【試し読み】ご主人様とお呼びします!

作家:東万里央
イラスト:仁藤あかね
レーベル:夢中文庫セレナイト
発売日:2020/4/10
販売価格:600円
あらすじ

男爵令嬢キャロルは四歳のとき、道端にうずくまるひとりの少年と出逢う。母に捨てられ家も名前もないという。父親に頼みこみ少年を屋敷に連れ帰ったキャロルは彼に名前を贈り、ジェイクと呼び懐いた。その恩を胸に男爵家そしてキャロルに尽くすジェイクは、賢さを認めてくれた男爵の勧めで商売を学びに王都へ。そうして久しぶりに屋敷へ戻るとキャロルの婚約が決まったと聞かされ、心乱しながらも幸せを願うしかないジェイク。しかしある夜、屋敷に火の手が上がって……。大きく変わってしまうふたりの人生。行方が分からなくなった彼女を自分の手で幸せにしたい──懸命に探すジェイクの前にキャロルはメイドとして現れて!?

登場人物
キャロル
男爵令嬢だったが、火事により家が没落。預けられた遠縁宅から逃げ出しメイドとして生計をたてる。
ジェイク
火事で行方不明になっていたキャロルを探し出し自らの専属メイドとする。逆転した主従に困惑気味。
試し読み

プロローグ

 むかしむかし、今よりちょっとむかし。
 あるところにたいそう可愛らしい男爵家のお嬢様がおりました。髪は朝の光を紡いだ金、瞳はサファイアを嵌め込んだ青、頬はマシュマロのように真っ白でした。
 さて、ようやく四歳を迎えたクリスマスも間近の日曜日、お嬢様は男爵のお父様と一緒に街へ出かけました。お嬢様のお出かけ用の帽子の注文と、ずっと欲しかったお人形を買うためです。外では音もなく淡い雪が降っておりました。
 ところが大通りに差しかかったころ、お嬢様はお気に入りの帽子ではなく、四つ角の一つにうずくまる男の子を見つけたのです。男の子のとび色の髪はぼさぼさで、おまけにすえたにおいのする、ボロ布で体を覆っておりました。
 お嬢様は御者に頼んで馬車を止め、男の子のそばに駆け寄りました。男の子はがりがりに痩せていて、お嬢様より五、六才ばかり年が上に見えました。
「ねえ、あなた、なまえはなぁに?」
 男の子はお嬢様の無邪気な質問には答えません。ぎらぎらと光る目でお嬢様を睨むばかり。通りがかりのおせっかいが、お父様とお嬢様に声を掛けます。
「お嬢さん、そのガキには近付かないほうがいいぜ。ひどいにおいも卑しい言葉づかいも移っちまう。そいつはジプシーとのあいの子さ。母親の旅芸人の踊り子が三日前に、口減らしだって幌馬車から放り出していったんだ」
「まあ、じゃあ、それからずっとなにもたべていないの?」
 お嬢様はジプシーが何かを知りませんでした。ただ、街の人に嫌われているのだとはわかりました。けれども、お嬢様には男の子が何であろうとどうでもよいことでした。
 伸び放題な前髪のすき間から見え隠れする金の目が、聖夜の夜空に光る星よりもきれいだと思ったからです。
 お嬢様は顔をしかめるお父様を振り返り、愛らしい笑顔でおねだりをしました。
「おとうさま、わたし、ぼうしも、おにんぎょうもいらないわ。かわりにこのこをちょうだい?」

第一章「お嬢様と小間使い」

 ヘンリー・ウォード男爵の住まいは、繁華街から馬車で二時間の丘の上にあった。領地に暮らす人々が「萌黄もえぎの館」と呼ぶ若草色の屋敷だ。二階建てで横広がりの造りになっており、こぢんまりとしているのもあるからか、豪華というよりは可愛らしい印象だった。
 馬車がゆっくりと萌黄の館の扉の前に到着する。
「まったく、お前は不思議な子だね。そんなところはお母様そっくりだよ」
 ヘンリーは馬車から降りた娘のキャロルを抱き上げ、続いておずおずと降りてきた少年を振り返った。
「ほら、君も来なさい。ああ、そうだ。ところで名前は? 年はいくつだい?」
 キャロルが顔を輝かせ、ヘンリーの腕の中から少年を見下ろす。
「わたしもききたい! あなたのなまえをよびたいわ!」
 すると、少年は恥じ入るように顔を伏せ、拳を握り締めて「名前は……ない」と答えた。
「母さんは、いつもおれを〝あれ〟か〝おい〟って呼んでいた……。だから、ないんだ。年は……多分十歳くらいだ。でも、九歳かもしれねえ。生まれた年も誕生日も知らねえ……」
「……それはひどい。親のすることじゃない」
 ヘンリーは少年の髪に手を埋めた。少年は身じろぎをして一歩後ずさる。
「だっ、男爵様、おれは乞食で汚い。触っちゃいけねえよ」
「汚いなんてことはないよ。それに、乞食である前に人間だろう」
 ヘンリーの言葉に少年が目を見開く。ヘンリーは特別なことを言ったつもりはないのだろう。「なら、名前を付けなくちゃな」と頷いていた。
「君を見つけたのはキャロルだから……キャロル、お前がこの子に名前を付けてあげなさい」
「えっ、いいの?」
 少年もヘンリーの提案に「えっ」と声を上げた。年下の少女に名付けられることに抵抗があるのだろうか。しばし目を泳がせていたが、やがてしぶしぶと言ったふうに頷いた。
「ああ、構わねえ……」
「なにがいいかしら? リチャード、ロバート、マイケル……」
 キャロルは名付け親になることが嬉しく、指を折っていくつもの名前の候補を挙げた。すべてを折ったところで、「う~ん」と唸りつつ首を傾げる。
「おとうさま、ここじゃきめられないわ」
 ヘンリーはキャロルの背を撫でながら笑った。
「急ぐことはないよ。これから一緒に暮らすんだからね」
 再び少年に目を向け優しい声で告げる。
「君にはこの子の遊び相手と小間使いになってもらいたい。住み込みになるから明日には部屋を用意しよう」
「えっ……部屋? おれの部屋? いいのか?」
「もちろんだよ。まさか、うまやがいいとは言わないだろう? だが、その前に入浴だな」
「にゅうよく……?」
 少年は「入浴」の意味が理解できないらしく、目を見開いたままきょとんとしている。その間にヘンリーは「おおい、メアリー!」と屋敷に声を掛けた。すぐさまきしむ音を立てて扉が開かれる。向こう側には一人の年配のメイドと若いメイドが、主人を迎え入れるためにずらりと並んでいた。
 少年はそうした光景を目にするのは初めてだったらしく、「う、うおっ……」と呟いたきり息を呑んでいる。ヘンリーとキャロルは慣れているので、驚くこともなく足を踏み入れた。我に返った少年も慌ててその後をついて行く。
 ヘンリーはキャロルを腕から降ろすと、年配のメイドに帽子とコートを預けた。
 このメイドはメアリーと言って、ウォード家に仕えて三十年になる。一度結婚して退職したのだが、子どもたちが独立したのを見計らい、再びメイドとして戻って来ていた。
 ヘンリーは少年を振り返ってメアリーに告げる。
「メアリー、この子は今日街から連れて来たんだ。入浴を手伝ってやってくれないか。その後パンも肉もスープもたっぷり食べさせてくれ」
 メアリーは「まあまあまあ!」と仰け反ると、少年の首根っこをひょいと摘まんだ。そのまま廊下をずるずる引きずっていく。
 少年がたまらず必死に暴れた。
「いってぇ。何すんだよ! 放しやがれ!!」
 ところがメアリーはびくともしない。
「まあまあまあ! 山猫のような子どもだこと。お湯がどれだけ必要になるだろうね?」
 キャロルは二人の後をとことこと付いて行き、ヘンリーはそんな娘を温かい目で見送った。
 メアリーが向かった先は召使用の浴室だった。余っていたお湯を一杯に湯船に張り、裸に剥いた少年をぽいと放り込む。
 水飛沫しぶきとともに少年が悲鳴を上げた。
「あ、あっちぃ! 何だこりゃ!」
「まあまあまあ! 風呂に入ったこともないのかい?」
 メアリーはまたもや少年の首根っこをひょいと摘まみ、床の上に置いた小さな石の台に座らせた。石けんをたっぷりスポンジにつけると、少年の痩せた体をごしごし擦り、湯船から掬ったお湯を頭から掛ける。
「まあまあまあ! お湯が真っ暗だよ! どれだけ汚れているんだろうね? 野良犬だってこれほどじゃあないよ!」
「うるせえ! 俺は野良のまんまで結構だ!」
「あんたはそれでよくても、あんたが遊び相手になれば、お嬢様まで汚れてしまうからね。おとなしくするんだよ!」
 こうして二人が湯気とお湯にまみれる最中、キャロルは入り口からひょいと顔を覗かせた。メアリーの表情がキャロルを見るなり「まあまあまあ」と和らぐ。
「お嬢様、もうちょっとだけお待ちいただけますか? すぐにこの山猫っ子もすっかりきれいになりますからね」
 キャロルは「違うの」と首を振ると、もじもじとしながら可愛いおねだりをした。
「メアリー、わたしもおてつだいがしたいの。そのこをあらってもいい?」
 メアリーは少年を擦る手を止め、キャロルをまじまじと眺めた。続いて「わかりましたよ」と優しく笑い、手招きをして石けんを手渡す。
「お嬢様には頭をお願いしましょうか。念入りにお願いしますよ」
 すると、されるがままだった少年が、ぎょっと顔を上げ「嫌だ!」と叫んだ。
「ガキにまでこんなことされたくねえよ!」
 少年は自分よりずっと年下の、それも貴族の少女に裸を見られるのが恥ずかしかったのだろう。ところがメアリーは「まあまあまあ」と笑うばかり。
「何を言っているんだい。あんたもガキだろう」
 そして、結局はキャロルに頭を任せることになったのだ。
 キャロルは小さな手に石けんを泡立て、少年の髪にそっと指を入れた。
「かゆいところはないですか~?」
 これはお嬢様がお風呂に入る時のメアリーの真似だ。
「……な、ない」
 少年は蚊の鳴くような声で答えた。顔と首と体はもう真っ赤になっている。
「おみみのなかもあらいますよ?」
「み、耳はダメだ! 俺、弱くてっ……」
「わがままは、いけませんよ!」
 キャロルが耳の中に指を突っ込むと、少年は椅子から飛び上がって笑い出した。
「……! あは、あははは! 止めろ、止めてくれ! くすぐってえ!」
 キャロルは楽しくて、楽しくて、少年と一緒に笑った。腹から、心から笑った。
「きゃは、きゃははっ……」
 これほどたくさん笑ったのは、大好きだった母が半年前に亡くなり、たくさん泣いてから初めてだった。

 少年がやって来てから二日後のクリスマスイブ。
 キャロルはひとり少年の部屋を訪ねた。手にはレース紙に包んだミンスパイを持っている。もちろん、少年へのクリスマスプレゼントだった。
「クリスマス、おめでとう! これ、あなたへのプレゼント」
 プレゼントを貰うなど生まれて初めてだったのだろう。少年は照れ臭いのか頬を染めながらも、「……ありがと」とぼそっと礼を言った。
「でも、おれ、なんにも返せるものがねえんだ。ごめん……」
 キャロルはにっこりと笑って少年を見上げる。
「おかえしなんていらないわ。だって、いちばんのプレゼントはあなただもの。これからずっとあそんでくれればいいわ」
「お嬢様、けどよう……」
「おじょうさまなんていや。キャロルがいいわ。じゃなきゃ、おへんじしないから」
「だって……そんなのおかしいだろ……あんたはお貴族様なのに……」
 少年はさんざん躊躇ためらい葛藤したのちに、ようやく「じゃ、じゃあ、キャロル様……」と遠慮がちにキャロルの名前を呼んだ。
 キャロルはうきうきとした顔で少年を見上げる。
「そう、それでいいわ! それからね、もうひとつプレゼントがあるの。あなたのなまえ、きまったわ」
「えっ……」
「ジェイコブよ。でも、わたしにはちょっとむずかしいから、ジェイクってよぶわね」
「ジェイコブ……ジェイク」
 少年は──ジェイクは、たった今もらった名前を繰り返した。
「悪くねえ……ジェイク、うん、悪くねえ……」
 よほど気に入ったのか、金の目が星のように輝いている。
「でも、なんでジェイクなんだ?」
 キャロルはにっこりと笑って左の指を折っていった。
「うん、わたしね、おともだちにはおなまえをつけているの。ここからもみえるでしょう? あのおおきなきはバーニー。えだですをかけているとりさんたちはコリンとアリスよ。それから、にわのピンクのばらはリズ、きいろのばらはジョーン……」
「キャロル様……」
 ジェイクははっとしてキャロルの横顔を見つめる。この数日で男爵からキャロルの母がすでに亡くなっており、寂しさを紛らわすためにキャロルが動植物を擬人化して、片端から友だちにしているのだと聞いていたからだ。
 キャロルはジェイクに同情されているとも知らず、笑顔のままでジェイクを見上げた。
「ジェイクだけは、まだだれにもつけていなかったなまえなの。だから、ジェイクはジェイクだけのなまえよ」
「おれだけの名前……」
 ジェイクはもう一度「ありがと……」と礼を言った。ジェイコブと言う名前とミンスパイ──この二つが、キャロルが初めてジェイクに贈ったものだった。
 窓の外では白い雪が音もなく降り積もっている。不思議と冷たいはずのその雪が、二人にだけは温かいように思えていた。

 ジェイクが萌黄の館にやって来てから、あっという間に四年の月日が過ぎた。キャロルは八歳に、ジェイクは十三歳になっていた。
 さて、キャロルは今日もメアリーと一緒に、せっせと台所で料理を頑張っていた。メアリーは失敗しそうになった時だけ、そっと横から手助けをしている。
 二時間後、キャロルはこんがりきつね色のアップルパイを焼き上げた。
「できたー!」
 キャロルはオーブンからパイを取り出し、近くに用意していた皿の上に載せた。ナイフで八等分に切り分け、メアリーに一切れを差し出す。メアリーは微笑みながら一口食べ、うっと呻いて口を押さえた。キャロルには聞こえないよう密かに呟く。
「ま、まあまあまあ……毎回、材料も、分量も、時間もちゃんと計ってるのに……どうしてだろうねぇ……」
 見た目だけは大層美味しそうだったので、キャロルは大喜びでパイを二切れナプキンに包んだ。
「これ、ジェイクにあげるの」
 メアリーがえっと青ざめる間に、キャロルは台所から飛び出して行った。その小さな手に焼き立てのパイを抱えて。
「ジェイク、ジェイク!」
 キャロルは廊下を駆け抜け扉を開け、ジェイクが庭仕事を手伝う庭園へやって来た。ジェイクはキャロルの小間使いを勤めていたが、屋敷の雑用も受け持っていたからだ。
 ジェイクは花鋏を手にバラを切っていたが、仕事の手を止め「何だ、キャロル様か」と汗を拭った。
「どうしたんだ? また何か作ったのか?」
 キャロルは「うん!」と頷き、サファイアブルーの瞳を輝かせながら、まだ温かいパイの包みを差し出す。
「アップルパイ! ……食べてくれる?」
 ジェイクは「仕方ねーな」と言いつつ包みを受け取った。庭園の東屋あずまやのベンチに腰を下ろし、早速一切れを口に放り込む。キャロルもちょこんとその隣に腰かけ、息を呑んでジェイクを見守っていた。
「……」
 ジェイクはしばらく黙って口を動かしていたが、やがて「ん、うまい」と頷くと、一切れ目をあっと言う間に食べてしまった。二切れ目も一分で平らげキャロルを褒める。
「うまかった。キャロル様はきっといい嫁さんになるぜ」
「えっ……お嫁さん……?」
 キャロルは頬を庭園に咲いているバラと同じ色に染めた。
「あ、ありがとう……」
 もじもじと拳を口に当てると、ジェイクの膝からナプキンを取り上げる。そして、ジェイクを残して東屋から飛び出した。キャロルは途中くるりと振り返り、鈴の鳴るような声でこう叫ぶ。
「まだたくさんあるからね? おしごとのあとでたべてね!」
 キャロルが姿を消してからしばらく後、今度は慌てた様子でメアリーがやって来る。
「まあまあまあ、ジェイク。お嬢様を知らないかい?」
 ジェイクはパイくずを払いながら立ち上がった。
「さっき屋敷に帰ったぞ」
「あら、そうかい……ってことは、あんたあのパイを食べたのかい?」
 メアリーは苦笑いを浮かべつつ溜め息を吐いた。
「最近、料理がご趣味になってねえ。あんたはお嬢様によく付き合ってくれるよ。人の食べられたものじゃなかっただろう?」
 ところがジェイクは唇を拭い、「いや」と首を振ったのだ。
「あれは充分うまかった」
「……」
 メアリーはまじまじとジェイクを見つめた。ふっと表情を和らげると、腕を組んでジェイクを見下ろす。
「あんた、優しいんだね。それも、お嬢様にだけだ」
「なっ……」
 どうやら図星だったらしく、浅黒い頬が熟したラズベリー色に染まった。
「これも仕事の一個だっての! 第一もったいないだろ!?」
「……おまけに嘘は言わないけど素直じゃない」
 メアリーはくすくすと笑いながら、ジェイクの肩を叩く。
「お嬢様があんたになぜ懐くのかわかったよ。ジェイク、あんたは本当にいい子だね」

 時は瞬く間に過ぎ去り、子どもたちを大人にしていく。そこに、貴族、召使の区別はなかった。

※この続きは製品版でお楽しみください。

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