【試し読み】一途な彼の甘い独占欲

作家:櫻日ゆら
イラスト:梓月ちとせ
レーベル:夢中文庫セレナイト
発売日:2020/10/6
販売価格:300円
あらすじ

大手菓子メーカーで営業事務をしている紗帆は、幼馴染からOB会開催の予定を伝えられる。そこに元カレの綾斗が出席すると聞いた紗帆は、いまだ断ち切れていない想いに再会する勇気が持てず、欠席をすることに。ところがある日、そんな彼女の前に、綾斗が取引先の営業担当として現れる。――「そんな顔すんなよ。待つって言ったのに、触れたくなる」魅力的な大人の男性に変わっていた彼を見て、切なくも胸を高鳴らせる紗帆。忘れられなかった淡い恋にふたたび出会って……?

登場人物
潮田紗帆(しおたさほ)
元カレである綾斗への想いを断ち切れずにいたところ、思わぬ形で再会することに…
一ノ瀬綾斗(いちのせあやと)
高校時代に紗帆と付き合っていた。すれ違いにより別れたことを後悔している。
試し読み

消せない名前

 金曜日の仕事終わり。急な残業で約束に少し遅れてしまった私は、まばらに人が行き交うオフィス街を小走りで進む。
 最近定時続きだったのに、まさか今日に限って残業になるなんて。
 スマートフォンで時刻を確認すると、まもなく二十時になろうとしていた。
 尚希なおき、待っているだろうな。慌てて、【急に残業になった。ここを予約してるから、先に行って飲んでて。本当にごめん】とお店の場所をメッセージで送っておいたけれど。
 私は尚希から送られてきた、眉毛が凛々しいうさぎがキメ顔で親指を立てているスタンプを眺め、店に向かう道を急ぐ。
 勤めているオフィスビルに近い居酒屋を予約しておいたのが、せめてもの救いだった。
「尚希! 遅くなってごめん!」
 店に着いて個室に案内されるなり、私は荒くなった息遣いを落ち着かせながら言う。すると、待ち人である幼なじみの尚希が、口をつけていたビールジョッキを軽く上げてへらっと笑った。
「おぉ。久しぶりだな、紗帆さほ。お疲れ」
 私は呼吸を整えながら「お疲れ」と返し、スーツのジャケットを脱いですでに飲んでいた尚希の向かいの席に座る。ようやくほっと息をついた。
「ごめんね。オフィスを出る直前に急ぎでやらなきゃいけない仕事ができちゃって。待ったよね」
「いや、適当に摘まみながら最近ハマってるアプリのゲームやってたから、意外にあっという間だったぞ。それよりお前なににする?」
 私は、スマートフォンを片手に尚希が差し出してきたメニューを受け取る。
「じゃあ、シャンディガフにしようかな。あとはどうしようか」
 テーブルの上を見たところ、あったのは空になったジョッキがふたつと、おつまみの小皿がふたつだけ。私が来るのを待っていてくれたのだろう。
「適当でいい。俺の好きそうなもの、だいたいわかるだろ」
「唐揚げに、春巻き。それに鳥皮でしょ」
「完璧。だてに長い付き合いじゃねぇな」
 私がタブレットに注文するメニューを打ち込んでいると、尚希が上機嫌で言う。タブレットをテーブルに置いて、仕事のときはいつもひとつに束ねている長めの栗色の髪を解いた私は、呆れた面持ちを尚希に向けた。
「はいはい、長さだけは無駄にね。出張は今日までだっけ?」
「あぁ。ついでだから週末までこっちにいて、あちこち行ってから帰る予定」
「ふーん」
 家が近所だった尚希とは私たちが幼稚園の頃からの幼なじみで、小中高と、私が東京の大学に進学して上京するまでは、ほとんどの時間を一緒に過ごした。
 高校にいたっては、中学のときと同じくサッカー部に入った尚希に、『今マネージャー募集してるから』と半ば強引に入部させられて、さらに多くの時間をともにすることになった。
 離れてからも、地元で営業職をしている尚希が仕事でたまに東京に来ることがあれば、こうして食事に行って互いに近状報告をしているというわけだ。
 注文したシャンディガフが運ばれてきて、尚希が持つ三杯目のビールと乾杯をする。私は急いで来てカラカラになっていた喉に、よく冷えたシャンディガフを流し込んだ。
 爽やかなのど越しと、鼻を抜けるピリッとした生姜の香り。仕事の疲れも一気に吹き飛ぶ。
「そういえば、この前おばさんに会ったけど、お前が毎年正月に一瞬帰ってくるだけだって嘆いてたぞ。もっと顔見せてあげろよ」
 尚希の言葉にドキッとした私は、思わず喉を詰まらせそうになった。
「……うーん。仕事も忙しくて」
 動悸が高まっているのを悟られないように作り笑いを浮かべた。
「その様子じゃ、友達もいるのか怪しいところだな。こうしてこっちで仕事があるたびに顔を見に来てくれる、優しくてイケメンな幼なじみに感謝しろよ。おばさんたちにも、毎回お前の様子を報告してあげてるんだからな」
「イケメンな幼なじみ? ……そんなのどこにいるのよ」
「馬鹿。ここだろうが」
 冷ややかな視線を注ぐ私に、尚希は営業マンらしいさっぱりとした短髪を無理やりかき上げる。
「もう二十三になったっていうのに、尚希って本当に小学校から成長してないよね」
 私が告げると、尚希も負けじと、「お前だっていつまで経ってもちびっこのままだろうが」と悪態をついた。
「これは遺伝だもん。それに、去年の会社の健康診断でもまだ数ミリ伸びてたんだから」
 互いにスーツを着て働く年齢になったというのに、私たちのやり取りは子供のころからたいして変貌していない。
 懐かしさについ噴き出した反面、心の中では安堵していた。
 尚希に、毎度帰省していないことをとがめられるたびに、その理由を深く追及されたら、と内心危惧していた。
 いや、もしかしたら、わかっているから聞かないのかもしれない。尚希も彼と仲が良かったのだから……。
 すると、突然尚希が「あ」と呟く声が聞こえて、私は我に返った。
「どうしたの?」
「いや、今日紗帆に会うって言ったら、ついでに有岡から聞いて来いって頼まれてたんだった」
「有岡くんから? なに?」
 有岡くんとは、私たちの高校の同級生で、サッカー部のチームメイトでもあった。三年のときにはキャプテンも務めていて──。
 当時を思い返していた私の頭の片隅に、ある顔が過る。私は一瞬思考を停止させた。しかし、
「来月、地元でサッカー部のOB会をやるんだとよ。今有岡が出席を取ってるから、紗帆には俺から聞いとけってさ」
 尚希の言葉に、胸が早鐘を打つ。
 ……サッカー部のOB会?
「紗帆?」
 黙り込んでいた私の顔の前で、尚希が手のひらをひらつかせる。
「えっ? あ、ごめん。OB会か。高校卒業してからもう五年だもんね。懐かしいなぁ。皆、どうしてるかな」
 言い終えて、シャンディガフをひと口飲んだ。唇はわずかに震えていて、先ほどまで気持ち良いと感じていた冷たいジョッキを、急に持っていられなくなるくらい指先が冷える。
 こちらを窺うように見つめていた尚希が、おもむろに口を開いた。
「……お前、綾斗あやとのこと気にしてんだろ」
 私の鼓動が、発せられた名前に反応してひと際大きく跳ねた。
「別に、そんなんじゃ──」
 すぐに否定するが、動揺が隠しきれていないのが自分でもわかって、私は困ったように眉根を寄せる。尚希はふっと小さく息をついてから、
「有岡の話では、綾斗は参加だってさ」
 と告げた。
 綾斗も来るんだ……。
 つい先ほど頭の片隅を過った顔が、今度は鮮明に脳内に浮かび上がる。
「お前たち、卒業してから一度も会ってないんだよな」
 いつしか尚希の顔から、おどけた表情は消えていた。私はいささか困惑しつつも、「……うん」と首を垂れる。
 あの出来事があってから、私たちの間に綾斗の話題が出たのはこれが初めてだった。
 ──一ノ瀬いちのせ綾斗。
 私と尚希が進学した高校の同級生だった彼は、私と尚希の高校生活を語るには外せない人物だった。
 有岡くんと同じく、私が綾斗に出会ったのも、サッカー部だった。
 厳密にいえば私と綾斗はクラスも同じだったから、出会いは教室なのかもしれないけれど、初めて会話をしたのはサッカー部の部室。たしか、入部してから一か月近く経ってからだったと思う。
 長めの黒髪に、二重まぶたの切れ長の目。高い鼻には筋が通っていて、日焼けをしている部員たちの中で色白の綺麗な面立ちをしていた綾斗は、目立つ存在だった。
 加えて物静かで、年齢よりも落ち着いて見える。それなのにサッカーに関してはすぐに熱くなり、軽やかな身のこなしで行う鮮やかなプレーも相まってか、当時綾斗を目当てに練習を見にくる子がフェンスの前に何人も並んでいた。
 ある日、練習のあと、尚希が綾斗を個人練習に誘い、アシストするために私も一緒に残ったのをきっかけに三人で居残り練習をする日が増えた。
 気がつけば部活以外でも三人でいることが多くなっていて、明るくよく話す尚希と、口数は多くないけれど言いたいことは言う綾斗といる時間は楽しく、とても心地の良いものだった。
 それが少しずつ変化していったのは、私と綾斗の関係性が変わったからだった。
 綾斗は、私が部活で失敗して落ち込んでいた日は、帰り道、なにも言わずに遠回りをしながら話を聞いてくれた。重い物を運んでいるとさりげなく手を貸してくれて、困っているときには、いつも必ずと言っていいほど綾斗が一番に気づいてくれたのだ。
 そんな優しく、穏やかな綾斗を、私はいつしか好きになっていた。
 それでも、三人で積み上げてきた日々を壊すのが怖く、想いを胸に秘めていた私に、高校三年になった春、綾斗が言った。
『紗帆。お前が好きなんだ。俺と付き合ってくれないか?』
 部活のあと、用具入れの上に、咲いている桜がひらひらと舞っていたのを今でも覚えている。好きな人に告白されて、涙が出るほど嬉しかった。
 そして、それから一年足らず、
『俺たち、友達に戻ろうか。紗帆、────なんだろ?』
 別れた日のこともしっかりと心が記憶していた。
 誰もが経験する青春の一ページ、きっといつか思い出に変わるだろうと思い続けて早五年。嫌いで別れたわけじゃなかったせいか、私はまだ過去の恋を清算できないでいた。
 綾斗の問い掛けに私が返したのは、ただひと言、『……わかった』だけ。
 綾斗から放たれた〝最後の言葉〟は思いもよらないものだった。
 今思い出しても、当時と同じように胸に鈍い痛みが走る。あの出来事は、今も私の中に強烈な爪痕として残っていた。
 もちろん普通の友達になど戻れるはずもなく、私は東京の大学に、綾斗は地元の大学に進学してそれっきりだ。今綾斗がどうしているのかは知らない。というよりも、知らないようにしていた。
 それでも、あれからもう五年も経つなんて。私もいい加減区切りをつけないとな。
 心残りがあるからいつまでも胸に抱えてしまうのだろうか。あの誤解を解いていないから? もう会う機会もないというのに。
 いや……そのタイミングが来たのか。
 地元に戻ると偶然綾斗に会ってしまいそうな気がして、気づけば地元にもほとんど帰らなくなっていた。できるならこんな日など訪れなければいいと思っていたのだ。
 でも、あのときの想いを伝えたって、本当の気持ちを告げたって、きっと綾斗にとってはとっくに過去になっているはず。蒸し返されても困るだけだろう。
 私だって当時をやり直したいわけじゃない。ただ、あの日、なにも言わずに諦めてしまったことがずっと気がかりなだけなのだ。
 でも、それも今さらすぎるよね。
「お前には言わなかったけど、綾斗も去年から東京にいるんだ」
 さらなる追い打ちに、私は「えっ?」と驚きの声を上げる。
「仕事でな。地元の支社から、東京の本社に転勤になったって」
「そうなんだ……」
 綾斗も東京に……。
「いつか偶然会うかもな。そのときは挨拶くらいしろよ」
 言い終えた尚希は、侘しげに微笑んだ。
 そのとき、料理を持った店員がやって来て、私たちは話を中断させた。
「うまそう。腹減ったな。食おうぜ」
 取り皿を私の分もふたつ並べた尚希は、運ばれてきたばかりの春巻きを頬張る。「あつっ」と顔を歪めるのを見て、私は緊張が緩んだ。
 今日まで私に気を遣って綾斗の話をしなかった尚希だけれど、綾斗とも今でも連絡を取っているとわかっていささかほっとする。
 あんなことになり、三人でいられなくなって、尚希は一度も文句を言わなかったが大変だったと思う。私と綾斗の問題に巻き込んでしまったと、ずっと申し訳なく思っていた。
 普段はうるさくて、しつこいのに、私と綾斗が別れたときも、尚希は私になにも聞かなかった。尚希って、昔からそうだったんだよね。空気を読むのが上手いというか、勘が良いというか。
 相手が本当に踏み込んで欲しくないところには踏み込んでこない。だからこそ大人になった今でも、こうしてふたりで食事に行けるのかもしれないけれど。ここまで来ると、腐れ縁ってやつなのかな。
 私も割り箸を割って、お皿に手を伸ばす。
「まぁ、来るか来ないか決まったら、メッセージでもいいから連絡入れといてくれ」
 その言葉に頷きながら、私も春巻きにかじりついた。

※この続きは製品版でお楽しみください。

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