【試し読み】運命の恋は再会のあとに~王女殿下の家庭教師と永遠の誓いを希う~

作家:佐倉紫
イラスト:なおやみか
レーベル:夢中文庫プランセ
発売日:2020/3/17
販売価格:900円
あらすじ

子爵令嬢アグネスは年頃を過ぎても嫁がず、孤児院で子供たちの面倒をみている。実は彼女には昔からずっと忘れられない相手がいた。本当の名前も知らないし二度と会えないだろうけれど、その彼以外との恋愛……結婚などは考えられず、このまま子どもたちの世話をして過ごしていければいいと思っていた。そんなアグネスのもとに王城から使いが突然訪れ「王女殿下の家庭教師」として召し上げられることに。なぜ自分が……?と疑問と不安でいっぱいのアグネス。しかし登城してみれば想い続けていた彼と思わぬかたちで再会する。一筋縄ではいかない王女殿下の教育に二人は奮闘。そして離れられないほど惹かれてしまう恋も動き始めて──

登場人物
アグネス
孤児院で子供たちの面倒をみていたが、王女殿下の家庭教師として召し上げられることに。
アレクシス
美しい緑の瞳を持つ凛々しい美丈夫。家庭教師として召し上げられたアグネスと再会する。
試し読み

第一章 王城での再会

 王国の南に位置するグレイティス侯爵領の一角には、今日も子供たちの楽しげな声が響いていた。
「アグネス先生ー! 早く早く!」
「置いて行っちゃうわよ~!」
 先を行く子供たちがぴょんぴょん跳びはねながら、時折うしろを振り返っては手招きする。
 彼らのあとについて、ゆったり歩いていたアグネス・フィローンは、風に舞い上がる豊かな焦げ茶色の髪を押さえて、にっこり微笑んだ。
「大丈夫よ、ちゃんとついて行っているから。あなたたちこそ、前を見て歩かないと転んでしまうわよ」
「そんなへまなんかしないよ! ……あっ!」
 言っている端から、丘を駆け下りていた小さい男の子がこてんと顔から転んでしまう。
 なにが起きたかわからず呆然としていたのも束の間、男の子は顔をくしゃくしゃにして、大声を上げて泣き始めた。
「あらまあ大変」
 スカートの裾を持ち急ぎ駆けつけたアグネスは、泣きじゃくる男の子を抱え上げると、顔についた泥をぱっぱっと払った。
「大丈夫よ。草の上で転んだから大きな怪我はないわ。ここはちょっと擦り切れているわね。泉の水で洗いましょうね」
 近くを走っていた子供が何人か戻ってきて、心配そうに男の子をのぞき込んでいた。
「マルコ、大丈夫?」
「アグネス先生、おれがマルコをおぶっていくよ」
「ありがとう、トーマス。お願いするわ」
 すかさず近寄ってきた年長の少年が、すっと腰を落として手をうしろに回す。アグネスはぐずぐず泣く男の子を少年に背負わせ、ほかの子供たちと一緒にゆっくり丘を下った。
 彼らが歩く丘を下った先には、そこそこ広い泉がある。木々も植わっているそこは、子供たちが暮らす孤児院から歩いて十分のところにあって、日差しが強くなってきたこの時期の格好の遊び場なのだ。
 そのため、みんな我先にと走っていき、三日に一度は誰かが丘の途中で転んで、みぃみぃ泣くのが日課となってしまっている。
 子供たちも慣れたもので、彼らは泉に着くとすぐに男の子の泥で汚れた服を脱がせて、怪我がないか丹念に調べた。先についた者は泉の水を汲んできて、タオルで男の子の顔を拭いてやっている。
 そのあいだにアグネスは消毒液をガーゼに浸し、包帯を用意した。落ち着いてきた男の子を、慣れた手つきで手当てする。
「さぁ、これでいいわ。次からは気をつけましょうね。──じゃあみんな、泉に入って遊んでいいわよ。ただし、わたしから見える位置で遊ぶこと。いいわね?」
「はーい!」
 子供たちは待っていましたとばかりに、服を脱ぎ捨てて泉に入っていく。
 十歳を超えた子は裸になるのが恥ずかしいらしく、せいぜい足を浸すくらいだが、それでも充分気持ちいいようだ。そういう子は率先して小さい子の見守りをしてくれる。
 アグネスも油断なく目を光らせながらも、汚れた服を手早く洗って、近くの木の枝に引っかけた。
「はあ~あ。こうしてのんびりできるのも今月までかぁ」
 と、近くの岩場から盛大なため息と愚痴が聞こえてきた。振り返ると、そこには今年十四歳になった少女が座っていて、足先で水面を蹴りながら浮かない顔をしている。
「ラーラ、どうしたの? そんなに難しい顔をして」
「わたし来月になったら、お貴族様の養子に入るじゃない? それが今から憂鬱で」
 唇を尖らせても愛らしさを損なわないラーラは、孤児院の子供たちの中でもとびきりの美少女だ。その甲斐あって、去年視察に訪れたある貴族の目に留まって、養子になることが決定した。来月には引き取られる家に入り、淑女教育が始まるとのことだ。
「養子縁組が決まったときは大喜びしていたのに。『わたしの美貌がとうとう世に出るときがきたわ!』って、すごく意気込んでいたじゃない」
 アグネスが苦笑交じりにたしなめると、「それはそうだけどぉ」と、ラーラはもっといじけた顔になった。
「貴族の淑女教育ってすっごく大変らしいじゃない? 眼鏡をかけたいかにも厳しそうな女教師が、鞭を片手にずっと張りついているって。そうやって見張られた状態で頭に本を載せられて、大広間の端から端まで一日中歩かされるって聞くわ。どんな地獄よ……!」
 青い顔で頬に手をやるラーラに、アグネスはつい小さく噴き出してしまった。
「ラーラったら、いったいどこからそんな情報を得るのかしら。──確かにそういうお宅もあるかもしれないけれど、貴族と言っても色々よ。あなたを引き取る男爵様は去年叙爵されたばかりで、もとは商人と聞いているから、さほど厳しい教育はしないのではないかしら。純粋にあなたが可愛いと思ったから、手元に置きたいとお申し出くださったのよ」
「そうなのかなぁ……。まあ、でも、貴族って言っても、アグネス先生みたいな変わったお嬢様もいるから、そうなのかもしれないわね」
 けろっと言ってくるラーラに、アグネスは「『変わった』はよけいよ」と声を低くする。
 しかしラーラは譲らない。
「変わっているわよ。普通、貴族のお嬢様って十代のうちに結婚するものでしょう? なのにアグネス先生は二十歳になっても縁談の一つもこないで、くる日もくる日も孤児院の子供たちの面倒を見てる。なんて言うか、行かず後家まっしぐらよね~」
「余計なお世話です。行かず後家なんて言葉も、いったいどこで覚えたのやら」
 悩ましげにこめかみを押さえるアグネスに対し、ラーラは「みんな言っているわよ」と容赦ない。
「特に先生の乳母のミリアムさんとか。『ああっ、このままアグネスお嬢様が縁談どころか、恋の一つも知らないまま、孤児たちと生涯をともにすることになったらどうしましょう』って、盛大に嘆いていたわよ」
「まぁ、ミリアムったら……」
 心配性の乳母を思い出し、今度はアグネスがため息をついた。
「ね、ね、ミリアムさんの言葉じゃないけど、アグネス先生って誰かに恋をしたこととかないの? ずーっと孤児院でわたしたちの世話をしていて、こんな生活いやだー! とかって思ったりしないの?」
「な、なにをいきなり、藪から棒に」
 ぐっと迫ってくるラーラにたじろぎながらも、アグネスはこほんと一つ咳払いして背筋を伸ばした。
「わたしにだって、恋をした経験くらいあります。伊達にあなたより長く生きているわけではありません」
「ええぇええー!? そうなの!? 誰っ、相手はいったいどこの誰なのっ?」
「教えないわ。教えたところで、どこの誰かあなたにはわからないでしょう」
「え~? それって強がっているだけじゃない? 本当は恋したことなんかなくて、適当にはぐらかそうとしているでしょう?」
 途端に疑わしげな顔つきになったラーラに、アグネスは「失敬な」と眉を吊り上げた。
「……でもね、どこの誰だかわからないのは、わたしも同じ。わたしが恋をしたあのひとは、どこで暮らしていたかも、どこへ行くのかも言わずに、わたしの前から去って行ってしまったから」
「……え、え? うそ、本当の話だったの? 作り話じゃなく? いったい先生が恋したそのひとって何者──」
 そのときだ、丘のほうから「お嬢様ああああー!」と、遠くからでもよく聞こえる呼び声が響いてきた。
 振り返ってみれば……噂をすればなんとやら。アグネスの乳母であるミリアムが、息せき切って丘を駆け下りてくるところだ。
 遊んでいた子供たちもミリアムの姿に気づいて、なんだなんだと泉から上がってくる。
「おじょ、お嬢さま、大変でございます……っ! げほ、ぅげほっ」
「まあミリアムったら。あなた、走ると膝が痛くなるってしょっちゅう言っているのに、丘を駆け下りてくるなんて」
 今にも倒れ込みそうな乳母に駆け寄って、アグネスは目を丸くする。
 ぜいぜい喘ぎつつ汗を拭ったミリアムは、アグネスの軽口にも応じずに「大変でございます……!」と繰り返した。
「いったいなにがあったというの?」
「そ、それが、ななな、なんと、王様のお城から、使いの方が見えているんです!」
「……王城から使い?」
 目をぱちくりさせて聞き返すアグネスに、ミリアムは大変なことが起きたとばかりに、重々しく頷いた。
「その通りです。なんでも王様は、お嬢様をお城に召し上げたいご様子で……! とにかく、お屋敷で使者がお待ちですので。すぐにお戻りになってください!」
 鬼気迫る乳母の言葉にも表情にも気圧されつつも、アグネスは「どうしてわたしを王城に?」と戸惑いを隠せない。
 子供たちもただならぬことが起きていることに感づいたのだろう。なにがあったの? と不安そうに寄り添ってきた。
 とにかく、本当に王城から使者がきているなら大変なことだ。アグネスは子供たちをミリアムに任せて、スカートの裾を掴むと丘を一気に駆け上がった。

 王国の南に位置するグレイティス侯爵領は、肥沃な大地と気候に恵まれた温暖な地域で、毎年多くの作物が取れることで有名だった。
 南の隣国へ通じる大きな街道も通っているので、街には商人も多く行き交っている。
 その中でも比較的中規模の街レニエから、少し外れたところ──そこに建つ三階建ての屋敷が、アグネスとその父、フィローン子爵が暮らす家だった。
 領地を持たない子爵の家としては大きいほうだと言われるが、それもそのはず、もともとこの屋敷はグレイティス侯爵家が代々所有する別邸なのだ。一時期は侯爵家の人々が暮らしていた建物であり、それなりに歴史もある。
 そして、アグネスの父フィローン子爵は、グレイティス侯爵家の次男坊として生を受けた人間だ。
 次男ということで早くから家を離れ、王都の医術学校を卒業したあとは、王宮で医官として働いていた。その才覚を買われ、一時期は御殿医の助手も務めていたらしい。
 そのまま働き続けていれば、今頃は父が御殿医になっていた可能性もある。だが父は結婚したのを機に、ここグレイティス領に引っ越すことに決めた。
 というのも、結婚相手である母は気管支が弱かったらしく、王都より空気のよい領地で暮らしたほうがいいと判断したためだった。
 兄である侯爵に引っ越し先を相談すると、侯爵はレニエの街の屋敷を父に提供してきたという。
(お父様はただ住みたいというだけではなく、許されるなら敷地内に診療所を建てたいと申し出たらしいからね)
 当時レニエの街には高齢の医者しかいなくて、後継者探しに難儀していたらしい。そこへ、王城で御殿医の助手として働いていた父が引っ越したいと言い出したから、侯爵も諸手を挙げて歓迎したというわけである。
 父は越してきてすぐに屋敷を改装して診療所を作り、簡易的な入院設備も整えた。母も身体が弱いながら慈善意識にあふれたひとで、屋敷のすぐ横に立つ教会に孤児院が併設されていることを聞くと、責任者の一人となり、時間を見つけて手伝いに赴いていた。
 そんな両親のもとで育ったので、アグネスも物心ついたときには父から包帯の巻き方を教わっていたし、母について孤児たちと一緒の時間を過ごすようになっていた。
 父も母も貴族の集まりに参加するより、街の人々とのんびりと交流するほうが性に合ったらしく、自然とアグネスも社交などの付き合いからは遠ざかっていた。
 だがそのことを不満に思ったことは一度もない。母が亡くなったあとも、自分を慕う孤児たちやお手伝いの女性たちがいるので、それなりに楽しく過ごせている。
 年頃の自分に結婚や恋愛を勧める声もあるけれど……アグネス自身は結婚にさして前向きになれなかった。
 先ほどラーラに言ったことだが、アグネスにはたった一人、以前から思い続けている相手がいるのだ。
 どこの誰ともわからない……教えてもらった名前すら、今となっては偽名ではなかったのだろうかと思えるくらいだから、二度と会うことはないひとだろう。
 それでも、彼以外と恋愛をしたり、結婚したいとは少しも思えない。
 だから、自分はこのままでいい。父子爵が医者として多くのひとを助ける傍ら、自分は教会の人々と協力して、孤児院の経営と孤児たちの世話を頑張っていく。
 そうして過ごしていければいいと思っていたのに……
(そんなわたしに、王城からの使者が訪れるなんて)
 王城どころか、アグネスは王都にだって足を運んだことはない。
 まったくもって不思議だと思いながら、屋敷に到着したアグネスは、二階の自室へ駆け込んだ。
「お帰りなさいませ、お嬢様。ドレスを用意しましたので、すぐにお着替えください。使者の方はすでに三十分は待っております」
 ミリアムから指示を受けていたのだろう。部屋にはメイドが二人待っていて、一人はさっそくアグネスの背後に回ってエプロンとワンピースを剥ぎ取ってきた。
「その使者ってどんな方? どのようなご用件でわたしを訪ねていらしたのかしら」
「詳しいことはまだなんとも……。とにかくお急ぎくださいませ」
 アグネスは頷くと、柔らかなコルセットとドロワーズも脱ぎ捨て、お湯で絞ったタオルで手早く全身を拭き清めた。
 絹のシュミーズの上から、きちんとしたコルセットを締めて身体を絞る。そして普段は衣装棚の肥やしとなっている若草色のデイドレスに袖を通した。
「このドレスを新調したのも、二年前でしたか……。この詰め襟はもう流行遅れですわ。王城からの使者ということは、最先端の装いもご存じのはず。目くじらを立てられたらどうしましょう」
「その程度で気分を害する方が使者に立つとは思えないけれど……。どのみちドレスを仕立てたところで、着て行く場所がないのだもの。このドレスも片手ほどしか着ていないから、デザインはさておき新品同様よ。問題ないわ」
「お嬢様は時折ものすごく楽観的と言いますか……。もしその使者がお嬢様に縁談を持ってきていたとしたら、どうするのですか」
 どうするのですか、と言われても、だ。
「その場合はお断りするのみね。わたしは結婚するつもりはないから」
「おお、なんと嘆かわしい。お嬢様の年なら結婚どころか、子供がいたっておかしくないでしょうに──」
 乳母のミリアムと同じように嘆き始めるメイドたちに苦笑しながら、ドレスを着終えたアグネスはすぐに鏡台に移動した。
「髪は編み込んでいる暇はないから、とりあえずまとめるだけで。お母様のエメラルドの髪飾りをお借りすれば、それなりに映えると思うわ」
「アクセサリーはどういたしましょう。指輪をなさいますか?」
「そうね……。いえ、手が荒れているから、手袋を用意して。身につけるのはイヤリングとブローチにするわ」
 一人が髪を結い、一人が手袋を探す横で、アグネスは手早く自分で化粧を施す。母が残した宝石箱からそれぞれ宝飾品を取り出し、手袋とともに身につければ支度は完了だ。
「ありがとう。それじゃあ、行ってくるわ」
 普段身につけない長いスカートに気をつけながら、自室を出たアグネスは階段を下り、一階の応接間へ足を運んだ。
 扉の前で一度深呼吸して気持ちを落ち着かせてから、ノックの音を響かせる。
「入りなさい」
「失礼いたします、お父様」
 応じたのが父の声だったので、アグネスはそう断ってから扉を開いた。
 大きな暖炉と重厚な椅子とテーブルを備えた応接間は、天井も高く、窓も大きく取られているため、開放的な雰囲気だ。椅子には父のほかに男性が二人腰掛けていて、アグネスは緊張しつつ父の隣へ足を運んだ。
「使者殿、お待たせして申し訳ない。こちらが娘のアグネスです。アグネス、あちらが王城からおいでになった使者のカール・スヴェン殿だ。ご挨拶を」
「初めまして、カール・スヴェン様。フィローン子爵家のアグネスでございます」
 ドレスの裾をつまみ丁寧に一礼すると、上座に腰掛けていた使者も立ち上がって頭を下げた。
「カール・スヴェンです。どうぞ気軽にカールとお呼びください」
 そう言って微笑むカールは、おそらく父子爵と同年代だろう。だがひょろっとした父と違って、上背があってがっちりしている。胸当てを装着し、腰に剣をいているので、おそらく騎士だろうと思われた。
「カール殿は国王陛下直属の部隊にお勤めになっている立派な騎士様なのだよ」
 娘の疑問に答えるように、父子爵がにっこり笑う。だがそれを聞いたカールはなぜか苦笑いになった。
「子爵殿、あまり持ち上げないでくれ。ただの騒がしい下級騎士だった頃の自分を知っている人間にそう言われると、なんともこのあたりがムズムズする」
 頬のあたりを指しながら言うカールに、子爵は耐えきれなかった様子で噴き出した。
「ああ、あの頃の貴殿は本当に無鉄砲で、強い奴に勝負を申し込んでは打ち負かされていたからなぁ。怪我をするたびにわたしのもとへきて、手当してくれと言ってきて」
「騎士の怪我は無償で診るのが当たり前なのに、おれが何度も訪れるせいで、そのうち診察料を寄越せと言うようになったよなぁ」
 どうやら二人は旧知の仲らしく、当時のことをそれぞれ話して楽しげに笑い合っていた。
 王都で過ごしていた頃の父はアグネスの知らない父なので、こんなふうに騎士に知り合いがいたというのも初めて聞く話だ。もっと聞きたいと思って身を乗り出しかけたアグネスだが、カールの横で微笑んでいるもう一人の男性を見つけて、思わず呼びかけてしまっていた。
「まあ、エドモンドお兄様!? ごめんなさい、気づくのが遅れてしまって」
 するとエドモンドと呼ばれた青年はにっこりして、「久しぶり」と片手を上げてきた。
「おお、そうそう。エドモンド殿のことを忘れてはいけないな。当然ご令嬢はエドモンド殿と面識があると思いますが」
「ええ、もちろん。従兄弟いとこですから」
 金髪碧眼がまぶしいエドモンドは、この領地を治めるグレイティス侯爵の嫡男だ。
 アグネスにとっては父方の従兄弟に当たる。最後に会ったのは三年くらい前だったか。
 そのときに比べ、線の細かった面立ちはすっかり男性らしくなり、まさに貴公子と呼ぶのにふさわしい美麗な若者に様変わりしていた。
「この屋敷まではエドモンド殿に案内していただいたのです。それに陛下のお言葉を伝えたあとは、わたしはすぐに王城に戻らなければなりません。その後のことをお願いするために、エドモンド殿にご協力いただくことになりました」
「協力? それに国王陛下のお言葉というのは……」
 乳母ミリアムは、アグネスが王城に召し上げられるということを言っていたが……
 アグネスが神妙な面持ちになったことを察したのだろう。居住まいを正したカールが、騎士らしく張りのある声を響かせた。
「このたび、フィローン子爵家のご令嬢アグネス殿には、サラ第一王女殿下の家庭教師をお願いしたいとの陛下のお言葉です。そのため、アグネス殿には早急に王城に上がっていただきたいのです」
 ──王女殿下の家庭教師!
 思ってもみなかった命令に、アグネスは驚く以上に「なぜわたしが?」といぶかった。
「失礼ながら……。わたしには王女様の家庭教師を務められるほどの素養はございません。貴族令嬢としての教育は一通り受けておりますが……」
 ──と言ったところで、陛下直々のお言葉とあれば、王城に上がらないわけにはいかないのだろう。
 だが、いざ登城したあとで「思っていたのと違うではないか!」と失望されては、アグネスとしても大変困る。
 その思いからついつい言葉を紡ぐが、カールは「ご心配は無用です」ときっぱり答えた。
「確かに王女殿下の教師役には、相応の知識や教養が必要でしょう。しかし今現在の王女殿下には、博識な教師よりも、多くの子供たちと関わってきたことで培われたあなたの経験こそが必要なのです」
「多くの子供たちと関わってきた、経験……」
 確かに、普通の家庭教師は、そうそうたくさんの子供を相手にしてきたことはないとは思うが。
「聞けばアグネス様は、教会に併設された孤児院にて、子供たちに読み書きや計算も教えていらっしゃるとか」
「え、ええ。孤児院にいられるのは十六歳までなので、働くときのために最低限のことは身につけさせようと思っていまして」
 それはアグネスと言うより亡き母の発案だったが。とにかく読み書きと計算ができるだけでも、働き口は大いに変わってくる。
 中には優秀な者もいるので、そういった子たちは父子爵の援助で学校に通わせたりしていた。
「でも、王女様に読み書き計算なんて……」
「我々が求めているのは、もっと前段階の教育なのです」
「前段階?」
 首を傾げるアグネスに、カールも困った様子で苦笑した。
「王女殿下のことを一騎士である自分の口から申し上げるのは難しく……実際に王城に足を運んでいただき、ご自身で確認されるほうがよろしいでしょう」
 カールの言葉は答えになるどころか、いっそう疑問を生むばかりだ。
 自分ごときに王女様の教師が務まるとは思えない……が、ある程度やってみないことには、きっと辞退することも許されないのだろう。
「どうしても難しいという場合は、お咎めなしで帰してくださるそうだ。さほど構えず、ひとまず行ってみたらいいんじゃないか、アグネス?」
「お父様」
 黙ってやりとりを聞いていた父子爵の言葉に、アグネスは不安な面持ちで振り返る。
 戸惑い気味の娘に対し、父はにっこり微笑んでいた。
「おまえは王都を見たこともなかっただろう。いい機会だから行ってくるといい」
「でも孤児院の運営が──」
「すでに司祭様にお願いして、臨時で新しい世話係を雇ってくださるようにお願いした。わたしの患者の中にも働きたいと言ってくれた女性が何人かいてね。当分のあいだは大丈夫だよ」
 孤児院の責任者は隣接する教会の司祭だが、実際に孤児たちの世話をするのは通いの女性たちだ。夫に先立たれた未亡人や、金銭的な理由で働かなければならない女性たちが、主な働き手となっている。
 そんな彼女たちを統括する立場にいるのがアグネスなのだ。それはただ人手を入れれば解決できる問題でもなく、アグネスは楽観的な父の言葉にもどかしさを覚える。
 しかし司祭や乳母のミリアムが中心になってなんとかやっていくから、と言われてしまえば、それ以上の反論はできなかった。
「……わかりました。わたしがどれほど王女様のお力になれるかはわかりませんが、精一杯務めさせていただきます」

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