【試し読み】10年ぶりに恋、始めます~年下上司の一途な愛情~

作家:加地アヤメ
イラスト:千影透子
レーベル:夢中文庫セレナイト
発売日:2020/7/10
販売価格:600円
あらすじ

霜鳥晴、30歳。恋より男より、ぬか漬けが好き。恋愛はしたい相手が見つかったらすればいい。そう思って10年、恋人はおろか好きな人もできない。そんな晴のもとに、28歳の上司・白砂が赴任してくる。そしてある日を境に、晴は白砂から頻繁に誘いを受けるようになって……「霜鳥さんは、年下の男はお嫌いですか」――突然始まった、年下の上司・白砂からのしつこいほどの猛アプローチ! 恋愛する気はないときっぱり断ったはずの晴だったけど、気持ちは次第に白砂へと傾いていき……? 平穏だった晴の日常に突如訪れた、10年ぶりの恋の気配。白砂の一途な想いに、凝り固まった晴の心も次第にほぐれていくかのように思えたけれど……

登場人物
霜鳥晴(しもとりはる)
過去の苦い経験により恋愛には消極的。現在は仕事と、趣味のぬか漬けに没頭している。
白砂賢人(しらすなけんと)
晴の所属する部署に赴任してきた年下上司。端整な顔立ちをした長身のイケメン。
試し読み

一 霜鳥晴、三十歳。恋より男よりぬか漬けが好き

 霜鳥しもとりはる(三十歳)の朝は、鋳物の鍋を火に掛けることから始まる。
「さあ、美味しいごはんになれ~」
 わくわくしながら蓋をし、炊いている間に味噌汁の準備に移る。
 煮干しと鰹節でとった出汁に、冷蔵庫の余り野菜を入れ信州味噌を溶く。麹入りの甘めの味噌で作る味噌汁は、寝起きでぼんやりする頭を目覚めさせてくれる……ような気がして、晴の朝ご飯には欠かせない。
 そして最後に、今、晴が、どハマりしているこれ──そう、ぬか漬けだ。
 冷蔵庫から取り出したのは、スーパーで売っている乳酸発酵させたぬかが入ったビニールの袋。そこに昨夜入れておいたきゅうりと、蕪と人参。それらを流水で洗い、適度な大きさにカットする。
 切ったついでに端っこを食べると、いい塩梅に漬かっていて、美味しくできあがったことに自然と頬が緩んだ。
(あー、うま……)
 着替えを済ませテレビを観ているうちにお米が炊けた。ぬか漬けと味噌汁をそれぞれ漬物皿とお椀に盛り、リビングの小さなテーブルに運び準備は完了。
 正座をして、いただきますと両手を合わせ、ご飯茶碗を手に持った。
「美味しい……」
 炊きたてのご飯の、その美味しさに体から力が抜ける。
(やっぱ朝はこれじゃないとね)
 鍋で炊いたご飯とぬか漬けの美味しさにハマってから、晴の朝ご飯はずっとこれだ。

 食事を終えた晴は出勤の準備に入る。デンタルケアをした後、顔にはナチュラルメイクを施し、肩より少し長い髪はきっちり一つ結びが晴の定番スタイルだ。
 長年このスタイルを維持している晴だが、別にこうあるべきというポリシーがあるわけではない。ただ単に自分の外見にあんまり興味がないからだ。
(人を不快にさせない程度に清潔感のある格好を心がけています)
 家を出て早歩きで最寄りの駅に行き、電車に揺られること三十分。勤務先である飲料メーカーの本社に到着した。
 晴が所属する部署はマーケティング部。新商品の売れ行きや、消費者へのアンケートを実施してデータを収集し、それを元に営業部と販売戦略を練るという役割を担っている。
 大学を卒業後、新卒で入社して数年経つが、この会社の居心地はいいと晴は思う。
「霜鳥さんおはようございます」
「おはようございます」
 部署に到着し、数名の社員と挨拶を交わす。
 同じ部署の社員は、部長と課長数人を除くとほとんどが晴よりも若い社員で、男女の比もほぼ半々だ。
 若い社員が多いというのは、部署内に活気があっていい。
 ちなみにこの会社は社内恋愛を禁止していないので、交際をオープンにしている社員もちらほら存在する。同じ部署にも何組か交際中のカップルがいる、という情報だけは晴の耳にも入っている。が、実際のところはどうなのか、正直晴はよくわかっていない。
 というのも。
「晴はさ、もっと自分からぐいぐいコミュニケーション取りに行かないと! だからまだ若いのにおつぼね扱いなのよ~」
 昼休みに社員食堂で晴と一緒に食事をとるのは、同期入社の友人である森田もりたすみれ。
 彼女は晴と同じ部署に勤務した後、営業部に異動になり、今では営業成績トップクラスのやり手社員だ。
 すみれは顔立ちが整っていて、社内では美人だと有名だ。現に食事をしている今も、男性社員の視線を一手に集めている。しかし本人はそんな視線などまったく意に介していない。というか、彼氏以外の男性はまず視界に入らないのだそうだ。
 美しさをひけらかすことなく仕事に打ち込み、彼氏一筋。そんな友人を、晴はいつも格好いい女だなと思っている。けど、会う度に内向的な自分の性格をどうにかしろと迫られるのは、ちょっとだけうんざりしてしまう。
「またそれ……別にいいんじゃない、このままでも。それに実際、部署の女性では私が一番年上なんだし」
 今日の日替わりランチのメイン、鶏胸肉のトマトソースがけを口に運びながら、晴がしれっと答えると、すみれは厳しい表情で首を横に振った。
「いやいや、よくない。晴、あんた、若い子の間で【がっかり美人】なんて噂されてるの知ってるよね?」
 はい、知っています。
「……別に他人になんと言われようと私は気にしないけど」
「私が気にするの! 大事な友達がそんなふうに言われてるの我慢できないのよ」
 毎回この話になると、なぜかいつも最後はすみれのほうが泣きそうな顔をする。
(そんなこと言われても、気にならないものはどうしようもないし……)
【がっかり美人】
 周囲が自分のことをこう呼んでいるのを、晴だって知らないわけじゃない。
 がっかりも何も、そもそも美人なんかじゃない。その噂を聞く度にげんなりしながら反論したい気持ちをグッと堪えるのにも、もう慣れた。
(美人なのはすみれだと思うけど)
 などと思いながら定食を食べ進めていると、いきなりすみれが、パッとその美しい顔を輝かせる。
「そうだ! こうなったら若い子がびっくりするくらいすごいイケメンとか御曹司とかと結婚したりすれば、もう晴のことがっかりとか言うヤツはいなくなるんじゃないかな」
 すみれの突拍子もない提案には、晴も苦笑してしまう。
「いやいや、そんなの無理だって。それに、私、結婚願望ないし」
「ええ~……まだないの~? もうさー、昔のクソみたいな元カレのことなんか忘れてさっさと違う人を見つければいいのに。私なんか今すぐにでも結婚したいのになあ……」
 わかりやすく口を尖らせるすみれを見つめ、ふふ、と晴は微笑む。そして周囲を見回してから口に手を当て、小声ですみれに尋ねる。
「結婚の準備は順調なの?」
 すみれには付き合って三年になる彼氏がいる。合コンで知り合った、外資系企業に勤務する男性だ。
「うん。今度ドレス選びに行ってくる。カタログは見てるんだけど、量が多くってもう何を選んだらいいのか……」
 困っているような口ぶりだが、顔が笑っているところを見ると、きっと嬉しくて仕方がないのだろう。
 そんなすみれを見ているだけで、晴は自分のことのように幸せな気持ちになる。
(すみれ幸せそうだなぁ……でも、私は恋愛に幸せを求めてないからいいんだけど)
 今すみれがチラッと口にした【クソみたいな元カレ】というのは、そのまんまの意味で。晴が恋愛できない原因を作ったのは、何を隠そう元カレなのだ。
 十年ほど前。同じ大学の友人関係から発展し恋人同士になり、晴もそれなりに楽しく恋愛をしていたときはあった。だけど、何の予兆もなくある日いきなり別れを告げられてしまった。
 驚いた晴が理由を尋ねると、元カレは苦々しげにこう言ってのけた。
『お前、顔は美人だけど一緒にいてもつまんねえ。もう飽きた』
 つまらない。飽きた。この言葉に晴は大きく傷ついた。
 元カレは晴にとって初めてできた恋人だった。彼のことが好きで、もっと彼に好きになってもらいたくて一生懸命彼に尽くしていたから、余計に振られたことがショックだった。
(私が彼にしてきたことは、全て間違いだったの?)
 自分の行動を思い返し、あれがいけなかったのかも、これがいけなかったのかもと後悔しては落ち込む。そんな日々を数週間送っていた、ある日。
『晴、ご飯食べに行こ』
 当時仲良くしていた大学の友人が、落ち込む晴を誘って食事に連れて行ってくれた。
 そこで落ち込んでいる理由を尋ねられ全てを打ち明けたところ、その友人はきっぱりとこう言った。
『あんたはつまんなくなんかない。その男がつまんねえヤツだったんだよ。それに別に恋なんかしなくってよくない? 自分が楽しいと思うことだけすればいいじゃない』
 その言葉に晴の目からポロリと大きなうろこが落ちた。
 なんでもないことのようだが、意外とそう思うだけで気持ちが急激に楽になり、悩み、落ち込んでいたことが馬鹿らしいとすら思えた。
 うまく恋ができないなら無理にすることはない。ただ、それだけのこと。
 だから晴は、その日以来自分がしたいことだけに情熱を傾けてきた。恋愛はしたい相手が見つかったらすればいい。それまでは一人で自由に生きようと決めた。
 その結果、幸か不幸か恋をしたいと思えるような人に出会うことなく、十年の月日が流れてしまったのだが。
「でもさ~、本当に十年もの間好きな人一人もできなかったの?」
 いつの間にやら食事を終えたすみれが、周囲を気にしながらぼそっと晴に問いかける。
「うん」
 この十年間のことを思い出しながら正直に頷くと、すみれはわかりやすくがっかりした。
「なんてこと……」
 項垂うなだれるすみれを見ながら、晴は苦笑する。
(だって、本当に出会わなかったんだもの)
 もちろん晴だって男性に対して外見が好みだとか、優しくていい人だと思うのは普通にある。テレビだって、好きな俳優さん目当てで観ることも多い。だけど、恋愛となるとやっぱり話が違ってくる。
 まだこのままでいい。やりたいこと、好きなことだけして生きていきたい。
 晴の考えは、十年前と何ら変わらない。
 しかし晴のこんな日常が、ある人物の登場によって大きく変化することになる。
 このときの晴は、まだそれを知らずにいた。

 その人物とは、晴の部署に異動でやってきた男性のことだ。
 晴も中部支社から新しく社員が赴任するのは噂で聞いていた。しかし、実際の彼を目の当たりにした途端、部署内がここまでざわつくとは思っていなかった。

白砂しらすな賢人けんとです。どうぞよろしく」

 月曜の朝礼で社員の前に立ち挨拶をするのは、端整な顔立ちをした長身のイケメンだ。低音の美声で言葉を発する度に、この場にいる社員……いや、女性社員からはため息が漏れる。
 長めの前髪はワックスで整えられ清潔感があり、その下にある目は切れ長でとても涼やか。こんな目で見つめられたら、腰から力が抜けてしまう女子などいくらでもいそう。
 これはこの部署……いや、社内でもほとんど見かけないレベルのイケメンだ。晴は、こりゃとんでもないことになるぞ、と思った。
「うわ~、か、かっこいい~~……」
 声に反応し晴がそちらを見ると、若い女性社員達が皆、白砂を見つめぼーっとしている。
(まあ、そうなってしまうのもわからないではないけど……)
 すると四十代後半のロマンスグレーな部長が、皆の視線を引くためにコホン、と咳払いをした。
「えー、白砂君は中部支社の営業部で数々の実績を残した優秀な社員でして。その手腕が認められ、この度まだ二十八歳という若さながら我が社では異例の課長職に就くことになり……」
 何の気なしに部長の話を聞いていた晴は、今の一言にハッと我に返る。
(ん? 課長職? このイケメンが?)
 それに今、部長の口から彼の年齢が二十八だとも明かされた。とはつまり、この男性は自分よりも年下。しかも課長ということは、主任である自分の上司にあたる。
 その事実に、晴はしばし口を開けたままぽかーんとしてしまう。
(と、年下の上司か……)
 若い社員が多い会社だから、いつかこんな日が来るのではと覚悟はしてた。が、まさかこんなに早く来るとは思わなかった。
(まあでも、こればかりは仕方ない)
 仕事は仕事と割り切って、年齢は気にせずこれまでのようにやるしかない。
 そんなことを思いながら晴が白砂に視線を移すと、なぜかこちらを見ていた彼と目が合う。しかもその途端、白砂の口元には微かな笑みが浮かぶ。
(ん……?)
 微笑まれたことに驚きつつ、つられて晴も笑顔を返す。そのまま見つめ合うこと数秒。部長に声を掛けられた白砂が先に目を逸らした。
(社交辞令……?)
 晴が胸の中で小首を傾げていると、白砂は他部署への挨拶回りのため部長と一緒に部署を出ていった。その途端、若い女性社員が口を開く。
「いや~……あんな格好いい人が上司だなんて、超ラッキー!!」
「だよねー、すっごいイケメンだった……これから毎日あのお顔が拝めるなんて、眼福……」
 女性達が感動している姿を横目に、晴は静かに自分の席に着き、淡々と仕事を開始したのだった。

 白砂がマーケティング部にやってきて数日が経過した。
 最初は容姿ばかりが注目されがちだった白砂だが、日を追う毎に彼の実力が明らかになった。
 着任早々売れ筋商品の販路拡大はもちろんだが、彼が重点的な見直しを図り出したのは、売れ行きが停滞している商品に関して。
 ここ数年のその商品に関する消費者の意見データを再度集め、商品開発部や営業部と連携し販売戦略の練り直しを率先して企画するなど、白砂の行動力は半端なかった。
 と言っても強引ではなく、あくまで穏やかに他の社員の意見も汲み取りながら、スムーズに事を進める。それが非常にうまい。
 白砂と同じ案件に関わった社員が彼の手腕を手放しで褒めており、彼はこの短期間で同僚のハートをすっかり鷲掴みにしたようだった。
 頑張れば彼のように二十代で課長職になることができる、と若手社員は希望を与えられ。外見だけでなく仕事ぶりもイケメンで、結婚したい男性社員ぶっちぎり一位! と女性社員は色めき立ち。
 白砂が異動してきただけで、かなりの活気と勢いをこの部署に与えることになった。
 しかし、そんな中いつもと変わらず淡々と仕事をこなす社員がいた。そう──晴だ。
(私、あんまり接点ないから……)
 周囲がどんなに白砂で盛り上がろうとも、晴のモチベーションはこれまでとあまり変わらない。ただ、白砂効果もあり以前より仕事量は増えたと実感はしている。
(私は書類の作成やデータの打ち込みが主な仕事なので、実際のところ白砂課長と絡むことはあんまりないんだよね)
 ちなみに白砂に対し最初に感じた年下の上司に対する不安、もしくは苦手意識のようなものは、彼の仕事ぶりを目の当たりにしているうちに少しずつ薄れていった。
 年下であろうがなんであろうが、仕事ができる人がここに来てくれたのはいいことだ。
 そう思いながら、晴は白砂フィーバーに沸き立つ部署内を遠巻きに眺めていた。

※この続きは製品版でお楽しみください。

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