【試し読み】堅物上司と二度目の恋愛はじめました

作家:真崎奈南
イラスト:小島ちな
レーベル:夢中文庫セレナイト
発売日:2020/1/28
販売価格:400円
あらすじ

一年前、楓香は執拗な付き纏いに悩まされていた。そんなとき、恋人の振りをして救ってくれたのは上司の十河課長。「堅物」と評判の生真面目な彼と期限付きの恋人を演じる間、二人の距離は縮まったように思えた。けれど問題が解決すると、楓香は十河課長への淡い恋心を残したまま偽りの恋人関係は解消になったのだった。しかし今度は十河課長が同じケースで困っているという。「もう一度恋人の振りをしてくれないだろうか」──本当の恋人になりたい、ずっとこのまま一緒にいたい……楓香は言い出せない想いを抱えながら、恩返しのつもりで恋人役を引き受ける。二度目の恋人となったふたりの距離は前よりもずっと近づき、親密に感じられて……

登場人物
澄川楓香(すみかわふうか)
元彼の浮気によるトラウマで恋には消極的。付き纏いから救ってくれた十河の優しさに惹かれている。
十河博之(とかわひろゆき)
笑顔が少なく、堅物だが真面目で誠実。付き纏いに悩まされていた楓香を仮の恋人として救う。
試し読み

 都心の人混みから少し外れた場所にある、緑いっぱいの公園。その傍に建っているビルの四、五階部分に入っているIT系企業「ファニーエンター」で、私、澄川すみかわ楓香ふうかは働いている。
 出社途中で落ち合ったのは、ショートカットが似合う小柄で同期の海山うみやまさん。彼女と共に五階でエレベーターを降りて、笑い声を交え会話を弾ませながら自分たちが所属する制作部のデスクの並びへと進む。彼女とは二十七歳と年齢が一緒で、同期でもあるから格段に仲が良い。
 その途中で、窓を背にして座っている彼へ私は目を向ける。
 彼は十河とかわ博之ひろゆき。私の上司だ。
 静かに雑誌を読んでいるいつもと変わらぬ落ち着き払った姿に心なしか表情を緩めて足を止めてから、少し緊張気味に声をかけた。
「十河課長。おはようございます」
 すぐに視線が上昇する。目が合うも、彼は微笑みを浮かべることなく、硬い声で挨拶を返してくる。
「おはよう」
 聞き慣れた声音もいつも通りのこと。自分を見つめる仏頂面に臆することもなく、軽く頭を下げてから私は再び歩き出す。
 続けて海山さんも十河課長へ挨拶の言葉を発した。即座に十河課長は挨拶を返したが、態度は私の時と同じように愛想の欠片すら感じられない。
 デスクにバッグを置いて椅子へ腰掛けると同時に海山さんが隣の席に着いて、「相変わらずそっけないなぁ」とぼやいた。
 こっそり笑っていると、オフィス内が一段と賑やかになった。いくつかの明るい声の中から三年後輩の笹田ささださんの声を聞き取り、なんとなく目を向ける。
 すぐに彼女の姿は見つかった。ゆるく波打つ茶色の髪の毛をふわふわと揺らして十河課長に向かって真っ直ぐ進んでいく後ろ姿に、わずかに焦りが膨らむ。
「十河課長! おはようございます!」
 笹田さんは十河課長の傍で立ち止まり、可愛らしい声で挨拶をした。思わずはらはらしてしまったが、彼のいつもの態度は崩れなかった。ちらりと彼女の姿を確認したのち、真逆の硬い声で「おはよう」とだけ返す。
 ほっとするのも束の間、笹田さんは手にしていた紙の手提げ袋をひとつ、笑顔で差し出す。
「昨日、話していたサンドイッチです。気になっていましたよね? だから、十河課長の分まで買ってきちゃいました。受け取ってください!」
 その手にあるもう一つの紙袋は彼女自身の分だとアピールし、「今日のお昼はお揃いにしましょう」と嬉しそうに笑う。
 十河課長は雑誌を広げた状態のまま、紙袋をじっと見つめる。数秒後、「あぁ」と思い出したように呟き、ぱたりと雑誌を閉じた。
 紙袋を受け取るとすぐに財布を取り出し、笹田さんへと視線をあげる。
「ありがとう。……で、いくらだった?」
「やっ、やだ! 私からのささやかなプレゼントですから、気にせず受け取ってください」
「立場上、そういうわけにはいかない。ついでに言うと、なにか借りを作るかのようで、俺自身も嫌だ」
 受け取ってくれた瞬間の上機嫌さから慌て顔へ、それからまるでなにかを企んでいるかのような微笑へと、笹田さんが表情を変化させた。
「借りだなんて気にしすぎですよ。……あ、でしたら、今度は十河課長が私になにか食事を奢ってください。そうすればおあいこですよね?」
 最後は声を潜めての提案だったけれど、十歩ほどの距離しか離れていないところにいる私にはかろうじて聞こえていた。
 色っぽさまで漂わせた誘い文句に、そわそわと落ち着かない。けれど十河課長の返事は聞き逃したくなくて、必死に耳を澄ました。
 じろじろ見ないように気を付けていたのに、低く響いた非難めいたため息に反応し、無意識に目が彼らへと向いた。
「それが嫌だと言っているんだ。これで足りるか?」
 十河課長は鋭さを宿した眼差しを笹田さんに突きつけた。そして、身体を強張らせた彼女へ千円札を押し付ける。
「こんなにかかっていません」
「なら、そのまま受け取ってくれ」
「……でも」
 プレゼントのつもりで買ってきたのに代金を支払われて、しかも渡された金額がそれ以上だったため、気まずくなったのだろう。
 笹田さんは泣きそうな顔で十河課長を見つめている。
 けれどやっぱり、十河課長は自分の意見を曲げない。
「申し訳ないと思うなら、もうこんな気を遣うな。次は俺も受け取らない」
 きっぱりと言い放った言葉は冷たくもあるけれど、私には堂々としていて潔く聞こえた。
 同時に安堵感が心に広がる。肩の力を抜いた時、隣から小声で話しかけられた。
「男性社員から人気のある笹田が相手でも堅物さを貫き通すだなんて、さすが十河課長だわ」
 海山さんの言葉に、私も小さく頷き返す。見える範囲だけでも、私と同じように十河課長と笹田さんのやりとりにやきもきしているのが見て取れる男性社員が何人もいる。
 そして、異性に人気があるのは十河課長も同じだ。
 年は三十。百八十五センチの長身に艶やかな黒髪。目鼻立ちの整った美男子なのは間違いないが、中身は「堅物課長」と影であだ名をつけられるほどに生真面目だ。
 とは言え、見た目が良く仕事もできるため、彼に憧れを抱く女性は社内にたくさんいて……そのうちのひとりが、私だったりする。
 そわそわと十河課長を見つめている男性社員に新たに気がつき思わず笑みを浮かべた時、ちょうど笹田さんが私の視界に入り込んできた。
 不満たっぷりの横顔から目を離せずにいたため、不意に彼女と視線が繋がった。
 途端、笹田さんは眼差しで苛立ちをぶつけてくる。唖然とする私から彼女は顔を逸らして、自分の部署であるアプリデザイン課のデスクの並びへと大きな歩幅で進んでいく。
 衝撃から抜け出せぬまま瞬きを繰り返していると、再び海山さんがこそっと話しかけてきた。
「澄川さんへの嫉妬、あからさますぎるよね」
「そうなのかな。嫉妬しても仕方ないのにね。だって私はもう十河課長とは終わっているんだから」
 ぽつりと思いを吐露すると、海山さんが首を傾げた。
「本当にそうなの? 見ていてそんな感じがしないんだよね」
 続いた言葉に焦りが沸き上がる。海山さんの言う通り、私の中では終わっていなくて、けれどそれは知られたくない事実でもあった。
「やだなー。変なこと言わないでよ」
 この場は苦笑いで誤魔化すも、どうにもならない現実と捨てきれない自分の裏腹な気持ちが複雑に絡み合い、胸がきゅっと締め付けられた。
 やりきれなさと共に十河課長へ視線を戻し、私はわずかに目を大きくさせる。
 課長とも目が合ってしまった。しかし笹田さんとは違って、彼の無に近い表情からは何の感情も読み取れない。
 このまま見つめ合っていたら切なさに飲み込まれそうな気がして、私は慌てて十河課長から視線を逸らしたのだった。

 十河課長を意識し始める切っ掛けは、一年前のこと。
 その頃私は、社で運営している女性向けファッション情報サイト上の特集記事を担当していた。
 人気の美容室や店員の情報を載せるべく動いていたのだけれど、取材した美容師のひとりからしつこく付き纏われてしまったのだ。
 会社の外で待ち伏せされたり、知らぬ間に後をつけられていたのか突然自宅を訪ねて来られたりしたこともあった。
 常に恐怖を感じるようになっていた私に手を差し伸べてくれたのが、十河課長だった。
「最近様子がおかしいが、どうかしたのか?」と問われた瞬間、張り詰めていた気持ちが緩み、気がつけば十河課長の前で涙を流していた。
 付き纏われていると正直に打ち明けると、十河課長が自分のことのように怒ってくれた。
 帰宅時に家に送ってくれたり、ちょうど問題の美容師と鉢合わせた時に臆することなく注意もしてくれたけれど、事態は少しも変わらなかった。
 そんな中、疲弊していく私を見兼ねた十河課長がひとつの提案をしてくれた。
「彼を諦めさせるために、すでに恋人がいると言うのはどうだろうか。試してみる気があるなら、その役を俺がやっても構わない」
 十河課長の口からそんな発言が飛び出すだなんて、想像すらしていなかった。
「すまない。たとえ振りだったとしても、俺のようなおじさんが相手など嫌だよな」
 私があまりにも驚いていたからか、十河課長に気まずそうな声でそう謝られた。しかし、それに対して私は即座に首を横に振る。
「私のためを思って提案してくれたのは分かっています。だから嫌じゃありません! お言葉に甘えさせてもらってもいいですか? 私に十河課長の力を貸してください」
 意外ではあったけれど、不快になど全く感じなかった。むしろ、一緒に悩んでくれている十河課長に感謝の気持ちを抱いたし、状況が改善するかもという期待で私の胸は高鳴っていった。
 恋人宣言の決行日は、早速その翌日にやってきた。
 ふたり揃って残業を終えたあと、いつものように自宅まで送ってもらっている途中で、美容師の彼が現れたのだ。
「楓香は俺の恋人だ! これ以上付き纏うな!」
 噛み付くように放たれた十河課長の言葉。私の肩を引き寄せた彼の手の力強さ。目と鼻の先にある、十河課長の綺麗な顔。
 それも戦略だと分かっているのに、彼の唇が私の名前を紡いだことが、胸が苦しくなるほど嬉しかった。
 相手を諦めさせるための言葉が、私に新しい感情を芽生えさせる引き金となってしまった瞬間だった。
 一件落着。美容師の男性も理解してくれた様子だったため、その場はそんな空気になったけれど、狙い通りに事は運ばなかった。
 美容師の男性が、なんだかんだと理由をつけて私の前に現れ続けたからだ。
 スムーズに解決に至らなかったため、十河課長は再びの提案をしてくれた。
「しばらく様子見として、このまま恋人の振りを続けようか」
 彼は私を見放すことができなかったのだろう。ひとまず〝三ヶ月〟という期限を設けた上で、恋人役の延長を申し出てくれたのだ。
 私に断る理由はなかった。付き纏われるのは怖いし、事態が変わらぬ中、すでに心の支えとしている頼りの存在を失いたくなかったからだ。
 共に時間を過ごすことが多くなり、見えていなかった十河課長の一面も徐々に見えてくる。
 堅物なのは間違いない。けれど生真面目さはもちろん、そこに隠れてしまっている誠実さや実直さにも、とても好感が持てた。
 最初こそ緊張するばかりだったが、仮の恋人としてそばにいればいるほど、十河課長の隣が居心地よくなっていった。
 偽りの関係が三ヶ月目に突入しようとしていた頃、私たちが一緒にいることを怪しみ始める人も現れ、あっという間に、十河課長と私が付き合っているという話が社内で広がっていった。
 違うものは違うとはっきり言う性格である十河課長が「付き合っているのか?」という質問を否定しなかったことで騒ぎは加熱する。
 時を同じくして、美容師の男性の姿もあまり見なくなり、そろそろこの関係が終わる時期に来ていることを肌で感じ取る。
 淡い恋心は自覚している。心の片隅ではこのまま彼の隣にいたいと思っていたけれど、しかし、十河課長へ一歩近づく勇気は出なかった。
 高校二年生の時、初めて男性とお付き合いをした。同じ中学校出身で、ずっと片思いをしてきた相手だったため、やっと思いが届いたことが嬉しくて仕方がなかった。
 けれど、幸せはあっけなく崩れ落ちた。
 三ヶ月目で相手の浮気が発覚。そして彼は「お前に飽きた」という理由で私を捨て、浮気をしていた相手にあっさり乗り換えたのだ。
 そんな軽薄な人間を長年慕い続けてきたのかと心を抉られ、しばらく立ちなおることができなかった。
 それはトラウマとなり、彼氏も作る気になれぬまま社会人五年目となった私の中でもまだ暗い影を落とし続けている。
 自分で思っている以上に十河課長に心を許していたようで、いつもの帰り道、美容師の男性から助けてくれたことへの感謝の言葉とともに、私はその話を口にした。
 ただ自分の話を彼に聞いてもらいたかった。それだけだったのに、十河課長も自分の話を私に聞かせてくれた。
 大学生の時に半年付き合った女性はいたけれど、それ以来恋人はいないと。
 なんでも、元彼女との関係がこじれにこじれて、完全に別れるまで一年以上かかったらしい。「こりごりだ」と最後に思いを述べた十河課長の顔はうんざりとしていた。
 どんな状況だったのか詳しいことまでは聞かなかったけれど、その顔を見る限り、私と同じように過去の出来事が今でも心に影を落としているのは間違いないと思えた。
 乗り越えられない気持ち、そして十河課長の交際に対しての考え。それらに足止めされて、私には告白するという選択肢を持てなかったのだ。
 期日通りに恋人の振りを終え、私たちはあっさりと元の生活に戻っていった。
 しばらくの間、仕事仲間から自分たちの現状を聞かれて複雑な気持ちになったり、確かに狭まっていた十河課長との心の距離まですっかり元どおりになってしまい虚無感に苛まれたりもした。
 これで良かったんだと思うことで、この三ヶ月間が素敵な記憶として徐々に私の中に根付いていったが……、淡い恋心を完全に捨て去ることもできなかった。

※この続きは製品版でお楽しみください。

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