【試し読み】恋人ごっこ~強引副社長と思わせぶりな秘め事~

作家:あゆざき悠
イラスト:炎かりよ
レーベル:夢中文庫セレナイト
発売日:2016/6/10
販売価格:400円
あらすじ

「彼女の振りをしてくれ」高校の時に恋人の振りを頼まれた杏奈。卒業と同時に終わったはずの関係が、六年を経て再び「恋人の振り」をすることに。密かに思いを寄せていた慧斗に対し、杏奈は複雑な想いを絡ませる。それだけでも充分悩みの種だというのに、親友朋子の様子がなんだかおかしい。朋子になんでも相談したいのにできない、そして何も相談してもらえない。どうしてこんなことになってしまうのだろうと悩むけれど答えは見つからず……。そんな折、慧斗が突然「もう遠慮はしない」と宣言。仕事中なのにキスの嵐。どうしよう、頭が急展開に追いつかない――熱っぽい彼の視線にドキドキさせられっぱなしの杏奈はついに――。

登場人物
宮本杏奈(みやもとあんな)
高校の時に「恋人の振り」をしていた慧斗と六年越しに再会。慧斗からの熱烈なアプローチに困惑。
榊慧斗(さかきけいと)
自らの専任秘書として杏奈を抜擢し、引き続き「恋人の振り」をするよう求める。
試し読み

プロローグ

 高校の帰り道、歩道橋を駆け上がった彼女は目の前に男子の姿を見つけた。小学校からクラスだけはずっと同じ。だけど、ほとんど話したこともない男子。彼は他のクラスメイトとは少し違う雰囲気だった。
 何となく怖くて彼の顔を見ないように、彼女は彼の横をそっと通り過ぎようとした。
「話がある」
 バリトンの声が響き、ビクッと身体が震えてしまう。
(こ、怖いっ!)
 びくびくと震えながら、彼の前でうつむいていた。怒られるのか、何か文句があるのか、どれも心当たりはないのに彼女の心臓はギュギュッと縮こまってしまった。
「俺と──付き合ってくれないか?」
 頭上に響いたその言葉に、彼女の頭の中は真っ白になった。何も言葉が思いつかない。嬉しいような──いや、困るような──感情が複雑に絡み合い、からかわれているような気がしなくもない。
 答えに困った彼女にとっては長い沈黙だった。
 その沈黙を破ったのは彼の声だ。ふっと息を含んだ笑みを漏らし、バリトンの声が再び響いた。
「お前──本気にしたのか? 彼女の振りをしてくれればいいんだ」
「ふぇっ? 彼女の振り?」
「あぁ──俺ら、高二だろ。俺、本気で勉強しなきゃならないんだ。他の女と遊んでいる暇が無い。彼女っていうのがいれば、あいつらも付き纏うこともないだろうし」
「──人を女よけに使おうってことなの?」
「まぁ、そういうことだ。お前なら家も通り道だし、朝と放課後一緒に帰るだけで、付き合っている振りは成立するだろ?」
 肩の力が一気に抜け、溜息を漏らした。
「冗談でしょう?」
「本気だぞ。彼女の振り、明日から頼むな。あぁ、朝は迎えに行く」
 彼はそれだけを言い捨て、さっさと歩道橋を渡ってしまった。
 その翌日、彼の恋人として彼女は有名になり、高校卒業まで渦中の人となった。
 高校を卒業すると同時に、恋人の振りという話は自然に消えた。進学先の大学はお互いに別々で、実家暮らしだった彼女は最寄りの駅でも彼と出会うことが無かった。

 パチッと大きな目を開き、何度か瞬きを繰り返した。ゆっくりと起き上った彼女は両膝に額を乗せる。
「何で──今更、あの時の夢なんか見たの?」
 あの日、本当は嬉しかったのだ。彼に密かに想いを寄せていた。しかし、彼が相手をしてくれるわけがない。彼は他の人たちとは違っていた。大人っぽいだけではなく、成績優秀、眉目秀麗、そしてスポーツも万能だった。しかし、彼は自慢にすることもなく、誰からも一目置かれる存在だったのだ。
 ゆっくりとベッドを出て、彼女は立ちあがる。グイッと伸びをしてカーテンを開けた。憂鬱な気分とは裏腹に、明るい朝陽が目に入る。
「一時間も早く目覚めちゃった」
 早起きをした彼女は、シャワーを浴びてゆっくりと朝食を摂った。
 せっかくのいい天気なのに、彼女は嫌な予感を胸に抱いていた──。

第一章:辞令

 入社二年目、グループ秘書として日々成長してきたつもりの宮本杏奈みやもとあんなは、いつも通り出社した。
 秘書課に入ると、いつもとは違う雰囲気に杏奈は戸惑いを覚えた。
「お、おはようございます」
 挨拶をしても、誰からの返事も無い。みんながホワイトボードに目を向けていた。
(何かあったの?)
 人垣の隙間から、杏奈はホワイトボードを覗きこむ。見慣れない言葉が目に入り、杏奈はその文面を目で追った。
(辞令? へぇぇぇ、秘書課でも辞令ってあるんだ? 宮本杏奈──? えぇぇっ? 私? 私が──何? えっと──うぅぅ、見えない)
 身体を動かしても肝心な言葉が見えない。
(ミスが多いからクビ? それとも秘書課以外に配属?)
 ドキドキしながら、杏奈は次の言葉を見ようとしていた。
「おはよう、杏奈」
「あ、おはよう──朋ちゃん」
 高校が同じだった峰岸朋子みねぎしともこは、杏奈の親友だ。高校生の時に同じクラスになって以来、大学が別々でも密に連絡を取り合っていた。
「ね、朋ちゃん、辞令が出ているらしいんだけど、読める?」
 杏奈の身長では無理だと悟り、モデルのようにすらりと細長い朋子にたずねてみた。
「んー、辞令、秘書課グループ秘書、えっと──宮本杏奈を」
「うんうん」
「えーっと、えっ? ええっ?」
 驚く朋子の顔を見つめ、杏奈はギュッと瞳を閉じた。
「副社長──秘書に任命する」
 茫然と読み上げられた朋子の声に、杏奈は驚いて言葉にならない。
 口をパクパクと動かすだけだ。
「どういうこと? これ──」
 ようやく出た言葉は杏奈一人のものではなかった。秘書課全員が疑問を抱いているが、真意を確かめる間もなく、朝礼が始まった。
「みなさん、おはようございます」
 課長が挨拶を始め、全員がおはようございますと頭を下げる。
「今朝、辞令が出ました。来週月曜日に副社長が海外研修を終えて、お戻りになるそうです。そのため、副社長専任秘書として、宮本杏奈さんが選ばれました。今までグループ秘書として頑張っていただきましたが、本日から専任秘書として仕事を覚えていただきます」
 課長の話を聞いても杏奈は理解に苦しむだけだった。
(何で、私なの? 同期の中でも一番、できが悪いのに)
 一番優秀な朋子が選ばれたなら、誰もが納得しただろう。
 朝礼後、課長に呼ばれた杏奈は別室で専任秘書としての仕事を教わることになった。
「宮本さん、まずは会社の概要です」
 杏奈の勤める会社は海外事業を主とする建設業だ。『建設会社 サカキ』は海外、特に途上国での建設を主としてきた。技術提供、技術者育成などに力を入れてきた会社である。五年ほど前から国内事業も手掛けるようになっていた。
「はい、ちゃんと理解しているようですね」
 会社概要をわかりやすく丁寧に説明できることも、秘書にとって必要なことだ。
「今まではグループ秘書だったので、必要なかったのですが──今後は、これが必要になります。きちんと管理してください」
 課長に手渡されたのは、白いヘルメットだ。建設現場に足を運ぶこともあると聞いたことはあるが、まさかマイヘルメットが手渡されるとは思ってもいなかった。
「はい──」
「仕事の内容として──」
 副社長の専任秘書としての仕事は、主にアポイントメントの管理と雑用になりそうだ。杏奈はメモを取りながら、背中に冷たい汗が噴き出るのを感じていた。
(うぅ、こんなに覚えられるかなぁ? ミスしそう──どうしよう? 副社長ってどんな人なの?)
 杏奈は社長の顔も覚えているとは言い難い。
(副社長ってパンフレットに顔写真、載っていたっけ? うぅ、怖い人だったらどうしよう?)
 杏奈は不安を募らせながら、一週間を過ごした。

(胃が痛い──)
 運命の月曜日、杏奈は秘書課で朝礼に出席しながら、緊張で胃に痛みを感じていた。杏奈は結局、副社長の顔を確認しなかった。もしも厳しそうな顔をしている人だったら、怖くて仕事を覚えられそうにない。
「大丈夫? 杏奈──顔色が悪いけど」
「う、うん」
 小声で朋子とやり取りをしながら、杏奈は俯いたままだ。
「では、本日も一日、よろしくお願いします」
 朝礼が終わり、杏奈は課長に呼ばれた。
「副社長にご挨拶をしましょう」
 杏奈は重い足を引きずるように課長の後ろをついて行く。秘書課のフロアよりも一階上のフロアだ。重厚な扉には立派なドアノブが付いており、どのフロアとも雰囲気が違う。
「ここが副社長室。隣が社長室──そしてあの角が会長室です。覚えてください」
「は、はいっ」
 杏奈は声が上擦り、緊張のせいか眩暈めまいを感じるほどだ。
(うぅっ、こんなの私に務まるとは思えないんだけど。ミスしたら──クビ?)
 嫌な汗を感じながら、課長がノックするのを見ていた。
 そっと開かれたドアは重そうで、杏奈はびくびくしながらその部屋に入った。
「副社長、お帰りなさいませ。海外研修はいかがでしたか? ご用命の秘書、宮本杏奈を連れてきました」
 課長の声はいつも通り響き、杏奈はそのまま深く頭を下げた。
「宮本杏奈です。入社二年目でグループ秘書をやっておりました。専任秘書は初めてで、至らない点も多いかと思いますが」
「挨拶はいい。久しぶりだな、宮本」
 バリトンの声に驚き、杏奈は顔をあげた。
 日焼けした顔は少し痩せたのだろうか。記憶にあるその顔よりもずっと精悍せいかんさを増している。
さかきくん?」
 小中高と同級生で、ずっと同じクラスで過ごしてきた彼は榊慧斗さかきけいとだ。懐かしさが込み上げる一方、杏奈は居た堪れない気持ちを抱いた。
「あぁ、久しぶり。課長、後はこっちでやるから──今日は予定を入れていないはずだが?」
「はい、明日からアポイントメントが入っています。後ほど、宮本から」
 課長はそそくさと退室し、副社長室で二人きりになった。
「宮本、まさかと思うが──」
「何でしょうか?」
「俺が副社長だと知らなかったのか?」
 その通りだとはさすがに言いにくいが、ここでウソを吐いても仕方ない。
「知りませんでしたが、何か? それよりもなぜ、私を秘書に?」
「──彼女だろ?」
「彼女の振りをしていた過去はありますが、六年も会っていませんし」
 杏奈は心臓がバクバクと音を立てるのに気付きながら、それでも事実を言葉にするしかなかった。今更、慧斗の恋人の振りをする義務はないはずだ。
「俺は別れると言った覚えはないが? 言っただろ? 彼女の振りをする時に」
 杏奈は記憶を辿った。
 高校の通学路には歩道橋がある。歩道橋の上で杏奈に彼女の振りをして欲しいと頼んだのは、この男だ。
「俺が別れるというまで、彼女の振りは続けろよ。あ、誰にも本当のことを言うなよ」
 杏奈は律義にその約束を守っていたのだが、大学が別々になり音信不通になった。別れるとは言われていないが、音信不通になったのだから関係は終わったと思いこんでいた。
「今更、彼女の振りなど、必要ないかと思いますが?」
「随分、他人行儀だな──まぁいいか。お前は俺の彼女、いいな?」
「いいわけないでしょう? 冗談はやめてよ」
 ついいつもの口調で杏奈は反論してしまった。しかし慧斗はそのことについて咎めることもなく、苦笑を浮かべている。
「いろいろと面倒なんだよ。恋人がいないっていうのはさ」
「副社長ならいくらでも」
「昨日、海外から帰ってきたんだ。そう都合よく、彼女ができるものか」
「だ、だったら──」
「お前なら高校生の時に付き合っていました。再会して、また付き合っています、って通用するだろう?」
 ぐぅっと唸った杏奈は、言葉にならない。理にかなっているのか都合のいい偏理屈へりくつなのか、判断に困る。
「まぁ、先に仕事の話だ」
 座れとソファを指差され、杏奈はムッとしながら腰を下ろした。刺々しい気分の杏奈を包み込むソファは、柔らかくふわふわしている。
「俺の秘書として動いてもらうが」
「はい」
「アポイントメントの管理はできるか?」
「い、一応──」
「まぁ、最初だからミスは仕方ない。だが、ダブルブッキングだけは避けろ。移動時間も考慮しろよ」
「はぁ──」
 杏奈は力なく答えた。
「わからない時は俺に聞け。秘書課の奴らに聞かなくていい。俺が判断する」
「随分、勝手ですね」
「──俺の予定だろ? 俺が決めて何が悪い? それとも秘書課のマニュアル通りにしなければならないのか?」
「──申し訳ありませんが、私には判断できかねます。秘書課のマニュアルはありますが、まだ──その、全部は」
「悪かった。急だったからな──一緒にその都度、考えるってことでどうだ?」
 慧斗の言葉に杏奈は頷くしかなかった。まだ勉強不足なのは否めない。慧斗はいつだって強引に決めて行くくせに、杏奈の顔色も考慮してくれるのだ。
「で、今日はどんな予定にしてあるんだ?」
「はい──本日の予定は特になく、社長、会長に帰国のご挨拶をするように言われております。社長は午前十一時、会長は昼食も兼ねて正午に予定が入っております」
「他の予定はないんだな?」
「はい、明日は十時よりアポイントメントが一時間刻みで入っております。また夕方に接待がありますので」
 杏奈はスケジュールを見つめながら、ゆっくりと言葉にした。
「わかった。仕事の話はそれでいいな?」
「──はい。コーヒーをお持ちしますか?」
「二人分、淹れてこい」
「かしこまりました」
 杏奈は副社長室を出て、ふぅっと息を吐いた。胃の痛みは消えたが、息の詰まる緊張感を抱いていた。
 六年ぶりに見る慧斗は、大人っぽく変わっていた。大きな手はごつごつとしていて、肩幅も広くなっている。ひょろりと背の高かった高校時代とは違い、がっしりとした広い背中も当たり前のように着こなすスーツも大人の風格だ。
 それに比べ、杏奈は変化がない。多少、化粧が上手くなった程度だろう。幼い顔つきも大きな瞳も変化がなく、化粧をせずに歩けば高校生と間違われてしまうほどだ。
 給湯室でコーヒーを二人分用意し、杏奈は副社長室に戻った。
 慧斗はソファに腰を下ろしたまま、書類のファイルに目を通していた。
「コーヒーはこちらに置いてもよろしいですか?」
「あぁ、お前も座ってコーヒーを飲めばいい。さっきの話の続きだ」
「さっきの──?」
「俺の彼女という話だ」
「その件はお断りします」
 杏奈は視線を俯かせ、ギュッと口を真一文字に結んだ。
 高校生の時も彼女の振りだと、親友にも言えなかった。あの心苦しさをもう二度と味わいたくない。
「断る理由は?」
 慧斗の言葉に杏奈はキッと彼を睨みつけた。
「私にメリットがあるとは思えないからです」
「メリット──ね。お前、好きな男でもいるのか?」
「答える義務があるとは思えません」
「そうだな。付き合っている振りが嫌なら」
「えぇ、嫌です」
 杏奈はきっぱりと断った。
「本当に付き合ってもいいぞ」
 慧斗の言葉に、杏奈は固まった。何をどう答えればいいのか、瞬時に判断ができない。
「そ、そうやってからかうのはやめてもらえますか? 冗談がすぎます」
 杏奈はふいっと顔を逸らし、動揺したことを隠そうとした。
「冗談──か」
 いつものバリトンの声に少しかげりが差したようにも聞こえた。
「こ、恋人がいないなら募集中でいいでしょう? 副社長ならすぐに恋人ができると思います」
「そういうことじゃないんだよな」
 杏奈は横目でちらりと慧斗を見つめる。困った顔をして杏奈をジッと見つめる慧斗にドキッとした。
「お互いに相手がいないなら、相手ができるまでの間──俺の彼女でいいだろ?」
「彼女の振り、でしょう?」
「あぁ、手は出さないつもり」
「な、何それ? 出さないでよ」
「彼女の振りだからな」
 結局、杏奈は慧斗に良いように言いくるめられた。これ以上、押し問答をしても仕方ない。
(また──朋ちゃんに本当のことが言えないのか)
 杏奈が苦しい想いを抱えることなど、慧斗が理解してくれるはずもない。

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