、残業? 板津さんは?」
課長に問われ、手元の書類に滑らせていた指が動きを止めてしまう。
「ええと、板津さんは先ほど退勤しました。私も特に残業というわけでは……」
返事の声は、思った以上にしどろもどろになる。
すぐに終わりますので、と締め括りつつ無理やり口角を上げると、課長の隣に佇む北瀬くんが微かに眉をひそめた。
「仕事が残ってるなら手伝いますよ。今日、永村さん以外、誰も新人の指導に当たれなかったんですよね?」
「そ、それはそう……ですけど」
課長からの返事はなく、代わりに北瀬くんの少々不機嫌そうな声が続き、私は濁しがちに返すしかできない。無論、本人にはどうにもうまく視線を向けられずじまいだ。
私たちのやり取りを横目に、課長が「うーん」と思案げな声をあげた。
「北瀬くんは昨日も残業してるでしょう、帰って大丈夫よ。私が残る」
はっきりと言い放った課長の、特に最後のひと言に、背筋がびくりと強張った。
これは私の残務だ。出先から戻ったばかりの課長の手を煩わせて良いような仕事ではない。
「あの、本当にすぐに終わりますし、大丈夫で……」
「いいから。永村さんには少し話もある」
私の言葉を遮るように口を開いた課長の、その声は普段よりもトーンが低い。
はい、と小さく返したきり、私はそれ以上なにも言えなくなってしまう。
「北瀬くんはお疲れ様。今日の分の報告書は、明日以降一緒にまとめましょう。気をつけてね」
言いながら、課長は北瀬くんににこやかに笑いかける。
彼女を見つめ返す北瀬くんの表情が、私の目には少しはっとしたように映った。
「はい。それではお先に失礼します」
「うん、お疲れ様」
お辞儀をした北瀬くんが顔を上げる頃には、すでに彼の表情には不機嫌そうな気配は露ほども残っていなかった。
フロアを去っていく彼の背を、私は課長と並んで見送った。
※この続きは製品版でお楽しみください。