【試し読み】俺様幼馴染の遠回りな愛し方
あらすじ
勤務先の絵画教室が経営難に陥り職を失ってしまった琴羽。画家の夢を追いかけギリギリの生活をしていたため、新たな職が見つかるまでは実家に戻るしかない……。ところがそんな時、海外赴任から帰国したばかりの幼馴染・慶也と再会し、住み込みで身の回りの世話を頼まれる。彼は頼れる兄のような存在だが年下の琴羽に対してはいつも強引で、断る間もなく同居することになったのだが――「琴羽は毎晩俺と添い寝する。いいな」海外帰りの慶也はなにかと距離が近く、男性に免疫のない琴羽はドキドキが止まらない! そんな慶也に、いつになく真剣な表情で、「約束を果たしにきた」と言われたものの、琴羽には覚えがなくて……?
登場人物
絵画教室の講師の職を失い実家に戻ろうと考えていた矢先、慶也に身の回りの世話を頼まれる。
琴羽の幼馴染、容姿端麗だが俺様な性格。三年間の海外赴任を終えてアメリカから帰国する。
試し読み
契約と約束
実家の斜め向かいに住む幼馴染の神楽慶也は、美しい容姿と優れた人徳を兼ね備えている。
俺様で傲慢な性格ですら、彼の魅力を引き立てる要素になっているのだから、神様は贔屓しすぎだ。
対照的になんの取り柄もない平凡な私、柏木琴羽は、実家の門扉の前でその幼馴染になぜか説教されている真っ最中。
「家を出てひとり暮らしをしていると、どうして俺に報告しなかった」
「ごめん。慶也はアメリカにいたし、言う機会がなかったから」
「月に一回は電話をしていただろう。意味のない言い訳はするな」
三年ぶりに会っても上から目線の態度は相変わらず。
電話といっても、ちゃんと食べているか、風邪は引いていないか、男にうつつを抜かしていないだろうな、半人前なのだから遊びより仕事を優先しろ、などと一方的に言われるばかりだった。
いつも話の主導権は慶也にあったし、私の近況について口を挟む隙すら与えてもらえなかったのに、その言い草はないよ。
だけど意見したら言い合いになるのは目に見えている。
「ごめんね」
もう一度謝ると、盛大な溜め息をつかれた。
三年間の海外赴任を終えてアメリカから帰国した慶也から、『今日そっちに顔を出す』と連絡を受けて慌てて実家に寄ったのだが、私がひとり暮らしをしていると知らなかったと言ってすごく怒っている。
要領の悪い私がひとり暮らしをするなんて、危なっかしいし、事前に聞かされていたら止めるつもりだったのだろう。
あと、これまで幾度となく気にかけてやっていた妹のような存在に、報告を怠られていたのが許せないのかもしれない。
もう二十五歳になったのだから心配ご無用なのに。でも慶也は、今の私の歳でアメリカに行ったんだよね。すごいな。
そう考えたら、私はまだまだひとりで生きていくには心もとない。
十一月が終わろうとしている冬空には、低くたれ込めた灰色の雲が浮かんでいる。先ほどから遠雷が聞こえていて、いつ雨に降られてもおかしくなく、気もそぞろになる。
慶也が着ているスーツは見るからに高そうだ。雨に濡れたら大変だし、なによりご近所さんの目があるから早く家の中に入りたい。
「うちに用があるんだよね? とりあえず入らない?」
遠慮がちに我が家の玄関を指差す。舌打ちでもしそうな、ひどく不機嫌な顔とぶつかり肩をすくめた。
一八〇センチを超す、高身長の彼に睨まれるとすごい圧を感じる。
「俺はおまえに用があったんだよ」
「私?」
首を傾げると、慶也は「はあ~」と本日何度目かの溜め息をついて頭をガシガシと乱暴にかいた。
最後に会ったのは三年前だけれど、私に対する態度はびっくりするくらいなにも変わっていない。彼は昔から私の一挙一動が気に食わないのだ。
みんなにはもっと柔らかい態度を見せるのに。
私はどんくさいし、相手の考えを先回りして読み取るのが苦手だから、慶也を苛立たせてしまう。
「知っていたらおまえの部屋に行ったのに」
「いいよ、そんな。最近帰ってきたばかりなのに、うちに来てもらうなんて大変だっただろうし」
胸の辺りで手をぶんぶんと振ると、慶也の眉間の皺が一層深くなった。
「どこに住んでいるんだ? ここから遠いのか? まあいい。とりあえず車に乗るぞ」
そう言って慶也は神楽家の駐車場に向かおうとする。
「え? 今から行くの? うちに?」
「早くしろ」
「でも」
正直なところ慶也には家に来てほしくない。
「それならどこかのカフェにでも」
言い終わらないうちに手首を掴まれた。久しぶりに男の人に触れられて心臓がビクッと跳ねる。
「け、けい……」
「声がすると思ったら慶也くんじゃない!」
玄関から姿を現したお母さんの大声で私の上擦った声がかき消された。慶也は私の手首からすっと手を離す。
「久しぶりねぇ~」
お母さんは花が咲いたようなキラキラした笑顔で慶也に近寄った。
私も実家に顔を出すのは久々なのに、お母さんの瞳には映っていない。ドキドキと高鳴っていた胸が急速に冷えていく。
「ご無沙汰しております。ほんの気持ち程度ですが、これを」
さっきまでの態度が嘘のように、礼儀正しくなった慶也が手にしていた紙袋をお母さんに差し出した。
「ありがとう。あら、雨が降ってきたわね」
お母さんの言葉に空を仰ぎ見る。目の中に雨粒が落ちて「わっ」と目をこすった。
「早く入って」
ほらほら、と手招きをされて慶也は我が家の敷地に足を踏み入れる。
「琴羽も早くしなさい」
私をやっと視界に入れたお母さんに呆れた様子で言われ、慌てて慶也に続いた。
玄関で靴を脱いでいる間に雨音はどんどん激しくなった。
「大丈夫? 濡れてない?」
隣の慶也を見上げる。
慶也は返事の代わりに、風で乱れた私の前髪を撫でつけた。センター分けにしているおでこに慶也の指先が触れてくすぐったい。
こういうちょっとした気遣いがスマートだなと思う。
「ありがとう」
気恥ずかしさから、へらっと笑う。慶也はついと顔を逸らした。
「慶也と琴羽? ふたりで来たの?」
リビングから驚いた顔を覗かせたのは三つ上の姉、蘭だ。
「表で会ったの」
「そうなんだ。すごい偶然だね」
お姉ちゃんは片手を上げて慶也にひらひらと手を振る。慶也も軽く右手を上げた。
ふたりは同い年で幼稚園から高校までずっと一緒だった。ふたりとも明るくて人の輪の中心にいるタイプだから、気が合うらしく距離が近い。
それゆえに幼い頃は仲間外れにされているようで寂しいと感じていたけれど、ある程度大きくなってからは、私なんかが彼等と対等でいたいと思うこと自体がおこがましいのだと気づいた。
「雨? 出かけなくてよかった」
お姉ちゃんが土曜日の夕方に家にいるなんて珍しい。
交友関係が華やかで、多くの友人を持つお姉ちゃんの休日はいつも予定で埋まっている。
会話をしながらリビングに入ると、カウチソファで寛いでいるお父さんが慶也だけを視界に入れて微笑む。
「久しぶりだな。いつ帰ってきたんだ?」
「先週です」
そうかそうか、と目を細めて嬉しそうにしているお父さんをぼんやりと見つめる。お父さんは昔から慶也をいたく気に入っている。
慶也はお父さんと和やかに語らいながらソファに腰を下ろした。お母さんはみんなの飲み物をキッチンで用意している。
「お母さん、私が……」
「お母さんがやった方が早いわ」
手伝おうとお母さんの横顔に声をかけたが、言い終わらないうちに断られた。
たしかに何十年も主婦をしているお母さんは手際がいい。でもお茶くらい入れさせてくれてもいいのに。
たまにうっかり水やお茶をこぼすから信用されていないのだろう。
胸にわだかまりを抱きながらキッチンを出る。
ダイニングテーブルで頬杖をつきながら、スマートフォンを弄っているお姉ちゃんの向かいに腰を下ろした。
「今日は家にいたんだね」
「午前中に美容院に行ってきたんだけど、前髪を変なふうに切られちゃって。人に会いたくないから予定をキャンセルしたの。それなのに慶也が来ちゃって、もう最悪」
言われてみれば、いつも横に流している長い前髪が眉のラインで切り揃えられている。
「お姉ちゃんはなにしても可愛いよ」
「えー、絶対変だよ」
お姉ちゃんは頬を膨らませてスマートフォンを覗き込んだ。ずっと画面と睨めっこしているのは、カメラモードにして自分の顔を確認していたからのようだ。
本当に可愛いのに。
大学生の頃に読者モデルをしていたお姉ちゃんは、一五八センチの私より七センチも高く、手足が長くて顔は小さい。
母親譲りの吊り目でくりっとしたアーモンドアイは、お姉ちゃんの美人さを際立てている。それに対して父親に似たたぬき顔の私。姉妹なのにまったく似ていない。
「髪色も綺麗だね」
「色は気に入っているんだけどね」
ミルクティー色の髪は胸まで真っ直ぐと伸びて、お姉ちゃんが動く度にサラサラと揺れる。
いいなぁ。
お姉ちゃんの綺麗なストレートヘアに憧れて髪を伸ばしてみたものの、癖毛の髪はサラサラではなくふわふわと揺れる。
赤みが強い私の髪は何度明るく染めてもアッシュにはならず、最近はもう諦めて黒髪で過ごしている。
そういえば慶也はずっと黒髪だ。
色素が薄く、光に透かすと黄色味が出る短髪は清潔感があり、品のいい慶也の雰囲気に合っている。
それにしても、と部屋をぐるりと見回す。人口密度が高い。十六帖ほどしかないリビングがいつも以上に狭く感じる。
お母さんが温かい緑茶の入った湯呑みをみんなに配り終えると、話題は慶也のことで持ちきりとなった。
すでにマンションに移り住んでいて、日本での仕事も始まっているそうだ。一流企業の総合商社に勤めている慶也の話は私には難しく、右から左へ流れていく。
実家に寄ったついでに、お父さんとお母さんに話があったのだけれど。この調子では今日は話せなさそうだ。
手持ち無沙汰で湯呑みの緑茶も飲み干してしまった。
帰ろうかな。
立ち上がると慶也がこちらを振り向く。
なんか、睨まれてる?
私に用事があったみたいだけれど、今日じゃなくてもいいよね?
そんな思いを込めて見つめ返す。慶也は眉ひとつ動かさない。
困った。表情がまったく読めない。
「琴羽は慶也に会いにきたの?」
慶也と目を合わせて不自然に突っ立ったままの私をお姉ちゃんが見上げた。
「私は、お父さんとお母さんに、ちょっと相談があって」
「相談? あ、お茶じゃなくてコーヒーにしない?」
お姉ちゃんが空になった湯呑みを持って軽く傾けた。どうやら、おかわりを入れるために立ち上がったと勘違いされたようだ。
帰ると言いづらくなり、仕方なくコーヒーの用意をしようとキッチンへ移動する。そこへお母さんがすかさずやって来た。
「お母さんたちもいる?」
「お母さんがやるから座っていなさい」
言うや否や、お母さんが私の手からコーヒーフィルターを奪っていく。
今日は慶也がいるし、徹底してなにもやらせてもらえなさそうだ。
すごすごと席に戻ると、すぐにお姉ちゃんが切り出してきた。
「それで、相談って?」
お姉ちゃんの透き通るような声に、自然とみんなが反応した。
「ええっと……」
注目されて、ごくりと唾を飲み込む。
「実は、勤めていた絵画教室が経営不振で閉めることになったの。すぐに仕事が見つかるか分からないから、家に戻ってきたらダメかなぁって……」
「え! 潰れたの!?」
お母さんの声に反射的に身体がびくりと跳ねた。
「やっぱり絵の講師なんて仕事、最初からやめておけばよかったのよ」
やはり予想通りの反応だった。
「せっかく大学まで行かせたのになあ」
お父さんが呆れた様子でソファにふんぞり返った。これも想定内だけれど、さすがにその言い方はひどい。
私にとっては誇れる仕事だし、やりがいを感じているからこそ悲しくなった。
「職種にこだわらなければ求人はあるだろう。最近は不景気だし、雇ってもらえるのならアルバイトでもいいんじゃないか」
私の仕事なのだから、そんなふうに決めつけてほしくない。
「そうね、もう二十五だし、いい人を見つけてお嫁にもらってもらえばいいわ」
矢継ぎ早に無慈悲な言葉が飛んできて、胸がぎゅうっと痛くなる。
「蘭は有名企業なだけあって残業が多いよなあ」
お父さんの言葉にお姉ちゃんが眉根を寄せた。
「なんでいきなり私の話になるの?」
「将来性があるから必要な経験でしょ。これからどんどんキャリアを積まないといけないし」
「ちょっと、私はお嫁に行けないとでも言いたいの?」
お母さんの発言にお姉ちゃんはムッと口を尖らす。するとお父さんがすかさずフォローした。
「蘭は器用だから両立できるだろう」
私の仕事について勝手に結論付けた両親は、話題を私からお姉ちゃんの仕事にすり替えた。
私は将来性がないから適当なアルバイトでよくて、どこかに嫁げば万々歳なの?
昔から要領のいいお姉ちゃんと比較されてきたけれど、今日ほどやるせなくなったことはない。
お父さんとお母さんは覚えていないだろうけれど、ふたりが初めて私を褒めてくれたあの日を私は鮮明に記憶している。
中学生の絵画コンクールで金賞をもらった時、これといって取り柄のなかった私にも才能があるのだと両親は喜んだ。
だから美術系の高校と大学に進学したし、反対されなかったから認めてもらえていると思っていたのに。
やっぱり私に関心がなかっただけなんだよね。
私がほしいものすべてを持っているお姉ちゃんを、お父さんとお母さんが溺愛するのはあたり前で。彼等の関心はいつだってお姉ちゃんにしか向けられない。
でも認めたくなくて、現実から目を背けたかったから家を出た。この家にいるとたまに息苦しくなるから。
それなのにひとり暮らしを始めてまだ二年も経っていない。こういうところがダメなのだと自分でも分かっている。
「私の話はいいよ。今は琴羽についてでしょ。失業保険だってもらえるし、そんなに急いで仕事を探さなくてもいいんじゃない? 自分が納得いくものじゃないと長続きしないしさ」
お姉ちゃんが穏やかな口調で話すと、お父さんはやれやれ、といった表情になる。
お母さんは、お盆に載せたコーヒーカップを配り終えてから、しみじみと呟いた。
「蘭は甘いわねぇ」
そう、お姉ちゃんは優しい。こういう時必ず味方になってくれるし。
だけどたまに、本当に時々、お姉ちゃんがここまで完璧な人じゃなかったら、比較されて惨めな思いをしなくても済んだのではないかと考えてしまう。
そんな自分に嫌気がさして、また落ち込むのだけれど。
さっきまでみんな楽しそうにしていたのに、私のせいで場の空気が悪くなってしまった。
※この続きは製品版でお楽しみください。