【試し読み】華鎖(第二部)~荊の聖姫は策士を恋に溺れさせる~
あらすじ
【第二部 荊の聖姫は策士を恋に溺れさせる】氷帝の優秀な側近である東利は、女王・天河が治める祇嗣へ遣わされる。政治の安定と、女王の婿探しの任を与えられたが、麗しく聡明な天河は支配者の風格に溢れており、釣り合う者を推挙するのが難しい。一方の天河は、側近だった迦陵が氷帝の寵愛を受け美しくなった姿に、女性らしさが足りない自らを比べて悩み、東利に男性を振り向かせる褥の技術の教示を願う。みるみる、快楽を得る術・与える術を身につけていく天河。戸惑いつつ応えていた東利は、いつしかペースを乱されていき……「あなたのすべてを欲しいと望んで自制できない」※過去にWEBサイトで配信した内容に加筆修正を加えたものです。
登場人物
祇嗣国の王。女性としての魅力がないことに悩み、東利に褥の技術の教示を願う。
壮菱帝国皇帝の側近。祇嗣の政治の安定と、婿探しの任を与えられ天河のもとへ出向する。
試し読み
第一章 それは宿命的な出会い
ガラガラガラと石畳の路を車輪が音を立てて回転している。ここ壮菱帝国は属州国に続く大動脈に対して徹底的に整備していることもあり、馬車の乗り心地は悪くない。悪いのはその馬車に乗っている男の機嫌だった。
斎珠東利。齢三十。独身。毛先に軽い癖のある襟足長めの髪を無造作になでつけ、右目に片眼鏡をかけて書物を読んでいるが、時折ため息をもらしつつ車窓に視線をやっている。進むほどに建物や街並みの様子が変わっていくことが気に入らないようだ。やがて膝の上の書物を脇に置いて組んでいた足を解くと、片眼鏡を外して左胸元にある衣嚢に入れた。組紐が衣嚢の先に結びつけられていて、はみ出た部分が馬車の振動に合わせてわずかに揺れている。
「そのように落ち込まれなくても」
見かねた同席者が苦笑を浮かべながらこう述べた。
「誰が落ち込んでいる。気が重いだけだ」
「そうでしょうか。私には陛下のお傍から遠ざけられてしょぼくれている子どもに見えますが」
「おい」
「なんだかんだ言っても、東利さまは陛下大好きなお方ですからねぇ」
「それでは俺が変人に聞こえる」
「似たようなものでしょう。私からしたら、東利さまの、そのお頭の中は理解できませんからねぇ。いえ、私だけじゃない。誰もついていけない。この壮菱帝国随一と謳われる策士殿の頭の中など」
「…………」
フン、と鼻を鳴らしてそっぽを向くと、東利の従者はくくくっと笑いをかみ殺して喉を鳴らした。
二歳年下の部下は東利同様に優秀だ。皇帝領にある帝立学院をその年首席で卒業している。名は大賀喜彰。東利に目をかけられているゆえに軽口を叩ける数少ない男であった。
「俺に引っ張られて田舎国に行かなきゃいけなくなって怒っているんだろう」
「皇帝領に留まるよう言われたら、官職を辞して郷に帰るつもりでした」
「帰ってどうするんだ?」
「遊ぶんですよ。生徒は教師の傍を離れたら遊ぶものです」
東利は喜彰の返事に、またしても大きなため息を落とした。
「東利さまが陛下大好きのように、私も東利さま大好きですから」
「頭の中がか?」
「ええ、もちろん。首から下には興味ありません」
三度目のため息が車内に響くと、馬車の速度が落ちてきた。
喜彰が外を確かめる。
「国境ですね。いよいよ祇嗣です」
祇嗣国は壮菱帝国のみならず、周辺国家をも含めて史上初の女王が治める国家だ。現在十八歳。ついこの前まで王として存在していた庚天河は、叔父の謀反を暴いたのち、女であることを示して女王として君臨することを皇帝から認められた。
それまでは色香に惑い、奥殿に籠もってしまってろくに政を執り行えない愚王と称されていたが、今では皇帝の信頼を得た聡明な女王と謳われている。東利はその庚天河の補佐に任命され、三年間を祇嗣国で過ごすことになった。
──斎珠東利、お前に野心あらば、一国その手に入るのだぞ。私如きの主事で終える人生で満足なのか?
(まったく、なにが一国その手に、だ。俺は皇帝の後ろで政の糸を操っているほうがよほど楽しいというのに。この俺が心底惚れ込み見込んだ男、壮菱帝国皇帝、嘉史白刀の名声を世界に轟かせ、歴史に名君として刻み込むことが目的だってのに、それを──)
田舎王国の小娘の補佐とは。ため息も盛大に出るというものだ──またしてもそのため息をついた。
「四度目です」
「うるさい」
間髪入れない言葉に喜彰の片側の口角がつり上がった。
「三年で戻れるように頑張りましょう」
「当たり前だ」
俺が立つのは嘉史白刀の後ろだけ──と、東利は改めて己の主の顔を思い浮かべた。
氷帝と囁かれる嘉史白刀と初めて会ったのは十歳の時だ。父に連れられ、帝城で顔を合わせた。同い年の彼から向けられた冷たいまなざしは今でも忘れない。なにがこんな仄暗いまなざしを彼にさせるのか非常に気になった。それから学院で学ぶにあわせ、自分と遜色なく会話ができる能力を有していることを知った。周囲から浮くほどの神童と言われていた東利にとって、それは同世代で初めて得た話し相手であった。
しかしながら相手は皇帝の息子だ。友達にはなれない。そして自分は官吏の倅だ。父も相応に優秀で、ある程度上の位まで昇進はするだろうが、大臣級には程遠いだろう。そんな男の倅では、いずれ即位する白刀の親衛隊に入れたらいいくらいだろう。能力だけではどうにもならないものがこの世にはある。後ろ盾が乏しい自分たち親子には、その程度しか出世はできない、と最初は考えていた。
だが白刀もまた同じようなことを思ったようで、勉強以外の会話を求めるようになり、互いの距離は日に日に近づき、そして学院卒業後、東利は正式に白刀の近習に任命された。それでも、部下の一人として主に仕える、としか考えていなかった。あの日まで。
──東利、皇帝を討つぞ。
当時、帝国は前皇帝の悪政に苦しんでいた。私利私欲に走り、宗主国内属州国ともに重い税を課して疲弊させていた。いつ暴動が起こり、謀反が起きるかわからないとまで言われ始めた時、白刀は自ら両親である皇帝と皇后、そして側室たちを捕らえて首をはね、加担していた者どもを罪の軽重問わず容赦なく処刑し徹底的に排除した。
子による親殺しという大罪を以て帝国に広がっていた怒りを鎮めた。そしてそれは親をも容赦しない恐ろしい皇帝の誕生であることを知らしめたのだ。
以後は氷帝と呼ばれ、恐れられている。元来物静かな彼はその呼び名に合った雰囲気でもあったので、名称はあっという間に帝国内外に広がった。
(そんなに凍てついてはいないが、熱くもないな。が、律儀で義理堅い。俺の主は世界一なんだ。この俺があらゆる国家の歴史に嘉史白刀の存在を名君として刻み込んでやる)
東利は車窓を流れゆく景色を見ながらそんなことを考えている。ぼんやりと遠くを眺めながらも力が宿っている様子を、忠実な部下である喜彰が誇らしげに見守っていた。
それから数時間後。
祇嗣国の王都を目前にして東利たちは宿屋に落ち着いていた。
近くの風呂場で湯あみをし、宿屋の食堂で軽く食事をとり、各々部屋に引き下がる。部屋は狭いが個室なので気楽だ。寝台に体を横たえ、ホッと虚脱の吐息をつく。そして一日ため息ばかりついて、喜彰の指摘ももっともだと思った。
(陛下は栄転だなどと言う……どう考えても左遷だろう。とはいえ、祇嗣はこれから帝国において極めて重要な位置付けとなる。それは事実だ)
そう考えるのには理由がある。
三十にしていまだ独身であった皇帝、嘉史白刀が婚約したからだ。本人が急いでいる様子なので婚礼も間もなくだろう。その妃となる女──南沙迦陵が、この祇嗣国女王、庚天河の側近中の側近であるのだ。皇后を輩出したとなれば国母の郷として属州国内での地位は絶対的になる。
(祇嗣は隣国との国境に面し、地政学的問題を抱えている)
国母の祖国が隣国に奪われるなどけっしてあってはならない。そういう意味でも、ついこの前まで、政治的にどうでもいい田舎国が、一気に帝国の最重要国にのし上がったのだ。たった一人の、十八という若い娘の策謀によって──
(庚天河、か。まったく困った娘が現れたものだ)
東利は身を起こし、寝台の横に置かれている台に手を伸ばした。薄い書物には部下がまとめた庚天河の出生と、その一族のことが記されている。書かれている文字を目で追いながら、この度の顛末を思い起こした。
ふた月前のこと──
祇嗣国の大公である庚宗恩が白刀に王の悪事について陳情にやってきた。納税すべき品々を天河が隠匿して私欲を極めているばかりか、皇帝に仇なす愚策を立てていると。そのことにより、天河は側近であり愛人との悪名高い迦陵を白刀に献上したのだ。
ところが、この迦陵は天河の密書を隠し持っていた。白刀は密書の内容を重く見て、大公には陳情の内容を鑑みると述べ、裏では真実の調査を行った。その結果、すべての元凶は大公であり、命の危険に脅かされている天河は男として王の位をいただきながら、大公排斥の機会を窺っていたのだ。と同時に、迦陵の色香に白刀が惑うように仕向けたのだ。
かくして庚天河の思惑通りに事は運んだ。大公は謀反の罪によって断罪され、迦陵は白刀の妃に選ばれた。
(で、俺は世間知らずの小娘の家庭教師に任命され、こんな田舎国に飛ばされたってわけだ。まぁ、手並みは鮮やかで、拍手喝采ではあるがな)
──祇嗣王から頼まれたことがある。それが正直、納得できるが少々頭の痛い問題だ。自分はずっと楼閣に閉じ籠もりっきりで人のツテもなければそれを判断する能力もない。それゆえ子種を授けてくれる夫になる者を推挙してほしいと頼まれた。
──今回の騒動で祇嗣の政を行っていた多くの役職者を解任した。頂に立つ王は経験もなくば人脈もない。つまり、ド素人どもが右往左往しながら国家を運営しようとしている。きっとろくでもない物ができよう。さらに祇嗣王は近い将来、夫を迎えて子を生すだろう。その間も滞りなく政は行わねばならない。権力を手中に収めようとする輩が出ないように目を光らせてもいなければならん。つまり、祇嗣には指揮者が必要だ。間違えるなよ、指導者ではないぞ。細部にまで滞りなく指示して操ることができる指揮者だ。お前、適任ではないか。
(適任、か。ええ、そうでしょうとも。キガとはこれからひと悶着ありそうな気配だ。祇嗣の体制は早急に整えなければならない。それなのに当事国にはそれができそうな人物がいない。ならば皇帝が人材を派遣しなければならない。それが俺だった、ってこと。確かに確かに)
キガとは壮菱帝国と国境を接している隣国、キガ帝国の名だ。帝位して十年になる愚帝はこの度妃を迎えたのを機にその態度を一変させ、賢帝として私欲を貪る貴族や官吏たちの一掃を図っているのだ。これが落ち着き、国内体制が整えば、周辺国に牙を剥くのは目に見えている。そうなる前に手を打たねばならない。まずは国境警備の整備と、隣接国である祇嗣との信頼関係の構築が必要だ。
そんな状況を天河は睨み、今回の策を弄してきたのだ。
(大公の排斥と、隣国との関係を鑑み国富増強を図るとはな。というか、考えれば考えるほど、空恐ろしい娘なんだが……いったいどんな面構えをしているのだろう。鬼神のような容姿なのだろうか? うーむ)
その天河の居城は目前だ。明日、午前中には王都に入る。そのまま王城に行き、天河との面談の運びになっている。
(鬼神か……まぁ、取って食ったりはしないだろうが、鬼神の夫を探すのは骨が折れそうだ)
などとぼんやり考えているうちに、やがて規則正しい寝息が聞こえ始めた。
そして──その時がきた。
東利は喜彰を筆頭にした部下五人を引き連れ、祇嗣国王城に踏み込んだ。広い部屋に通され、大きな円卓を囲んで腰を落ち着ける。が、少々驚いた。こういう場合、謁見の間に通され、高座に向けて傅くのが習わしだ。それが円卓を囲んでの面談となれば、まったくの対等扱いである。謙遜にしても度がすぎる。それは逆に東利に警戒感を抱かせた。
「間もなくお越しになります」
正装した年配の女官が恭しく述べて去っていく。と同時に、コツコツと床を叩く高い音が聞こえてきた。
「女王陛下のおなりーー!」
声とともに扉が開き、人影が現れる。それに合わせて東利たちも立ち上がった。
(え──)
刹那に東利の両眼がこれ以上無理というほど見開かれた。いや、東利だけではない。全員が絶句して立ち尽くしている。
「我が祇嗣へようこそ、主事殿。祇嗣国女王、庚天河だ」
「こ、こちらこそ、女王陛下。斎珠東利にございます。お会いできて恐悦至極に存じます」
「遠路はるばるお越しいただき痛み入る。立っていないで、かけてくれ」
そう言って微笑む姿のなんと可憐なことか。だが、その存在は言葉に表しにくいこと甚だしい。涼やかで整った顔は愛らしいことこの上ない娘ではあるが──装いがあまりにも常識を逸脱しているのだ。
長く艶やかな黒髪は後頭部で一括りにして組紐で結ばれている。身につける衣装は通常女が着るものではなく、体をすっぽりと隠してしまう外套を羽織り、腰には幅の広い帯革、下穿きは短袴、膝まである紐によって縛り上げる革の長靴。いったいどこの国の人間だという身なりだ。東利たちは文字通り度肝抜かれた。
「主事殿?」
「あ、いえ、なんでも。では、お言葉に甘えて失礼いたします。お前たちもかけなさい」
部下にそう言い、東利は椅子に腰を下ろした。が、驚きはいまだ引かない。妙な緊張で喉が渇く。思考が乱れる。こんなことはいまだかつてなかった。あの時、白刀が実父である皇帝を討つと言った時ですら。
(なんだ、この娘は。いや、身なりが妙だというだけではない。この娘から感じる、この──迫力)
斎珠東利、人を目の前にして生まれて初めて頭が真っ白になった瞬間であった。
──皇帝の側近中の側近である主事の斎珠東利がやってくる。
その知らせを受けた時、天河は思わず大きなため息をついた。
(私はよほどダメな人間だと思われているんだな。まぁ、そうかもしれないけど)
侍女であった南沙迦陵を皇帝に献上するという案は我ながら大当たりだと思っている。女に興味がないという噂ではあったけれど、皇帝が強気な男であり、また年の離れた腹違いの妹を大事にしていると聞いていたので確信はあった。
庇護欲が湧くほど可憐でひ弱く、それでいて健気な女が好きなはず──と。
自分と違って迦陵は可憐で優しく、そして凛とした芯がある女だ。溢れる愛情を注ぎ、そのくせいかなる苦しみの中でも責務を果たす。男なら気に入るはずだと思っていたし、現に側近の護衛士たちの間では人気であった。
若き王を誑かしている毒婦という触れ込みのおかげで、彼女を敬遠しているのは欺かれている連中であって、真実を知っている仲間たちは迦陵の器量についてはお墨付きだ。だから皇帝が嫉妬のまなざしを向けてきた時、勝ったと思った。
が、対して自分は女としてはまったくの落ちこぼれである。だから恥を忍んで頭を下げ、婿を選んでくれと頼んだのだ。
王配の立場に傲るような男であっても、惚れ込んでしまえば盲目になりそうで怖い。それでは国が傾く。だが皇帝が推挙する男なら、溺れてしまっても大丈夫だろうと考えたのだ。むしろ皇帝の息のかかった男のほうがいいだろう。それゆえ女としての自分の評価が低くても文句はないのだが、まさか皇帝の腹心である主事が自ら出向いて祇嗣の政を指揮することになろうとは。
はぁ、と盛大にため息を落とせば、傍で茶の用意をしていた女官が心配そうな顔を向けてきた。
※この続きは製品版でお楽しみください。