【試し読み】一途な彼女は孤独なオオカミを逃がさない
あらすじ
憧れの社長秘書への異動発表を明日に控えている詩織は、酔った勢いで不思議な雰囲気のバーテンダーと一夜を共にしてしまう。翌朝、名も知らぬ彼をそのままに出社し社長室へ向かうと、そこには先程まで隣で寝ていた彼が!? 彼、和真は社長の弟で、詩織は新たに役員に就任する和真の秘書に任命されたのだった。和真はその独特の雰囲気から、はじめはお飾りの役員と噂されていたが、徐々に頭角を現し注目の的に。一夜のことは忘れあくまで上司と部下の関係として接する詩織だったが――「男の〝何もしないから〟って嘘だから」人気者なのにどこか影を含む和真に惹かれ、再び身体を重ねる……。ところが彼には隠された過去があって……?
登場人物
憧れの社長秘書ではなく、なぜか社長の弟でありワンナイトの相手・和真の秘書になることに。
端正な顔立ちにオオカミのような瞳を持つ。社長の弟として詩織と再会する。
試し読み
これは恋じゃない。
ここにあるのは恋愛感情なんてくすぐったいものなんてまるでなくて、人間性なんか求めていない。あるのは動物のような本能、ただそれだけだ。
太く硬く反り返ったそれが秘められた狭間に押し込まれ揺さぶられ、息を荒げ汗を滴らせて快楽を貪る。ただそれだけの行為。
「……っ、あ……、は、……もう……ッ」
切羽詰まった声が聞こえる。鬱陶しいほど伸びた黒髪の間から、苦悶に歪んだ瞳が切なげにこちらを見つめる。
その視線にどこか、懐かしいものを感じた。
「……──」
反射的に名前を呼ぼうとして、刹那。自分はこの男の名前を知らないのだと、そのとき初めて気がついた。
「それじゃ、おつかれー」
週末。仕事終わりのサラリーマンやOLがその週の疲れを癒やそうと集まりごった返したバーで、山崎詩織は友人の里緒とカウンターの隅を陣取り、ささやかな乾杯をした。
百六十七センチという身長で痩身、肩につかない長さで切りそろえた黒髪と、化粧で誤魔化さないときつく見えるややつり目気味の顔立ちは、二十六歳という歳のわりに落ち着いて見える。
生来、人見知りする性格も相まって初対面ではうまく話せず冷たい印象を与えてしまい、学生時代のあだ名は『氷の女』だ。さほど協調性もないまま社会人になってしまった現在、付き合いがあるのは中学時代からの友人の里緒だけである。
「それで、明日が待ちに待った異動の発表なんでしょ?」
里緒は胸元くらいまで伸ばし軽くウェーブがかった栗色の髪を片側にまとめて、ウサギのような大きな目を柔らかに細めた。
里緒の百六十センチに満たない身長と女性らしいほどよい肉付きのライン、愛らしく小ぶりな顔の作りは、まさに詩織の理想の女そのままである。
「そうなの。一昨日くらいからずっと緊張しっぱなし。早く結果が知りたいなあ」
「心配しなくても大丈夫だって。あんた優秀じゃん」
「うーん、でもどうかなあ。デザイナーと秘書って求められてるスキルが違うわけだし……」
「またそんなこと言って」
自信がなさそうに視線を漂わせて落ち着きなくグラスを撫でる詩織に、里緒はやや呆れたような視線を向ける。
いつもそうなのだ。詩織はいざというとき自信がなくなる。どんなに万全の準備をしたとしても、結果を見るまでは駄目なのではないかと不安でたまらない。高校受験も大学受験も入社試験もそうだ。
今回は入社以来ずっと狙っていた秘書の席が空いたので、ここぞとばかりに異動願を出したのだが、その発表が明日に迫り気分は最悪だ。ここ数日は毎夜異動できずに終わる夢にうなされ、詩織は居ても立ってもいられず里緒を飲みに誘った。
「でも憧れの社長の秘書になりたかったんでしょ?」
「そうだけど……でも社長秘書なんてきっとすごい競争率だと思わない? 寿退社してたまたま空いたけど、私よりも優秀な人ってきっといっぱいいるし」
詩織の働くデザイン事務所の社長・門間周治は不動産で財をなした門間グループの一人息子だ。
巨大グループの傘下だけあって個人経営の事務所よりも規模は大きく、社員の数も二百人を超える。デザイン事務所となっているものの、事業内容はアプリ開発やシステムセキュリティなど多岐にわたっていた。
詩織は数年前にウェブデザインアシスタントのバイトとして入社した。
門間の社長室はウェブデザインの部署と隣接しており、雑務担当の詩織とは入社当時から顔を合わせる機会が多く、人見知りで他の社員となかなか馴染めなかった彼女を門間は何かと気にかけてくれたのだ。
その頃から詩織には、門間の役に立ちたいという強い思いがあった。数年かけて社員に昇格し、秘書検定を取得し、長らく待っていたチャンスがこの度訪れたのだ。
その結果が、明日発表される。緊張するなという方がおかしかった。
「別に異動が適わなくてもいいのよ。今のままの仕事でも楽しいし、社長の役に立ってると思うし」
「本当に? 今のままでいいと思ってる?」
「そりゃまあ……なれるなら秘書になりたいけど……」
煮え切らない。とはいえ、客観的に見て門間との面談は好感触だったと思う。部長も、異動には難色を示していたがそれでも詩織の希望を尊重してくれていた。特に不安な要素はどこにもない。それでも、詩織は落ち着かないのだ。
「最速でバイトのアシスタントから社員に昇格したし、仕事しながら秘書検定だって取ったのに、なんでここで自信なくすかなあ」
「ううん……」
里緒の言うことは正しい。これまでの努力を思えば、もっと自信を持つべきだ。けれどそうわかっていても、急に自信を手に入れることはできない。根が小心者なのだ。
曖昧な唸りを漏らす詩織に痺れを切らしたように、里緒はグラスを一気に煽った。
「あんたねえ……ここぞってときに弱気になるのよくないよ。いつもそうじゃない? 告白してきてくれないかなっていつも向こうから言わせようとしてさ、そういうんじゃ大事なときにチャンス逃すよ」
「べ、別に門間社長とはそういう風になりたいわけじゃ……」
「でも実際、秘書になってあわよくば社長に好きになってくれないかなーとかあるわけでしょ?」
「そ、そんなんじゃないわよ」
「社長っていくつだっけ?」
「さ、三十六?」
「十歳も年上じゃん! 付き合っても話題とか合わないでしょ」
「いやだから付き合いたいとかじゃないんだってば」
必死に弁解しても友人の目は疑いに満ちている。
時に尊敬が恋慕のように映ることは詩織も理解している。しかし社長への思いは純粋に仕事として役に立ちたい、ただそれだけなのだ。
学生時代にしてきた数々のバイトでは理不尽なことで怒られたり、やってもいない濡れ衣を着せられたりと、到底尊敬に値するような上司などいなかった。だからこそ門間を知るほど、人生をかけて尽くそうと思えたのだ。
「でも真面目な話、詩織って彼氏いないのどれくらい? 結構いないよね」
「え、どうだろう……五年くらい?」
里緒はぎょっとした。
「それってもしかして、大学のとき付き合ってた元彼? あれ以来できてないの?」
「う、うん」
途端に、呆れとも驚きともとれるため息がもれる。
「い、いや今は仕事が楽しいっていうかね……」
里緒の視線を受けて、詩織は急速に居心地が悪くなる思いがした。
こういう話題は苦手だ。しかし女である以上、二十代半ばという微妙なお年頃も相まって避けられない話題ではある。
周囲ではちらほら結婚や出産の話を聞くようになり、里緒も現在大学時代からの彼氏と同棲中で結婚も秒読みという段階だ。気を遣われたのか詩織も過去数回にわたって里緒の彼氏の友人と会わされたことがあるが、どうにも気が進まず誰とも進展しなかった。
「でも仕事だけなんて悲しくない? 遊んでられるのはフリーのいいところだけど、あんた遊んでもいないでしょ。最後にやったのいつよ」
「あー……」
記憶をひっくり返し、答えを出すまでの長い沈黙の間に、里緒はバーテンにおかわりを注文した。
「……五年……?」
「まさか元彼以外誰とも? 何もないの? ワンナイトもなし?」
「だって付き合ってないから」
「そこから始まることもあるでしょうが。もっと楽しみなよー。今だけだよ」
「そうかもしれないけど、そもそもそんな知り合う機会がないし……」
詩織も、恋愛に興味がないわけではない。友人の結婚式に行ったり、日頃彼氏との同棲生活を話す里緒の話を聞いているといいなと思うし、恋愛系の映画や漫画を読んで心ときめかせたりもする。しかしこれまではずっと仕事で認めてほしいという思いがあったので、プライベートを楽しむ余裕がなかったのだ。
「知り合うのよ。外に出て、会話するの。社長をそういう目で見てないんなら平気よね」
「も、もちろん」
今の彼と付き合うまで奔放に次々男をとっかえひっかえしていた里緒の自由さを羨ましく思うこともある。けれどそれは多分自分にはできない、縁がない気がした。何せ氷の女だ。
(それに私となんて誰も……)
「カシスオレンジです」
またそんなことを、と呆れられるのが目に見えている言葉を胸の内で呟いていると、カウンター越しにバーテンが里緒の注文したグラスを差し出した。
背が高い。高さのあるカウンターチェアに腰を下ろしていても、彼の身長の高さは目についた。ダークカラーのシャツが映える色白の肌は、不健康そうなのにしっかりと男らしい筋肉の曲線を描いている。手脚が長く、気配もなく近づくのでまるで大きな肉食獣のようだ。
真っ黒でくるんくるんした髪が長く目元を覆っているが、その髪の隙間からふとアーモンド形の瞳が詩織を捉えた。虹彩の色が薄いのか、雪山にいるオオカミやシベリアンハスキーを連想させる。
「何か飲みますか?」
「……え。ああ……じゃあ同じのを……」
気づけば詩織の手元にあるグラスも空になっていた。話すのに夢中で気がつかなかったのだ。
答えながらも、詩織の目はバーテンに釘付けになっていた。
薄暗い店内でも漆黒の髪の隙間から見える目は驚くほど薄い綺麗な茶色だ。肌の色といい、薄い色素はどこか海外の血が混じっているのだろうか。髪の下にある彫りの深い目鼻立ちは、隠すのが勿体ないほど整っているように思えた。
(本当、見れば見るほどオオカミって感じ)
そしてその目に、どこか既視感。
「あの……どこかで会ったことあります?」
思わず尋ねると、バーテンは僅かに首を傾げた。その仕草もどこか獣を思わせる。次の瞬間、彼はふっと口元を緩めた。笑うとどこか幼い印象だ。
「それって、もしかしてワンナイトのお誘い?」
「えっ? ち、違……!」
里緒との会話を耳にしていたのか。
思わぬ返答に詩織は一気に顔が熱くなる。里緒は吹き出して笑った。
「いいじゃん、そういうことにしとけば」
「ちょっと、やめてよ! 違いますから!」
「違うのか。そんなに否定されるのも傷つくんだけど」
「あっ、ごめんなさい」
大袈裟に肩を落とす彼に急いで謝れば、からかっただけなのかすぐにクスクス笑った。
それでもまだ詩織の違和感は消えず、もう一度尋ねようかと口を開きかけたとき、別の客に呼ばれて男は離れていった。
(気のせいかなあ……)
どこかで見た気がする。けれどあんな高身長で整った顔の男、そう見ない。最近会っていたなら覚えているはずだ。
もやもやを抱えつつその後ろ姿を眺めていると、里緒が小さく含んだような笑みを浮かべた。
「いいんじゃない? あの髪はもっさいけど顔は結構かっこいいっぽいし、そんな悪くない反応だし。異動祝いってことでさ、冒険しなよ」
「いや、本当そういうんじゃないって……異動も決まってないし」
「またそういう……」
「お待たせしました」
「ど、どうも」
頼んだ酒が出される。意味深にニヤニヤする里緒の視線から逃げるように、詩織はグラスに口を付けた。
そもそも、店員だとしても初対面の相手に話しかけるなんて普段ならとても勇気がいるのだ。さっきはつい話しかけてしまったけれど、里緒の視線もあってまた声をかけようという気持ちにはなれなかった。
明日の不安を抱えつつ、里緒の惚気や職場の愚痴、共通の友人の話に花を咲かせているとあっという間だった。
混み合う店内から抜け出し、やや距離のあるところに住む里緒を駅まで送る。詩織の家はここから二駅ほどなので、酔い覚ましに歩くつもりだ。気づけばかなり飲んでいた。
「本当に歩いて帰るの? フラフラじゃない?」
「平気、へーき。無理って思ったらタクシーつかまえるし」
「店に戻ってさっきの店員さんに送ってもらえば?」
「もう里緒ってば、そんなことできないの知ってるくせに。ほら、電車来ちゃうよ。気をつけてね」
人のことを言えないくらい酔っている彼女を改札口まで見届けると、踵を返して駅を出る。秋口の冷えた夜風が火照った肌に気持ちいい。
(明日かあ……)
ひとりになった途端、さっきまで里緒と話していたあれこれが頭の中を巡る。
共通の知り合いがまた一人結婚するらしい。学生時代同じクラスだった女子が最近三人目を産んだらしい。里緒が彼氏の引き出しから婚約指輪を見つけてしまった──。
そんな話題を聞く度にどこか、自分が置いて行かれている気持ちになった。
今の仕事には満足している。もちろん一番の願いは門間の秘書になることで、そのために寝る間も惜しんで懸命に努力してきた。そのことに悔いはない。けれど、それでももしもこの先ずっと、どんなに頑張っても秘書になれなかったら、と不安になる。
二十六年間の人生で、詩織は自分が特別優秀でないことを理解している。成績は常に平均値だし、覚えがいい方ではない。人の倍努力しないと人並みに仕事もできない。
いまだに仕事終わり、情報収集をして常にデザインの勉強をしていないとちゃんと仕事ができているか不安で仕方ないし、新しいプロジェクトを始めるときは夜も眠れない。
そして世の中には、詩織より何倍も優秀な人間がたくさんいる。そういう人たちを押し退け望みを叶えられるほど、自分に実力がある気がしないのだ。
(……なんて言ったら、また里緒に怒られるんだろうな)
彼女は迷ったりしない。いつだって自分がしたいこと、なりたい姿、欲しいものを明確にしていて、それを必ず手に入れる。その強さに詩織は憧れていた。なれるなら、里緒のような人間になりたい。
(里緒だったら、このまま店に戻ってあのバーテンさんに声をかけたりするのかな)
容易に想像できてしまう。自分に置き換えたらなんだか笑えてきて、馬鹿な考えを振り払うように首を振ると目眩がした。アルコールが、平衡感覚を鈍らせている。
世界がぐわんとまわる感覚に、立っていられなくて体が傾く。コンクリートが見えた。
(あ、やば──)
「ちょ……っぶねぇ」
崩れ落ちそうになった体を、力強い腕が支えた。
はっとして見れば、黒い髪と、その隙間から薄茶の瞳が。
「あ……え?」
さっきのバーテンではないか。
なぜここにいるのかわからず、瞬きを繰り返すと男はため息をついた。
「お姉さん傘忘れてません?」
「傘……?」
見れば、彼の腕に見覚えのある女性物の傘がある。天気予報で雨になると聞いて持って出たのだ。今の今まで持ってきたことさえ忘れていた。
「あ……すみません。わざわざ」
「タクシー呼びますか?」
「いえ、歩いて帰れるんで」
見上げると随分近くに顔があって、その整った顔にどきりとする。
オオカミのような、冷たいような寂しそうな、不思議な色の目。
「あの……やっぱり会ったことないですか?」
刹那、薄茶の瞳がおかしそうに細められる。
「友達にそう言えってそそのかされたの?」
「そうじゃ、ないですけど……」
答えながら、頭の中で里緒がブーイングする。せっかくのチャンスじゃないか。遊べ。今しかないのに。異動祝いだ。たまには冒険しろ。──そんな言葉が聞こえてくるようで、詩織は目蓋を震わせる。
そしてここにきてようやく、自分がいまだバーテンに体を抱えられていることに気がついた。見た目のしなやかさとは裏腹な逞しい筋肉の感触に、妙な安心感を覚えながらも急いで離れる。
「あっ、その、すみませんっ」
「さっきちょっと聞こえたんだけど、お祝いなんだって?」
「ええまあ……確定じゃないですけど」
誰かが聞いているなんて思いもしないで話していたから、急にそんなことを言われると落ち着かない。気が早いお祝い発言を聞かれていたのは、ちょっと居心地が悪くて視線を逸らす。
男はふうんと笑って、腕に引っかけていた傘を差し出した。いつの間にか、敬語をやめている。
「俺と冒険してみる?」
「……へ?」
「したいのかなって。息抜きにワンナイト」
「そんな……」
否定しようとして、先ほどまでの里緒との会話が頭の中で巡った。アルコールが判断を鈍らせている。気が大きくなっているのかもしれない。
──『社長をそういう目で見てないんなら平気よね』
里緒の言葉が耳元でこだまする。そうだ。社長とそういう関係になりたいわけじゃない。だから他の人と寝ることだってできる。
ここにいない人間への証明のように、意地になった気持ちが顔を覗かせた。
初対面のほとんど知らない相手となんて、普段なら絶対に無理だ。らしくない行動だと思った。だが不思議と、目の前の男の目は自分を安心させる。知っていると思う。その安心感が妙に詩織の心を掴んで、いつもならしない行動に走らせた。
(でも息抜き。これは、恋じゃない)
詩織は彼の目を見つめながらおずおずと、差し出された傘を手に取った。
もうすぐ上がりの時間なのだと言う男と一度店に戻り、私服に着替えた彼と適当なホテルに向かった。
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