【試し読み】初恋エリート同期の溺愛攻撃~こじれた想いのほどき方~
あらすじ
「桐野橙子さん。――俺と結婚を前提に、お付き合いしてくれますか?」一目見たら忘れられないほどの美形。営業部のエース、同期の勇人に告白された橙子は、逃げ出した。――今や営業部のマドンナと呼ばれる橙子は、小学生時代「トン子」と名付けられるほどぽっちゃりとしていた。そんな彼女は過去三回も勇人に振られ、初恋をこじらせたまま二十七歳に。振られた相手からの告白に恐怖を抱くも、「トン子」と気づかず、食べている姿が好きだと言う勇人の言葉に切れ、仕返しのため交際を受け入れた橙子。勇人を振り回し、嫌われるため悪女を目指すも、勇人はどこまでも蕩けるように甘く、橙子を溺愛する。――橙子。諦めて、俺のものになって?
登場人物
すらっとした美人だが、小学生時代は「トン子」と呼ばれるほどぽっちゃりしていた。
イケメンエリート営業マン。過去三回も振ったはずの橙子になぜか告白してきて…
試し読み
1.二度あることは三度ある
「桐野さん」
橙子は、背後からかけられた声にはっと振り返る。
直後、眼前にドアップで映ったとんでもない美形の姿に、思わず口の中いっぱいに頬張っていた唐揚げを一気に飲み込んでしまった。
「うっ……!」
それは予想外に大きな塊だったらしい。苦しさから呻く橙子に、声をかけてきたイケメンはすかさずグラスを差し出した。
「はい、お水」
橙子は奪い取るようにその中を一気に飲み干す。
ごくん、と喉に詰まりかけていた唐揚げの残骸を押し込むと、ようやく息を吐くことができた。
「大丈夫?」
「……見苦しいところを失礼しました。お水をありがとうございます、藤倉さん」
「俺の方こそ、突然話しかけてごめんね」
そう言ってにっこりと人好きのする笑みを浮かべた瞬間、他の女性社員がうっとりと息を零す。
そんな中、橙子だけが表面上は笑顔で、しかし内心は苦々しい気持ちで目の前の男を見返した。
(今日は、目立たないって決めていたのに)
それなのに、一歩間違えたら救急車騒ぎになるところだった。
原因は、間違いなくこの男。
(──藤倉勇人。どうして私に話しかけるの)
襟足のあたりでスッキリと整えられた黒髪。扇形の眉毛に涼やかな目元。すっと通った鼻筋に薄く形の良い唇。そんな一目見たら忘れられないほどの美形の名前は、藤倉勇人。二十七歳。
彼は、橙子の同僚であり同期でもある。
橙子の勤める会社、四葉食品ホールディングス株式会社、通称「四葉」は、本社を名古屋に置く国内でも有数の飲料メーカーである。主な事業は飲料を初めとする食品事業だが、その他にも健康食品事業や外食事業──と多岐にわたる大企業だ。
そして藤倉は、この四月の異動で東京支社の飲料事業部に営業職として配属となった。
彼の主な仕事は、首都圏の飲料販売を担当し、時には本部との交渉を行うこと。そして橙子は、そんな営業職をサポートする営業事務として、新卒以来五年間、東京支社で働いている。
営業事務と営業職。
職種は違えど同期にあたる二人だが、入社以降顔を合わせたのは、この四月が初めてだった。
五年前、藤倉は新入社員としては異例の海外支社配属となり、今年までロンドン支社に所属していたからだ。
今日はそんな藤倉の歓迎会である。場所はごく普通の居酒屋チェーン店。その中で最も広い部屋に通された一行は、主役である藤倉を中心に酒につまみにと楽しんでいた。
その中でも橙子は、藤倉から離れた一番端の席に座っていた。
藤倉もまた、上司の絡みに笑顔で応えていたはず。それなのにいつの間にこんなに接近していたのか。唐揚げに夢中の橙子は全く気づかなかった。
(……今日も必要以上は話すつもりはなかったのに)
藤倉の東京支社への配属を知った時、橙子は決めた。
同僚として必要な交流はしよう。しかしそれ以外では彼との接触は徹底的に避けるのだ、と。
そして、藤倉が異動してきて今日で二週間経つが、橙子は徹底してビジネスライクに徹した。
もちろん仕事上必要な会話はするし、日々の挨拶も欠かさない。しかし個人的な会話をしたことは一切なかったはずだ。
「その唐揚げ、そんなに美味しいの?」
それにもかかわらず、藤倉はなぜかタメ口で話しかけてきた。今は勤務時間外の飲み会の場。同期ということを考えれば不思議ではないが、橙子は咄嗟に身を引いた。
この男、距離が近すぎる。
「美味しいですけど……?」
「へえ。いいな、俺にもちょうだい」
そうは言われても大皿は既に空っぽ。最後の一つは橙子の小皿に取り分け済みだ。
「追加で頼むなら店員さん呼びましょうか……って、待っ──」
橙子は唖然とした。何を思ったのか、藤倉は橙子が大切に取っておいた唐揚げをおもむろに掴むと、ほいっと自らの口に放り込んだのだ。
「──うん、美味しい」
「『美味しい』じゃなくて、何するんですか?!」
「やっぱり日本の居酒屋メニューってクオリティー高いよね。チェーン店でこの味とか最高」
藤倉は、美味しそうにもぐもぐと口を動かす。まるで悪びれる様子もない姿に、段々と腹が立ってきた。
(私の唐揚げ!)
信じられない、泥棒!
いくら美形だろうと知るものか。
たかが唐揚げ、されど唐揚げ。
人の食べ物を勝手に取るなんて、一体どういう神経をしているのか。橙子は藤倉を睨む。しかし彼は全くこたえた様子もなく、にこやかに微笑みながら言ったのだ。
「飲み会が始まってからずっと見てたけど、桐野さんって本当に美味しそうに食べるよね。そういうところ、すごく可愛い」
その瞬間、場が静まり返る。しかし橙子は、今の発言のどこから突っ込めばいいのかを頭の中で処理するのに必死で、それどころではない。
「……藤倉さん、酔ってますね」
ようやく言葉にできたのは、それだった。「ずっと見ていた」なんて言われても、料理に夢中の橙子はそんなの知らない。大体、突然話しかけて「可愛い」とは何事だ。
「お水が必要なのは、藤倉さんの方じゃないんですか?」
「俺は酔ってないよ。酒には強い方だしね。でも、どうして?」
「急に『可愛い』なんて言うからです。口説く相手を間違えてますよ」
この間も橙子は、飲み会参加者全ての視線がこちらに注がれているのをひしひしと感じていた。
男性陣は興味津々に、女性陣はほのかに殺気を放っているのは気のせいではないだろう。そんな中ヤジを放ったのは、ほどよく酔いの回った上司の一人である。
「さすがエリート営業マンは違うなあ! 転属早々『営業部のマドンナ』を口説くなんて、目の付け所がいいぞー! 営業マンたるもの、そうじゃなくっちゃな!」
恥ずかしながら、「営業部のマドンナ」とは橙子のことだ。
恐れ多いことこの上ないあだ名だが、今はそんなことはどうでもいい。
(余計な事言わないでください、部長!)
口説くとか口説かないとか、これ以上話をややこしくしないでほしい。
せっかく料理を楽しんでいたのに、この状況は何事か。
(ああ、今すぐ帰りたい)
しかし藤倉はそんな橙子の内心などお構いなしだった。
「こういうのは早い者勝ちですよ、部長。──ってことで、桐野さん。今、恋人はいる?」
あいにく二十七年間、彼氏なんて存在はいた例はない。
その分耳年増になった自覚はあるが、そこまで答える必要はないだろう。
しかし、訳が分からない。何が「早い者勝ち」で、何が「ってことで」なのか。
五年間の海外勤務は、一人の人間からこうも日本語力を奪うのか。
「恋人なんていませんけど……」
警戒心を露に橙子は答えると、藤倉は明らかにほっとしたような様子を見せた。
「よかった」
何が、と言いかけた次の瞬間。
「桐野橙子さん。──俺と結婚を前提に、お付き合いしてくれますか?」
一、二、三。
不思議な間が空間に満ちた、その時。
「うそ、プロポーズ?!」
「いいぞー藤倉! 営業部のエースならそれくらい攻める気持ちがなくちゃな!」
二人の動向にじっと耳を傾けていた同僚たちは、一気に沸き立った。
ある女性社員は悲鳴のような声を上げ、部長はグラスを片手に煽り始める。
その場の雰囲気はもはやお祭り騒ぎだ。他の客から苦情が来てもおかしくないほどの盛り上がりを見せる中、橙子はただ一人、現状を受け入れることができずに固まっていた。
(は……?)
付き合う。
結婚。
橙子はぽかんとしたまま頭の中で何度も同じ言葉を反芻する。一方、目の前の藤倉と言えば。
「返事を聞かせてくれるかな、桐野さん」
何故か頬を赤く染めて、うっとりと微笑んでいた。その笑顔を見た橙子は、考えるよりも先に立ち上がる。
「部長。お先に失礼します」
橙子は藤倉に返事をせず、部長に向かってペコリと頭を下げる。そして自らのバッグを手に取ると足早にその場を後にした。
「え、桐野さん?」
呆気に取られる藤倉の声が聞こえたが、知るものか。
──橙子は、逃げ出した。
都会の雑踏をひた走る。
今日は花の金曜日、時刻は九時半。
通りには酔いの回ったサラリーマンやら仕事終わりの会社員、はたまたこれから遊びに繰り出すのだろう大学生など人に溢れている。橙子はそんな中を掻い潜るように足を急がせた。その様子にすれ違う人は何事かと振り返るが、今の橙子はそんなこと気にする余裕など微塵もない。
(何あの人、怖い怖い怖い!)
いきなり声をかけてきたと思ったら、恋人の有無を確認して、更には結婚前提の交際申し込み。
こんなの怖がるなという方が無理だ。
中には、あのシチュエーションでうっとりと頬を染める女性もいるのかもしれない。
むしろ、彼に交際を申し込まれて喜ばない女性の方が少ないだろう。
それくらい、藤倉勇人は絵に描いたような好条件の男だ。
新卒早々海外赴任を任じられるほどのエリートで、ロンドン支社での実績も積んでいる。海外勤務をしていたから語学も堪能だし、何より芸能人と並んでも遜色ないほどのイケメンなのだ。
もしも相手が藤倉でなければ、橙子も同僚女性たちと同じようにキラキラと目を輝かせたり、ときめいたりしたのかもしれない。
しかし、藤倉勇人だけはありえない。
彼だけは、絶対に。
(勇人君の馬鹿! どういうつもりよ!)
なぜなら、藤倉勇人は初恋の相手。そして、三回も振られているのだから。
一度目は、十二歳の時。
小学六年生の卒業式の日、桜吹雪の中こっぴどく振られてしまった。
二度目は、十五歳の時。
中学三年生の橙子は、駅のホームで面と向かって「お前みたいな奴大っ嫌い」と吐き捨てられた。
三度目は、二十歳の時。
成人式の日、「あいつのせいで人生が狂ったのだ」と恨み言を言っているのを聞いてしまった。
「二度あることは三度ある」とはよく言ったもので、橙子はまさにことわざ通りとなったのだ。
結果的に初恋をこじらせにこじらせた橙子は、今なお年齢=彼氏いない歴を更新中である。
恋愛自体への憧れは当然存在するけれど、同じ相手に三回も振られれば臆病になるというものだ。そんな人物からの交際申し込みなんて、嬉しがるどころか恐怖でしかない。
入社当時、同期名簿に彼の名を見つけた時は心底驚いた。
真っ先に頭を過ったのは、「会社を辞めよう」ということ。
二度と会いたくない男と同じ会社なんて、冗談じゃないと思ったのだ。しかし念願叶って入社できた会社を、失恋相手が原因で退社なんて絶対したくない。
そして幸か不幸か、橙子は東京支社勤務で相手は海外勤務。それに橙子は、両親の離婚を理由に昔と名字が変わっている。運が良ければ気づかれることも、会うこともないだろう。
橙子のそんな期待通りに、五年間が過ぎた。
(どうして、今頃)
藤倉の東京支社勤務が決定した時は、配属初日まで生きた心地がしなかった。
一体どんな顔をして会えばいいのかと思ったのだ。
そして、再会の日。
気まずさと緊張を抱きながら、橙子は苦し紛れに「はじめまして」と挨拶をした。
一方の藤倉は──
『はじめまして、桐野さん』
当たり前のように、そう言った。彼は、橙子を前にしても動揺一つ見せなかったのだ。
その時、橙子は悟った。意識していたのは自分だけで、彼にとっての自分は記憶に留めておく価値すらない人間だったのだ、と。
悔しかった。そんな男に拘り続けていた自分が恥ずかしくて、情けなくてたまらなかった。しかし同時にこれは、チャンスだとも思った。
相手が覚えていないなら、それはそれで都合がいい。
過去のことは隠して今後はただの同僚として付き合おう。
……そうやって、無理やり気持ちを切り替えたのだ。
(それなのに、今更何なのよ!)
まさか、本当は橙子に気づいていたのか?
否、あの様子ではその可能性は低い。
ならば、橙子を過去に振った相手とは気づかずに口説いた?
それはそれで都合が良すぎる。そんなことをされても困るだけだ。
(とにかく、逃げなきゃ)
目指すは駅。
幸いにも明日は休日。土日を挟めば自分の気持ちも落ち着くだろう──そう思った時だった。
「待って、桐野さん!」
「きゃ───っ!」
突然後ろから手首を掴まれた橙子は、恐怖心から叫んでしまう。するとそれを宥めるように「落ち着いて」と声をかけられた。
「俺だよ。藤倉勇人」
「だから怖いんですってば!」
足を止めて後ろを振り返った橙子は、息を切らした藤倉に向かって声を張り上げる。
「放してください! 一体何なんですか、何が目的ですか!」
普通の神経を持った男性ならば、こんなにも嫌がられたら落ち込むなり怒るなりするだろう。しかし藤倉はそのどれでもなかった。彼は満面の笑みを浮かべたまま、橙子を見つめて放さない。
「さっきも言ったけど、俺と付き合ってほしい」
「嫌です!」
橙子は即答した。
「からかってるんですか? それとも何かの罰ゲーム?」
藤倉は意外なことを聞いたとばかりに目を丸くする。
「どうしてそんな考えが浮かぶのか分からないけど……からかってもいないし、罰ゲームでもない。桐野さんを好きなのは、本当だよ」
「……私を、好き?」
藤倉は笑顔で頷く。
「そう。初めて東京支社に出勤した日、桐野さんを見て『いいな』と思った。そして今日、美味しそうに料理を食べる姿がすごく可愛いと思ったんだ」
この言葉を聞いた瞬間、橙子の動揺はすっと波が引くように落ち着いていった。
代わりに生まれたのは、怒りだ。
(馬鹿にしないで)
橙子は無理やり藤倉の手を振り払う。そして鋭く睨んだ。
「何度も言いますが、お断りします。私はあなたのことが好きじゃありません。はっきり言って、迷惑です!」
想像するまでもなく藤倉はモテにモテた人生を送ってきたはずだ。女性にこんな風に言われた経験などないだろう。だから、これだけ言えば諦めてくれるはず──しかしその考えは、甘かった。
藤倉勇人という男は、何もかもが橙子の予想の斜め上を行っていたのだ。
「じゃあ、三ヵ月!」
「はい?」
「お試しでいい。三ヵ月間だけ、俺と付き合ってほしいんだ」
しつこい。スッポンですらこんなにもしつこくはないだろう。
橙子は本気でそう思ったのだった。
※この続きは製品版でお楽しみください。