【試し読み】湊社長の紳士な溺愛~少しでもお近づきになりたいのです~
あらすじ
喫茶店で働く茉子はあるお客様に一目惚れして以来ずっと片想いをしていた。彼は喫茶店と同じビルに事務所を構えるコンサルティング会社の社長・湊真洋。ある日、彼がお店に置き忘れた万年筆を届けると、茉子は勢い余って「好きです!」と告白してしまう。そしてその日を境に、頻繁に来店していたはずの彼はぱったりとお店に現れなくなってしまう。早まりすぎたと落ち込む茉子だったが、ある日の帰り道、趣味で通っていたアクアショップで再会。すると、なんと彼が飼う熱帯魚のお世話を任されることに! 突然舞い込んだ幸運に、今度は失敗しないようにと慎重に行動していくが、そんな茉子をからかうように真洋は甘い言葉を囁いてきて……?
登場人物
喫茶店に勤務。忘れ物を届けたのがきっかけで、片想いの相手・湊真洋とお近づきになるが…
コンサルティング会社社長。熱帯魚好きで、自身の経営するアクアショップで茉子と再会する。
試し読み
1、お近づきになりたい
仕立てのいいスタイリッシュなストライプのスリーピース。
少し長い艶やかな黒髪は、いつ見てもきちっとセットされている。
カップを持つ指はすっと長く、口もとに運ばれたブレンドコーヒーを目にしながら「ハァ……」と幸せなため息がこぼれ落ちた。
「いいな……あのコーヒーになりたい」
私──長野原茉子の独り言に、横から「また始まった……」と呆れた声が聞こえてくる。
同期の林美希だ。
偶然にも同じ年に正社員登用され、学年も同じの気心の知れた同期。
サバサバとしたすっきりした性格の持ち主で、出会った当初すぐに仲良くなった。
知り合ってもう二年が経つけれど、今ではお互いに言いたいことははっきり言う仲だ。
ずっと変わらない黒髪のボブスタイルは、美希のイメージにぴったり合っている。
「だって、あんな風に口づけられてるんだよ、あのカップは!」
「はいはい、いつか下げたカップに手を出しそうだね、茉子は。ほら、こっそり好きな子の縦笛を吹いちゃうってやつと同じ」
「ちょっと! それは絶対にしません。それじゃほんとの気持ち悪い変態女じゃん。そこらへんはちゃんとわきまえてますから」
鼻息荒く抗議する私を、美希はふふっと笑う。
客席で手を挙げる女性の姿が見え、美希が足早にフロアへと出ていった。
ここ、『ブランノワール』は、日本全国に店舗を展開する老舗喫茶店。
歴史は古く、昭和初期に銀座で一号店を出店した。
その後、少しずつ店舗を増やし、現在では全国に百店舗以上の店を持つ。
時代と共にメニューや店の雰囲気は変わっていったが、創業以来変わらないことがある。
それは、今の時代には珍しいフルサービスの喫茶店ということだ。
近年はカジュアルなセルフサービスのコーヒーショップが手ごろで人気があり、街を歩けば様々なお店が軒を連ねている。
ブランノワールのような〝喫茶店〟というお店は格段に少なくなった。
それでも業界ではワンランク上の喫茶店として名を馳せていて、利用客は少なくない。
客の年齢層は高く、ビジネスシーンで利用する客が非常に多いのが特徴だ。
私の勤務している店舗も、東京駅近くの複合ビル内にあり、同じビルのオフィスや近隣のオフィスから来るビジネスマンの利用が大半を占めている。
短大在学中に実家近くの最寄り駅前にあったブランノワールにアルバイトで入り、短大卒業を前に正社員登用の試験を受けた。
短大卒業後からは正社員として様々な店舗で勤務をし、早五年。
ちょうど今から半年ほど前にこの店舗に配属された。
「あ、茉子さん、またあの社長さん見てるんですか?」
ひとり店内の様子を見守っていた私のもとへ、美希と入れ替わるようにひなこちゃんがやってくる。
上條ひなこちゃんは、私がこの店舗に入ってすぐの頃、アルバイトとして採用されたこの近くの大学に通う女子大生だ。
今どきの女子大生といった感じの子で、流行には非常に敏感。流行り物に関して知りたければ、ひなこちゃんに聞けば即回答してくれる。
K-POPアイドルが好きらしく、ひなこちゃん自身も雰囲気やヘアメイクがK-POPアイドルのような感じで可愛らしい。
「もちろん。私の仕事中の癒しだもん」
隠すことなくそう返すと、ひなこちゃんはふふっと笑う。
「休憩時間、茉子さんの番なんですけど……あのお客様がいらっしゃるときは行かないですもんね? 美希さんに先譲ります?」
「うん、ありがとう」
そんな話をしていると、美希がフロアから戻ってくる。
ひなこちゃんが「美希さん、休憩です」と小声で知らせた。
「ちょっと茉子、また休憩譲ったでしょ? 忙しくなってきたら行きそびれるよ? いいの? 私が入って」
店内が混み合ってくると、人手が足りなくなり休憩に入れないことも時たまある。
それでも今は休憩に入るなんてもったいないと思ってしまう私は、美希に「いいの、いいの」と迷わず返した。
「ていうか茉子、そんなキラキラな眼差しで見つめてるならさ、もういっそのこと、一回話しかけてみたら?」
「えっ! そ、そうかな……」
客席から戻ってきた美希は私の立つ横にくると、少し顔を寄せるようにしてそんなことを言う。
どこかけしかけるような言い方だ。
キラキラした眼差し……なんて言われてしまうのは、今、店内に私の気になっているお客様が来店しているから。
その男性は、このビルの上階にあるというコンサルティング会社の方。
ひなこちゃんの情報だと、会社代表……代表取締役社長だという。
私が気になり始めてから、どうやらネットで会社を調べたらしい。
それに、お連れの人が『湊社長』と呼んでいたのを美希が聞いているから、その情報は間違いないようだ。
年齢は見た感じ、三十代前半じゃないかと勝手に思っている。
でも、私と同じ二十代後半と言われてもまったく違和感はないし、逆に四十歳間近と言われても、落ち着いた大人の男性の雰囲気を持っているから納得できる。
いつも、仕事関係の打ち合わせ等で利用してもらっているけれど、初めて来店された日のことを、私は今でもはっきり覚えている。
それは、桜の花が満開の時期──その日は朝から風が強く、桜の木を見上げて花吹雪に目を細めた。
満開で美しかった桜も散り始め、少しセンチメンタルになりながら出勤したその日のお昼前、店舗入り口のレジカウンター横にあるスイーツのショーケースを磨いていたときのことだった。
お客様の来店した気配に、「いらっしゃいませ」と姿勢を正し挨拶をした。
その途端、自分の中で何か電流のようなものが駆け巡ったのだ。
見るからに仕立てのいいスーツを着こなす長身は、そこにいるだけでただならぬ存在感があった。
加えて目鼻立ちの整ったはっきりとした美しい顔立ちの持ち主ということもあって、私にとってはどこか現実離れして目に映った。
男性を見て〝美しい〟なんて失礼な感想だと思うけれど、決して大袈裟ではなく素直にそう思っていた。
『ふたりだけど、空いてるかな?』
そう尋ねた低く耳心地のいい声にもどきりとして、すかさず『どうぞ、お好きな席へ!』と店内に促す。
ところが、彼は店内に向かいかけた足を止め、隅に立つ私の目の前へとやってきたのだ。
近づく距離に無意識に呼吸をやめた、そのとき──。
『桜……今日の風で、だいぶ散っちゃうかな』
伸びてきた彼の指先がつまんだのは、いつの間にか頭の上にのせていたらしい桜の花びらだった。
驚き固まる私の手を取り、髪から取った桜の花びらをそっとのせる。
そして何事もなかったように店内へと入っていった。
状況からいって、あれが一目惚れというものなのだと思う。
そんな経験、もちろん生まれて初めてのこと。
彼の姿をひと目見た瞬間、私の心は奪われてしまったのだ。
これまで生きてきてそんな経験なかった私は、初め自分が一目惚れしてしまったなど気付くこともなかった。
しかし、湊社長をお見かけするたび、心臓がうるさくなるのだ。
気付けば目で追っていて、接客なんてするチャンスがあれば、鼓動は壊れたように高鳴る。
それは間違いなく、恋に落ちている症状だった。
「でもさ、いくらお近づきになりたいからって、お客様に声かけるのはやっぱりまずくないかな……」
お店の沽券に関わる気がする。
「だから、それは機会をうかがってだよ。見てるだけじゃ、何も変わらないでしょ?」
「確かに……。わかった、頑張ってみる」
「そうこなくっちゃ。ね、ちょっと! 言ってるそばからチャンス到来。呼んでるよ!」
「えっ!?」
美希に肘で小突かれてフロアを見渡すと、湊社長がこちらに向かって手を挙げている。
「ほら、行ってきな!」
美希に小声でそう言われ、心の準備もままならないままフロアに飛び出した。
近づく距離に、外に音が聞こえているのではないかと思えるほど心臓がバクバクいっている。同時に、言葉を交わせるチャンスに心が弾んだ。
「お伺いいたします」
努めて落ち着いた声で伺うと、湊社長は手の平を対面する相手のコーヒーカップに近づけた。
「こちらに、同じものをもう一杯」
「かしこまりました。ブレンドコーヒー、お持ちいたします」
テーブル脇にある伝票の紙を引き抜いた私に、湊社長が微笑を見せる。
素敵な微笑を受けて、席を立ち去る私は心の中で軽快なスキップをしていた。
今日はオープンの出勤時間七時から出勤していて、十六時前にバックヤードに入った。
オープンからのシフトの日は朝早くて大変だけれど、その分上がれる時間が夕方前と早くて悪くない。
そういう日は、仕事後に自分の行きたいところに行って好きな時間を過ごしている。
職場のある東京駅近くの複合ビルから、徒歩五分ほどの場所にある『aqua shop M』。
ビルの一階に入るそのお店は、前を通れば一瞬水族館にでも遊びに来たと錯覚を起こしそうになる美しい水槽が出迎えてくれる。
自動ドアを一歩入れば、照明の抑えられた売り場にところ狭しと水槽が並ぶ。
熱帯魚に、海水魚、淡水魚……数多くの観賞用の魚が取り揃えてあり、私はこのお店に足を運ぶのが日々の楽しみになっている。
「綺麗……」
優雅に泳ぐ魚たちを見ていると心が洗われる。
いつまでも見ていられるほど観賞魚が好きで、とうとう先日ひとり暮らしの住まいにネオンテトラを一匹お迎えした。
ちゃんと自分でも管理ができる小さな水槽に、水草を入れ、ネオンテトラを一匹。
家にいる間はひたすら飽きずに眺めている。
アラサー女子が熱帯魚飼育とか、やっぱり寂しい趣味なのかな……?
観賞魚が好きでこのお店に通っていると職場で言ったら、みんな口をそろえて「寂しい」と言った。
社交的な趣味ではないし、地味かもしれないけれど、でも、私にとってはとっておきの癒しなのだ。
『仕事後の癒しも、あの社長さんになればいいですね』
今日の仕事終わり、水草を買いにここに寄って帰ることをひなこちゃんに話すと、そんなことを言われた。
仕事中、湊社長の来店が私の癒しだなんて日々公言しているからだ。
仕事後の癒しも、湊社長になること、か……。
今日美希が言っていた通り、見ているだけでは何も変わらない。
チャンスがあればお近づきにはもちろんなりたいけれど、なかなかいいきっかけがない。
お店の中で声をかけることは、やっぱり従業員としてルール違反だと私は思っている。
となると、どこか外でバッタリ、とか……そういう機会がないと無理だ。
そういうチャンスが巡ってきたら、お友達からでもいいから知り合いたいな……。
カラフルな魚たちをぼんやり眺めながら、そんな願望を抱いていた。
翌日。
今日は十時出勤のシフトでお店に出ていくと、私のことを待っていましたと言わんばかりに美希が「ちょっと!」と近づいてきた。
「おはよう。どうかした?」
「茉子、残念だったわね」
「へ?」
「今日は社長、もうご来店しちゃったわよ」
「え、うそっ」
出勤早々、今日の癒しはお預けだと知り、あからさまにショックを露わにしてしまう。
「今日はモーニングしにご来店されたよ」
美希は下げてきたグラスやティーカップをカウンターに置きながらそう報告する。
「えー……そんなぁ」
二日連続でご来店されること自体、私のリサーチではこれまであまり多くはないこと。
その貴重な二日連続の二日目にお目にかかれなかったなんて、今日の私の運勢は悪そうだ。
「で、も!」
「……?」
「落ち込む茉子にビックニュースがありまーす!」
そう言った美希は、「待ってて」と手に持つトレンチをカウンター横の定位置に置き、表に出てなぜかレジの方へと向かっていく。
首を傾げたい気持ちで待っていると、足早に戻ってきた美希の手にキラリと光る一本のペンが握られていた。
「あっ……それ」
「やっぱり、社長さんの?」
美希の問いかけに、うんうんと頷く。
美希の手にあるペンには、確かな見覚えがある。
それは、湊社長がここに来たときに使っているのを何度も見かけたことがあるからだ。
艶のある黒いボディの万年筆。
美希が差し出すそれを手に取ると、普通のボールペンなどにはない重厚感があった。
「モーニングで来店されたあとにね、席に忘れ物であったみたいなんだよね」
「そうなんだ……取りに来られるかな?」
「ここに忘れたって気付いてればね、たぶん。まぁでも、どっちにしても常連のお客様だし、次に来店されたときにお渡ししてもいいし」
「うん……でも、大事なものじゃないかな?」
「あ、じゃあ茉子、届けてきたら?」
いいこと閃いた、みたいな調子でそんな提案をする美希に、思わず「えっ!」と声を上げる。
「それがいいよ! あの社長さんのって間違いないんだし、このビルの上の会社なんだし」
確かに、このペンの持ち主が湊社長だということは状況的に間違いない。
だから、お届けに上がってもなんの問題もないこと。
むしろそのほうが親切だ。
「わかった。じゃあ、仕事終わるまでにご来店がなければ、あとで行ってみるよ」
「うん、そうしてみな。でさ……」
美希はにやりと笑って私に顔を寄せる。
「これをきっかけに、お近づきになるっていうのもありだと思うんだよね」
「お近づきに……」
忘れ物を届けて、あわよくばお知り合いに……。
そんな自分を脳内でイメトレしてみる。
……うん、悪くない。というか、絶好のチャンス。こんなこと、この先きっともうない。
「わかった。頑張ってみる!」
「おっ、いいね。茉子のそういう積極的なとこ、私好きだわ~」
そんな話をしていると、カウンターにオーダーのメニューが出てくる。
美希はトレンチを手にし、出てきたサンドウィッチとアイスコーヒーをのせ表に出ていった。
※この続きは製品版でお楽しみください。