【試し読み】偽りの駆け引きは愛の始まり
あらすじ
「先生があたしと付き合ってくれたら…黙っててあげても、いいですよ?」──高校時代の担任・安東誠一先生のことがずっと忘れられなかったミイ。卒業後、小さい頃からの夢を叶え幼稚園の先生として働くミイの元に、想い続けた先生が現れる…。再会を喜ぶミイだったが、そこで誠一のある秘密を知ることに。秘密を守ることと引き換えに、誠一と付き合うことになったミイ。しかし初めてのデートで身体を求められ戸惑いながらも答えるが、気まずそうな誠一を見て、脅すように始めた恋愛は本当の恋愛ではないと後悔する。もう一度きちんとした告白をしようと決意するミイだったが、可愛い女の子と歩く誠一の姿を目撃してしまって──?
登場人物
高校時代、担任の誠一に告白。恋愛対象としては見られないと振られた後もずっと想い続けていた。
かつての教え子・ミイが働く幼稚園で再会。秘密を守ることを条件に恋人になる。
試し読み
プロローグ
高校三年生のミイにとっては、担任の〝安東先生〟は大人の男性だった。
染めていないストレートの黒髪を後ろに軽く流して、センスのいいネクタイをチョークが付かないようにとシャツの胸ポケットに入れている姿にもドキドキして、授業中に先生の口から発せられる流暢な英語をずっと聞いていたいとさえ思った。
彫りの深い顔立ちは黙って立っていれば一見怖そうに見えるが、信じられないことに外見と反比例するように性格もいい、本当に誰にでも優しい先生だった。
自分と同じ〝あんどう〟という名字だから気になった。
他の教師のように上から押し付けるようなものの考え方をせずに、生徒一人一人に向き合ってくれるような先生だから、余計に目がいった。
恋をした理由なんて、後からいくらでも言える。
卒業まで半年を切った頃、学校でしか会えないことや、卒業したら会えなくなることを考えると胸が締め付けられるように苦しくなった。
小学生が何となく気になる男子のことを初恋だというものなどではなく、正真正銘の恋だった。
それは叶うことはなかったけれど──
「女子校だから免疫がなくて……俺みたいな男が大人のいい男に見えているだけだよ。ミイの気持ちは勘違いだと思う。それに生徒のことを恋愛対象としては見られない。ごめんね」
好きです──
そう言ったミイに対して先生が言った言葉。
今思えば、社会人二年目の先生は新人と言われる立場だったのだろう。
ミイにとってはずいぶん年上の立派な大人に見えていたが、まだその当時二十三か二十四歳だ。
確かに女子校で男性といえば先生か用務員のおじさんぐらいなもので、兄弟もいないミイは男性に免疫がなかった。
それに、先生ほど格好良くて若い男性はいなかったから、安東先生は生徒たちの憧れの的だった。
バレンタインには、校則で菓子類の持ち込み禁止とあるにも関わらず職員室前に長蛇の列が出来ていた。
それを一人一人丁寧に傷付けることなく断っていく、誰にも例外はなかった、もちろんミイに対しても。
「気持ちは嬉しいよ。でも校則で決まっていることだし、チョコレートにかけたお金はご両親が働いて稼いだものだ。それを貰うわけにはいかない」
ご両親が働いて稼いだものだ……と先生が言ったのは、ミイの通う学校は私立でバイト禁止など、校則が厳しかったからだ。
やんわりと校則違反であることを指摘し、生徒に自分で稼いだものだとは決して言わせない。
バイトをしていることが学校側に知れれば、保護者が学校に呼ばれバイト先にも連絡がいくことになっていた。
先生が担任を受け持つ三年生は進路を決める大事な時期だった……小さなことで生徒の未来を潰したくはない、そう思ったのかもしれない。
今でも先生との思い出をこんなに簡単に思い出すことが出来る。
大人のいい男に見えていたのは確かだが……この気持ちは勘違いなどではない。
だって、今でもまだ……先生のことこんなに好きでいるんだから──
一
園児たちの掛け声が広々とした校庭に響き渡る。
まだまだ残暑の残る十月、日中の暑さは九月とそう変わらないが、たまに吹く心地よい風に秋の気配を感じる。
この日ミイが働く幼稚園では、小学校の校庭を借りて運動会が開かれていた。
まだ若いミイは雑用係に追われ、広い校庭を次の種目の準備の為に走り回らなければならない。
腰のあたりまである長い髪を後ろに一つに纏めて、汗ばむ額を手で拭う。
元々あまり日に焼けない体質で肌は白く、特別濃いメイクなどしなくても、マッチ棒が乗りそうだねと言われる長い睫毛がミイの美貌を際立たせていた。
幼稚園の制服とも言えるジャージを着ていても細くスラリと伸びた手足がスタイルの良さを感じさせ、〝ミイ先生〟を見るのは密かな父兄の楽しみとなっていることなど、当の本人は知る由もない。
顔を流れる汗を手で何度拭っても、拭いきれなかった汗がジワリと落ち目に染みる。
「あっつい……」
幼稚園教諭免許の資格を取り、この幼稚園で働き始めてから二年が経つ。
ミイの友人の中には、まだ学生をしている者も多数いたが、社会人としての付き合いと学生同士の付き合いでは、話す内容も金銭的な意味でもズレが出てしまい会う頻度は格段に減っていた。
それでも、高校時代の友人だけは別で、会う頻度は減ってもミイが〝安東先生〟のことを相談していた友人とは、未だに付き合いが続いている。
あの頃は、まさか自分が先生と呼ばれることになるとは思わなかったけどね──
「ミイせんせー! いっちばーん! 僕一番だよね!?」
声のする方へ視線を向けると、ミイが担任を受け持つ年少クラスの優がミイへ手を振っていた。
ミイはかけっこが終わった子どもを並ばせるために、校庭の真ん中あたりのゴールそばで待機していた。
「うん! 優くん! 頑張ったね~! いっぱい練習したもんね!」
優や二位三位と続いた子どもの手を引き所定の位置へ並ばせていると、一番になれなかった男の子が悔し涙を流す。
子どものこの純粋さがミイは好きだった……自分に兄妹はいないため、小さな子どもに触れ合う機会などなかったが、ずっとずっと小さな子どもと関わるような仕事がしたいと思っていた。
「二番だって、三番だっていいんだよ……よく頑張ったね」
ミイは汗に濡れた子ども髪をポンポンと優しく叩く。
子どもに釣られて自分も泣きそうになるのを必死で堪え、子どもの背中を摩る。
しゃくり上げながらも、ミイの言った言葉にうんうんと必死に頷くと素直に列に並んだ。
その時、優の名前を呼ぶ声が聞こえ、ミイは十メートルほど先の保護者席に目を移す。
聞こえた声は優の母親のもので、優が一番になれたことを手放しで喜ぶ楽しそうな声にミイも笑みが漏れる。
どうして、子どもの頑張っている姿って涙を誘うんだろう、そんなことを考えながらミイは目尻に浮かんだ涙をそっと指で拭った。
もう一度ミイは優の母親に視線を向けると、その隣にこの場所に居るはずのない懐かしい顔がそこにあった。
嘘……でしょ────
かけっこの後は昼食の時間になるため、保護者へと園児を引き渡さなければならない。
ミイは一番近くにいた優から保護者へ引き渡そうと手を繋いでいたのだが、母親の元へ連れて行くことも忘れ、ただ呆然と立ち尽くした。
何度も忘れようと思った。
自分はハッキリと振られたのだから、思い続けることに意味はない。
それでも、何度もあの時の言葉が反芻される。
どこかで会えたら、勘違いなんかじゃなかったと言いたかった。
それさえ言えたら、先に進めるような気がしていた。
目が合うと、驚いた顔をするでもなくあの頃と変わらない生徒に接する柔らかな微笑みをミイに向ける。
「先生……」
ポツリと呟くと、優が先に母親の姿を捉えたことで手を強く引かれ我に返る。
優の母親の元へと急いで行くと隣で笑うミイの元担任、安東誠一の姿があった。
「ミイ……久しぶりだね」
誠一は同じ名字だからとミイのことだけは名前で呼んでいた。
高校の頃は冗談で周りの女子生徒からミイだけ贔屓だと言われたこともあるが、誠一は顔色も変えずに、自分と同じ名字を呼ぶのって嫌なものだろうと答えていた。
本当に名前を呼ばれる以外に、特別なことなど何もなかったのだから周りもそれ以上は何も言わなくなった。
誠一が特別扱いをしミイだけを名前で呼んでいるわけではないと分かっていたのに、ミイと呼ばれるたびに心臓が早鐘を打ったことを覚えている。
それは告白し振られた後も、卒業するまで何事もなかったかのように続いた。
「ミイせんせー、おじちゃんの彼女なの~?」
過去の思い出に浸っていると、優が誠一とミイを代わる代わる見ながら、キラキラとした目を向ける。
「お、おじちゃん……?」
「うん! せーいちおじちゃんだよ! お母さんの弟!」
遠くから、他の園児の母親がミイを呼ぶ声にハッとし、誠一と優の母親に軽く頭を下げその場を離れた。
昼に差し掛かり気温はますます上昇する。
ミイの顔が赤いのは、暑さのせいだけではなかった。
※この続きは製品版でお楽しみください。