【3話】溺甘弁護士の真摯なプロポーズ~三年越しの約束を、もう一度~
「藤崎先生!」
歩き始めたばかりの私たちの背中に女性の声が飛んできた。
何事かと驚いて声のした方を振り向くと、カツカツと音を鳴らしながら高いヒールでこちらに駆けてくる女性が視界に入った。
旭と同じ法律事務所に勤務する、弁護士秘書の加賀美さんだ。
彼女は目の前で足を止め、肩で息をしながら柔らかく微笑んだ。その視線は旭にしか向けられていない。
「よかった。まだいた」
「加賀美さん。どうした?」
「これ、忘れています」
茶封筒を差し出した加賀美さんの手から旭はそれを受け取る。
なんだろうと思ったけれど、仕事絡みなら守秘義務があるので迂闊に尋ねたりできない。
ふたりの会話を静観しながら、旭と繋いでいない方の手を胸にあてた。
加賀美さんの突然の登場に、まだ心臓がびっくりしていて動悸が激しく胸を打ち鳴らしている。
「わざわざありがとう。明日でもよかったのに」
「え? そうなんですか? てっきり今日必要かと……」
加賀美さんは眉を下げて、自分の思い違いを恥じるように笑う。
「いや、あった方が助かるよ。ありがとう」
「あの、ちょっとうかがいたいことが……」
「ここまで来てもらって申し訳ないんだけど、これから大事な用があるんだ」
私の存在は気にも留めず話続けようとする加賀美さんの声を遮るように、旭は淡々とした口調で言葉を重ねた。
ちらりと私の表情をうかがった旭は、また顔を加賀美さんへと戻す。
「時間がないから、失礼してもいいかな?」
「あ、そうなんですね」
そう答えた、口紅を丁寧に塗ってある口元が引きつったように見えた。
彼女が旭へ特別な好意を抱いているのは誰の目から見ても明らかだ。だから私は加賀美さんと対峙すると胸騒ぎがして落ち着かない。
加賀美さんは文乃ちゃんと同じ大学の法学部だったそうで、文乃ちゃんからは、『私たちはタイプが違うので顔見知り程度です』と聞いている。
落ち着いている文乃ちゃんとタイプが違うというのは、何度か加賀美さんと会ううちになんとなく理解できた。
加賀美さんはいい意味で女性らしく、可愛らしい女の子という印象。
「それなら夜に電話をしてもいいですか?」
媚が含まれているように聞こえる声音に、胸のあたりがモヤモヤとする。
恋人の私が目の前にいるのに今それ言う?
彼女が旭のもとについてから二年余りの間に、何度か敵意を感じる態度を取られている。
こういうのは女性の方が敏感だし、旭が加賀美さんの思惑に気づいているのかは分からないけれど……。
「今夜は難しいから明日の朝一で聞く。もしくは、別の人に聞くといいよ」
旭の淡々とした口調と対応に胸を撫で下ろした。
加賀美さんは弁護士秘書だが、昨年からパラリーガルとして働きたいと考えるようになり、現在旭のもとで勉強中の身らしい。
ふたりでいるとき、かなりの確率で加賀美さんから電話がかかってくる。きっと毎日のように、勤務時間外でも旭に電話をしているのだろう。
旭は優しくて真面目だし、さらには面倒見がいいので、加賀美さんの行動に嫌な顔ひとつせず対応している。
そんな彼を立派だと思う反面、鬱屈とした気持ちを抱いている。
「藤崎先生に教えていただきたいので明日にします」
「悪いね。お疲れさま」
さらりと言って、方向転換をした旭につられて私も一歩前に足を踏み出す。
「……お疲れさまです」
背中で聞いた加賀美さんの返事にそろりと顔だけうしろを向く。すると射るような視線とかち合って息が止まりそうになった。
すぐに顔を戻して大きな深呼吸をする。そうしなければ全身が震えてしまいそうだった。
彼女は目つきが悪いというわけではない。それなのに鋭い眼差しを見る機会が多いのは、やはり私を睨んでいるからだろうか。
旭はモテる。交際している八年間で何度も告白されていた。
その都度私に心配かけないようにと報告してくれるのだが、聞いたら聞いたで不安になる。
歩きながら隣を見上げると、旭は「どうした?」と足を止めた。
なんでもない、と首を振ろうとしたところで、スーツの襟で光り輝くバッジに「あっ」と目を見開く。
「裏返してないよ」
私に指摘されて旭は自身の左胸に手をやった。
「急いでいたからうっかりしていた」
しっかりしているようで実は抜けているところがあり、そんなところを可愛いと思っている。