【試し読み】悪徳(?)御曹司の極上プロポーズ~100日限定の密約生活~
あらすじ
大手ホテルチェーンの跡取り御曹司の藤堂律と勘違いから100日限定の婚約者になった松永ひより。優しくも強引な藤堂にどんどん惹かれていくが、二人の前にはある障害が立ちはだかって!? ――愛だけじゃない、物語の結末は……?
登場人物
妹を傷つけた男に復讐…のつもりが勘違い。償いのため、律からの100日限定の婚約を受け入れる。
大手ホテルチェーンの跡取り御曹司。積極的でストレートな愛情表現でひよりを翻弄する。
試し読み
第一章 着物と代償の重さ
一歩足を踏み入れただけでまるで別世界と謳われている、都内の一等地にその店を構える老舗高級旅館。
財界の大物や芸能人も足しげく通うその店は、間違っても一般的な社会人四年目の私が簡単に敷居をまたげるような場所ではなかった。
しかし、今私は、着慣れない着物の裾を軽くたくし上げながら、店の入口から続く長い廊下を荒々しい足取りで走っている。
やっぱり、少し無茶だったかな。
そう思うが、間もなく実行しようとしている作戦をおさらいするよりも、頭の中はもうすぐそばまで近づく〝敵〟への怒りに満ち溢れていた。
深く息を吸い込むと、気合を入れるように大きく吐き出す。
「お待ち下さいませ、お客様!」
すぐ後ろからは、こんな緊急事態にも表情だけは平静を保っている和服姿の仲居さんが、鍛えられた摺り足でこちらに迫っていた。
ごめんなさい、と心の中で謝罪しつつも、私の足は【躑躅】という札を見つけてさらに速度を早める。
わかってはいたけど、心の準備をする暇なんてないみたい。一気に行こう!
仲居さんの手に捕らえられる前に、目の前の障子を勢い良く開けた。
中は落ち着いた佇まいの小和室。そこにいた四人全員が、目を剥いてこちらに視線を注ぐ。
手前には着物姿の若い女性と年配の男性が並んで座っていて、その向かいには同じく年配の男性と──。
……藤堂律。
その隣の端整な顔立ちをしたスーツ姿の男性を見つけ、私の心臓が大きく一度波打った。それを悟られないように、その場に正座をしながらにっこりと最大限の作り笑いを浮かべる。
「失礼致します。私は、……律さんとお付き合いをさせていただいております、松永ひよりと申します」
そう告げて、深く一礼した。静寂の中、全部屋から眺めることができるこの料亭自慢の日本庭園にある鹿威しが、頭を下げる音だけが鮮明に流れた。
ぎゅっと目を瞑ると、あの日見た彼女の涙を思い返し、再び胸には険悪な感情が沸き起こる。
人を弄んどいて自分だけ幸せになろうなんて、そんなこと絶対に許さない。今から私が、あなたが自分でやったことを後悔させてやるわ。お見合いなんてさせてたまるもんですか。
床についた指に力を込め、ゆっくりと顔を上げた。眉根を寄せた藤堂律と視線が絡み合う。私は真っ直ぐにその目を見つめた。
「律! これは、いったいどういうことじゃ!」
彼の隣にいた年配の男性が、怒気を込めた声を上げる。肩にかかるほどの長めの白い髪が、怒りで今にも逆立ってしまいそうだ。
少し前までは、まさか自分がこんな大それたことをしでかすなんて思ってもみなかった。でも、この男だけはどうしても許せない。非常識なのは承知の上だ。それでも私は、この方法を選んだ。
約一ヶ月前。この男を知ることになったあの夜のことが頭の中を駆け巡る。
* * *
「お姉ちゃん……」
仕事が立て込みすっかり帰りが遅くなってしまったある日。ひとり暮らしの私のマンションの部屋に、ここから五駅ほど離れた実家に住む大学生の妹が訪ねてきた。
「美礼!? ちょっと、こんな時間にどうしたの?」
夕食とお風呂も済ませ、そろそろベッドに入ろうかと思っている頃だった。間もなく日付も変わろうとしている。よくここを訪ねてくる彼女だったが、こんな時間に、それも連絡もなく突然来ることなんて今までに一度もなかった。
そんな彼女の姿をインターホン越しに確認した私は、慌ててドアを開けて中へと迎え入れた。
「とりあえず上がって。紅茶でも入れるから」
スリッパを置いて、リビングへ向かおうと足を進めた。しかし、後ろを追ってくる気配がなく振り返る。彼女は来た時のまま玄関に突っ立って俯いていた。それは項垂れるように深く、表情は窺えない。
「美礼?」
小首を傾げながらも、引き返した。
「どうしたの? お母さんとケンカでもした?」
顔を上げさせようと彼女の頬に触れると、指先から伝わってくるそのあまりの冷たさに、私は驚いて飛び退くように手を引っ込めた。
慌てて彼女の両肩を掴み、強引に顔を上げさせる。すると、いつも明るく、可愛らしい笑顔を浮かべていたその顔が、今日は真っ青に染まっていた。目も真っ赤に腫れていてひどく痛々しい。
何これ……。
「ちょっと、何があったの!?」
普段とあまりにも様子が違う。胸の中を嫌な汗が流れた。心臓の鼓動が、耳にも届きそうなほど大きくなっていく。
「お姉ちゃん。私、彼氏に捨てられちゃった……」
ようやく口を開いた彼女が、今にも消え入りそうな声で呟いた。
「捨てられた?」
呑み込めず、意図せず復唱する。しかし、やはり頭が理解するよりも先に、全身から血の気が引いていくのを感じた。
五つ違いの姉妹である私たちは幼い頃からとても仲が良く、私がこうして就職して家を出てからも、頻繁に連絡を取り合っては、今日のように家で過ごしたり、買い物など遊びにも出かけたりしていた。
互いになんでも話せるし、きっと両親や友達以上に赤裸々に付き合っていると思う。同い年で幼馴染の真にも、よく『本当にお前たちはシスコンだな』って言われたりしたっけ。それでも、私たちにはその言葉さえどこか誇らしく感じられた。
妹が嫌いよりは、好きな方がずっと良い。昔から『お姉ちゃん』と私の後をついてきた妹が、今でも可愛くて仕方ないのだ。
だから、半年ほど前に恋人ができたことも、もちろん美礼から聞いていた。
相手は日本のホテル業界で三本の指に入る【藤堂ホテルズグループ】の跡取りで、成人したばかりの彼女とは少し年は離れているが、優しく、とても大切にしてくれていて、いつかは結婚をも考えてくれていると。恋人に会うたびに幸せそうに話す彼女を見ていて、私も心から嬉しく思っていたのに。
「律さん、私のことは最初から遊びだったって。もう飽きたから用はない。二度と連絡して来るなって言われちゃった。それから何度電話しても繋がらなくって……」
「何よ、それ……」
激しい憤りが頭の中で渦巻く。それは次第に全身に広まって、怒りで内臓が震えた。しかし、それも一瞬。
「お姉ちゃん」
震えた、弱々しい声がする。
言葉にして改めて実感したのだろう。堰を切ったように泣き出した彼女を見て、私まで泣き出したくなるほどに胸が痛んだ。
「美礼……」
こんなに泣いている姿を見るのは、私たちが小学生の時に、飼っていた犬のポポが死んでしまった時以来かもしれない。それぐらい、彼女はいつも笑っていた。
……こんなになるほど、その人が好きだったんだよね。つい最近話した時には、彼のお気に入りのカフェでランチをしたと、とても楽しそうに話していたのに。どうして……。
いくら考えを巡らせても、私にはその答えを導き出してあげることはできない。それがとても歯痒かった。
「そんな人に、美礼はもったいない」
堪らず、彼女を強く抱き締める。腕の中で何度も震える肩をひたすらに包み込んだ。
「今すぐには無理でも、私も何でも協力するから。一緒に忘れよう。それに悪いことをしたら、必ず自分に返ってくるから。ねっ?」
彼女は泣いているだけで答えなかったけれど、それが何を意味しているかはわかっていた。きっと、色々手を尽くしてみたがどうしようもなくて、もうどうにもならないから、ここへ来たんだ。
その気持ちを思うと、神経が張り裂けそうになる。
……許せない。
悔しさに強く唇を噛みながら、私は彼女が泣き止むまでその冷たくなった背中をさすり続けた。
「妹を弄んだやつを調べるなんて、本気か?」
美礼から話を聞いた数日後。色々と悩んだ私は、仕事が終わってから、探偵事務所に勤めている真を二人の行きつけの居酒屋へと呼び出した。
彼は、ひと通り話してその男、藤堂律の調査を依頼した私を見て苦い笑みを浮かべた。少し経ってから、随分と氷が小さくなってしまったハイボールのグラスをぐっと煽る彼の喉が上下運動するあいだも、私はその様子をただ眺める。
「本気よ。美礼にはそんな人のことは忘れようって言ったけど、このまま泣き寝入りなんてあんまりじゃない。一言ぐらい文句でも言ってやらないと気が済まないわ」
「おいおい、会いに行く気かよ」
「もちろん」
掘りごたつ式のテーブルに両手をついて前のめりになると、彼はその剣幕に驚いたのか、少し垂れた二重の目を大きく見開いた。その目に念を送るかの如く見据える。そして、しばらくの見つめ合いの後、短めの髪をぐしゃりと掻いた彼が観念したように大きく息を吐いた。
「相手はあの藤堂ホテルズグループの跡取りだって? とりあえずどんな人間か調べてはやるけど、危ないことする気なら教えないからな。お前、えらい目に遭うぞ」
残っていたわずかなハイボールを一気に流し込んだ彼は、グラスを強めにテーブルに置く。
「だって、諦めようとしたけどどうしても悔しくて。藤堂ホテルズグループの跡取りなら注目されてメディアなんかにも顔が出ていると思ったのに、藤堂律は昔から取材すら一切受けてないみたいで。もう、真に頼るしかないの」
「おい、顔を調べて何するつもりだったんだよ。怖いな」
「それでも、引き受けてくれてありがとう、真」
困ったように笑うと、彼は「本当にお前は……」と呆れたように大袈裟にため息をついた。
実家が隣同士で、生まれてからずっと近くにいた彼は、私が言い出したら聞かない性格だということをきっと嫌というほどよく知っている。やめておけと言いつつも、結局いつも私の無理難題を聞いてくれる彼には心から感謝していた。
お詫びに、今度真が欲しがっていた少し高級なフットバスでもプレゼントしよう。
これが、藤堂律。
後日、真から貰った調査報告書に添付されていた数枚の写真で、ようやくその顔を拝んだ。涼しげな切れ長の目に、鼻梁の高い鼻。無造作に整えられた黒髪と口元にある小さなほくろが、どこかクールな印象を与えている。
恐らく会社から出てきたところを撮影した何気ない写真のはずなのに、その様はまるでモデルみたいだ。この見た目に騙されて、色々な女の子が被害に遭ったのね。
怒りの感情を閉じ込めるフタがすっかり緩んでしまっている私には、この男の写真にすらセンサーが反応してしまう。
書類を持つ手に、思わず力が入った。
そこには、調査の結果が色々と連ねられていた。藤堂律、年齢は三十歳。身長は百八十五センチで、体重は七十三キロ。国内の名門大学在学中に経営学を学ぶため三ヵ国に留学。など、彼の詳細なプロフィールや、現在はグループの専務取締役を務めていること。聞き込みの結果、他にも彼に捨てられたと証言している女性が複数人いたこともわかった。それだけでも十分すぎるほど腹立たしいが、報告書に目を通していた私は、ある項目を見て愕然とした。
「……お、お見合い?」
そこには、彼が近々、大手飲料メーカーの社長令嬢とお見合いを行う予定がある旨が記載されていた。
あの夜以上の怒りが、全身を燃え上がらせる。
散々女遊びをしておいて、自分はさっさとお見合い? そんなこと、許せるわけがない!
私はそのお見合いを壊すべく、藤堂律の恋人のフリをして乗り込むことを決めたのだ。
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