【試し読み】1101号室の宿敵~俺様デザイナーは、強気な隣人を独り占めして愛したい~
あらすじ
大手アパレルメーカーの営業・鮎川雪は、引っ越し早々お隣『1101号室』から毎夜漏れ聞こえる甘ーい声に大迷惑!そんなある朝、隣の部屋から出てきたのは驚くほど顔立ちの整った男性だった。けれど第一印象は最悪!絶対に関わりたくない!と思っていた雪だったが……お気に入りのBARでバッタリ再会!?おまけに彼は〝因縁の相手〟だったようで?――「あんたには絶対負けないから!」「上等だ。かかってこいよ」俺様デザイナーと純な強気OLの隣人関係から始まる宿敵ラブ!ライバルなハズなのに仕事と恋に揺れる雪。なぜなら、俺様隣人の溺愛執着が強すぎる!話題のweb小説を電子書籍化。《書き下ろし番外編 ふたりのこれから》収録!
登場人物
大手アパレルメーカーの敏腕営業ウーマン。快適な新居生活が隣室から漏れ聞こえる声のせいで台無しに…
世界的ファッションデザイナー。容姿端麗でセンスも良いが、厳しい物言いをする俺様男子。
試し読み
第一章
平和は長く続かなかった。
そんな冒頭から始まるSF映画をご存じだろうか。第一章でめでたくハッピーエンドを迎えたかと思えば、続編では第一章を越える波乱が主人公に待ち受けているのだ。
そして私の平和もまた、長くは続かなかった。
快適な新居生活はわずか数時間で終わりを告げてしまい、第二章の幕は切って落とされた。隣の部屋から響き渡る声によって。
──ぁ、あっ、あんっ!
隣人戦争勃発。ようやく騒音マンションから逃げられたかと思えば、私の騒音問題は一切解決などしていなかった。
東京都港区、賃貸、最上階、一一〇二号室。
ワンフロアに二部屋しかないため全室角部屋の優良物件。家賃は決して安いとはいえないが、七万円まで会社が負担してくれるのだ。
賃貸マンションの壁が薄いことなど百も承知だ。今朝まで住んでいたマンションで嫌というほど身に沁みている。住人の入れ替わりが激しい賃貸では、防音性よりも内装やセキュリティが優先される傾向にある。特に単身者用の1Kなんて、いくらコンクリート構造だといっても壁一枚ということには変わりない。だがエリア、階数、家賃相場から考えてさすがに変な住人はいないだろうと踏んでいた。
騒音問題に悩まされて引っ越してきたというのに、またこれでは意味がない。同棲しているのか、相手が泊まりに来ているのかは定かではないが、どうか今夜だけであってほしいと願って布団を頭まで被った。
だが、次の日の夜。
儚い願いは塵となり、今夜もまた女性の甘い声が壁越しに響き渡る。しかも明らかに昨日とは別の女性の声だった。
──もしかして浮気してる?
とんでもない男の隣に引っ越してきてしまった。昔から運がないと言われてきたが、まさかここまで引きが悪いとは思いもしなかった。
再び引っ越しの文字が頭に浮かぶが、引っ越し費用も馬鹿にならない。しかもこの立地、部屋、環境は最高の条件だ。易々と手放したくない。
どうしたものかと天井を見上げている間に、静かになったのは深夜二時。控えめに隣の部屋の扉が開いて、ハイヒールで廊下を踏み鳴らす足音が通り過ぎていく。女性が出て行ったのだろう。
幸先のよくないスタートにため息をついて、瞼をおろした。
寝たのか寝ていないのか分からないまま、いつもと同じ時間に目が覚めた。
引っ越しに伴い朝の時間には余裕があったが、なにせ十分な睡眠時間を取れなかったおかげで身体が重い。
切れ長の大きな瞳が鏡に映る。背中にかかった茶髪の毛先を外向きに巻いて、最後に赤色のルージュを唇に引いた。頭が覚醒しないまま身支度を整え、新調したばかりのパンプスに足を伸ばした。
部屋を出て鍵を閉めると、自然と隣人の部屋に視線が向く。
一一〇一号室。一体どんな男なのだろうか。おそらく隣に響いている自覚はないはずだが、これ以上エスカレートするようなら何か策を練らなければならない。今夜だって安眠できる保障はないのだ。
だが男女の営みは騒音と呼ぶには微妙なラインで、管理会社に報告しても精々エントランスへの張り紙程度だろう。それに騒音トラブルはひどい時はニュースにもなる。相手の素性が分からない以上、下手に手を出すこともできない。
──これからどうしようか。
ため息をついたそのときだった。隣の扉が開いて長い足が視界に飛び込んできた。
「あ……」
隣の部屋から出てきたのは、目を見張るほどきれいな顔をした男だった。
頬にかかる両サイドの黒髪がそよそよと風に揺れる。前髪の隙間からのぞく鋭く切れ長の瞳、高い鼻柱に薄い唇。顔は小さく長い手足がすらりと伸びていて、ただ立っているだけで絵になる存在だ。
胸元が開いた黒のワイシャツにグレーのスーツを合わせ、足下はブラウンの革靴でしっかり引き締められている。それがまた完璧なほど似合っていた。
眉目秀麗、そんな言葉がぴったりだ。歳はおそらく二十代後半ぐらいだろう。不本意ながら毎晩夜の相手が変わるのも頷けてしまい、黙って歩いているだけで女性から寄ってくるに違いない。
「おはよう……ございます……」
声を絞り出して軽く会釈すると目が合った。
男性は唇を閉じたまま何も言わない。まさか心の内を読まれて、迷惑していることが伝わったのかもしれないと身体が強張る。反応に困って視線を泳がせていると、ようやく男性が薄く口を開いた。
「……誰だ」
寝起きのようなひどく不機嫌な声だった。爽やかな快晴を一瞬にして大嵐にしてしまいそうなほどの空気が漂う。
「一昨日引っ越してきました鮎川雪と申します。よろしくお願いします」
「……ああ」
──え、それだけ?
特に反応もないまま男性が足早に目の前を通り過ぎていく。こちらには名乗らせておいて自分は名乗らないとはどういうことだ。
エレベーターが到着して男性が乗った。この空気のまま一緒に乗り込む勇気もなく、忘れ物をしたふりでもして鞄から部屋の鍵を取り出す。幸いまだ出勤時間には余裕がある。再びエレベーターを待つのは非常に面倒だが、この男性と乗り合わすことを考えた方が恐ろしかった。
「おい。乗らねえのか」
威圧的な上にタメ口だ。おそるおそる視線を向けると、苛立った様子でこちらを睨む男性と目が合った。
「忘れ物したのでお先にどうぞ……」
最低限の常識も知らないのかと怒鳴りたかったが、ぎこちない笑顔を作るのが精一杯だった。男性はしばらく無言でこちらを見つめた後、ようやくエレベーターの扉を閉じた。
──怖い。怖すぎる。
絶対に仲良くなれない。あれはヤクザの若頭か借金取りあたりかもしれない。どちらにしても一般的な職業ではなさそうだ。
いろんな意味で恐ろしい男の隣に引っ越してきてしまった。ただでさえワンフロアに二部屋しかないというのに、管理会社に報告などしたらすぐに特定されてしまうだろう。
直接伝える度胸なんてあるはずもなく八方塞がりだ。今夜もまた別の女性を連れ込むかもしれない。顔がよければ全て許されるわけではない。あんな男に一瞬でも見惚れてしまった自分が悔しくて左右に首を振る。
しかし妙だ。初対面のはずなのにどこか見覚えがあった。もしかするとファッション雑誌か何かでモデルでもしているのかもしれない。
仕事上、機会があれば名前を聞いてみたいものだが、それよりも関わりたくないという気持ちの方が大きくなっていく。
ようやくエレベーターがあがってくると、うなだれながら一階のボタンを押した。
東京都港区。
赤坂、六本木、青山などをはじめとし、大手企業が本社を構える日本屈指のオフィス街。日本企業だけでなく外資系企業や大使館なども所在している経済の中心地だ。
青山のオフィスビル三十二階に本社を構える大手アパレルメーカー、株式会社セントラルヴィラ。
高級既製服は七つのブランドラインがあり、全国の百貨店を中心に海外店舗を含め幅広く展開している。主な客層は二十代後半から四十代の働く女性で、オフィスでもプライベートでも着こなせる上品でカジュアルなデザインだ。特に当社の中でも飛び抜けて人気のブランド〝アンティルレイ〟は五年前に人気モデルを起用してから、爆発的な支持を得ている。
「おはよう雪。どうしたの顔死んでるじゃん」
「気にしないで……」
朝から鋭い突っ込みに一気に疲労が舞い戻る。
彼女は岡村沙亜矢。私と同じく営業職の良き同僚である。彼女の方が一年先輩だが、気さくな人柄と入社年度が同じということもありすぐに打ち解けた。
パソコンを立ち上げて椅子に腰かけると力が抜けていく。通勤時間はだいぶ短縮されたが、隣人があれでは意味がない。
「次の展示会のフロアマップ出てるよ」
「ほんと? 見せて」
椅子を引いて沙亜矢のパソコンを覗いた。次の秋冬コレクションの合同展示会で、日本中のブランドが新作を引っ提げて集う。営業にとって展示会は非常に重要な仕事であり、新規開拓やブランドの宣伝など勝負の場である。
「隣のブース、トップレンじゃん……」
引っ越してきてから不運は重なるばかりだ。
弊社と同じ高級既製服ブランド──トップレン。ファッションデザイナー東條晃の息子、東條蓮が手がける超人気ブランドだ。
父の才能を引き継いだ東條蓮は、わずか十九歳で自身のブランド株式会社Top Renを立ち上げた。
その四ヶ月後、フランスのファッションコンテストでデビューしグランプリを受賞。二年後にはパリ・コレクションに進出。白と黒を基調とした斬新なモード系ファッションを大流行させ、瞬く間にファッションデザイナーの栄光を手にした男である。
その後、海外店舗はもちろん日本では百貨店、路面店を中心に展開。昨年は銀座にオーダーメイド店をオープン。そのほか有名セレブ校の制服デザインやハリウッド映画の衣装を手がけている。
「まさか展示会まで隣になるとはねえ。雪の宿敵」
そう──トップレンは私が担当している日本橋エリアの隣店舗でもあった。
昨年、トップレンが隣にテナントを構えてから売上一位だったアンティルレイは二番手に落ち、バイヤーからもトップレンと場所を入れ替えたいと匂わされ、食い止めているところだ。
考えるだけでも頭が痛い。まさか百貨店だけでなく展示会でまで隣になるなんて悩みの種が二倍になっただけだ。
「東條蓮って昔すっごいイケメンだったでしょ。今どうなってるんだろ」
「さあ……顔も見たくないしどうでもいい」
デビュー当時はよく顔出ししていたが、忙しさのあまり二十代になってからメディアやテレビ、展示会に顔を出すことはなくなった。噂では父親でありデザイナーの東條晃と揉めている、女癖が悪く遊び回っている、大人になって不細工になったなど様々な憶測が飛び交っているが、それがまたミステリアスだと熱烈な女性ファンも多いようだ。
「新規開拓はお手のもの! 鮎川伝説更新よろしくね!」
「やめてその変なジンクス。トップレンのせいで絶たれたから」
先日のファッションビルの新規契約もトップレンに一等地を奪われ、部長から散々怒られたことを思い出す。
先方から〝時代はカジュアルから個性派へ〟と切り出され、あとはトップレンの独走状態だった。
このままでは百貨店の一等地さえ奪われかねない。トップレンよりも仕事を取って、百貨店の売上も奪還。そしてあの一等地も譲らない。むしろトップレンを撤退させるぐらいの勢いで挑んでやる。
時計の針が九時を指し、全体朝礼が始まった。
こうして私の第二章は幕を開けたのである。
ひとり、またひとりと退勤していく中、オフィスを出たのは二十二時頃だった。
帰りの電車に揺られながら展示会の計画を練っていると、危うく乗り過ごしそうになり慌てて電車を降りた。慣れない駅で降りるのは新鮮で、遠い場所に来たような感覚だった。
夜もすっかり深みを増していたが、それなりに駅前は明るい。一本路地を入れば個人経営の小さな飲食店や住宅街が広がっている。
せっかく引っ越してきたのだ。どうせ帰っても隣人に悩まされるだけだと思い、散策しながら帰るのもいいかもしれない。駅から自宅までそう離れてはいないが、路地に一本入るだけでも探検になるだろう。
大学を卒業してから六年。
月日の流れとは恐ろしいもので、ついこの間まで学生だったのに気づけば三十代へのカウントダウンが始まっている。私が入社した当時はサービス残業は当たり前、週休二日なんて夢のまた夢の話で、十五連勤もあった。同期の半分は一年目で転職し、異業種に進む人も少なくはなかった。今にして思えば、よくあんな過酷な環境で文句ひとつ言わずやってこられたなと乾いた笑いが漏れる。
ふと、月明かりに混じってライトに照らされる看板が見えた。BARだろうか。オレンジ色の淡い光を放つ小さなお店を発見し、看板に視線を落とす。店内が見えず入りづらさはあったが、思い切って木製の扉を開いた。
「いらっしゃいませ、カウンターへどうぞ」
愛想の良い男性マスターがにこりと微笑みかけてくれる。
店内は薄暗く、他にお客さんはいなかった。カウンター席だけの小さなバーで、ジャズ音楽が控えめに流れて落ち着きのある雰囲気だ。
「来ていただくのは初めてですよね。何にしましょうか」
「おすすめのブランデーがあればお願いします。ストレートで」
マスターが穏やかな口調で分かりましたと言って私に背を向けた。歳は少し上だろうか。ポニーテールで束ねられた白銀の髪がさらりと揺れる。ここまで脱色していたら少しは近寄り難い雰囲気が出るものだが、そんな様子は一切なく物腰の柔らかいマスターだった。
「これにしようかな」
マスターが一本のボトルに手を伸ばし、グラスをカウンターに置いた。慣れた手つきで注いで、どうぞと言って差し出してくれた。
「美味しいです。甘くて口触りがいいですね」
「良かった~! これ俺もお気に入りなんですよ」
少年のように無邪気に笑うマスターにつられて口元が綻ぶ。生チョコレートとチーズを頂くと、自然とお酒を飲むペースも速くなった。
──当たりのお店だ。
最寄り駅と自宅の間にあり、落ち着いた雰囲気と気さくなマスター。確か表の看板には深夜二時まで営業とあったはずだから残業で遅くなった日でも通える。
これはリピート決定だ。引っ越し三日目にしてようやく安息の場所を見つけられたような気がしてほっと息をつく。
「お名前聞いてもいい? 俺は千流って呼んで」
気さくな口調なのに嫌味がない。今朝同じことを聞いてきた隣人とは雲泥の差だ。
「鮎川雪です。よろしくお願いします」
「雪ちゃんね、ありがと。仕事帰り?」
「はい。さっき終わったところで」
「こんな遅くまでお疲れさま。顔色悪いけど大丈夫?」
初対面の千流さんにさえ見抜かれてしまい苦笑を漏らす。
確実に隣人問題と展示会のトップレンのせいだ。思い出すだけでまた身体が重くなってしまう。
「一昨日引っ越してきたんです。まだ環境の変化に慣れなくて」
「そっかあ。仕事の都合?」
「いえ、隣の部屋の騒音がひどくて引っ越してきたのですが……また似たような感じで」
「賃貸マンションは壁薄いっていうからねえ。ほんと運だよね」
帰宅した後のことを考えるとため息が漏れた。また女性を連れ込んで情事に及んでいるのだろうか。週に一回ぐらいなら我慢できるがさすがに毎日になると堪えてしまう。
「まだ引っ越して三日目なので、しばらく続くようなら対策を考えようかと……」
とはいえ名案があるわけでもなく途方に暮れるばかりだ。
千流さんが考えるように首を傾げた直後、ちりんと店の鈴が鳴って新しいお客さんが入ってきた。
「蓮、お疲れさま」
常連さんだろうか。千流さんの視線を追いかけて顔をあげる。するとそこに立っていた男に目を見開いた。
「げっ……」
まさに悩みの張本人である隣人の男だった。
──なんでここに!?
一瞬、目が合ってしまった。すぐに視線を逸らして左手を頬に添えて顔を隠す。
「蓮、その手に持ってるのってもしかしてアレ!? 手に入ったの!?」
「ったく人使いが荒いんだよテメェは」
男が気怠そうに紙袋を手渡した。形からしてお酒のボトルだろう。興奮する千流さんがわしゃわしゃと男の髪を撫でると、男は手を振り払って一歩後ろに下がった。
「いやあ感謝してる! すっごくしてるよ! なかなか日本じゃ手に入らない代物だからね」
「一杯飲ませろ」
「待ってすぐ開けるね~。雪ちゃん強めのウイスキー大丈夫かな?」
「はい……大丈夫ですけど……」
嬉しそうな千流さんとは反対に、こちらは居た堪れなくて顔を持ち上げられない。男はひとつ離れたカウンター席に腰掛けじっと私を見つめていた。気づかないふりをして手元のグラスを傾ける。
「あ、そうだ。雪ちゃん最近引っ越してきたんだけどお隣さんの声が響いて大変らしくてさー。蓮も一緒に対策考えてよ」
軽やかな千流さんの声にむせ返りそうになってしまった。悪気は一切ないのだろうが、まさに原因の張本人がこの男なのだ。しかも今朝ばったり出くわしたばかりだ。私が隣人であることに気づいていないわけがない。
「おい」
えらく不機嫌な声だった。明らかに私に向けて声をかけられている。
無視するわけにもいかず、ゆっくりと顔を持ち上げる。
「は、はい……」
どうして知りもしない相手にこんなに怯えてしまうのだろう。目も合わせられず、なんとも情けない声が漏れた。
「費用は出してやる。引っ越せ」
男は涼しげな表情のまま、さも当然のようにそう言った。
「……はあ!? ふざけないで!」
発せられた言葉に驚愕して声を荒げる。信じられない。世の中はなんでも自分の思い通りに動くとでも思っているのだろうか。絶対に相容れない男にめらめらと反抗心が芽生え、思わず席から立ち上がり男を見下ろした。
「私の引っ越し費用出す余裕があるならそっちが引っ越してください。それに昨日も一昨日も別の女性ですよね? 浮気してるんですよね!?」
「特定の女なんているかよ」
「最低! クズ!」
予想の斜め上をいく最低な男だった。なぜこんな男のために私が出て行かなければならないのかと増々苛立ちが込み上げてくる。立地も環境も何もかも理想。邪魔なのはこの男だけなのだ。
「雪ちゃんの隣人って蓮だったの? あははすごい偶然~!」
脳天気な千流さんの笑い声が響く。全然笑いごとじゃない。おかげでこっちは安息を得ることができず眠れぬ夜が続いているのだ。
「まあまあこれでも飲んでお隣さん同士仲良くしなよ。四十年物の超プレミアだからさ!」
千流さんが宥めるようにグラスを差し出す。お酒にも千流さんにも罪はないが、いくらプレミアとはいえこの男が用意したボトルだと思うと飲む気も失せてしまう。
「ふたりとも早くグラス持って」
しかし気づけば千流さんのペースに飲み込まれてしまい、仕方なく席に座り直した。
グラスを傾けて口をつけると、ゆっくりと喉に流し込んでいく。
「……美味しい」
ふわっと芳醇な香りが広がり、濃密で深みのある味わいだった。力強く重厚な余韻に誘われて抜け出せない。さすがは年代物、今まで飲んだウイスキーの中でも一番かもしれない。
「ね、美味しいでしょ。ケンカはやめて仲良くしよーね」
カウンターに肘をつきながら、千流さんがにこにこと笑う。すっかり毒気も抜かれてしまい、すとんと肩の力を抜いた。
千流さんの言う通りだ。ここは大人の態度でなんとか和解を申し出るしかない。こんな男を相手にムキになっている自分もまだまだ子どもだ。表面上だけ取り繕っておいてあとは一切関わりを持たなければいい。
「女性を連れ込むのは勝手ですけど、もう少し静かにしてもらえたら助かります。私も人を呼ぶ際は十分に気をつけますので」
「なんだ。連れ込む男でもいるのかよ」
馬鹿にするように口角を持ち上げる男に、眉をぴくりと動かす。
だめだ。挑発に乗ってはいけない。千流さんの前でもあるし店の営業を妨害するわけにはいかない。
「生憎そのような相手はおりませんが、友人を呼ぶこともあるかと思いますから」
ここは得意の営業スマイルで切り抜ける。これで快適な新居生活が送れるなら安いものだ。
「雪ちゃん彼氏いないの!? なんで!?」
なんでと言われてもいないものはいないとしか言いようがない。そもそも昔から仕事が第一優先であまり興味がないというのが本音だった。それにアパレルメーカーということもあって社内は女性社員が大半を占めている。出会いもありはしない。
「あまりご縁がなかったもので……それに今は仕事が楽しいですし」
「そうやって仕事を理由にしてる女ほど行き遅れるぞ」
隣で挑発を続ける男に今度ばかりはカチンときてグラスをカウンターに叩きつけた。
再び席から立ち上がって男の目の前に迫り睨みつける。
「仕事が好きな女は行き遅れるって、それのなにが悪いの? 私は好きで仕事をしているし今すぐ結婚したいわけじゃない。世の中の女の幸せが結婚だけだなんて思わないで! 考えが古いのよ!」
気づいた時には遅かった。
しんと静まりかえった店内には軽快なジャズ音楽だけが響く。
──やってしまった。
後にも引けず逃げることさえできない。これはもう明日からこの店に来ることもできないだろうと冷や汗が伝う。カウンター越しに千流さんが必死に笑い声を堪えていた。いっそのこと大声をあげて笑ってくれたほうがマシだった。どうにかこの空気をなんとかしてほしい。
「っ……古いって、……蓮に古いってっ……あっはっはっは!」
我慢できなくなった千流さんがカウンターをばんばん叩きながら大笑いする。確かにいっそのこと笑ってほしいとは思ったが、これでは火に油を注ぐようなものだった。
「と、とにかく! 私は女にうつつを抜かすあんたとは違うから。女に時間を割く暇があるなら現実を見なさいよ」
自分の口から飛び出す言葉に、いい加減誰か止めてくれと焦りが込み上げてくる。
男は何も言わなかった。ただひどく不機嫌な表情で席に座ったまま私を見上げる。ここで視線を逸らしたら負けだ。弱肉強食の世界。どちらが引っ越しするかの生存戦略がこの場にかかっている。
「雪ちゃんってなんの仕事してるの?」
しかしこんな状況でもマイペースな千流さんに力を奪われてしまい、張りつめた緊張感は一瞬にして解けた。
「アパレルメーカーの営業です。有名なブランドだとアンティルレイを扱っています」
「アパレル?」
その言葉に先に反応したのは、男の方だった。
「へえ~! アンティルレイってよく聞くよ。百貨店とかに入ってるよね」
なぜだろうか。アンティルレイというブランドを伝えてから、また千流さんが笑いを堪えている。先ほどの思い出し笑いでもしているのだろうか。
「名刺ちょうだい。うちに小売りのお客さん来たら紹介するからさ」
「ありがとうございます。すごく助かります」
鞄から名刺ケースを取り出して千流さんに手渡す。バーや飲み屋で仲良くなるとこんな時に取り計らってもらえるから非常にありがたい。
「俺にも寄越せ」
「申し訳ありません。今のが最後の一枚でした」
本当は十分な数が残っているが、馴れ馴れしく大柄な態度が頭にきて名刺ケースを鞄に戻した。毒気を抜かれてしまい席に座ってウイスキーを一気に飲み干す。どうせこの男は今日も別の女性を連れ込む予定なのだろう。それなら先に帰ってさっさと寝るに限る。
「千流さん、チェックお願いします」
「もう帰っちゃうの? せっかく楽しくなってきたのに」
「また伺わせていただきます。今度ゆっくりお話してください」
──隣の男がいないときに。
会計を済ませて千流さんに見送られながら店を出た。帰ったらバスルームに一直線して今日は寝る。そう固く決心して足早に自宅へと向かった。
※この続きは製品版でお楽しみください。