【試し読み】堅物旦那様の不器用な溺愛~花を売りたい男爵令嬢、騎士団長の花嫁に~
あらすじ
「花売り」の仕事が稼げると耳にしたシルックは、没落寸前の家を少しでも助けられると喜び、娼婦の隠語とは知らず早速兄に相談を試みる。だが帰宅した邸には兄の友人であり、苦手なウーノの姿が。話題に困り花売りのことを語ったシルックに、彼は声を荒げ「ならば、俺と結婚するがいい。そうすれば家の借金はすべて返してやる」と苦々しく告げた。意図は分からずも、名門伯爵家の嫡男であり王宮騎士団長のウーノに嫁ぐことは、花を売るよりも確実に家を助けられると悟り、シルックは彼の妻になることを決意。始めこそ彼との生活に不安を抱いていたが、ウーノは不器用ながらもシルックを慈しみ、そして毎晩彼女を抱きたがるのだった――
登場人物
没落寸前の男爵家令嬢。借金を返すために稼ぎのいい「花売り」の仕事をしようとするが…
シルックの兄の友人であり、王宮の騎士団長。強面で無愛想なためシルックに怖がられている。
試し読み
一章 花を売るか、妻になるか
「花売りになればいいのよ。そうすればきっと、お家の借財も返せるわ」
久しぶりに顔を出した下位貴族の令嬢同士のお茶会で言われたその言葉を聞いて、シルックは目を丸くした。
(花売り? お花を売ると、そんなにお金になるの? すごいことを、聞いてしまったわ)
シルックは口に含んでいた紅茶をこくりと飲みながら、素直に感心してしまう。
『花売り』というのは、当然『花屋』のことではない。しかし八つ年上の過保護な兄に大事にされて育ってきたシルックは……それが『娼婦』の隠語であることを知らなかったのだ。
シルックの生家であるシロラ男爵家は、現在没落するかしないかの崖っぷちにある。いや、半分くらいは崖から落ちてしまっているのかもしれない。
父と兄、そしてシルックの三人で慎ましく暮らしていた頃は、シロラ男爵家の内証はそれほど苦しいものではなかった。しかし六年前……シルックが十二歳の時。流行り病で亡くなった母一筋であった父が、旅芸人の女性と突然恋に落ちたのだ。それからシロラ男爵家の状況は一変した。
その旅芸人はシロラ男爵家に嫁入りして『継母』となり──散財の限りを尽くしたのだ。
久しぶりの恋に浮かれた父は継母に対して盲目で、兄の制止を聞かずに彼女の言うことをなんでもきいた。そしてシロラ男爵家の財政はあっという間に傾いてしまったのだ。
亡母からの罰なのか。半年前に母と同じ流行り病で父が亡くなり、跡を継いだ兄が継母を追い出した時には、家は借財だらけで火の車。兄とシルックは頭を抱えることになったのだ。
家の立て直しに奔走し、いつも眉間に深い皺を寄せるようになってしまった兄のことを、シルックは心の底から案じている。
そしてなにかできることがないかと悩んでいたところに、借財が返せるくらいに儲かるという『花売り』の話が舞い込んだのだ。
「ご親切にありがとう! ……花売りというのは、私でも務まるお仕事なのかしら?」
美しい翡翠の瞳を輝かせながら無邪気に礼を言うシルックに、『花売り』のことを吹き込んだ子爵令嬢のリタは怯んだ様子を見せる。しかしすぐに、口元に一見優しげに見える笑みを浮かべた。
「ええ。シルック嬢なら、人気の花売りになれると思うわよ」
そう言うとリタは、仄暗さを湛えた視線をシルックに走らせた。
シルックは、非常に人目に立つ容姿をしている。繊細な質感の腰までの銀色の髪に、眦がおっとりと下がった大きな緑の瞳。そのミルクのように真っ白な肌は、滑らかで美しい。そして神々しい印象を抱いてしまうくらいに、整った顔立ちをしている。体つきは華奢で、しかしその胸は見るからに豊かだ。
リタの口から、小さく舌打ちが漏れる。それは本人も意図しなかったもののようで、彼女は慌てて扇子で口元を押さえた。
「本当に、借財が返せるくらいにお金をいただけるのかしら」
舌打ちには気づかず、シルックは質問を重ねる。するとリタは取り繕うように、にこりと人のよさげな笑顔を浮かべた。
「ええ、きっといただけるわ」
「まぁ、そうなの! ではさっそく帰って、お兄様にお花を売っていいか相談してみるわ。そろそろ時間ですし、今日は失礼しますわね」
お茶会はちょうどお開きの時間に近かった。シルックは花が綻ぶような笑みを浮かべてから、品のいい一礼をする。春風のような爽やかさを残しながら去って行くシルックの後姿を、令嬢たちはあっけに取られた様子で見送った。
(お花ってどこで仕入れるのかしら? うちの庭園にあるものは、きっと販売をするには向いていないわね)
シロラ男爵家の庭園には、季節ごとに色とりどり咲く花々……ではなく野菜や香草、薬草などの実用的なものばかりが植えられている。腹が膨れないものを育てる余裕なんてものは、シロラ男爵家には存在しないのだ。
(お兄様に訊いてみればわかるわね。お兄様は賢いもの)
シルックは王宮で文官として勤めている、兄の姿を思い浮かべた。
八つ年上の兄、ヴィルヘルムはその賢さと気働きのよさで宰相に気に入られている。そんな兄の存在は、シルックの誇りだった。
「ふふふ、私でもお兄様の助けになれる道があるなんて。本当によかった!」
「お嬢様、えらくご機嫌ですね」
馬車止めで待っていたシロラ男爵家の御者が、鼻歌でも歌い出しそうなシルックを見て目を丸くした。
「いいことを教えていただいたの。素敵なご友人がいてよかったわ」
「いいこと……ですか?」
「ええ、そうよ」
シルックはにこりと笑みを零すと、ひらりと馬車に飛び乗る。御者はその微笑みにしばらく見惚れた後に、慌てて御者台へと向かった。
*
シロラ男爵家へと戻ったシルックは、玄関扉を開こうとした。しかし扉はギシギシと音を立てるだけでなかなか開かず、悪戦苦闘してしまう。すると音を聞きつけたらしい執事のアドが、慌てて畑の方からやって来た。彼は畑仕事をしていたところだったようで、執事服はところどころ泥に塗れ、首からは汗を拭うための布がかかっている。
(うちが貧しいから、執事の彼にこんなことをさせてしまって……)
執事らしからぬアドの姿を目にして、シルックは申し訳ない気持ちになってしまった。
「お嬢様、お帰りなさいませ。お出迎えもできず……!」
「いいのよ、アド。畑仕事をありがとう。それでね、扉が開かないの……」
「木枠が歪んでしまったのか、金具が錆びてしまったのかはわかりませんが、開けるのにコツが必要になってしまいましたねぇ」
そう言ってからアドはパンパンと両手についた泥を払い、ドアノブを握って、体重をかけながら扉を引っ張る。すると扉は、悲鳴のような音を立てながらようやく開いた。
「ごめんなさいね。修理をするお金が……うちにはなくて」
「いえいえ、ちゃんと開きますので平気です。ささ、どうぞ」
──これは『ちゃんと』と言うのだろうか。
そんな疑問を持ちつつもアドに促され、シルックは屋敷へと入る。すると妙にがらんとした、玄関ホールが目に入った。華美なものから、実用品まで。売れるものは売ってしまった。だから屋敷は、どこもかしこも隙間だらけだ。
(私が花を売って……この状況を変えないと)
畑仕事をする執事、壊れた家の扉、なにもない屋敷。それらを見て改めて家の窮状を実感したシルックは、そんな決意を強く固めた。
「アド。お兄様はお戻りかしら?」
「いいえ、ヴィルヘルム様はまだお仕事です。ですが……」
「ですが?」
「ウーノ様がいらしております。ヴィルヘルム様のご帰宅を、居間でお待ちになられていまして」
「…………まぁ、そうなのね」
『ウーノ』という名前を聞いて、シルックはほんの一瞬だけ眉間に皺を寄せた。
ウーノ・ラリヴァーラは、ヴィルヘルムの友人である。
ラリヴァーラ伯爵家の長男で、今年二十六歳。シルックの八つ年上だ。王宮第二騎士団の団長である彼はいわゆる軍部のエリートで、見目がよいため女性人気も高い。
そしてヴィルヘルムととても仲がよく、シロラ男爵家をよく訪れる。
シルックは……ウーノが苦手だった。
(だってあの方。私とお話する時には不機嫌そうなのだもの。きっと私のことがお嫌いなのだわ)
ウーノは、いつもシルックを見ると不機嫌そうな顔をする。そして語気もヴィルヘルムと話している時より、明らかに荒い。『いつもぼんやりしすぎだ』などの、お叱りめいたことを言われることもしばしばだ。
それは数年前に兄が彼を屋敷に連れてきた時からで、改善される兆しはない。
(だけどご挨拶はしないと……失礼よね)
シルックは憂鬱な気持ちで、小さく息を漏らした。
「アド。ウーノ様はいついらしたの?」
「一時間ほど前でございます、お嬢様」
「そう。では、ご挨拶をしてくるわね」
「はい、わかりました。新しい紅茶もお持ちしましょう」
アドと別れて居間へと向かう。そして扉の前に立つと、シルックは深呼吸をしてから扉を叩いた。
「なんだ?」
低くてよく通る声が返事をする。緊張でシルックはこくりと喉を鳴らした。
「シルックです。ウーノ様、失礼してもよろしいでしょうか?」
──扉の向こうでガチャリと茶器を落としたような音がした。そしてバタバタと慌てるような気配も。シルックはそれを聞いて首を傾げる。
「……ウーノ様?」
「少し紅茶を零してしまっただけだ。入りなさい」
(お茶を? 大丈夫かしら。一時間も前からここにいるなら、お茶はもう熱くないとは思うけれど……)
そんな心配を内心しつつ扉を開けると、ぴしりとよい姿勢で長椅子に座っているウーノが目に入った。
短めに切られた黒髪、精悍で彫りの深い顔立ち。日によく焼けた肌は野性味を感じさせる。令嬢たちが騒ぐのも無理がない外見だと、シルックはしみじみ思う。机の上に目をやると、たしかに紅茶を零した形跡がある。けれど服にかかった様子はないので、シルックはほっと胸を撫で下ろした。
つり上がった猛禽類を思わせる黒の瞳が、ギロリと向けられる。視線に射抜かれたシルックは、思わずびくんと身を震わせた。
「い、いらっしゃいませ。ウーノ様」
「ああ」
「その。では、失礼します」
「そんなに急いで、退出することもないだろう」
「そ、そうですね」
──だけど、貴方が怖いんですもの。
そんな気持ちは胸の奥へとぎゅっと押し込めて、シルックは微笑んでみせた。引きつり笑いになっていないといいわね、と思いながら。
「一人でヴィルヘルムを待つのにも、飽きたところだ」
「はい。……では、話し相手に」
お客様にそう言われてしまえば逃げられない。ウーノの正面の長椅子に緊張しながら腰を下ろすと、なぜかじろじろと無遠慮な視線を向けられた。
「ウーノ様? どうされたのです?」
「いや。いつもと雰囲気が違うなと」
声をかけると、ウーノはなぜか咳払いをする。今日のシルックはお茶会のために、いつもより華美な装いをしていた。それは他家のよそ行きと比べれば粗末なものだが、それでもふだんと雰囲気は変わる。
「はい、今日はお茶会でしたので」
「そうか。よく似──」
「失礼いたします。お茶をお持ちしました」
ウーノがなにかを言おうとした時。アドが二人分のお茶を持って居間にやって来たので、会話は中断されてしまった。言葉を遮られたせいなのか、彼はたちまち渋面になってしまう。
(一体、なにを言おうとしたのかしら?)
シルックはそんなウーノを見つめながら首を傾げる。視線に気づいたらしいウーノはますます渋い顔になりながら、新しい紅茶に口をつけた。
「……お茶会では、どんな話をしたんだ?」
テーブルが濡れていることに気づいたアドが、それを拭いてから居間を去った後。ウーノにそう問いかけられて、シルックは目を丸くした。そう言われても、お茶会でしたのは令嬢同士の他愛ない話ばかりだ。男性が聞いて楽しいものはないだろう。そう思いながらも、シルックはお茶会での会話を思い返し──
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