【試し読み】腹ぺこドクターの溺甘網~餌付けしたら求愛されちゃいました~
あらすじ
「ね、気づいてる? 今、俺は苅部さんの優しさに付け込んでるって」――総合病院の栄養科で主任をつとめる成美は、祖母直伝のおいしい料理を作ることが大好き。あるお昼休み、静かな中庭で成美の前に現れたのは、整った顔立ちで人気高い循環器内科医の暁(あきら)。医師なのに顔色の悪い暁に、成美はお手製の弁当をあげることになり……「ああ……うま」それから彼のアタックが始まって!? 頑張り屋の管理栄養士に魅了された不養生なイケメン医師。ほしいのはご飯? それとも……?「腹もいっぱいになったし、次は……わかる?」おいしいご飯から始まるラブストーリー!
登場人物
総合病院の栄養科で主任をつとめる。祖母直伝のおいしい料理を作ることが大好き。
整った顔立ちで人気高い循環器内科医。激務のため食事もまともにとれない状態に…
試し読み
①きっかけはおにぎり
祖母の作る料理は、魔法のようだった。
誕生日には、ケーキのようなちらし寿司。つやつやしたイクラがこれでもかと乗っていて、手作りの桜でんぶは、ほんのりと甘くて何度もつまみ食いをしては叱られた。優しい味の錦糸卵、風味が少し苦手な三つ葉に、れんこん、にんじん、ごぼうに椎茸。
どれもこれも大切な思い出だ。
「成美は、ばあちゃんの料理が大好きだね」
と、母親にいつもあきれ顔で言われていた。あの時分には珍しい、色々な料理を作ってくれたのも祖母だった。ピロシキ、ラタトゥイユ……聞いたこともないような名前の料理だったが、どれもこれも美味しかった。祖母の作る料理は全て成美の大好物だった。
「ばあちゃんの料理は本当に何でも美味しい! 明日もまた作ってくれる?」
「もちろんだよ。なるちゃんが美味しいって言ってくれるうちは、ばっちゃんも頑張っからね」
「本当? 嬉しい!」
「美味しそうに食べてる顔を見るだけで、ばっちゃんは嬉しくなれるんだ」
祖母はたくさん笑う人だった。そのせいか、目尻にはいつもたくさんの皺が寄っている。成美はその皺を更に深めて笑う祖母の笑顔が大好きだった。そして、美味しいご飯と祖母の笑顔は永遠に成美の側にあるものだと信じて疑わなかった。
「ばあちゃん! ばあちゃん!」
胸を押さえてストレッチャーに乗せられた祖母を追いかける。看護師にやんわり静止されるものの、成美は祖母の側を離れなかった。成美は人目もはばからず叫び、涙を流した。バタバタとどこかの部屋に連れていかれる祖母。入るのを拒まれ、成美は閉められたドアの前に立ち尽くす。しばらくぼんやりとドアを見つめていると、成美の隣を白衣を羽織った人が通り過ぎる。目の前で揺れた白衣に、成美は縋るように手を伸ばした。
「ばあちゃん、ばあちゃんを助けて……」
「……」
「お願い、ばあちゃんを、助けて」
白衣に縋った手に、大きな手が重ねられる。涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげると、優しく微笑む男性と目があった。
「今から処置をする先生は優秀な先生だから。待っててね」
そう言われ、掴んでいた手をやんわりと離された。成美は小さく頷くと、その男性は、ドアの向こうに消えていった。
結論から言うと、祖母は心筋梗塞だった。詳しい話はされなかったものの、重症だということは祖母の姿をみれば一目瞭然だった。
「ばあちゃん、もうなるちゃんにご飯作ってやれなくなっちまった」
病室で横たわる祖母は、成美の方を見ず、ぽつりとそう呟いた。
酸素と点滴につながれた祖母は、もう台所に立てない。自分でそう思ったのだろう。
「ばあちゃんがいてくれるだけでいいの」
成美は祖母の手を握り、絞り出すようにそう口にした。いつも温かくて、ふっくらしていた祖母の手は、冷たくかさついていた。まるで知らない人のようで、どこか遠くに行ってしまいそうな気がした。
「ばあちゃんがまた……美味しくご飯を食べられるように、今度は私が頑張るね」
ぼんやりと外を見つめる祖母に、成美の言葉は届いていなかったのかもしれない。
成美は、誰もが等しく美味しいものを食べられるようにと、必然と管理栄養士を目指すようになった。
□□
「本日は十四時から三十分刻みで十六時まで栄養指導が入っています。人間ドック外来の患者さんもいますので、担当者は情報を確認しておいてください」
一日の流れを全体朝礼にて説明する。いつもなら栄養科長が行うものだが、今日は代休のため、主任の成美が代行して説明していた。
成美は地方都市にある総合病院の栄養科に勤務している。管理栄養士の国家試験に合格し、新卒で入職してから六年。たまたま上部が一斉に定年退職となったため、まだ若い成美が持ち上がり方式で主任となった。後輩たちも成美と年齢が近いため、多少舐められている気がしないでもないが、仕方ないことと割り切っていた。
「十五時から緩和ケア病棟でイベントがあります。プリンの依頼が来ていますので、本日の調理場担当の方は忘れずに伝えてください」
あとは、と成美が話を続けようとした時だった。
「苅部主任」
話の途中で、後輩の鈴木が手を挙げた。成美がレジュメから顔を上げると、言いにくそうに口ごもる鈴木と目が合った。
「はい。何でしょうか」
「あの……循環器内科の患者さんへの指導が入っていますが、退院予定が決まっていないようです。主治医に確認しないといけないと思うのですが……」
そこまで聞いて、成美は瞬時に何を言いたいのか理解した。つまり、患者の主治医に誰が確認するかということを聞きたいようだ。リストアップされた患者の主治医を見て、成美は大きくため息をついた。
そこには『五十嵐暁』と記載されていた。同時に指導指示書も未提出なことに気づく。
「五十嵐先生には私から確認して指導に入ります。では、今日も一日よろしくお願いします」
全員があからさまにほっとした表情を見せ、成美は心の中でずるい、と呟いた。『自称五十嵐医師の秘書』が勤務していないことを祈りながら、成美は来月の献立表の作成に向き合った。
◇◇
午前業務がひと段落付いたところで成美は席を立つ。
「あれ、主任どこへ?」
「……循環器センターだけど」
思いのほか低い声になってしまった。あ、とすぐに理解したような後輩の鈴木に、成美はわざとらしく笑みを浮かべた。
「自称五十嵐医師秘書が居ないことを祈っていてくれる?」
「……主任、ガンバです!」
そう思うならあなたが行って! と喉元まで出かかったが、成美は「頑張る」と返事をして栄養科事務室を後にした。
頑張る、と返事をしたものの、一歩事務室から出るとその足取りはひどく重かった。今話題に出ていた『自称五十嵐医師秘書』は循環器センターに勤務する看護師、桐江静香のことだ。はっと目の惹くような美人だが、なにせ気が強い。五十嵐医師を崇拝? しているのか、何かにつけて五十嵐に関わるスタッフに絡んでくる。心臓血管カテーテルの介助に入れば右に出るものはいないと言われていて、技術や知識があるのは間違いないが、とにかく周りに厳しすぎるのだ。成美だけではなく、他の栄養士も漏れなく静香の気の強さにやられていた。
その結果、循環器内科にて五十嵐医師の患者が栄養指導を受ける際には、主任である成美が行うことが慣例になりつつある。腑に落ちないが、上に立つものとして仕方ないことだと自分に言い聞かせる。五十嵐もきちんと患者の退院を把握してくれていればいいのだが、クリニカルパスを使用しているせいか、栄養指導依頼書が抜けがちだ。クリニカルパスに栄養指導を組み込んでほしいと依頼したこともあったが、「全員がやるわけじゃないから」と、これまた静香の一言で却下されてしまった。
心の中で愚痴を呟いている間に、循環器センターについてしまった。ナースステーションに恐る恐る入ると、自称秘書の存在はなかった。成美は、安心して病棟師長のもとに向かう。
「土屋師長」
「あら、苅部さん。どうしたの?」
「すみません、五十嵐先生の患者さんで……えっと、丸井源三さんとそのご家族様に退院前の栄養指導のオーダーが入っているんですが、先生の指示書がまだなくってですね」
「あら、そうなの? きちんと一緒に出してって言っているのに」
「あと、退院確定がまだなのですが、パス通りなら明日ですよね?」
「ちょっと待ってね。うん、明日で間違いないわ。先生さっきカテーテルが終わって帰って来ているはずだから、医局に行ってみてくれる?」
ひとまずコンタクトが取れそうだと成美はほっと胸を撫でおろす。以前静香を恐れて院内PHSで連絡を取ろうとしたところ、間違った内容を送られてしまい、結局出向かなければいけないことになったからだ。それ以来、成美は嫌々だがなるべく顔を見て依頼することにしている。
「失礼します。五十嵐先生はいますか?」
「……はい」
声はするが姿が見えない。成美はきょろ、と周りを見渡すが五十嵐の姿はなかった。もう一度名を呼ぶと、遠くで手が挙がるのが見えた。
「五十嵐先生……?」
「ごめん、今起きる……」
デスクやら資料やら本やらで埋め尽くされた医局の中を恐る恐る進むと、部屋の奥に古びたソファが見える。そこから手が挙がっており、成美はゆっくりとソファに近づいて行った。
「寝てた……」
のそりとソファから起き上がったのは、探していた五十嵐だった。成美は起き上がった五十嵐の顔色の悪さにぎょっとしてしまう。病人かと見間違うような五十嵐の姿に、成美は驚きを隠せなかった。
「大丈夫ですか?」
「……朝方緊急カテが続いてたから、あまり寝てなくて」
口ぶりから、昨晩は当直勤務だったのだろう。思わずしゃがみ込み、成美は五十嵐の様子を窺う。近くで見ると、ますます顔色の悪さが目立った。肌の色が白いを通り越して土気色だ。歳も自分とそう変わらないと思っていたが、潤いがなく、かさつきが目立ち、失礼だが年齢相当に見ることができない。
こんな時こそ自称秘書の出番なのでは? そんなことを思っていると、五十嵐はがしがしと髪をかき乱す。そして、大きく息を吐いた後に、成美の方に視線を向けた。
まっすぐに見つめられた成美は、不本意だが胸が高鳴ってしまう。眠気が強いのか、うっすらと開かれた目は、流し目のようで色気に溢れていた。当直明けだというのに、清潔感すら感じるのは、整った顔立ちのせいだろう。それに相反するような青いスクラブの袖から出る腕はしっかりと引き締まっており、逞しさが見て取れる。
美麗な男性が弱っている姿を見たら、だれしもぐっときてしまうだろう。近くにいるせいか、五十嵐の香りまで成美の鼻に届いてしまう。シトラスの香りの中に、少しだけ混じる汗の匂い。顔がいい男性は、香りまでいいのだろうか。成美は不躾ながらそんなことを思った。
自称秘書である静香が夢中になるのも理解できる。
「すみません、お休みのところ……後にしましょうか?」
「……いや、いいんだ。ここまで来たってことは急を要するんだろう? で、何?」
「先生の患者さんの丸井さんの栄養指導オーダーが出ていて。依頼書の記入と、指導の方向性を確認したくて……」
「あー……」
成美が仕事の話をし始めたところで、五十嵐が立ち上がる。ずいぶんと背が高く、目の前に立たれると、まるで壁だ。
「疾患名が心筋梗塞になっていますので、塩分制限を主に説明していきたいと思います」
「うん。それで頼む。今依頼書、書くから待ってて」
マニュアル通りの指導で問題なさそうだと、成美が患者情報を確認する。すると、五十嵐がパソコンに向かい合った。その後を追うと、五十嵐がパソコンを指しながら成美の方を見てくる。
「これでいい?」
「えっと、はい。大丈夫です。そのまま確定していただければオッケーです」
パソコン画面をのぞき込みながらそう答えると、はいよ、と軽い調子で五十嵐が答えた。その顔色は未だ悪い。余計なお世話だと思いながらも、成美は体調を問おうとした時だった。
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