【試し読み】冷徹伯爵と雇われ令嬢~氷鎖をとかす純愛~

作家:雪村亜輝
イラスト:期田
レーベル:夢中文庫セレナイト
発売日:2020/4/14
販売価格:400円
あらすじ

男爵家の長女クロエは、父の度重なる事業失敗により、妹と共に質素な生活を送っていた。そんなある日、家を訪れた男たちから父の借金の存在を聞かされる。その恐ろしい金額を知ったクロエは、言われるがまま住み込みで働きに出ることに。……ところが道中、クロエは自分が父の借金のカタに売られてしまったと知る! クロエを買ったのは、裏社会を支配しているという伯爵・アリスター。――「お前はどうしたい?」気まぐれに問われたクロエは、もう一度妹に会うため、自らを買い戻すべく使用人として働きたいと願い出る。その答えを気に入ったアリスターにより、クロエは使用人以上の待遇で邸宅へ迎え入れられ……?

登場人物
クロエ
借金のカタとして売られ、アリスターに買われる。自身を買い戻し妹に会うため使用人として働く。
アリスター
端正な顔立ちに氷のような冷たい瞳をもつ。伯爵家の若き当主でありながら裏社会の支配者。
試し読み

 強い風が吹いているらしい。
 窓枠ががたがたと鳴り、暖炉の炎はそこから吹き込む風にゆらゆらと揺れていた。
 男爵家の長女クロエ・リスタートンはその音を聞きながら、憂い顔をしてソファーに身を沈めた。
 黒絹のように美しい長い黒髪が、彼女の動きに合わせてさらりと流れる。
 ぼんやりと窓の外を見つめる紫色の瞳は、宝石のように美しい。だがその白い頬はやつれ、美しい顔には険しい色を浮かべていた。
 彼女の悩みは、年頃の女性らしい恋や見た目などではなく、もっと深刻なもの。
 この男爵家の将来についてだった。
 リスタートン男爵家は、領土こそ王都から遠く離れた地方だったが、土地が豊かでそれなりに裕福だったらしい。
 ところが祖父の代にこの国で大災害があり、その影響をまともに受けたこの領地では、それ以来農作物がほとんど採れなくなってしまった。崩れそうになっている男爵家を何とか建て直そうと、父は色々な事業に手を出してしまう。だが、充分な知識も資金もない状態では、当然のようにすべて失敗した。蓄えはたちまちなくなり、母が所有していた宝石は、祖母の形見も含めてすべて売り払ってしまった。
 さらに悪いことは重なっていく。
 心労からか、母は病に倒れ、長い闘病生活の末に亡くなった。さらに昨年、男爵家を継ぐはずだった兄も、流行り病で命を落としてしまう。
 給金を充分に支払うことができなくなり、昔から仕えてくれていた使用人にも暇を出さなくてはならなくなった。今、この屋敷に残されているのは、父と長女であるクロエ、妹のマリエ。そして昔からこの家に仕えてくれたマーガレットだけだ。
 彼女はもともと、嫁ぐ母に付き従ってこの家に来たらしい。亡くなった奥様に頼まれましたからと、ほとんど無償に近い状況なのに残ってくれている。
(本当に、マーガレットには感謝しているわ)
 クロエは深く溜息をつきながらそう思う。
 幼い頃から男爵家の経済は大きく傾いていて、クロエも他の貴族の令嬢に比べると質素に育った。でもそれでも昔は家事をしてくれるメイドが何人かいて、掃除や洗濯、料理などはしたことがなかったのだ。
 ところがいよいよ給金が払えなくなり、メイドたちに暇を出さなければならなくなってしまった。もしマーガレットがいなかったら妹のマリエとふたりで途方に暮れていただろう。
 さらに彼女から習った刺繍は、根気のいる仕事だが綺麗に仕上げることができればいい値段で買い取ってもらえる。
 だからクロエは、暇を見つけては刺繍やレース編みの仕事に励んでいた。今も、彼女の傍らにあるテーブルには作りかけの刺繍が置いてあった。早く仕上げればそれだけ金額も上乗せしてもらえるので、こんなふうにぼんやりとしている暇はないはずだ。
 それでもクロエは、窓の外に視線を向けたまま動けずにいた。
 そうして母や兄も、こうして憂い顔で窓辺に座っていたことを思い出す。
 きっとこの状況を何とかしたいと思いながらも、どうすることもできなくて、途方に暮れていたのかもしれない。
 同じ立場になった今、あのときの母と兄の気持ちがわかるような気がする。
(お父様はまだ、事業を成功させたら何とかなるって言っているけれど……。成功するとは思えないわ)
 たしかに、そのやり方で危機を免れた者はたくさんいるのかもしれない。だが、同じことをしたからといって、誰もが成功できるほど甘くはない。とくに父のように、しっかりとした知識を身に付けず、ただ人に言われるままに動いている者は。増やすつもりが、少ない財産を減らすだけになる。
 それがさらに父を焦らせ、屋敷に帰る暇もないくらい忙しく動きまわっている。
 そんな父を何としても止めたいと思うが、母や兄が言っても無駄だったのだ。自分の言うことなど、聞いてはくれないだろう。
 クロエはもう一度溜息をつくと、気を取り直して傍らのテーブルから作りかけの刺繍を手にする。
 兄が亡くなったとき、クロエはひそかにこの男爵家の存続をあきらめた。兄には婚約者がいたが、クロエにはいない。こんな問題の多い男爵家に、今から婿入りしてくれる人などいないだろう。
 世間では、裕福な商人が貴族の娘を娶って爵位を得ることもあると聞く。
 だが、こんな地方の男爵家ではそれほどの価値もなく、なりふり構わずに行動している父の噂もかなり有名になっている。
 クロエを妻にして爵位を継ぎたい物好きなどいないだろうし、クロエ自身も、もう結婚は諦めていた。
(でもせめて妹だけは、何とかしてやりたい。この家を出て、普通の人としあわせになってほしい……)
 妹のマリエは十四歳。再来年には社交界にデビューすることになる。そのときにせめて、恥ずかしくないくらいのドレスと宝石は用意してあげたい。そう思って、こうして寝る間も惜しんで働いていた。
(マリエに、あんな思いはさせたくないもの)
 クロエは二年前の、自分の社交界デビューのときのことを思い出して唇を噛みしめる。
 新しいドレスや宝石を用意することができず、母の若い頃のドレスに、マーガレットが持っていたイミテーションの宝石をつけて参加するしかなかったのだ。
 そんな服装で行くくらいなら、屋敷に引きこもっていたほうがましだった。それなのに、クロエの社交界デビューを楽しみにしながら亡くなった母のためにもと、父は参加を強制した。
 流行りのドレスを着て、美しい宝石を飾った同い年の令嬢達にくすくすと笑われ、さすがのクロエも泣き出しそうだった。父はそんなクロエを色々な人の前に連れ出し、何とか結婚相手を見つけようと必死だった。
 その結果、リスタートン男爵家の悪名はさらに広がり、クロエは完全に結婚を諦めることになる。
 あの日のことを思い出すと、今でも胸に痛みが走る。
 お金がないということは、これほどまでに惨めなことなのだと思い知った日でもあった。
 クロエは刺繍の手を止めて、暗い室内を見渡した。
 天気が悪いせいで昼間でも薄暗いが、蝋燭は夜になってもあまり使わないようにしている。
 質素な室内はテーブルと椅子、そして寝台があるだけだ。
 少しでもお金になるものはすべて売ってしまい、残っているのは中古で購入した木造りのシンプルな家具だけ。
 もう売れるものはない。
 だから何としても、自分の手で稼がなくてはならない。
 さいわいなことに、今年の流行りはレースよりも刺繍のようだ。凝った刺繍はとても高く売れるから、クロエにはありがたいことだった。
 今の刺繍も、高値で買い取ってくれることが決まっている。それを思い出し、クロエはようやく柔らかな笑みを浮かべた。
 納期が早まればその分、買取の金額が上がるのも嬉しい。
(マリエのために、頑張らなくては)
 クロエはまた手を動かし続ける。
 二歳年下の妹は、何よりも大切な存在だった。
 きつい印象を与える自分とは違って、母に似た優しい顔立ち。金色の髪と緑色の瞳も、母とまったく同じだ。少し気弱なところはあるが、自慢の妹である。自分がしっかりと母の代わりになって、よいところに嫁がせなくてはならない。きっと父も妨害しないだろう。
 亡くなってしまった母、兄、そして自分の分も、妹にはしあわせになってほしい。
 そんな思いを込めながら、クロエは夜が更けてもまだ、働き続けていた。

 お金がなくとも、父とふたりで質素に暮らすだけなら何とかなる。妹とマーガレットには自由になって、これからはしあわせに暮らしてほしい。
 ひそかにクロエは、そう思っていた。
 しかし、父の焦燥はクロエが思っていた以上だった。
 儲け話があると持ち掛けられ、よく確認もせずに飛びついてしまったらしい。
 しかも今度は、借金をした相手が悪かった。
 朝から父が出かけていた、ある日。
 マーガレットが青い顔をして部屋に飛び込んできた。その剣幕に、クロエは驚いて刺繍をしていた手を止める。
「マーガレット、どうしたの?」
「ああ、お嬢様。旦那様にお金を貸していると言う男達が訪ねてきました。旦那様に大切な話があると……」
「お父様に?」
「はい。ご不在だとお伝えしたのですが、帰るまで待たせてもらうと言って、応接間のほうに」
 彼女の震える声が、男達の強引さを物語っていた。
 マーガレットが伝えたように、父は朝から出かけている。
 きっとまた、母の実家にお金を借りに行ったのだろう。母の実家は子爵家で、今は母の兄が当主になっていた。
 祖父母は孫であるクロエやマリエを気にかけ、ときどき父にお金を貸してくれたりした。だがその祖父母も体調があまりよくなく、昨年から海辺にある静養地でゆっくりと暮らしている。
 今の当主である伯父は、妹である母に苦労をかけ死なせてしまった父を快く思っていないから、きっと門前払いにされてしまうに違いない。
 それなのに向かったということは、なりふり構わずに行動しなければならないくらい、負債金額が大きいのかもしれない。
(どうしよう……。お父様はきっと、すぐには戻らないわ)
 両手をきつく握りしめて、クロエは思案する。
 父はいつ帰ってくるのかわからないと伝えても、おとなしく帰ってはくれないだろう。それに、こんなに怯えているマーガレットに、これ以上そんな男達の相手をさせるわけにはいかない。
 ゆっくりと深呼吸をして、覚悟を決める。
「わたしが行くわ」
「お嬢様、でも……」
「大丈夫よ。お父様がいないのだから、わたしが対応しなくては。マーガレットはマリエを連れて奥の部屋に隠れていて。絶対にマリエの姿を見られないように気を付けてね」
「……はい、わかりました」
 狼狽えていたマーガレットは、それでもマリエを守るという明確な指示を与えられて、少し落ち着いたようだ。
「ですがお嬢様は」
「わたしなら大丈夫。ただお父様がいつ帰るのかわからないことを伝えて、また後日に来てもらうように話をするだけよ。向こうだって、お父様が帰ってこないのならどうしようもないはずだわ」
 それよりも早く、妹を。
 そう促すと、マーガレットはようやく部屋を出ていった。
 クロエは深呼吸をすると、視線を上げる。
 今までは、父にお金を貸した者が屋敷にまで押しかけてくるようなことは一度もなかった。
 応接間で父を待っているのは、もしかしたら普通の男達ではないのかもしれない。
 それでも父が不在の今、対応できるのは長女であるクロエだけだ。妹とマーガレットを守るためにも、毅然と対応しなければならない。
 クロエは男達が待っている応接間に向かう。
 だがその部屋の前まで来ると胸の鼓動が高鳴り、扉を開けようとしている手が震えていることに気が付いて、唇を噛みしめた。
 もっと強くなって、兄の代わりにマーガレットとマリエを守らなくてはと思うのに、自分はまだこんなにも弱くて臆病だ。
(しっかりしなくては。もうお兄様はいないのだから、わたしがふたりを守るのよ)
 そう自分に言い聞かせて、扉を開いた。
 応接間に居た男はふたり。
 ひとりは若い男で、もうひとりは父と同じくらいの年頃だ。
 どちらも見た目はきちんとしていて、上級階級の人間のように思える。
 それでも、こちらに向けられている視線は、容赦なく鋭かった。
 さらに初対面の女性を遠慮なく見渡す不作法さは、彼らが見た目通りの人間ではないことを物語っている。
「お待たせしてしまい、申し訳ございません」
 だがクロエはそう言って、笑みを向けた。
 相手が何者だろうと、表向きは父の客。丁寧に対応しなければならない。
「あいにくですが父は不在で。いつ帰ってくるのかも、はっきりとはわかりません。ですから……」
 何とか彼らを納得させて、帰さなくてはならない。クロエはにこやかな表情のままそう告げるが、固く握りしめた両手は、微かに震えていた。
 男達はひとことも言葉を発せず、ただクロエを見つめるだけだ。
 その沈黙は不気味で、とてもおそろしい。
「申し訳ないのですが、いつまでもお待たせするわけにもいきませんので、今日のところはお引き取りいただけないでしょうか」
 その恐怖に打ち勝とうとして、クロエは声を張り上げる。
 向こうから見れば、気の強い女に見えたのかもしれない。
 男達はようやく顔を見合わせると、言葉を発した。
「リスタートン男爵の娘、クロエ嬢とは、あなたのことですな」
 父と同じくらいの年の男がそう言う。
 静かな声だったが、なぜか背筋がぞわりとした。
「……ええ、そうです」
「娘はあなたひとりと男爵から伺っていましたが、間違いないですか」
「その通りです」
 男の言葉に、クロエは躊躇いもせずに頷く。
 このふたりは、妹の存在を知らない様子だ。身なりは良いが、貴族ではないらしい。父は妹を巻き込まないようにと、存在すら隠していたのだろう。でも自分の存在はあっさりと告げていたらしいことに、少し寂しさを覚える。
 それでも妹を守りたいという気持ちは父と同じだった。
 男達はクロエの言葉に頷き、また顔を見合わせている。やがて年上の男がクロエに向かってこう言った。
「では男爵に借金があり、その返済の期限が今日だということも、御存知ですか?」
「え……」
 父に借金があるということは、何となく気が付いていた。
 でも父は詳細を語ろうとはしなかったし、クロエも問い詰めるようなことはしなかった。
 どうせ何を言っても聞いてくれない。
 それに妹とマーガレット、そして自分の生活だけで精一杯。さらに父のことまで抱え込む余裕はなかったからだ。
 それでもこうなってしまうのなら、状況をきちんと聞いておけばよかった。
 今さら後悔しながらも、首を横に振るしかない。
「何も聞いておりません」
「そうですか。ですが今日、我々が来ることを、男爵は御存知だったはず。それなのに不在だということは、返済する意志はないと思われても仕方がないかと」
「それは……」
 忘れてしまっただけだと思いたい。
 だが借金の返済に追われている父が、この日を狙ったかのように留守なのは事実だ。
 昨日は珍しく一日中屋敷にいたのだから、伯父のところに出向くのは昨日でもよかったはず。おそらく父は、この日借金の返済を迫られるとわかっていたのだろう。それなのに、クロエ達に何も言わずに出かけてしまったのか。
(もしかして……)
 クロエが妹のマリエのために、内職をしてせっせとお金を貯めていることを、父は知っている。それを当てにしたのかもしれない。寝る間も惜しんで働いたお陰で、それなりの金額にはなっている。
(これは、マリエのドレスや宝石を買うためのお金なのに)
 妹に自分のような惨めな思いはさせまいと、必死に貯めたものだ。
 それでも、この男達にいつまでも居座られたらマリエも怖がるだろうし、妹の存在を彼らに知られてしまうおそれがある。
 父の思惑通りになってしまうが、仕方がない。
(来年までは、まだ猶予がある。また最初から頑張るしかないわね)
 そう覚悟を決めて、男達に父の負債額を尋ねる。
 だが、父がこの男達から借りた金額は、想像を遥かに超えたものだった。
「……そんなに?」
 クロエが貯めてきた金額では、その半分にもならない。
 あまりにも予想とかけ離れた事実に息を呑むクロエに、男達は先ほどとは打って変わって、優しい声で語りかける。
「我々としても、これほどの金額を一度で返済するのは難しいと理解しています。ですが男爵は、一括返済でかまわないからと契約書にサインしたのです」
「契約書? 見せていただけますか?」
 どんな契約をしたのか確認せずに、支払うことはできない。
 そう言うと、彼らはクロエの目の前にそれを突き出した。
「これで、よろしいでしょうか」
「……」
 それはたしかに、父のサインだった。書かれた文字を読むと、男達の言うように、一括で支払うと書いてある。
 きっと父のことだ。ろくに確認もせず、言われるままにサインをした可能性も高い。
「お父様は、どうしてそんな……」
 クロエはきつく手を握りしめたまま、視線を周囲に彷徨さまよわせた。
「良い投資話があるのだと、そう言っていました」
(ああ、お父様。また……)
 父はまた騙されて、今度はこれほどまで多額の借金を作ってしまったのかと思うと、足の力が抜けてその場に座り込んでしまう。
(どうしよう。そんな金額、とても用意できないわ)
 返せないと言っても、男達は納得してくれないだろう。そして、いくら待っていても今日中に父が帰ってくることはないような気がする。
 男達は黙って返答を待っている。
 誰も助けてはくれない。
 自分で何とかするしかないのだ。
 座り込んでいたクロエはゆっくりと立ち上がり、震える声で、今用意できる金額はこれだけだということ。そして返済をいつまで待ってもらえるのか、尋ねる。
 だが、男達の返答は残酷なものだった。
 返済が遅れるほど、利子が増えていくこと。だから待てば待つだけ借金が増えるだけだと言われて、クロエは青ざめた。そんなことになってしまえば、どれほど働いても返済などできそうにない。
 もう屋敷や領地を売るしか方法はないのか。
 そうするしかないとしても、王都から遠く、土地も豊かではないこの地など買い手が現れるかどうかも怪しい。そして売れるのを待っている間も、どんどん借金は増えていくことになる。
 どうしたらいいのかわからず、ただ立ち尽くすクロエに、男達は優しい声でこう提案する。
「男爵の所在がわからない今、我々としてはあなたに請求するしかないのです。だが、あなたは借金の存在さえ知らなかった。そんな若い女性に過酷な取り立てをするのは、我々としても気が咎めます。そこで……」

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