【試し読み】離婚までの3か月間夫婦協定~夫は妻を手放せない~

作家:ひなの琴莉
イラスト:海月あると
レーベル:夢中文庫クリスタル
発売日:2021/10/29
販売価格:400円
あらすじ

「大人になったら解放してあげますから、それまで我慢して僕の妻でいてください」──実家の旅館を守るため、大手ホテルチェーンの副社長・碧人と結婚して6年。梨生は24歳になった今も碧人の妻を演じている。二人の間に夫婦生活はないものの、いつも優しく完璧な夫として振舞う碧人に梨生はいつしか惹かれるようになるのだが、約束の時は着実に近づいていた。しかし、いつになっても碧人は離婚を切り出さない。彼への想いは募り、妻を演じることにつらさを覚え始めた梨生が「女性としての悦びを知らないまま生きるなんて悲しい」と離婚をほのめかすと、碧人は──「女性の悦びを知りたい……その願いなら、僕が叶えてあげられそうです」

登場人物
麻木梨生(あさきりお)
経営不振となった実家の旅館を守るため、高校卒業と同時に碧人と政略結婚する。
麻木碧人(あさきあいと)
大手ホテルチェーン副社長。期間限定の政略結婚だが、優しく完璧な夫として振る舞う。
試し読み

第一章

「では、そろそろ眠りますか」
「はい、そうですね」
 私と夫は同時に立ち上がって寝室へと向かうが、別々の扉を開いた。
「おやすみなさい」
「あぁ、おやすみなさい」
 結婚して六年間、夫と同じベッドで眠ったことがない。
 仕事から帰ってきた夫を労い、晩酌に付き合って、同じベッドで寄り添って眠る。
 普通の夫婦であればそうするだろうが私たちは違う。
 期間限定の政略結婚をした、形だけの夫婦であるから……。
 恋愛小説などで見る政略結婚した二人は、最後には本当に愛し合って本物の夫婦になっている。
 ところが六年間、手をつなぐことも、キスも、ハグも、子作りをするための行為もしたことがない。
 高校卒業と同時に私は結婚した。
 そのとき、夫に言われた言葉が影響しているのだろう──。

 私はベッドに入って二人の出会いを振り返る。
 私の実家は百年以上続く老舗旅館だ。しかし経営状態が悪化し、廃業を考えていた。
 そこに、どこかから情報を聞きつけた大手ホテルチェーンの副社長である麻木あさき碧人あいとさんがやってきた。
 背が高くて、スーツが似合っていて、銀縁眼鏡。綺麗な二重で黒い瞳。高い鼻。サラサラの黒髪で、こんなにイケメンで完璧な人を見たことはなかった。私よりも年齢が十歳上ということもあり、大人の男性という感じだった。
 旅館を買収させてほしいと言われ、その上で経営を続けてはどうだろうかと提案してきたのだ。
 素晴らしい内容に私たちは喜んだ。
 しかし、一つ条件があると言われた。それは私が碧人さんと結婚すること。まだ高校生だった私は驚きすぎて頭が真っ白になった。
 碧人さんと二人きりで話す機会を与えられ、旅館自慢の庭園を散歩しながら話をすることに。
 一度も彼氏ができたことがなかった私は、恋愛すらしてこなかった。それを飛び越えて結婚するなんて、思ってもいなかったのだ。
 初対面の彼が私のことを好きなわけでもないだろうし、なぜ結婚という道を選んだのかどうしても気になって聞いてみた。
『家柄のせいで女性に声をかけられることが多々あります。縁談を持ち込まれることもあるのですが……。正直、誰と結婚するのか選んでいる時間がもったいないのです』
 呆気にとられて言葉にならなかった。瞳を左右に白黒とさせている私に彼は微笑んだ。
『大人になったら解放してあげますから、それまで我慢して僕の妻でいてください』
『女除けってことですか?』
『言い方は悪いかもしれませんが、その通りです』
 悪気がないように言って口元に笑みを浮かべた。
『いつか……離婚するってことですか?』
『そうなりますね。まだ若いあなたの人生を縛り付けてしまうのですから、たっぷりと保証はしますよ』
 最低だと思った。
 やさしい笑顔を浮かべているのに、心が冷たい人だ。しかしこの人の提案を受け入れることさえすれば、旅館を守ることができる。
 たくさんの従業員がいて、日々頑張っている姿を目の当たりにしてきた。
 廃業となってしまえば働く人たちはどこへ行けばいいのか。
 先祖代々大切にしてきたこの旅館を守れないかもしれない……と、肩を震わせながら泣いていた父親と、その隣で父の肩を擦りながら、言葉をかけることもできない母親の姿が脳裏に浮かぶ。
 自分さえ我慢すれば、すべてうまくいく──。
 でも、せっかく大学に合格しているのに家庭に入ってしまうのは残念でならない。特別な夢はないけれど、離婚して一人になっても、しっかりと生きていけるように学歴だけは確保しておきたかった。頑張って勉強して受かった大学へは行きたい。
『お願いがあります。自分の将来のために私は大学へ行きたいと思っています。学校へ行くことを許してもらえますか?』
『ええ、いいですよ。確か優秀な大学に合格されているのですよね。学費もすべて出します』
『学費まで出してくださるとは、大変助かります』
 実家の経営状態がよくなかったので、学費を負担させることにも心苦しさを感じていたのだ。私が彼にお世話になることでその心配もなくなる。
『では交渉成立ですね』
『はい。よろしくお願いします』
 私と彼は離婚ありきの期間限定の結婚をした。

 家政婦付きの大きな一軒家で生活させてもらい、大学に行くことも許してくれ、お金も出してくれた。
 夫というよりもまるで保護者のような存在だ。
 大学を卒業してからは、料理教室に通ったり、裁縫教室に行ったりして日々を過ごした。家庭の主婦らしいことをしてきたけれど、世間知らずな私が離婚した後に生きていけるのか不安がつきまとっていた。どうすればいいのだろうと考え思いついたのが、外で働くことだった。
『アルバイトでもいいので、どこかで仕事をしてもいいでしょうか?』
 考え抜いて碧人さんに相談すると、彼は瞠目し眼鏡を中指で上げた。
『何か必要なものがあるのでしょうか? 遠慮しないで言ってください。何でも買って差し上げるので』
 碧人さんは私にありとあらゆるものを与えてくれた。それはきっと若くして人生を縛り付けてしまったお詫びの印なのだろう。
 ブランドもののバッグや洋服や靴を数え切れないほどプレゼントしてくれたし、いつも美味しい菓子を買って帰ってきてくれる。
 そのせいで私はちょっとぽっちゃりとしてしまった。運動があまり好きではないので、自己管理ができてないっていうのもあるかもしれないけれど。
『欲しいものがあれば言ってください』
 頭を左右に振って否定をする。
『社会人経験をしないまま離婚したら、一人で生きていくのは大変だと思うんです』
『……なるほど』
 彼は少し考えるような表情を浮かべてから一つ頷いた。
『それでは僕の親戚が経営している会社を紹介しましょう。結婚していることは秘密にしてください。大手企業の副社長の妻がアルバイトをしていると知られたら、世間的にあまりよくないので』
 夫の会社の事情も考えずに、自分勝手な発言だったとそのとき私は気がついた。
『あの……自分の立場や会社の事情もあまり考えずに、勝手なことを言ってしまって申し訳ありません』
 素直に謝ると碧人さんは穏やかに微笑んだ。
『自分の将来のことを考えて提案してくれたのでしょうから、そんなに思いつめないでください。離婚して一人で生きていくことに不安を感じるのは当たり前のことです。梨生りおさんが一生生活できるだけの資金はお渡ししようと思っていますが、他にも大切なことがありますよね』
 夫はどんなときも私の考えを尊重し、しっかり話を聞いて一番いい道を探してくれる。
 初めて会ったときは冷たい人だと思っていたけれど、すごくいい人だ。
 そして、すぐに面接をしてもらえることになり、無事採用された。今年の四月から就職し、仕事を始めるようになって二ヶ月。
 私は新鮮な毎日を送っていた。パソコンを使って書類を作ったり、電話対応をしたり。普通に働くことが幸せ。
 私の事情を知っているのは、社長と総務部長だけだ。なので職場では、合コンに誘われることもある。もちろんうまく断って参加したことはない。婚姻関係があるので浮気みたいなことはしたくないのもあるけれど、結婚生活を送っているうちに私は彼のことが好きになってしまったのだ。
 碧人さんは結婚してから一度も私を否定したことがない。
 やさしいのか、興味がないのか不明だったけど、大きくて広い心を持っている人なんだと一緒に暮らすうちに思うようになった。
 外見は完璧に好み。性格も穏やかで品があって、申し分のない素敵な人だ。
 もし離婚して、他の人と恋愛するなんてことがあっても、彼に勝てる人はいないのではないかと思っている。
 明日も仕事だから早く眠らなきゃと思ったが、碧人さんのことを考えているとなかなか寝付けない。
 社会人として仕事をするようになり、離婚してもきっと自立した生活を送ることができる。
 夫は私が大人になったら離婚しようと言っていた。
 もしかしたらその離婚の『時』がもうすぐそこに来ているのかもしれない。そう思うと胸が締め付けられる。
「はぁ……寂しいな……」
 長く一緒に暮らしていれば、もしかしたらお互いに特別な感情が芽生えて、本物の夫婦になれるかもしれないと、そんな安易な考えを持っていた。
 しかし現実はそんなに甘くない。
 最近になって私の口から離婚というキーワードを出しても、取り消そうとする気配が一向にない。そのたびに私の胸はモヤモヤとして、鼻の奥がツーンと痛くなり泣きたくなる。
 もうすぐ離婚する夫に対して、恋心を抱いているなんて悲しい。
 ベッドの上で起き上がり、壁に背中を預けてため息をついた。
 この壁の向こうに碧人さんがいるのに、触れることができない。手をつないだこともないし、ハグをしたこともない。キスなんて夢のまた夢だ。
 碧人さんは私のことを一ミリも好きだと思ってくれたことはないのだろうか。なかなか寝付けないので、リビングルームへと向かった。
 するとそこに碧人さんがいて、ソファーで読書をしているところだった。
 私の気配に気がついた彼は本を閉じて視線をこちらへ移動する。
「どうかしましたか? 眠れないのですか?」
「はい。碧人さんもですか?」
「そうなんです。ちょっと仕事で立て込んでおりまして。ストレスが溜まってしまったかな」
 苦笑いを浮かべている顔も好きだ。
 胸がキュンキュンしていることは打ち明けられないけれど。
「もしよければ、何か飲み物を作りましょうか?」
 碧人さんの提案に甘えることにした。
 彼が用意してくれるドリンクは格別に美味しいのだ。
「お願いします」
「了解しました」
 立ち上がってキッチンへ行くとマグカップにミルクを注いだ。そこにほんの少しだけスパイスを加える。
 電子レンジで人肌程度に温めて、お好みで砂糖を加えればスパイシーミルクの完成だ。食卓テーブルに座って待っている私の前に出してくれた。
「どうぞ召し上がれ」
「ありがとうございます」
 ほんの少しのスパイスの香りと、甘さが心を穏やかにしてくれる。
「美味しいです」
 目の前に座った彼に話しかけると、うれしそうに頷いてくれた。彼はこうやって普段からやさしい。妻に対して労ってくれているのではなく、保護者のような立場でいるのかもしれない。
 そうでなければ一度くらい、手を出すのではないか。
 大人の男女が一つ屋根の下に暮らしているのだから。
「仕事は順調ですか?」
「はい。初めの頃は先輩社員が厳しかったですが、丁寧に仕事を教えてくれて助かってます」
「そうですか。困ったことがあれば言ってくださいね」
 穏やかに微笑まれる。でも、私にだけではなく、彼は誰にでも親切だ。
「碧人さんは……何に悩んでいるのですか? もし私に話して楽になるのなら、何でも話してください。役に立てないかもしれませんが……人に話したら気持ちが穏やかになることってあると思いませんか?」
 彼の顔から一瞬笑顔が消えたが、すぐに笑う。
「ありがとうございます。梨生さんがこうして一緒にミルクを飲んでくれるだけで、なんだか穏やかな気持ちになりますよ」
 そう言われて素直にうれしくて胸がドクンと鳴った。ではこのまま離婚を取り消しましょうと言ってくれればいいのに。
「会社員のような格好をして出勤する姿を見たら、自分のもとから巣立っていくんだなという感じがしました。もう立派な大人になられたのですね。解放してあげなければいけませんね」
 これは離婚しようという合図なのだろうか。胸に隙間風が吹いたかのようにざわついた。
「女除けの役目はもう必要ないんですか?」
 その言葉に碧人さんは少しだけ目を開いて、曖昧な笑顔を浮かべた。
「あはは、そんなことも言いましたね。これ以上夜更かししていたら明日起きられなくなりますよ。そろそろ眠りましょう」
 うまく話をはぐらかされたと思ったけれど、私は抵抗しないで自分の部屋へと戻った。

※この続きは製品版でお楽しみください。

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