【試し読み】心恋~今宵、焦がれる隣人は極上の黒豹と化す~

作家:奏多
イラスト:亜子
レーベル:夢中文庫クリスタル
発売日:2021/10/1
販売価格:900円
あらすじ

イベント会社で働く晏子は、孤高の女神様と呼ばれているが、実はクールな仮面を被り武装しているコミュ障だ。そんな彼女の拠り所は、ぼさぼさ頭の隣人、大雅。年下の彼は、北海道の小豆農家で育った田舎者の晏子にとって東京で唯一の安息地である。「あんたを一番に理解できるのは、俺だけだからな」だが出会って12年、謎も多く髪で隠されているその素顔は見たことはない……。――ある日、上司に連れられたクラブで媚薬入りの酒を飲まされた晏子は「夜帝」と呼ばれる美貌の男に助けられ、意識を飛ばしてしまう。「ほら、呼んでみろ。あんたが好きな男の名前。特別にその男になってやるよ」そして晏子は、大雅へ抱いている想いに気づかされ――

登場人物
小蔵晏子(こくらはるこ)
イベント会社勤務。冷静沈着でクールに見えるが、実は人とのコミュニケーションが苦手。
嘉納大雅(かのうたいが)
晏子の住むアパートの隣人。ぼさぼさ頭の垢抜けない外見だが、博学で頭が良い。
試し読み

プロローグ ひねくれたBlue lagoon

 じんわりと汗ばむ暑さになった五月中旬、東京──。
 オフィス街の一角に、今年創立三十周年を迎える、イベント企画会社『リンクルコネクト』のビルはある。
 コツコツ、コツコツ。
 湿った空気が漂う廊下で、ひとりの女性社員が規則正しい靴音を鳴り響かせた。
 緩やかなパーマがかかったセミロングの髪をひとつに束ねている。
 面長で整った顔立ちをしているが、今まで周囲に愛想笑い以外の表情を見せたことがなく、どんな状況であろうとも泰然自若たいぜんじじゃくとした態度を変えない。
 気軽に冗談を言える雰囲気ではないため、いつも彼女は浮いた存在で、ひとりだった。
 仕事に関してはアシスト業務がほとんどだが、完璧主義で有能。
 彼女が関わるイベントはいつも大盛況なため、裏では高嶺の花を通り越して、『冷徹孤高な女神様』と崇められているほどだ。
 今年三十歳を迎える彼女の名前は、小蔵こくら晏子はるこ
 専務室のドアをノックして名乗ると、中に入るように返答があった。
「失礼します」
 ふくよかな体格の専務はデスクにはおらず、応接ソファに座っている。
 専務はにこやかな声で、向かい側にあるソファに座るように晏子に指示をした。
 ソファにはスーツ姿の男性──企画部部長の二見ふたみつかさが座っている。
 ハーフのように彫りが深く、甘やかな顔立ち。
 その瞳の色と髪の色は、ともに栗色だ。
 今年三十二歳の彼は、社内で一番のやり手で、エリートイケメンである。
 彼の優雅な佇まいは、異国の王族や貴族の血を引いているとか、彼は身分を隠した御曹司やご落胤らくいんだとか、まことしやかな噂が立っているが、いつも本人が笑って誤魔化してしまうため、真実はわからない。
 晏子が二見に挨拶をすると、彼は甘い笑みを見せてくる。
「これから、よろしく頼むよ。小蔵」
 彼に憧れる女性社員は、この笑みに悶絶して腰砕けになるという。
 だが晏子の表情筋は硬いまま。必要最小限だけの動きで愛想笑いを作る。
 専務が、自分の出っ腹を手で撫でながら朗らかな声を響かせた。
「辞令の通り週明けから、社内随一の企画力を持つ二見部長と、アシスト力を持つ小蔵くんのふたりが中心となって、リンクルコネクト三十周年の一大イベントを成功させてほしい。きみらの手足となる社員は男女計二名ほど、追って連絡する」
 晏子にとって、こんな少人数での企画経験は初めてだ。しかもそれを創立記念の一大イベントにさせるなど、ずいぶんと責任重大な思い切った案件である。
 だが見方を変えれば、それだけふたりの能力は高く評価されているのだ。
 それになんといっても、組む相手は、辣腕らつわんの二見。
 晏子は重圧や不安より、わくわく感の方を強めて、迷うことなく了承した。
 そんな晏子に、二見はにこやかに声をかけた。
「小蔵。大事なイベントだから、僕は自信を持ってきみをパートナーとして推薦させてもらった。僕のやり方はスパルタかもしれないが、最後までついてきてくれ」
 過去、二見がパートナーに推挙した女性社員は、全員が私都合で退職している。
 二見に憧れ、もしくは恋愛感情を抱きながら、二見とともに仕事をした結果、誰もが音をあげてしまうのだ。
 そこから、二見のパワハラなど越権行為があったのではないかと、内部調査が行われたが、その結果はシロ。彼の接し方はどこまでも、〝理想的な上司〟だったのである。
 だからきっと、失恋が痛手になって辞めざるをえなかったのだろう。
 晏子は二見に恋愛感情がない。やりがいのある仕事に携われるのなら、多少の厳しさもどんとこいの仕事人間である。むしろ、いつも皆が晏子の意見に靡いてしまうため、議論らしい議論もできず、物足りなくも感じていたところだった。
 それが、晏子が密かに憧れていた二見と組めるのだ。どんな手腕を見せてくれて、晏子の想像もつかない世界へ導いてくれるのかと、心がおどってしまう。
 ……ということは、外見からは読み取るのは至難な業だけれど。
「力一杯、頑張らせていただきます。部長、ご指導のほど、よろしくお願いします」
 晏子は二見とがっちりと握手を交わしたあと、そういえばと首を傾げて二見に尋ねた。
「ところで肝心な、その企画テーマというものを伺っていなかったのですが……」
 晏子は見た目涼やかに、しかし内心鼻息荒く尋ねた。
 二見は微笑んだ。
「和風スイーツ」
 晏子の鉄の表情が、わずかに歪む。
 それがありふれたテーマだったからではない。
「東京のある下町に再生計画があってね。廃屋になっている古い建物を大きな和風の屋敷にリノベーションして、ひと部屋ずつに厳選した和風スイーツをおこうと思っている。販売はもちろん、食べ比べできるよう、喫茶も用意しようと思っている」
 晏子の顔がさらに硬化したが、それは二見にはわからないようだ。
「ターゲットは二十代から三十代OL。イベント開催時期は三ヶ月後の八月中旬、五日間を予定している。この下町には、シングルマザーや女性に優しくというテーマで、巨大商業複合施設も造られる予定で、今話題の土地柄。だからそこで是非ともイベントを成功させたい。意見があったら、遠慮無く言ってほしい。あくまでこれは素案だ」
「そ、その計画はいいと思うんですが、和風スイーツの選定は……」
「むろん、試食による選定はきみに頼むよ。なにせきみは、前のイベントで、オーナーシェフが体調不良であることを料理の味だけで気づいて裏から支え、イベントを大盛況へと導いた……絶対味覚の女神様、だろう?」
「そ、そんな大層なものでは……」
 晏子が青ざめて及び腰であることに、二見は気づかない。
「ご謙遜を。きみならきっと、至高の和風スイーツを見つけてくれると思っている。特に僕は、小倉あんを中心としたスイーツに期待しているんだ」
 唇を戦慄わななかせる晏子に気づかず、二見は自信満々な笑みを向け、専務が呵々かかと笑う。
「和風といえばあんこ! きみの実家は北海道十勝で、小豆農家をしているというじゃないか。良質な小豆がわかる絶対味覚の持ち主のきみが、成功の鍵を握る企画だ!」
 そして二見は同時に口にした言葉で、晏子にとどめをさしたのだった。
「なにせきみの名前は──」
 それが、晏子のトラウマであることを知らずに。

 終業後、午後六時半──。
「わたしは、小蔵晏子と書いて〝こくらはるこ〟と言うの。小豆農家の娘であっても、〝おぐらあんこ〟なんかじゃない!」
 開店前の小さなBARのカウンターでは、晏子が管を巻いていた。
「この名前のせいでからかわれて、どれだけいやな思いをしてきたことか。ようやく地元から離れて、人生リセットしたのに……憧れの二見部長との初タッグが、よりによって忌まわしきあんこの……和風スイーツ企画になるなんて!」
 晏子は怒りに震えた拳で、カウンターの天板をドンドンと叩く。
「舌触りが滑らかなこしあんならともかく、よりによって小倉あん。小豆の皮が歯の裏側にひっかかるあの不快感に、まめまめしいあの苦み! ハイテク東京の小倉あんなら違うかもと思ったけれど、さらにひどかった。化学調味料とか保存料とかが妙に舌を刺激する、あの薄っぺらい人工甘味と言ったら!」
 そこには『冷徹孤高な女神様』の面影はなにもない。むしろ感情が豊かである。
「打ち合わせが高級料亭だった時、デザートのおしるこをちょっと食べてみたけど、最悪で。あれ以上のものを見つけ出すために、あれ以下の劣化あんこをどれだけ試食しないといけないの? なんの因果でこんな目に!」
 傍から見れば、完全に酔っ払いのテンションの独白だが、彼女は素面しらふだ。
「前世からの因業、あんこの呪いじゃね?」
 そう深みある声で、素っ気なく呟いたのは、黒服を着た背の高いバーテン。
 くせ毛程度の緩やかな黒髪。
 長い前髪からは眼鏡が覗くが、顔の造作は髪に隠されてよくわからない。
 彼はシャカシャカと音をたてて、慣れた手つきでシェイカーを振っている。
「過去、解呪かいじゅの祈祷はすでに経験済。ちなみに現在、効果ないのも実証済!」
 晏子は、びっと親指をたてた。
「本気で祈祷に行ったのかよ……。聞いてねぇぞ、俺」
 大きなため息をつくこのバーテンは、嘉納かのう大雅たいが
 晏子よりひとつ年下の今年二十九歳。晏子の住まうおんぼろアパートの隣人だ。
 初めて会ったのは、晏子が大学進学で上京した、彼が高校三年の時。
 晏子には大雅と同い年の弟が実家にいるため、もはや身内みたいな感覚だ。
 大雅の見かけは、もさっとして垢抜けていないが、彼は博学で頭の回転も速く、晏子は何度も、年下の彼の世話になってきた。
 彼の本業は在宅プログラマーだが、知人であるらしい……ここのオーナーに拝み倒され、副業でバーテンをしているのだ。なぜオーナーが、見た目麗しいイケメンではなく、社交的……そうに見えない上、女嫌いを公言する大雅に声をかけたのか謎であるが。
 BARは晏子の会社の近くにある。晏子は大雅のシフトに合わせて顔を出すのだが、大雅は仕事中の自分を見られるのが恥ずかしいらしく、訪問は営業前にしろとうるさい。
 そのため、いまだ大雅がどんな接客をしているのかわからない。
 気づけば晏子は、従業員たちに顔を覚えられ、このBARの常連の域を超えて、超VIP扱いだ。
「晏子サン……、そんなに小倉あんが嫌いなのに、小豆農家の娘サンなんだ?」
 渋い声がしたのは、大雅の横でグラスを拭いている男からだ。
 白髪が交ざった黒髪にあごひげがダンディなおじさま風の男──市原いちはら道隆みちたかが苦笑している。
 彼はこのBARのオーナーであり、大雅をバーテンにスカウトした人物だ。
「ええ。父親で四代目なんです。家族全員、小豆が主食だと思っているから、毎日が小豆料理ばかり。甘くなければいいというのではなく、たとえ柔らかく煮ようが、小豆の食感と味がだめ。でも両親を悲しませたくないし、小さい頃から、息を止めて味をわからなくして喉奥に落とし込んできたんです」
「はは。健気な娘サンだねぇ」
「でしょう? すると空になった皿に、また山に盛られるんです。頂上まで登り切った瞬間に崖から落とされたかのような、あの絶望感! オーナー、わかってもらえます!?」
「ああ、わかるわかる……」
 涙目で訴える晏子に、市原は哀れみの目を向けつつ、その肩は笑いに震えている。
「しかも……わざわざ〝あん〟と読める漢字を名前にしてくれたため、皆の笑いもの。どれだけあんこ……もとい小豆に殺意を覚えてきたことか。ようやく地元から脱出したはずなのに、今もなお、実家から段ボール箱ぎっしりの小豆が送られてくるんですよ!? 普通、道産米とか道産野菜とかだと思いません? わたしは、妖怪小豆洗いかっちゅーの!」
 市原からぐふっとおかしな声が洩れ聞こえた気がしたが、気のせいのようだ。
 彼はなごやかな笑みを浮かべたまま、変化はない。
 ふいにシェイカーの音が止まる。
「小豆や小倉あんがいかに天敵なのかを熱弁する前に、不得手なのを会社の奴らに素直に告白して、プロジェクトを下りればいいんじゃね? クールぶるのはやめて」
 大雅はグラスにシェイカーの中身を注ぎながら、深みのある声を響かせた。
「言えないよ。会社の姿はわたしの武装なんだし」
 名前でからかわれ続けたトラウマで、コミュ障になった田舎者は、クールな仮面を被ることで、なんとか対人の恐怖や緊張を和らげ、都会の生活に順応できているのだ。
「それに、憧れの二見部長から、信頼されたがゆえの仕事なのに……」
「憧れの二見、ね」
 大雅は面白くなさそうに鼻で笑いつつ、カクテルを晏子に差し出した。
 グラスは、湖の如き爽やかな水色で満たされている。
「俺には初対面から、べらべら喋っていたくせにねぇ」
 大雅が口端を吊り上げて茶化すと、晏子はむくれた。
「だって……わたしが安心して素をみせられるのは、大雅だけなんだし……」
 晏子が上京してきた時は、三つ編みに眼鏡に長スカート、そしてハイソックス。
 むろん化粧などしていない。
 初めて目にする都会人のおしゃれさに、上京初日数分にて、疎外感を覚えざるをえなかった晏子が、大家の息子だという大雅を見て思った。
 仲間を見つけた、と。
 途端に胸を満たしたあの温かな思いは、いまだ続いている。
 あの当時から変わらずにいる彼は、故郷以上に安心できるのだ。
「はいはい、そういう台詞は、もっと顔を赤らめて言ってもらいたいものですけどねぇ、お姉サマ?」
「女嫌いがよく言うわよ。お姉サマはそんな女ったらしに育てた覚えはありません!」
「俺だって、育てられた覚えはねぇよ。ほら、さっさと飲め」
「ふふ。……じゃあいただきます」
 晏子はカクテルを口に含む。
 晏子好みの柑橘系の味が爽快感を強め、自然と笑顔になった。
「今日のもすごく美味しい! なんていうカクテル?」
 開店前限定で、VIP客をもてなすためだけに出される一杯。
 開店時間になったら強制的に追い出されるため、ゆっくり飲めないのが難点だが、いつも大雅は面倒臭いといいつつも、晏子が好きな味のものを作ってくれる。
「ブルーラグーン。ウォッカベースだ」
「へぇ、名前からして夏っぽいし、見ているだけでも綺麗!」
 すぐに頭がほわほわとしてきて、鬱々としていた気分が回復してくる。
「あと五分で飲み干せ」
「早すぎだって! もうちょっと……」
「飲み終わったらバイクで家まで送ってやる。このまま追い出したら、街中であんこあんこ叫んで傍迷惑な酔っ払いに成り果てそうだから」
「う……。このカクテルで英気を養えた気がするし、そんな親父臭いことは……」
「あんたなら、気分よくなったらそれはそれで『打倒あんこ!』とか、叫びそう」
 そう言われれば、もうすでに叫びたい気分になっている……かもしれない。
 図星をさされて小さくなる晏子に、市原が笑い声を響かせて言った。
「ここは大雅の言葉に甘えて送ってもらうといい。準備はもう終わったし、開店と同時に混み出すわけでもない。晏子サンが歩いて帰る方が、私も心配だ」
「そ、そうですか……? だったらすぐ飲んで……」
 せっかくのカクテルをゆっくり味わう間もなく、市原に礼を言ってBARを出た。
 ヘルメットを被せられた晏子は、大雅の大きなバイクの後ろに乗る。
 何度か乗ったことはあるけれど、大雅に抱きつく形になるのが妙に恥ずかしい。
「行くぞ」
 ……そんな気持ち、大雅はきっとわからないだろうけれど。
 典型的なインドアの外見をしているのに、バイクを走らせる姿は野生的な男に感じる。
 心地よい風に吹かれる中、大雅の香りが鼻孔に広がり晏子は目を細めた。
 優しく甘い、控え目な香の匂い──。
 それは洋風ほど自己主張しない、和風スイーツを思わせた。
 こんなスイーツに出逢いたい──そう思いながら、酒気を帯びた晏子は彼に無性に甘えたくなり、ぎゅっと腕に力をこめて抱きついてしまう。
 大雅に嫌がられるかと思ったが、彼はわずかに体をびくりと震わせたあと、晏子の手の上に自分の手を重ねて、力を入れてきた。
 年下のくせに晏子より大きく、男のくせに繊細で綺麗な手だ。
 ドキドキ半分、くすぐったさ半分。
 晏子は甘酸っぱい心地に、笑みをこぼした。
 カクテルよりも大雅とともにいる方が、よほど癒やされると思いながら。

 その頃、静かになったBARでは、市原が晏子のグラスを下げながら呟いていた。
「今日のカクテルは、ブルーラグーン……。意味は、誠実な愛。いつもながら、ひねくれ者ですねぇ、若き……我がオーナーは」

第一章 心許すのは、冴えない年下隣人

 北海道東部、十勝──。
 広大な大自然に囲まれたその土地で、晏子は生まれ育った。
 十勝は冬が厳しい寒冷地のため、小豆農家の晏子の家で五月中旬に小豆の種を播き、九月から十月にかけて収穫している。むろん家族ぐるみの大作業だ。
 家には祖父母、両親、弟が同居していたが、この他にも、農業体験として全国の小学生を受け入れており、その時期の小豆の栽培や収穫は賑やかであった。
 農業体験する小学生ですら、晏子の家の小豆は美味しいと絶賛して食べるのに、晏子はその美味しさがわからない。
 祖母が作る小豆料理ならまだマシで、食感だけ我慢していればよかったが、祖母が他界して母がメインに作り出すと、今度は味にまで違和感を覚えてしまった。
 ──おかしいわね、おばあちゃんと同じ作り方なのに。
 そう母はよく首を捻ったが、晏子以外の家族は祖母と母との味の違いがわからないみたいで、美味しいと食べている。晏子は自分が悪意あるクレーマーになった気がして、罪悪感と疎外感に、居たたまれなかった。
 居場所を学校に求めても、小豆を彷彿ほうふつさせる自分の名前がそれを阻害する。
 〝小蔵晏子〟という名前は、教師までも初見でオグラアンコと読んでしまう。春や晴など、すぐにハルと読める漢字をつけてくれなかった親を、幾度恨んだことか。
 間違っている読み方ばかりがひとり歩きして、それが不本意にも仇名になってしまった。
 しかも一字違えば下品な言葉にもなるため、子供たちは残酷にも晏子を囃し立て、晏子は孤立していったのである。
 晏子は居心地悪い地元から出たい一心で勉強を頑張り、東京にある大学の推薦をとって上京したが、自然に囲まれて育った晏子にとって、人工物で溢れている都会は別世界。
 上京したてのコミュ障気味の田舎者が、人とビルで埋め尽くされた都会に溶け込むのは、あまりにもハードルが高く、大学を機に安住することに不安を覚えた。
 そんな中、大学経由で手続きをしたはずの住まいが、手違いにより来月からの契約になっていたことが発覚。それまで、仮宿となる場所を探さないといけなくなった。
 適当な不動産屋に飛び込んでみたものの、紹介される物件は確かにお洒落だと思うが、目玉が飛び出そうなほどに家賃が高い。古くてもいいから、とにかく安い家賃で……という条件で提示されたのが、ある古いアパートだった。
 実際見に行けば、幽霊でも出てきそうな不気味さがある。これは断った方がいいのではと腰が引けていた時、ばったりと会ったのが、学校から帰ってきた制服姿の大雅だった。
 ──誰?
 すらりとして背は高く、手足はかなり長い。
 しかし黒く長い前髪が、眼鏡をかけた目を覆い隠して表情がよくわからない。
 一瞬、アパートに憑いた幽霊かと思ったが、真っ昼間だし影もある。人間のようだ。
 突然尋ねられて焦ってしまった晏子は、それに答えることなく、3-Bと書かれた彼のカバンを指さした。一色でプリントされている校章が不思議な形をしていたからだ。
 ──これ? 藤の花。アタミの高校だけど。
 東京にアタミという所があるらしい。高校三年ということは弟と同い年で、自分よりひとつ年下だ。
 おしゃれな東京に住んでいる若者とは思えない、もっさりとした姿を見ていると、まだ実家にいる弟の方が、都会的で好ましく思えてくる。
 だがそんな飾らない大雅の姿が、晏子の緊張を和らげ、妙な親近感を覚えさせた。
 弟に接しているが如く、すんなりと言葉が出てコミュニケーションがとれる。
 しかも彼は大家の息子で、独り暮らしをしているという。大家の関係者なら、東京での独り暮らしに困り果てる契約者を蔑ろにはしないだろう。
 部屋は六畳二間で古くて駅からも遠いけれど、隣には東京生活に欠かせない田舎風草食学生がいる──こんなお得な物件はないと、来月から住もうとしていた家をキャンセルし、すぐに彼の隣に住むことにしたのだ。
 そうして晏子の東京生活は、大雅の存在と知恵の教授によって支えられてきたのである。

※この続きは製品版でお楽しみください。

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