【試し読み】疾走愛~スーツを着た恩人の色に染められてしまいました!~

作家:ぐるもり
イラスト:竹輪つぼみ
レーベル:夢中文庫クリスタル
発売日:2020/10/20
販売価格:500円
あらすじ

スーツ販売員の梨央は、意図せずオーダーメイド専門店に異動になり仕事への意欲を失いかけていた。ところがある日、大切な仕事道具が入った鞄をひったくられてしまう! 仕事も鞄も全て諦めかけたその瞬間、屈強な男性・向田に助けられて――「俺は元々諦めの悪い性質(タチ)だったなって思い出したんだ」熱っぽい視線とともに投げかけられた言葉を皮切りに、恩人からの猛アタックが始まる。遠慮なく触れてくる向田の指は熱を帯び、のぼせる寸前! ときめく胸を抑えられない梨央だったが、彼に深く傷を残している後悔を知って――? 一目惚れから始まる爽快感MAXな溺甘ラブストーリー!

登場人物
岩本梨央(いわもとりお)
オーダーメイドスーツ専門店に勤務。仕事道具が入った大切な鞄をひったくられてしまう。
向田直人(むこうだなおと)
背が高く、屈強な体の男性。梨央の鞄を奪ったひったくり犯を捕まえる。
試し読み

①ひったくり、のち、運命?

 誰しも一度は仕事を辞めたいと思ったことがあるはずだ。『岩本いわもと梨央りお』と書かれた社員証を揺らしながら、そんなことをふと考える。なぜなら、梨央も先ほどまで今の仕事を『辞めたい』と思っていた。昼食を食べに出かけた帰りに、こんな目にあうなんて。自身の考えを後悔し、不幸を嘆いた。
 梨央は、スーツとカジュアルウエア専門店SUIT KINGDOMに勤務している。以前は都内有数の売り上げを誇る店舗に勤務し、年間売り上げのトップとなった。来店した客をとにかく捌くことを目標とし、忙しくも充実した日々を送っていた。しかし、この春、社内にオーダーメイドスーツ部門が設立され、それに伴い店舗が異動となった。オーダーメイドスーツ専門店は、一日に客が数組あるかないか。客を回し、一度に数着のスーツを売り上げ、見たことのないセールス記録を叩きだす。そんな風に忙しくしてきた梨央にとって、今の職場はとても退屈だった。
 そう思っていたからだろうか。だからこんな目にあってしまったのか。梨央は自分の浅はかな考えを後悔していた。
 ──返して!
 荒くなった息と、もつれる足。そう叫びたくても、漏れ出るのは短い呼吸のみ。まっすぐに手を伸ばすが、もちろん相手には届かない。呼吸をするだけで、肺がはち切れそうなほど苦しい。
 そして、追いかける相手はドラマや漫画のような愛しい人などではない。追いつきたくても追いつけない、犯罪者。自分が肩にかけていたバッグを奪い取ったひったくり犯だ。今は夜道でも、人気のない道でもない。目抜き通りのど真ん中で、しかも人通りの多い昼時だ。そんな時間にひったくりに遭うなど誰が考えただろうか。少なくとも、自分はその危険性を全く考えていなかった。
「かえ、し……」
 りもせず、ひったくり犯に手を伸ばす。しかし、当の犯罪者は人ごみの中をすいすいと駆け抜けていく。人通りが多く、すぐに犯行に気づいてくれるだろうと思っていた。しかし、裏を返せば、相手は人ごみにまぎれることもできるのだ。誰も自分の異常に気づいてくれない。警察に通報したくとも、スマートフォンはバッグの中だ。誰かに通報を頼む間に、犯人は逃げ去ってしまうだろう。
 財布の中の現金は多くない。クレジットカードも今日は持ち合わせてない。銀行キャッシュカードは、あとで連絡すればいい。そう思えば、バッグを諦めてしまってもいいかもしれない。
 しかし、どうしても。どうしても諦めきれない理由がある。
 盗まれたバッグは、勤続五年の際に貰ったセミオーダーのものだ。色、素材、形をカタログから選び、組み合わせて作った思い入れの深いバッグだ。その中には先ほど頭に浮かんだ貴重品のほかに、大切なものが入っている。
 退屈な仕事を辞めて、全てを捨ててしまおうかと思っていた。けれども、実際手元から離れると、大切さを改めて理解する。人間だれしも、当たり前にあるものを大切に思えないのと同じように。
「っ、返して! 泥棒!」
 最後の力を振り絞って、叫ぶ。周りの人が梨央の声に気づき、自分に視線が向いた。そのチャンスを見逃さず、もう一度叫ぶ。
「ひったくり、です!」
 声に驚いたひったくり犯が一瞬だけこちらを振り返る。一瞬見せた隙が多くの人に犯人だと知らしめた。しかし、相手のスピードが緩まることはない。叫んだことで、走る力はなくなってしまった。力尽きるようにへなへなと膝をつく。ストッキングが破れる感覚があったが、どうしようもなかった。素早い犯人に追いつくことができなかった。ひったくり犯の特徴として、金目の物を取ったあと、バッグは捨てられてしまうとよく聞く。それは、梨央の大切なものが返ってこないことを意味していた。はるか遠くを駆ける犯人を捕まえるためには、奇跡でも起こらない限り難しいだろう。例えば、日本代表のスポーツ選手が追いかけてくれるなど。もちろん、そんな都合のいい奇跡は起きない。
「おねがい……」
 返して。吐き出される息とともにそう呟く。何かが頬を伝い、アスファルトに落ちていく。一つ、二つと落ちるそれは、汗か涙か分からなかった。ただ、悔しさだけが梨央の中に残った。
 ──私が退屈だ、辞めたいなんて思ったからだ。だから罰が当たったんだ。
 後悔が渦巻き、バッグの中身に思いを馳せていると、何かが頭に被せられた。視界が奪われ、一瞬パニックになってしまう。
「持っていて」
 走れないから。そう、聞こえた。重みのある声は、不安と悲しさでいっぱいだった自分に安心感を与えてくれた。
 何を被されたのだろうと、頭に触る。すると、手になじむ布の感触があった。被せられた布を少し引くと、視界が開けた。目を細めて眩しさを堪えていると、大きな体が、ひったくり犯に体当たりする瞬間が飛び込んできた。
「うそ……」
 思わず呟いた言葉は、驚くほどに力がなかった。

◇◇

 ひったくり犯の公開逮捕劇に、やじ馬が集まっている。倒された犯人は、遅れてやってきた警察官にすでに捕まえられていた。自分は被害者であったが、完全に蚊帳の外だ。犯人を捕まえた男性は、輪の中心にいて、ここからでは顔を確認することもできない。身体的疲労と、精神的疲労が重なり、梨央はその場から動けずにいた。すると、抜き出た身長の男性がこちらに歩み寄ってくる。震える足を叱咤し、ゆっくりと立ち上がる。膝に付いた小石や砂を払う余裕はなかった。
 白いシャツと、臙脂えんじのネクタイに細身のスラックス。ひったくり犯に体当たりした格好とは思えない男性が、何かを差し出してくる。
「これだろ?」
「……え」
 先ほどの逮捕劇が衝撃的すぎたのか、言葉が出てこない。それでなくとも、犯人を追いかけまわしたせいか、体が言うことをきかなかった。
「返してほしかったんだろう?」
 差し出されたものは、ひったくられたバッグだ。おずおずと手を伸ばすと、ずしりと重みが手にかかる。いつもより重く感じるのは、疲労のせいではないだろう。きっと、バッグの大切さを理解したからだ。
「中身を確認してもらっていい? 勢いよく体当たりしたから、壊れたりしてないか心配だから」
「あ、は……い」
 促されるままゆっくりとファスナーを開け、中身を確認する。財布やスマートフォンよりも、まずは。そんな思いでバッグの中に手を入れる。内ポケットにしまってある、B6サイズのミニノート五冊と、採寸用メジャー。両方とも、『岩本梨央』と、自分の名前が書かれている。梨央の会社では、勤続二年目から裾上げやお直しの測定が許される。新人という枠を超え、一人前と認められた時にネーム入りの採寸メジャーを会社から贈られることになっていた。そして、小さなノートには今までの経験が全て記入されている。うまくいったこと、そうでなかったこと、採寸の基本など仕事に必要なことを全て書きとめてあった。つまり、それらは梨央が一人前と認められた証だった。
「……っ」
 二つの存在を確認した瞬間、梨央の目から涙が溢れだす。もちろん、安堵感から来る涙だった。
「……あり、がとう、ござい、ます」
 零れる涙のせいか、うまく言葉が出てこない。ずずっと鼻をすすり、ようやくお礼の言葉を絞り出せた。
「そんなに大切なものだった?」
「……不思議ですね。さっきまで、いらないって思ってたんですけど……なくなるって考えたら……」
「ああ……」
 わかるよ。と続いた言葉に、梨央は思わず顔を上げる。視界に飛び込んできたのは、背の高い、屈強な男性だった。どこかで見たことがあるような気がするのは、彼の顔がとても整っているからだろう。鋭い瞳に、筋の通った鼻。そして、少し薄めの唇。パッと見ると強面、という印象を抱くかもしれない。しかし、目の前の男性は笑みを浮かべている。それだけではなく、左の頬にだけ浮かぶえくぼ。それが、彼の印象を随分柔らかくしていた。
 先ほどの走るスピードや、体当たりの様子を見ると、スポーツ選手なのかもしれない。しかし、身に着けているものはスーツだ。不躾にも梨央は彼から目を離せなかった。
「あ、すみません……ジャケット……」
 走るのに邪魔だと言ったジャケットを男性に返す。さりげなくブランドロゴを見ると、思った通り、自社のロゴ。慣れた手触りだと思ったのも、梨央がいつも仕事で触れているものだったからだ。しかし、目の前の男性と、梨央の手元にあったジャケットがどうにも結びつかない。
 ──このジャケットは、確か既製品のセットアップスーツの通年用。ストレッチは効いていないし、サイズ展開はいつも通りだったはず……
 シャツ越しでも分かる屈強な体には少し窮屈なのではないか。梨央は観察した結果、そう答えを導き出した。
「ありがとう。走るのにジャケットはちょっと重たいから」
 走った後とはいえ、ジャケットを羽織らないと少々寒さが応える季節でもある。涼しい顔をしていた男性だったが、梨央がジャケットを手渡すと、慣れたようにそれを羽織った。
 ──やっぱり!
 梨央はその出で立ちを見て、確信する。二の腕、背中の皺。そして襟が少し広がっている。肩幅、胸部と腹部のサイズが合っていない証拠だ。
 梨央は溢れていた涙を指で拭う。
 ──既製品ではサイズがなさそう。こんなに素敵な人なのに、とってももったいない!
 恋愛ごとや男女関係に疎い梨央が見ても、素敵な男性と思える人が、サイズの合わないスーツを着ていることほど悲しいものはない。しかもそれが自分の働く会社のものであればなおさらだった。梨央はにっこりと笑みを浮かべ、口を開く。トップセールスを叩きだしただけあって、営業には自信を持っていた。
「弊社のスーツを着用いただき、ありがとうございます」
「……?」
 分からないといった風に眉をひそめる男性に向かって、梨央は一枚の紙を差し出した。
「SUIT KINGDOM、オーダースーツメイド部門、営業の岩本梨央です。この度は大切な仕事道具を取り返していただきありがとうございました」
 男性が名刺を受け取ったのを確認したあと、今度はしっかりとお礼を口にした。涙はもうすっかりと乾き、梨央はめらめらと情熱の炎を燃やしていた。
「……頂戴します。なるほど、あなたの会社のものだったんですね」
「不躾で申し訳ございません。今のジャケットはサイズが合っていないように思われるのですが……いかがでしょうか」
「ああ……見ただけで分かるんだな」
 はい! と梨央は元気よく返事をする。
「ここの所またトレーニングをするようになってきたからな……それでかもしれない」
「あの、お礼と言っては何ですが……」
 梨央は先ほど取り返してもらったバッグから一枚の封筒を取り出す。
「これを、ぜひ!」
「……?」
 受け取らない男性に半分無理やり押し付けるような形になってしまう。封筒の中身は、オーダーメイドスーツの優待券だった。SUIT KINGDOMでは、年に二度、組合から優待券が配られることになっている。自分のものを買うのもよし。家族や友人に配るもよし。好きに使っていいとお達しが出ている。梨央は自分のスーツを仕立てようかと考えていたが、お礼も兼ねて男性に渡すことにした。
「弊社では、オーダーメイド部門がありまして。とはいっても、高級店よりは手を出しやすい価格になっていまして。生地は店舗と同じものを使用しているので比較的安価で作れます。こちらの優待券を使用していただくと、半額で作成できます」
 情熱を燃やした梨央は誰にも止められなかった。男性が何も言わないのをいいことに、梨央はオーダーメイドスーツの良さを語る。
「……っふ」
 ──あ……
 やってしまった、と我に返った時には、もう男性が吹き出していた。
「す、すみません。私いっつもしゃべりすぎちゃって……」
 これでよく叱られると続ける。すると、小さく吹き出していた男性が、大きな声で笑い始めた。
「っ、あははは……すごいね、岩本さんの情熱、伝わってくるよ」
 ああ、おかしいと今度は男性の目に涙が浮かんでいる。梨央はぱちぱちと目を数回瞬かせた。名前、どうして? あ、名刺か。なんて思っているうちに、目の前に一枚の紙が差し出された。
「株式会社ノーサイドの代表取締役、向田むこうだ直人なおとです。お気遣いありがとうございます」
「だいひょっ……! ちょ、ちょ、頂戴……いたします」
 出てきた肩書の大きさに驚きを隠せなかった。挙動不審になりながらも、最低限のマナーで名刺を受け取った。勢いよく頭を下げると、全力疾走した際に酷使した肺が悲鳴をあげた。
「っ、ごほ、ごほっ」
「大丈夫ですか?」
「い、いえ……ごほっ、すみません。大丈夫です」
 むせてしまい、向田が慌てた様子で背中を撫でてくれた。すると、背中を撫でてくれていた手が急にぴたりと止まった。
「そんな全力疾走できるほど、本当に大切なものだったんですね」
「……?」
 梨央は手の主を仰ぐ。向田の声のトーンが少し下がったような気がしたからだ。すると、悲し気に眉を下げ、空虚を見つめている。
「……向田様も、何かを諦めたん……」
 ですか? と続けようとして梨央は失言に気づく。言わなくて良いことを口にしてしまうのは梨央の悪い癖だった。助けてもらったが、悲しい気持ちに踏み込むなど恩をあだで返すようなものだ。謝罪ののち、梨央は慌てて自分の口を両手で塞いだ。
「……うん、まあ、そうだな。俺は今までいろいろ諦めすぎたのかもしれない」
 気を悪くした様子もなく、向田はすぐに表情を取り戻した。その顔には先ほどの悲しさや空虚はないようにも見える。ころころと変わる表情に梨央は振り回されていた。次はどんな表情を見せてくれる? と、期待してしまうほどに。
「これ、ありがとう。ぜひ使わせてもらうよ」
 優待チケットを中指と人差し指に挟み、空を切るように梨央に見せつけてきた。行動のスマートさに見入ってしまう。
「あ、ありがとう、ございます」
 再度頭を下げると、「またね」と向田が背中を見せた。遠く見えなくなるまで、梨央はずっと背中を見つめていた。

※この続きは製品版でお楽しみください。

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