【試し読み】女王様と呼ばれましても
あらすじ
ある日突然、新女王にさせられてしまった花街の娼婦ツェラ。顔も知らない父親の正体が、前々王だと判明したのだ。護衛として仕える近衛長ヴィクターは厳つく生真面目──だが実はツェラの「元常連客」。しかも特殊な趣味の娼館で出逢った。周囲には前職も二人の関係も悟られてはならない。自由を奪われ本物の女王様になったツェラの反抗に、思わず湧いてしまう欲望と興奮を隠し傅くヴィクター。ただ女王らしく振舞い存在していればいい。国の体裁を守るための傀儡、その役割を果たせればいい。やる気のないツェラだったが、前王の子を名乗る青年が出現。王位継承権争いが始まって……!?
登場人物
元花街の娼婦。父親が前々王だったと判明したため新女王となるが、王位継承権争いに巻き込まれることに。
ツェラの護衛として仕える近衛長。実は特殊な趣味の娼館では「女王様」と「常連客」の間柄だった。
試し読み
一、シェルフから玉座
「十五代目国王オーグウェンが世子、ミリツェリア。汝を今この時より、第十七代目国王として認める」
仰々しい帽子をかぶった老人が、重々しくそう言って装飾過多な杯を私に持たせる。
諸侯が集ったこの部屋の天井に、みっちりと描かれた国土と神話を絡めた絵画。
杯に満ちた透明な液にそれが反射して、悪趣味なほど押し付けがましい意図を伝えてきた。
誰が考えたんだ、こんな直裁な儀式。
しかしここでそれを口にする勇気は、さすがの私にも存在しない。
事前に教わった通り、粛々とその杯に、口をつけた。
この液体が、強めの酒であることだけがせめてもの救いである。
国王業なんて、酔わなければやってられない。
喉を通る熱い感触に、代々の王たちも同じ思いだったのだと確信した。
《女王ミリツェリア》の戴冠式は、恙無く行われた。
集まった国民たちを見下ろせるバルコニーへと連れられながら、ため息を押し殺す。
私の本当の名前は、ツェラ。
王都の花街にて暮らしていた、しがない娼婦である。
少し前に死んだ、私の母親も同じ。
本来ならあの街でそれなりに稼いだ後、適当な相手か財産を見計らって早期リタイアをして、慎ましく余生を過ごす予定だった。
そのために必要なお金だってせっせと貯めていたし、遠方から訪れた客に土地の話などを聞いて、引越し先を見繕ったりしてもいた。
父親のことは知らないが、母親の職業を思えば気にする意味もあまりない。
一生知るつもりもなかったのに、つい先日他人から答え合わせをされてしまったのだ。
私の隣で上品に微笑んでいる、年かさの女によって。
突如私を攫い関係貴族のお屋敷で《血統解析》を行った彼女は、この国の宰相だ。
どうやら私の母は大当たりを引いたらしく、私の父はこの国の前々王だったらしい。
そんなバカな、とは思うものの、血統解析でそう判明したのだから仕方がない。
王都にある花街のしがない娼婦である私には、なんと王位継承権が存在してしまったのだ。
権利とはいうが、実質的には義務である。
ここ数十年、政治上で色々あった結果、この国の王族は私しかいなくなってしまっているのだ。もう王権制度、廃止した方が良くない?
そしてあれよあれよという間に王城へと拉致られた私は、ほとんど脅迫のような交渉と教育を経て、この場に立っている。
紙吹雪が舞う中で、歓声を上げる民衆。
大勢の声が重なって、もはや漠然とした音としてしか拾えない。
ただ一様に私に笑顔を向けている光景は、悪い意味で壮観だった。
私が娼婦だったということは、もちろん秘匿されている。
前々王が辺境の小貴族の娘と恋に落ち、秘められた関係の中で生まれた存在が私という筋書きだ。
多少の醜聞っぽさは否めないが、平民の子供として出すよりマシと判断したらしい。
真実が知れれば、この歓声はあっさりと罵声に取って代わるだろう。
あぁ全く、できることなら三ヶ月前の朝に戻りたい。
まとまった金を持って、国外に高飛びするから。
使い古された物語のような運命も、自分の身に降りかかればマンネリだと笑えない。
王様業なんて、私に務まるわけがないだろう。
もちろん宰相も他の貴族たちも、ぽっと出の娼婦崩れに期待などしていない。
私は国の体裁を守るための、いわば傀儡としての女王だ。
国を治めたいなどとは少しも思っていないが、傀儡扱いだって嬉しくはない。
「新女王陛下、万歳!」
「万歳!!」
「万歳!!」
押し寄せる寿ぎに、昨日教わった優雅な仕草で手を振る。
紙吹雪が舞う中、国民たちの興奮は最高潮に達した。
横暴であった前王が事故死して、ようやく一年。
喪に服していたこの国の、初めての祝賀なのだ。
王城にかけられていた垂れ幕も、私の髪色に合わせて明るい紫。
先日までは喪の色である、辛気臭い黒紅だった。
新しい時代の幕開けに、皆が期待をよせている。
「陛下、そろそろ……」
傍で控える宰相が、室内に戻るように促す。
やっとお許しが出たことに安堵して、そそくさとバルコニーを離れた。
やれやれ、なんて人生だ。
ため息を吐こうとしたところで、背後から小さく咳払いの音。
護衛の騎士からの、先制注意である。
新米女王に、ため息をつく自由は許されていない。
湧き上がる苛立ちを押し殺し、教えられた通りの姿勢で城内を進む。
背後から、引きずる裾の音。
室内を歩くときは、ドレスのスカートを床に垂らして歩くのが王族スタイルだ。
傷みが早まるのも御構い無しに扱うのが、豊かさを誇示することになるそうだ。
立会いの貴族たちの礼を眺めながら、控え室へと撤退する。
ようやっと、大勢の人間の視線から解放されることができた。
宰相は他にも仕事があるらしく、扉の前で去っていったので、残されたのは朝からずっと背後にいる顔の怖い護衛騎士と私だけ。
カウチに腰掛けて、溜め込んでいた息を吐いた。
「感情を露わにしてはいけないと、申し上げたはずです」
「うるさいな、人前でだけ我慢すりゃいいんでしょう」
「侍女が見ております」
「誰よりも口が固いって、宰相が言ってたわね」
男の眉間の皺が、ますます深くなる。
人型の魔物だと言われれば納得しそうな気迫だが、私は少しも怖くなかった。
「陛下」
「次の呼び出しまでは、休憩する。あなたは口をきかないで」
私と違って立ちっぱなしの男は、深々とため息を吐いた。
嫌になってしまう。
私が王だと言うのなら、せめてちやほやするべきだ。
疲れ果てた私のそばに立つ大男の名前は、ヴィクター。
王城の警護を司る、近衛騎士たちの長だ。
代々王を守る仕事に就いていたそうで、今回は私の教育係をも兼ねることになった。
短く刈り上げた黒髪に、厳しい眉。
引き結ばれた口元には小さな傷があり、彼が歴戦の勇士であることを物語っている。
儀礼用を兼ねた豪奢な衣装に、それを介してでも分かる分厚い肉体。
どちらかというと、熟女が好みそうな色気を感じる。
非常に優秀な人材であるとは聞かされているが、まったく尊敬する気が起こらない。
「あの、お飲み物を……」
「ありがと」
ぎすぎすした雰囲気の中で、落ち着いた侍女がグラスに水を注いでくれた。
ほんのりとハーブの香りがするそれを飲むと、疲れが癒される気がする。
宰相の親戚の娘だそうだが、ここでも血統主義がものをいうようだ。
血が繋がっている、それだけの理由で彼女はこのストレスフルな職場に配置された。
まったく、うんざりである。
私よりよほど女王に向いた人材が、この城の中に腐る程いるだろうに。
先々代の一夜の過ちの結果なんかに、王位を押し付けないで欲しい。
ふてくされながら水を飲む私に、ヴィクターからの冷たい視線が突き刺さる。
「ヴィクター」
「なんでしょうか」
「視線がうるさい」
さらに厳しさを増した表情で、ヴィクターが目を伏せる。
傍の侍女が喉の奥で悲鳴をあげたが、私にはさっぱり効果がなかった。
どんなに威嚇されようとも、この男に恐怖を感じることはないだろう。
すでに人間を何人か片手でくびり殺していてもおかしくない、歴戦の魔物のような男。
こいつの正体を、私は知っているのだから。
この男と出会ったのは、確か三年ほど前だったろうか。
風俗嬢としてのキャリアをそこそこに積んで、上客の相手も任せてもらえるようになった頃。
この男──ヴィクターは私の前に現れた。
私が勤めていた娼館は、少々特殊な一面があった。
花街には当然ながらたくさんの娼婦がおり、差別化を図るためにそれぞれの娼館は自分たちでジャンルを設定した。
普通にセックスをさせてくれる娼館、〝本番〟は無しだが前者よりも安価な娼館。
若い女を集めた館に、若い男を集めた館。
仮装してことに及びたい客のために、様々なコースが用意されている娼館。
とにかく性欲を発散するための、ありとあらゆる娼館があの花街にはあった。
そして大抵、趣味がニッチなほど利益率は高くなってゆく。
私が在籍していた娼館は、普通のプレイでは満足できないような、筋金入りの変態たちが集まってくる場所だった。
安心安全がモットーであるが、金さえ払えば客の様々な性的な空想を叶えてくれる店。
その性癖は様々ながら、〝ツェラ〟を贔屓にしている客たちの傾向はこうだった。
男女同権のこの国において、女性と関係を持つのに自分がはるか低みにいないと楽しめない。
有り体に言えば、生粋の被虐趣味。
甚振られ、弄ばれ、罵られなければ達せない者が集う館。
特殊娼館《兎の歌声》、そこが〝ツェラ〟の古巣であった。
そこに足繁く通っていた常連《ヴィクター》と、王城で再会した時の衝撃といったら!
驚きすぎて、逆にリアクションのタイミングを逃した。
私が突如宰相に誘拐され、どことも知れぬ(後にご先祖様がさりげなく配置させた、逢引部屋だと判明した)豪華な小部屋の中で、懇々と立場を説明されたあとのこと。
「この男には、すべての事情を伝えてある。教育係り兼護衛としてつけておくから、私がいない間は彼を頼るように」
などという文句とともに、物陰からするりと出てきたのだ。
何故物陰にいたのか、最初からその辺に立っているわけにはいかなかったのか。
色々と気にかかることはあるが、つい先日まで職場で馴染んでいた顔と再会した衝撃で、全部吹っ飛んだ。
「近衛長のヴィクターと申します。他にも数人護衛はつけますが、ひとまずは私をお見知り置きください」
お前、近衛長だったの。
ツェラが在籍していたのは娼館の中でも、秘匿度の高い職場だった。
性的な趣味というのは繊細で、特殊であればあるほど世間様にバレたくないものだ。
もちろん、まっとうに「愛し合う人と週四回は合体したい」という嗜好もバレれば嫌だろうけれど。程度問題として。
だからこそ、毎週一度は来るような常連に対して、詮索するのはご法度だった。
館の主人は知っていた可能性もあるが、実際に接する娼婦が探ってはならない。
プロ意識の強かったツェラは、彼については性癖しか知らなかった。
しかし逆に、性癖に関してはかなり倒錯していることを、しっかりと把握していた。
脳裏に蘇る、倒錯的な光景の数々。
『ひ、ぁあ、女王様、お許しを……!』
『誰が喋っていいと言った?』
『あぁあっ、はぁっ、んぐ…っ』
言葉とは裏腹に、恍惚とした表情で鞭を受ける大男。
店では、ヴィーと呼んでくれと言われていた。
今思うと、偽名を考えるの苦手だったんだろうな。
鍛え上げられた肉体に、やたらに多い体力から武人だとは思っていたが。
近衛長といえば、王の身辺警護を一手に引き受けるかなりの名誉職である。
まさかここまで地位の高い男が、自分の元へ通ってたとは。なかなかの驚きだ。
金払いがよかったし、頻繁に来ていたのでよく覚えている。
良くいえば上客、素直に表現すれば金蔓の男と、王城で再会した時の驚愕といったら。
表情に乏しいこの男も、無言でびっくりしていたように思う。
職務上、男の快楽に歪む顔ばかり見ていたので、他の表情についての判断には自信はないが。
無理やり女王の座につけられようが、私には元娼婦としての矜持がある。
王都の高級娼婦が、顧客情報を流出させるわけにはいくまい。
しらを切ったところ、ヴィクターの方も初対面として振る舞った。
やはりこれで正解なのだと、内心で汗を拭ったものだ。
「陛下、そろそろお時間です」
娼館の中では定説だったのだが、人間というのは二面性を備えがちな生き物である。
プレイルームでひんひん鳴いていた大男が、社会生活においてはその片鱗も見せず、むしろ若干高圧的な性質を持っていても、驚くようなことではない。
「はいはい、次はどこに行くの」
「改めて、大臣たちからの挨拶がございます」
「絶対いらないやつじゃない、それ」
「…………お疲れのようでしたら、僭越ながら私が運搬いたしましょうか」
「新しい嫌がらせ、思いつくのやめて。わかったわかった、行けばいいんでしょ」
ずるずると長いドレスの裾を床に流しながら、歩き出す。
背後でまた、重々しいため息が聞こえた。
こんなに陰気で邪魔くさい男なら、再会した時にチェンジと叫んでやればよかった。
後悔先に立たずとは、良く言ったものである。
二、半ドア
近衛長ヴィクターは、思い悩んでいた。
悩みの種は何を隠そう、先日王位を継承した自分の主人についてである。
前王が身罷って一年、最初の半年は連日会議が行われていた。
議題はもちろん、次の王に相応しい人間のことだ。
血統上は問題がないが、内政干渉の恐れがある隣国に嫁いで行った王族の子供を王として戴くか。
それとも何代も前に臣籍降下を果たした元王族の子孫から、相応しそうな人間を拾い上げてくるか。
王のいない国とは、すなわち羊飼いを喪った羊の群れだ。
近隣諸国の羊飼いたちは、財産を増やそうと虎視眈々とこちらを狙っている。
牧羊犬だけでは守ることも難しく、一刻も早く統治者を見出す必要があった。
しかし血統上に瑕疵がある人間を王にしてしまえば、近隣諸国がそれを口実に干渉してくる恐れがある。
兎にも角にも、我が国に必要なのは正統な王だった。
国外とは関係がなく、王族の直系であれば完璧だ。
そして、誰もが解決策を模索していた中、宰相が一人の女を見つけてきた。
十三代目国王オーグウェンが在位中に、花街で手をつけた娼婦の間に生まれた子ども。
前々王の直系であれば王位継承者としては申し分なく、成人して次世代も期待できる年齢の女性。
市井に居た庶子ゆえに政治的な能力は期待できないが、空の王座を埋めるにはぴったりの人材だった。
王城の上層部はこれが最善であると認め、かくして彼女は新女王として君臨する。
最高権力者の護衛が使命である自分も、この展開には内心で胸を撫でおろした。
しかしまさかその女王の正体が、自分が通いつめていた娼館の女王様だったなどと、誰が予想しえようか。
宰相に引き合わされた時、大声を上げなかったのは奇跡というほかない。
当然彼女も、こちらの正体にはすぐさま気づいたようだった。
気の強そうなローズピンクの目が俺をしっかと捉え、責めるように剣呑な色を帯びる。
ここで自分がどんな店に通い詰めていたか判明すれば、身の破滅である。
実際に職を降ろされるようなことはないだろうが、社交界の噂好きどもによって俺は死ぬまでオモチャにされるだろう。
運の悪さを呪いながら歯を食いしばったが、彼女がヴィクターの性癖について言及することはなかった。
ただ宰相の説明に不機嫌そうに相槌を打って、ヴィクターを見た後に忌々しそうに鼻を鳴らしただけだった。
俺の秘密は暴かれることなく、新女王は目の前の男の痴態をすっかりと忘れたように振る舞った。
無視されたような気分になって、少々傷ついたのはヴィクターの勝手である。
むしろ、彼女が自分と初対面のように振る舞ったため、自分は助かったのだ。
個人的な感傷で職務を放棄するような男であれば、この地位にはいなかった。
ヴィクターには数人の兄弟がおり、皆優秀だ。
そしてその中でも特に才覚のあったヴィクターが、代々続いている近衛長という役柄を負ったのだ。
前々王の時も、前王の時も。
ヴィクターは忠実な影として、近衛長を務めた。
愛すべき自国に、己ができる限りの事を。
前線を退いた父の薫陶を、ヴィクターは愚直に信じていた。
暗愚であった前王の統治が終わり、彼の子供でなく前々王の子供が王位を継いだ。
それは、国民たちにとって非常に喜ばしいニュースだった。
愚王でなく普通の王であった前々王の子供であれば、ずっとマシに違いない。
そんな空気が、国中に蔓延したのだ。
庶民の楽観とは裏腹に、貴族たちの受け止め方は冷ややかだ。
大貴族以外は、彼女が元娼婦だと知らない。
しかしそれでも、ぽっと出の女に実権を認める者はいない。
事実、実際に政治をするのは宰相だ。
彼女を見出したのは宰相であるし、連れてきたのも宰相。
そして後見人まで宰相が務めるとなると、色々と一目瞭然である。
この国に再び王が現れた。ただし、実質的な支配者はその背後に控える宰相だ。
流石にあからさまに無礼な態度を取る者はいないが、それだけだ。
今代の女王は、王城のほとんどから侮られている。
長期的に見れば、それがどんな結果を招くか想像に難くない。
軽んじられ、嘲られ。
何一つ尊敬できる部分がなければ、後世の歴史書にまでこてんぱんに書かれてしまうだろう。
だからこそ、せめて振る舞いだけは立派にやって欲しいのだが。
「陛下、先ほどは何故大臣の言葉を鼻で笑ったのです」
「だって面白かったんだもん《陛下はどう思われますかな》だなんて。私が何も理解ってないこと、知ってて意見を聞くんだから。貴族のいじめって、案外庶民とやり方が変わらないのね」
言外の嫌味を理解できる程度には、聡明なのだ。
しかし、少々気が強すぎる。
自分の不利を悟っていてもなお、噛みつかずにはいられない。
王城では、いささか難のある性質だった。
この態度が続けば、どんどん立場は悪くなっていくだろう。
彼女の指摘通り、幼稚な嫌がらせを喜ぶ貴族というのもそれなりに存在する。
平和に生きていきたいのなら、彼らを刺激することは避けたい。
自分と特定の侍女しか出入りの許されていない、女王の私室。
そこで彼女の態度について言葉を尽くすが、分かってもらえる気配はない。
「あーあ、つまらない。ねえ、お忍びで街に出たりしたいんだけど」
「なりません、欲しいものがあればこちらに用意しましょう」
「ピンクの室内灯と、一本鞭」
「陛下!」
いくらなんでも、タチの悪い冗談だ。
前職から引き離したのは国の都合だが、ここでそんなものを求めればどんな噂が立つか。
そう思って声を荒げたところで、気がついた。
ソファで肉食獣のようにくつろいだ姿勢の彼女の唇が、皮肉げな笑みに歪んでいたことに。
──からかわれた。
理解した瞬間、腹の奥がかっと熱くなる。
長年の鍛錬のおかげで、表情に出ていないのだけが救いか。
いや、娼館での彼女は俺のことを知り尽くしていた。
俺が恥じていることも、浅ましい妄想をしたこともきっと分かっている。
嘲るように細まった、薔薇色の目がその証拠だ。
きっと内心では見下して、俺のような卑俗な男が護衛であることを嘆いているのだ。
いっそのこと、あの形のいい唇で罵ってくれればいい。
卑しい男だと吐き捨てて、跪いて詫びる俺に蹴りを一つくれるのだ。
そんなことをされれば、きっと快感に喘いでしまう。
神聖な職場でだらしなく膨らませた欲を、彼女はきっと見逃さない。
あぁ、いかん。今は職務中だというに。
獲物を弄ぶかのような彼女にときめいている場合では、決してない。
胸に湧く悦びを押し殺しつつ、表情筋に力を入れる。
彼女の侍女が、ぎくりと体を強張らせた。
「冗談。そうね、ドレスと宝石が欲しいわ。それならいいでしょ? 少しくらいは、王様っぽい贅沢してみたいの」
完全に地位に奢った人間の発言だが、街に出るなどと騒がれるよりは余程いい。
「かしこまりました、次の休日には仕立て屋を呼びましょう。陛下、そろそろご公務へ」
傀儡であるといえど、建前上はこの国の支配者である。
彼女には、いくつか課せられた仕事が存在する。
今日は、執務室で上がってきた書類を読んでもらう予定だ。
直接外部と接する必要がない分、多少は気楽といえる。
話が終わったのを見計らって、侍女がそっと彼女の元に近づく。
「お召し替えを」
午後の着替えが始まったので、さりげなく視線を外す。
現状、信頼して女王を任せられる人間はほとんどいない。
宰相の姪である侍女と、自分にごく近しい部下たち。
現状たった一人の王族である彼女に何かあれば、この国は再び混乱に陥るだろう。
決して、傷ひとつつけるわけにはいかないのだ。
信頼できる女騎士が見つからなかったため、不本意ながら男である自分がここに同席している。
武術の心得がない侍女一人では、狼藉者に対応できないからだ。
最初にそう説明したはずだが、女王からの視線は冷たい。
誤解だ。
肌理の細かくまばゆい肌から必死で目を逸らしながら、内心でそう釈明した。
確かに俺は異性愛者であるし、過去に女王へ散々欲情していた。
しかし仕事には真摯に取り組んでおり、邪な気持ちを挟むような三流ではない。
俺が懊悩している間にも準備は進み、気づけば女王は新たなドレスに身を包んでいた。
隙のないモノトーンを基調とした、理知的な雰囲気の装い。
細いネックレスについた小さな銀細工たちが、胸元を華やかにする。
彼女のきつい顔立ちに、よく似合っている。
宰相の姪は信用できるだけでなく、実力もきっちりとあるようだった。
高貴な紫の髪に、蠱惑的な薔薇色の瞳。
前々王よりは、おそらく御母堂に似たのだろう。
自分が彼女の元に通い詰めていた時、彼の面影を感じることはなかった。
というか、感じていたら通い詰めなかった。萎えるどころの騒ぎではない。
生来の資質か、彼女は飲み込みがいい。
歩き方は数度指導しただけだが、まるで生来貴婦人であったかのように、堂々と廊下を歩いてゆく。その細い背を静かに追いつつ、俺はまた静かにため息をつくのだった。
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