【試し読み】黒王の純情、白百合の挑発~恋の手ほどきはお姫様の手で~
あらすじ
『さぁ、婚儀はつつがなく終わった。一緒にディーダーン国へ行こう』頭痛に腹痛、セクハラ……ブラック企業に悩む百合が医務室へ行くとクリシュナと名乗るアラブ系産業医に全てを打ち明ける。検査の結果なんとお祓いが必要だと言われ、会社の屋上にそびえ建つカーバ神殿に連れていかれることに!?言われるがままカーバ神殿を抜けると、そこは異世界ディーダーン!?いつの間にか婚約の儀を済ました百合は、文化の違いに戸惑いつつも、なかなか手を出してこない彼に業を煮やし、ついには自ら挑発しようと奮闘するのだが――!?寂しい!会いたい!放っておかないで!!お互いを思いあう心が優しくすれ違う、癒し系異世界ファンタジー!
登場人物
ブラックなテレビ番組制作会社勤め。原因不明の体調不良に悩まされている。
黒髪で彫りが深く、どこか高貴な雰囲気を持つアラブ系産業医。百合を異世界へ連れていく。
試し読み
第一章 産業医クリシュナ・アズーサ
部屋の中がやけに湿っぽくて目が覚めた。
(あ、雨がふってる……)
暑苦しかった昨日の夜とは一転して、肌寒いぐらいだ。
薄い掛け布団から手を出して、目覚まし時計を持ち上げると、あと一分でベルが鳴る。
(起きなきゃ)
無理に身体を起こそうとして、キンッとする痛みに顔をしかめ、四つん這いになって頭を抱えた。
「いったぁーい」
沢崎百合二十二歳の春は、頭痛とともに過ぎて行き、間もなく本格的な夏を迎えようとしている。
新卒で念願のテレビ番組制作会社に入れたはいいが、同期に女性はいなくて朝から晩まで下働きばかりしているし、会社に紹介された徒歩で通えるアパートは、値段のわりに広くてお値打ちだけれど、夜になると盛大な家鳴りがして眠れない。
「寝不足の頭痛かなぁ……もうっ、あのパンパンっていうのが、頭の中で鳴ってるみたい」
ううっと呻いて寝不足の目をこする。後頭部が重苦しい。
もしかしたら事故物件なのかもと、気がついてはいるのだが、おどろおどろしい事件のサイトを巡って特定するのも恐ろしくって、ほったらかしのままここに住んで、間もなく四か月がたつ。部屋じたいはとても気に入っているから困ったものだ。
(オバケだったらやだなぁ……)
不眠のせいだと思われる偏頭痛で、こめかみもずきずきと痛む。
それでも支度をして会社に行かなければ、ロケの手配がまだ終わっていない。
なんとかベッドから降り、這うようにして冷蔵庫を開けると、缶コーヒーの蓋を開けてゴクッと飲む。冷たさと甘さが胃に広がる。
カフェインは頭痛の対策に有効なはずだ。
「くぅ~、無理やりだけど目が覚めるぅ。本当なら、朝は一人暮らしのステキな部屋で熱いアラビックコーヒーを飲むつもりだったのになぁ」
壁に掛けてあるカーバ神殿の油絵に目をやって、ほぅっと溜息をつく。それは、百合が高校生の時に絵画部の作品として描いたものだ。
百合はアラビア半島全体に興味があって、このカーバ神殿なんて見ているだけでうっとりしてしまう。インテリアも食べ物もアラブと名がつくと目の色が変わるし、アラブの歴史も興味津々だ。
壁面にペルシャ絨毯を飾って、クッションも金糸の入った更紗にしてと、初めての自分の城は、アラビアンナイトのお姫様をテーマにした。そんな、ちょっと自慢できるインテリアもだいたい出来上がっている。
仕事が始まったら新しく食器や小物も買い揃えようと、期待に胸を膨らませた新生活だったのだ。それなのに、入社以来、あまりの忙しさと精神的な苦痛で休日は模様がえもできずにぐったり寝て過ごしている。今や、それさえ不気味な家鳴りに阻害されている。
大好きなアラビア雑貨の店も、アラビアンカフェも、すっかりご無沙汰だ。
「お買い物に行く余裕もコーヒーを楽しむ時間も無いって、どんだけブラック企業なのよっ」
株式会社レインボーは、番組制作会社の中でもかなりの大手で、都内の一等地に自社ビルがある。就職難なのに第一志望の会社に入れて、運を使い切った気分でいたら本当に人生の運なんてもう残っていなかった。
この会社にいて、百合のキャリアが向上する気配はみじんもない。
百合以外の男性新入社員は学生バイトからの就職で、もう現場にすっかり慣れていて鮮やかな手際で番組を作っていく──ものすごく、やっつけで。
(番組って、もっと丁寧に作るものだと思っていたのに……)
百合が作りたいと思っている番組は、その土地の文化や歴史、逸話も絡めて進行する何度も繰り返し観たくなるような旅ものだ。
入社早々に腕だめしの企画書提出を言い渡されて、張り切ってアラビア半島を巡る旅の企画案を出した。同期入社の男性たちの企画書は赤が入って戻って来たが、百合の企画はスルーされてしまったらしく戻って来さえしない。
男性の同期を手伝って作るバラエティ番組といったら、行き当たりばったりで台本もペラペラ、タレントの話術にすっかりおんぶして取材の許可さえまともに取っていない。先日は、撮影した分量が番組の尺に足りずに、大慌てで泊まっていた温泉宿に頼み込んで風呂の映像を撮らせて貰った。
さらには、上司の新谷チーフが「女の子のカットがないと寂しい」なんて理由で、百合に湯に入れと言ってきた。
「やだっ、また思い出しちゃった。もう、忘れる、忘れるっ」
そうは思って忘れようとしても、上司の権限を大っぴらに振り回す新谷の声が、しつこくよみがえってくる。
『百合ちゃん、タオル巻いていいからお風呂入ってよ。ハイ、初めて役に立ったね~、急いで、急いで!』
断ってしまえば良かったのに、そう言われるとなんの役にも立っていないような気がして、言われるがままに温泉に入ってしまった。
「あぁん……やんなきゃよかったなぁ」
顔を洗って、化粧水をつけながら鏡の中を見る。
頬に乗せた手と顔の皮膚が同じぐらいに白くて、指の関節とほっぺたがピンク色をしている。よく「北国出身なの?」と尋ねられる色の白さだが、千葉県の海側出身で砂浜での海遊びが大好きだ。百合は日焼けしても赤く肌が火照ると、すぐにまた白色に戻る。
ほんの少し吊り上がった大きな目が印象的な顔は、他は特に主張するパーツもなく、百合の性格と同じで一歩引いた顔立ちだと自分でも思う。
(好きなものに囲まれて暮らしたいなぁ、お休み取って旅行に行きたい!)
砂漠と香辛料、アラビアンナイトと王族たち、それが百合の好きなものだ。
大学でもアラビア語を学び、一度だけ研究を兼ねたドバイ旅行も行った。調べれば調べるほどにアラブの歴史も民族も面白くって、人に伝える番組を作りたいと考えて入社したのが、くだんのブラック企業だ。
人を人とも思わずに、使えるだけ使う。
過労死した先輩もいたと噂に聞いて、百合は震えあがっている。この頭痛、この倦怠感、この食欲不振! 恋人が欲しいとか素敵な服が着たいとか、そんな欲求すらもしぼんでいる。今の症状は、ブラックの罠のどん底に落っこちているからこそ、じゃないだろうか?
「ふぅっ」
そうは言っても、せっかくつかんだ仕事だ。厳しい研修も終えて、仕事のやり方がわからないわけじゃない。着替えて、荷物を持って出掛けなければ。
アイロンなしで着られるピンク色のシャツと動きやすい六分丈のフレアパンツを履く。学生時代なら、これにアクセサリーやらスカーフやらをあしらっていたけれど、そんなおしゃれをしても誰が見るでもない。それでも来客があることを想定してジャケットを持つ。
長い髪を巻きもせずに一つに束ねると、おざなりの化粧をして、冷蔵庫からお茶のペットボトルと総菜パンを出して、大きなバッグにレジ袋のまま入れる。
実家の母が見たら怒りそうな食生活だし、百合自身も料理を作るのが好きなので物足りない。けれども、お弁当を作って行っても、男所帯では食べる場所も時間もなく、業者の折り返し電話待ちの隙をついて空腹を満たすのが精一杯だ。
「あ、もうない」
バッグに入れっぱなしにしてある市販品の頭痛薬が空っぽなことに気がついて、ゴミ箱に捨てる。引き出しから取り出した置き薬も、もうあと残りわずかだ。
「病院にいくべきかなぁ……イタタタタタ」
今度は、こめかみにピリっとした痛みが走って目を閉じ、手のひらで頭を包む。何をやっても痛みを逃すことはできない。あまり効かなくなった頭痛薬を飲んで、百合はぺたんこのパンプスを履くと部屋を出た。
***
「あ、医務室の先生が変わったんだ」
百合の勤める株式会社レインボーは、いくつかの部門に分かれていて、百合はその制作部にいる。レンタカーや不動産部門まである部署は一つの社屋にまとまって入り、その中に産業医の来る医務室がある。
社員全員向けのホームページをチェックして、エレベーターの運行状況や健康診断の実施、果ては社員向けレクリエーションのぶどう狩りのお知らせまでに目を通す。所属部署に関係ありそうなニュースを上司に伝えるのも百合の仕事だ。
「栗科梓先生、綺麗な名前だなぁ」
きっと知的で女らしい人に違いない、だって女医で梓さんだ。診療科目をチェックすると内科の医師で専門は頭痛、心療内科も標榜していてカウンセリングの予約も社内メールで取れる。
読んだとたんに、ツキンと強い痛みが後頭部に起きた。
手元の薬ももうないし、強い頭痛と倦怠感についてどこに受診したらいいか迷っているところだった。
(渡りに船ってこういうことかしら)
「梓先生に相談しちゃおう」
女の人と話をするなんて久しぶりだ。受診とはいえ、ちょっと嬉しくなる。
「えっと……栗科先生、はじめまして……で、いいかな?」
頭痛や疲労感についてメールを書いていると、なんだか重症のような気がして今日中に受診できたらいいなと思いつつ送信ボタンを押す。
「はいっ、送信!」
ついつい長文になってしまったメールを送ってから、朝イチの連絡電話を二本と書類の数字の確認をする。こめかみの痛みに目がかすむ。ふと気がつくと開きっぱなしのパソコン画面に『受信メール一件』のお知らせが表示されていた。それも医務室からだ。
「早っ……、私宛てだわ」
メールを開くと差出人は栗科梓医師で、すぐに来てくださいと書かれている。
「やだ……、私、やっぱり重症なのかも」
さぁっと血の気が引いた。今まで健康そのもので、病気らしい病気にもかかったことがない。
パソコンを閉じ、目を泳がせたまま立ち上がると、出来上がった書類を持ってチーム長のデスクに向かった。
アラフォーなのに、髪を金色に染め、丸眼鏡に詰襟のようなデザインのシャツという一昔前のとんがったクリエイター風の新谷が、幽霊のように目の前にやって来た百合を二度見した。
「百合ちゃん、顔色すげぇ悪いけど、なに? 妊娠でもした?」
いきなりのセクハラだ。新谷はいつもこんな調子で地味に百合の乙女心をえぐってくる。
「あの……明日の会議の配布資料の原本です。チェックお願いします。あと、レインボーホームページが更新されて、お知らせがあります。医務室に新しい先生が来ました。栗科梓先生で、内科です」
「へぇ、産業医か。アズサ? エロいねぇ、美人かな、見に行かなくちゃ」
「それで……早速なんですけど、頭痛の相談をメールでしたら、すぐ来るように返信が来たんです。これから行ってきていいですか? あ、旅館の確認はとれてます」
新谷は、むっと口元を歪めた。ずっと頭痛がしていることは直接の上司である新谷には言ってある。報告・連絡・相談のホウレンソウを忘れずにと研修で叩きこまれたからだ。
「あっそ、頭痛かぁ、それなら俺もしょっちゅうの頭痛仲間だけど。産業医にメールしちゃうんだ? ゆとり世代って発想が新しいねぇ。はいはい、どうぞ、勤務時間中だけど行ってきていいよ。過労死するとか労災だとか言われたらたまったもんじゃないからね」
しっしと指で払われて、気持ちがしゅんと落ち込む。意地悪いことを言われそうだから、頭痛のことは同期には伏せているのだが、こんな風に言われるなら、新谷にも言わずに企業外の診療所に行けば良かったのかもしれない。
(ダメ、内緒なんて!)
百合は自分をいましめた。この生真面目さが逆に会社での居心地を悪くしているのかも、なんて思うこともある。お勤めって辛いものだ。
「そんじゃ帰りに、のり買ってきて」
新谷が指でスプレーをかける動作をしながら、こともなげに言う。
スプレーのりは、駅前の文具屋まで行かないと買えない。大雨だけど、傘をさして外に出なければ……。さりげない意地悪にめげそうになる。
新谷が細い目を更にすがめてニヤっと笑った。
(こんなお天気の日に、どうしてのりなのよっ)
頭痛に悩まされるようになってから、天候の崩れも頭痛の原因なのだと知った。
頭痛仲間だというのなら、新谷もわかっているはずなのにとうらめしい。
「はい」
ビルの外に出る用意をするために、バッグを取り上げる。
産業医が医務室にいる時間は短いのだ。早くしなくちゃ、とノースリーブのシャツの上にジャケットを羽織った時に、キュウッとお腹が痛くなった。
(急がないと、仕事のできる時間が大幅に減っちゃう)
ビル内を移動する時に持つ小さなバッグから、出勤用のバッグに保険証の入ったお財布を移し替えて準備をすると、周りのデスクにいる社員に中座の声をかけて部屋を出る。頭痛は、ますます酷くなって心臓の鼓動と同じタイミングで頭の中で痛み物質が閃く。
拍動と痛みの連動に吐き気さえ沸き起こってきた。お腹もジンジンと痛む。
ドアを閉めて廊下に立つと、はぁっという溜息とともに冷や汗が出た。でも、医務室に行けばなんとかなる。
(梓先生、助けてください)
会ったこともない女医の姿を想像して、百合の目に涙が浮かんだ。
頭痛などと言うと、たいてい新谷のように「自分もそうだ」と一緒にされて大ごとには扱ってくれない。テレビのコマーシャルで流れている新型の薬は試したのか? とか、神経が細いんだねと笑われたりする。
百合のメールを読んで、すぐ来るように言ってくれた栗科医師が、唯一の理解者のような気がした。
エレベーターホールは、がらんとしていて人見当たらない。
壁につけられた明り取りのスリットには、相変わらずの雨が叩きつけるように降っているのだが、不思議なことに雲の切れ目から陽が射し始めていた。
眩しさに頭痛が強くなる。チンとエレベーターの到着音がするまで百合は静かに目を閉じていた。
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