【試し読み】#13~一途な同期の不誠実な恋慕~

作家:鞠坂小鞠
イラスト:龍胡伯
レーベル:夢中文庫セレナイト
発売日:2021/8/24
販売価格:500円
あらすじ

6年付き合った社内恋愛の彼氏と別れて退職を決意した夏摘は、同期の小椋から経理の経験を見込まれ、副業の確定申告の手伝いを頼まれる。その副業がアクセサリーのハンドメイドであり、自分のお気に入りショップのオーナーが小椋だと知る夏摘。社長子息でありながら実力で昇進を勝ち取る彼の、意外なプライベートに驚く彼女だったが――「ずっと気になってたんだ、駒木さんのこと」彼は夏摘が常連客だと気づいていたらしい。しかも、彼の依頼の本当の目的は別にあるようだ。夏摘の耳を飾る輝きへうっとりと指を伸ばす小椋は、彼女が無自覚に隠した傷にも優しく触れる。そして、夏摘が必死に抑え込んでいた感情を揺さぶり始め……?

登場人物
駒木夏摘(こまきなつみ)
恋人と破局し会社を退職。再就職先を探そうとしていた矢先に同期の小椋から声を掛けられる。
小椋顕史(おぐらあきふみ)
夏摘の同期で会社の社長子息。副業としてハンドメイドアクセサリーを販売している。
試し読み

第1話 終わった恋と、ささやかな後始末と

 恋人と別れた。
 相手は、六年交際を続けてきた職場の先輩同僚だ。「別れたい」と切り出してきた相手の意を汲み、間もなく二ヶ月になる。
 六年。長かったような、短かったような……実際にはもう何年も目新しい場所へ出かけるデートなんてしていなかったし、さらに露骨なことを言うなら、もう何年も肌を重ねていなかった。
 駒木こまき 夏摘なつみ、二十八歳。今の会社には大学を出て勤め始め、今年で七年目になる。
 当社は、大手のハウスメーカーや工務店を相手に資材を取り扱う、いわゆる建築関連の専門商社だ。創業からおよそ四十年、法人営業を中心に事業を展開している。
 本社の他、他県にも複数の支社と営業所、それから直営の工場を構えている。本社の総務部に配属されて以来、七年弱、私はずっと経理の業務を担当してきた。
 経理……年度末、これから最も忙しくなる部署だ。だが、どうしてもと事情を伝え、このたび退職するに至った。今日から今月末まで、残った有給休暇を消化してから、正式に退職扱いとなる。
 実は一年くらい前から「別れたほうがいいかな」と考えていたが、さっさと実行に移してしまえなかったのは、相手と職場が一緒だからだ。
 社内の誰もが私たちの交際を知っている。そして、相手は退職など考えないだろう。となると、結局は私が貧乏くじを引く羽目になる。
 部署だって違うのだし、気にせず堂々としていればいい。そう言われてしまえばそれまでだが、生憎、そんなたくましい精神を持ち合わせているわけでもない。
 トンチキな時期に退職する私ではあるが、社内の同僚たちの視線はおおよそ優しい。私と元恋人の交際期間が六年にも及んでいたと皆知っているからか、ことさら女性陣からの同情の眼差しが厚かった。
 別れの決定的な理由は、社内の誰にも伝えていない。
 向こうが会社に残る以上、一方的にそんなものを投げつけて去るのも気が引ける。「立つ鳥跡を濁さず」とも言うし、できれば無難に去りたかった。
 決定的な理由こそあれ、他のさまざまな理由もぜになった結果の破局だ。別れの言葉こそ相手から切り出されたものの、私としても、もうだいぶ前から諦めの感情を抱き続けていた。
 そう。諦めだ。それだけの話。
「では、駒木さんの新しい一歩が輝かしいものでありますよう願って! 乾杯!」
「乾杯!」
「かんぱ~い」
 遠慮がちな挨拶の最後、自分がうじうじしていても仕方ないと割りきったらしい。直属の上司である課長の高らかな音頭の後、宴席は始まった。
 ささやかになってしまうけれど、と、課長や有志の同僚たちがこの席を用意してくれた。繰り返しになるが、長年の交際から破局へ至った私に、基本的には皆優しく親切だ。そしてもちろん、元恋人である魚住うおずみ 英也ひでやの姿は今日のこの席にはない。
 明らかな同情の視線に対し、正直をいえば居心地の悪さを覚えずにいられないが、それも今日で最後だ。こうした席を設けてくれた皆の厚意を無下にするのもためらわれたし、こんな時期に退職する私にも引け目はあった。
 皆、順に私の席を訪れては労いの言葉をかけ、粛々と自席へ戻っていく。
 その流れがひと通り落ち着いた後、思わずふうと吐息が零れた。
「あの……夏摘さん、なんか大変でしたね。お疲れ様でした」
「あ、ううん。私こそこんな微妙な時期に退職なんて、なんとも申し訳ない」
 ひと息ついた私へ、隣に座る同期の女性がお酌をしてくれた。慌ててコップを差し出して応じる。
 彼女──福永ふくなが 美都みつさんは、短大を卒業して入社した、ふたつ年下の同期だ。
 おっとりした、とても可愛らしい女性だ。プライベートでもいまだに言葉を崩したがらないが、今では互いに込み入った話も交わすようになった。
 配属されている部署こそ異なるものの、仕事で落ち込んだときや悩んだときなど、福永さんとは本当によく話した。今後、会う機会はほとんどなくなるだろうと思うと、うっかり涙ぐみそうになる。
「もしかして、地元に帰っちゃったりします?」
「うーん、それは最終手段かな。結婚だなんだって、最近は親も親戚もだいぶせっついてくるから」
「あ……そっか、そうですよね……」
 相槌を打ちながら、どうしてか福永さんこそが深々と顔を俯けてしまった。魚住の顔でも思い出したのかもしれない。
 これだから社内恋愛の破局はいただけないのだ。当事者もつらいが、周りにもまた気を遣わせることになる。あるいは、魚住と六年の交際を経て別れた私が、彼との結婚を視野に入れていなかったはずがないと思ったのかもしれない。
 とはいっても気にしないでほしい。私より福永さんが落ち込むの、おかしい。
 魚住と別れたのは前年の十二月、クリスマス直前だった。その後すぐに退職届を用意した。
 引き継ぎなどの都合で、それからふた月近く時間がかかってしまったのは仕方のないことだ。その間、退職後に地元へ戻ることももちろん考えた。けれど、どうしても面倒くささを拭いきれなかった。
 そのくらい我慢できなくてどうするの、結婚生活なんてもっと大変なのよ、あんたが我侭なだけじゃないの、もうすぐ三十歳だっていうのに──容易に想像がつく。
 主に年齢層の高い親戚勢、また、彼らにいろいろ指摘されがちな母から言われるに違いなかった。聞く前から母の声で脳内再生される始末だ。げんなりしてしまう。
「あ、そうだ。今日、小椋おぐらさんも来るって言ってましたよ。少し遅くなるけどって」
 気を取り直すかのように声のトーンを上げた福永さんは、言うや否や、にっこりと笑んでみせた。
 小椋さん──小椋 顕史あきふみ。彼もまた私たちの同期だ。そして、現社長の息子でもある。
 社長も小椋という姓ではあるが、皆、社長のことは社長と呼ぶ。小椋さんは小椋さんだ。私たちが入社する前はどうだったのか、それは知らない。
 七年目の同期のうち、本社に配属されて今も辞めていないのは、私たち三人だけだ。
 他県の支社や営業所、工場などへ配属されている同期も多い。だが、中には退職した人もいる。そんな中、とうとう私も抜けることになったわけで、柄にもなくしんみりしてしまう。
 とそのとき、襖の近くに座る女性陣がにわかに騒がしくなった。
 ふと視線を向けると、噂をすればというかなんというか、小椋さんがちょうど座敷に入ってきたところだった。
「すみません、遅くなりました」
 彼を取り囲む女性陣の中にありながら、小椋さんの視線はまっすぐ私へ向いている。気まずい。気まずいが、不自然ではない程度に頭を下げて応じる。
 ほぼ入れ替わりで席を立ったのは社長だ。去り際に再び私のもとへ立ち寄った彼は、「お元気でね、困ったことがあったらいつでも言ってね」とにこやかに微笑んだ。
 私もまた、頭を下げて「ありがとうございます」と笑み返す。社交辞令だと分かっていても、優しい言葉が胸に沁みた。
 皆、席の初めこそ神妙な面持ちで挨拶してくれていたが、しんみりした空気もすでにない。小椋さんも、私の席まで辿り着くよりも早く、襖側の女性社員たちに囲まれてしまっていた。大変そうだな、とぼんやり思う。わりといつものことだが。
 今の彼のポジションは営業課長補佐で、昇進を控えているとも聞いている。
 入社当時はよく話したが、今となっては完全に遠くの存在だ。今日もわざわざこんな席に時間を割いてもらって、別れを惜しむよりなにより、ただただ申し訳なく思ってしまう。
「こっち来れそうにないですね、彼。最後くらい同期で話したかったですねぇ」
「そうだね……まぁでも小椋さん、最近はすっかり雲の上の人って感じだしなぁ」
 福永さんと話しながら、ときおり遠目に小椋さんを覗く。
 社内の宴会はここ数年で徐々に減ってきていて、せいぜい新入社員の歓迎会や今回のような送別会が行われる程度だ。それも、部や課単位でこぢんまりと開くケースが増えている。
 今日は思ったより盛大だな、と感じてはいた。社長まで顔を出してくれた。もしかしたら、私が小椋さんの同期だからなのかもしれない。
 これまでは世襲でやってきたそうだが、社長は、後継を小椋さんに限定して考えているわけではないと聞く。息子だからといって小椋さんを優遇することはない、という意味だ。
 そんな中で、小椋さんは実力で昇進を決めている。私もまた、彼が優秀な人であるとは、入社して間もない頃から知っていた。
 目先の仕事に追われることなく、常に経営のことを念頭に置いている……それができる新入社員など普通はいない。私自身、最初の一、二年は仕事を覚えて慣れるだけで精一杯だった。
 入社当時は、社長の息子が同期にいるというだけで、無駄に緊張したものだ。
 彼に対する私の印象は、今も昔も変わらない。とにかくキチッとしていて大人っぽい、それに尽きる。齢は同じなのに、ふたつか三つ年上なのではと感じてしまうことばかりだ。
 自分で言うのもどうかと思うが、私は抜けの多い性格をしているし、面倒くさがりというか……怠けやすい自覚もある。そのせいか、余計に彼を敬遠してしまいがちだった。もちろん、私が勝手にそんなふうに感じているだけで、私を含めた誰に対しても、彼は分け隔てなく親切だ。
 結局、小椋さんと一度も言葉を交わすことなく、宴席はお開きとなった。
 時刻は午後八時を回ったところだ。元来太りやすい体質だから、夜の八時以降はできるだけ食べないと決めている。
 途中からは福永さんとほぼサシ飲みになってしまった。しかも、後半はウーロン茶ばかりすすっていた。
 だが、むしろ気楽だった。まだ賑々しい余韻が残る中、彼女と一緒に座敷を出る。
 一部の女性社員たちは二次会へ向かうらしく、小椋さんが声をかけられている様子も見えた。大変そうだな、と先ほどと同じ感想を抱く。
「じゃあ夏摘さん、私はここで。また遊びましょうね」
「うん。しばらくは暇してるし、今度ランチでも行こ?」
「はい……うう、寂しい……来週から夏摘さんが会社に来ないなんて……」
 今頃になってから泣きそうに表情を崩した福永さんの背を、私は少々慌てつつもぽんぽんと撫で、店先で彼女と別れた。
 この近くまで恋人が迎えに来ているという。彼女は地元もこちらで、その恋人とは小学生の頃からの付き合いだと聞いている。本人はいつも「ほとんど腐れ縁ですよ~」と笑うけれど、その笑顔がキラキラと輝いて見えるから、見ているこちらまで幸せな気分になる。
 愛されているのだろうとひと目で分かることも素敵だし、なにより、私の知らない世界だからそう感じるのかもしれない。
 小学生の頃からの縁……すごいな、と思う。純粋に。
 同時に、魚住と交際してきた自分の六年が、ほんのちっぽけな期間に思えてしまうのも事実だった。六年も無駄にした、などという考え方はしないほうがいいとしみじみ思う。
 なんにせよ、しばらくは職探しに忙しくなる。収入が途絶える以上、節約にも努めなければならない。だとしても、福永さんにも伝えたように、たまに一緒に食事へ出かけるくらいはできたらいいなと思う。
 小さくなっていく福永さんの背が、やがて角を曲がって見えなくなり、そろそろ私も帰るかと足を踏み出した──そのときだった。
「ああ、いた。駒木さん」
 名を呼ばれ、はっと背後を振り返ると、店の戸口の前に小椋さんが立っていた。
 私の送別会ではあったものの、まさか今日のうちに名指しで声をかけられるとも思っていなかったせいで、無駄に視線が泳いでしまう。
「あ、小椋さん……ええと、お疲れ様です」
 少し距離を開けたまま、私は深々と頭を下げた。
 先ほど福永さんに話した「すっかり雲の上の人」という言葉に嘘はない。同期であることより、営業課長補佐という肩書のほうが彼の印象としてはすでに強く、告げる挨拶は自然と丁寧な言葉遣いになる。
「駒木さんの送別会なのに全然話せなかったから……せっかくだし送るよ」
「えっ。大丈夫ですよ、そんな」
「歩きでしょ、帰り。それに俺もそろそろ解放されたい。やっとのことで逃げてきた」
 慌てて顔を上げて丁重に断ろうとしたところ、相手の表情に目を奪われる。
 げんなりと辟易した顔だ。珍しい。ついぽかんと見入ってしまう。
 よくよく考えてみると、入社当時には頻繁にそういう表情を浮かべていた気がする。
 社長の息子であること、社長自身は世襲を考えていないこと、それでも周囲のやっかみはそれなりに執拗だったこと……私の悩みとは形こそ違えど、彼もまたさまざまな悩みを抱えていて、同期のよしみで相談に応じたことも何度かあった。
 雲の上の人が、今よりももう少し身近だった頃を思い返し、ふと気分が和んだ。

※この続きは製品版でお楽しみください。

関連記事一覧

テキストのコピーはできません。