【試し読み】暗殺者と薄幸な王女の逃避行
イラスト:螢子
レーベル:夢中文庫セレナイト
発売日:2021/8/30
販売価格:800円
あらすじ
悪政によって国民が蜂起し、暴動が勃発。カムラン国の王女であるアーシアは混乱する城からの脱出を試みる。途中で出会った暗殺者の青年ソリスを雇う形で手を借り、無事に逃げ出すことに成功する。一緒に逃げた侍女を里へ返す算段をつけたアーシアは、今度は隣国に向け、ソリスと二人だけの逃避行を始める。無口で無愛想なソリスは何もできないアーシアに呆れながらも、咎めることもなく世話をしてくれる。そんなソリスに次第に惹かれていくアーシアは、目的地に着けば別れなければならない現実を前に自分の気持ちを自覚する。ソリスが丁寧なのは雇われているから。わかっているのに苦しい。悩んだ末、アーシアはある決断を下すのだが――
登場人物
カムラン国王女。暴動の混乱から逃れるために、暗殺者の青年・ソリスの手を借りることに。
暗殺者。暴徒に紛れて城に侵入後、途中で出会ったアーシアに雇われ脱出を手伝う。
試し読み
第一章
王城の片隅に暮らしていても、なんとなく感じていた。
不穏な空気が城内に忍び寄ってきているのを。
そして、アーシアはついにその日がきたのだと悟った。
慌ただしい足音が聞こえてきて血相を変えた侍女ネリーが部屋へ飛び込んできて叫んだ。
「アーシアさま……っ。暴徒が……暴徒が、城内へなだれ込んできているそうです!」
「暴徒が……」
アーシアは手にしていた繕い物の針をゆっくりと針山に戻す。
「騎士団は、食い止められなかったのね」
騎士たちは総出で城の守りを固めていたはずだが、おそらく数で押し切られたのだろう。それだけ怒れる民たちがいるということだ。政を怠ったあげく贅沢三昧で国庫を傾け、重税に重税を重ねてきた国王と王妃たちへの激しい怒りがついに爆発したのだ。
そして、その怒りの対象となっている国王とは、アーシアの父親だった。
「下働きの者たちはとっくに逃げ出しているようです。私たちも逃げましょう! さあ、おはやく!」
しっかり者の侍女ネリーは、数日前からすでに荷物をまとめていた。そもそもそんなに持って行くものもない。
アーシアは、逃げるために地味な装いに着替える必要もないほど普段から質素なものしか身につけていなかった。
「これを、アーシアさま」
フードを目深に被るようにとローブを渡され、同じようにネリーも準備をする。
「さあ、参りましょう。絶対にはぐれないようにしてください」
ネリーが手を差し出し、アーシアはその手をとった。
きつく握り返されて、その力強さに侍女の緊張が痛いほど伝わってくる。
住まいである使用人棟の片隅から、辺りを警戒しながら城の外へ出るため急ぎ足で進んだ。
暴徒たちが向かうのは、当然、玉座を中心とした王族たちが暮らす居住棟で、ここ下働きの者が暮らす辺りに到達するのはまだ時間がかかるだろう、そう思っていた。
「いけません、ここにも暴徒が……」
中庭の出口へ続く階段の途中だった。
足を止めると、階下には悲鳴と怒号が渦巻いていた。
下働きの者たちは、暴徒たちの襲撃の対象ではないはずだが、なぜか何人もの女たちが追われている。
「あ、あれは……」
見知った顔だった。
下働きの者などではない。王妃の取り巻きのひとりで、以前アーシアは彼女に手が滑ったと頭から紅茶をかけられたことがある。
それに気づくと、逃げまどっている女たちは見たことのある顔ばかりだった。
どうやら王妃に仕えていた侍女たちが、華やかなドレスを脱ぎ捨て下働きの者のふりをして逃げようとしているのが見つかってしまい、この辺りまで追われてきたようだった。
アーシアは、彼女たちの顔を見ただけで、こんな時にもかかわらず身体から血の気が引いて足がすくんでしまった。
父である国王には神の御前で婚姻を誓った王妃がいて、アーシアの亡き母は、愛妾だった。
その娘であるアーシアを、王妃は自分の茶会にいつも突然呼び出し、母の至らなかったところをあげつらうのが好きだった。そうして質素な姿のアーシアを豪華に飾り立てた取り巻きたちが嘲笑するのを楽しそうに眺めていた。
ある時、王妃はアーシアに紅茶をかけた侍女を褒めちぎり、過分な褒美を与えたのだ。
それが発端となり、取り巻きたちは大手を振ってアーシアに嫌がらせをはじめた。それは次第に歯止めがきかなくなり、ついにアーシアを階段から突き落とそうとする者も現れる始末だった。
さすがにそれは見過ごされず、その者は罰せられたが、取り巻きたちからの陰湿な嫌がらせは止まらなかった。
国王である父は、母の亡き後アーシアには目もくれなかった。よって助けなど望むべくもなく、ただただ耐えるしかない日々を過ごしていた。
「……さま、アーシアさま!」
侍女に身体を揺すぶられ、アーシアははっと我に返った。
暴徒に奪われそうになった麻袋が裂けて豪華な装飾品が床に散らばった。地味な装いをしていても、彼女たちは、手にしっかり金品をまとめて持っていたらしい。
そのほとんどが王妃たちに追従して得たものだ。
捨てて逃げればいいものを、必死で装飾品をかき集めようとする侍女を暴徒のひとりが足蹴にする。悲鳴と怒号があちこちで上がり、このまま見ているわけにはいかない、と思うものの足が動かない。
「アーシアさま、ここはだめです。違うところから逃げましょう」
ネリーに強引に促され、アーシアが踵を返した時、ふと廊下の端にいたひとりの青年が目についた。
なにか目立つ身なりをしているわけでも、大声を出しているわけでも、略奪を働いているわけでもない。
気になったのは、その雰囲気だった。
アーシアは、あの青年と同じ独特の雰囲気を纏っていた人を知っている。
「もしかして……」
ずっと目で追っていると、青年は目立たぬように油断なく辺りに注意を払っているように見える。
後ろからぶつかりそうになった男を振り返りもせずさり気なく避けた。
間違いない。
「ついてきて」
アーシアはネリーの手をとり、そっと青年の後を追った。
バルコニーから見ると、城の西に位置する尖塔から火の手が上がっていた。
確か、あの辺りは玉座の間があったはずだ。
城内になだれ込んだ暴徒たちは、略奪へ向かう者、王族をさがして捕らえようとする者にはっきり分かれた。その雪崩のような人の波からそっと離れ、ソリスは目立たぬように城を歩いて回っていた。
豪華だが、趣味の悪い造りの階を抜けしばらく行くと、使用人たちの働く場所に出た。
突然の暴動に、廊下には放り出された洗濯物が散らばり、厨房では湯気の立つ鍋がそのままになっているが、使用人たちの姿はない。
そうしていると遠くで歓声が上がったのが聞こえた。
ついに国王が討たれたのかもしれない。
幕が下りた。
ソリスが感じたのはそれだけだ。
もうここに用はない。
さっさと城を出て戻らなければ、と思った時だった。
「もし……そこのお方」
気のせいかと思うほどか細い声が聞こえた。
振り返ると、娘がふたり柱の陰からこちらを窺っている。娘たちは同じくらいの年頃で、身なりは地味で質素というしかなかった。だが、ひとりは下働きの者とは思えないほど顔立ちが整っている。
振り返ったソリスがなにも答えないでいると、娘がゆっくりと近づいてきた。
「あなたがわたしの思った通りの方なら、どうかこれで頼みをきいていただけないでしょうか?」
そう言って娘が差し出してきたのは、見事な黒真珠の指輪だった。
鈍く光る黒真珠を持つ娘の手はかすかに震えている。
ソリスは指輪と娘を見比べた。
質素な身なりにこの高価そうな黒真珠の指輪は不釣り合いだった。
「……一体、なんの話をしている?」
無視すればよかったが、なぜかそうはできずにソリスは問い返していた。
「あなたは、報酬によって頼みをきいてくださる方でしょう?」
「俺は鍛冶屋の倅だが?」
試しにでまかせを言ってみると娘が首を振った。
「そうは見えません。わたしは、以前あなたと同じお仕事をしていた方を知っています」
「俺の仕事がなんだって言うんだ?」
娘がためらう様子もなく言った。
「暗殺者でしょう?」
ソリスの表情は変わらなかったはずだが、少し驚いた。
これまで初対面でソリスのことを暗殺者だと見破った者はいない。
この娘も暗殺者……なわけはないだろう。
どう見てもなんの訓練もされていない頼りない佇まいだ。
権力者のいる場所は、当然のように多くの間者が入り込んでいる。皆、さり気なく城で働いたり、貴族に取り入ったりして情報を集めたり、場合によっては密かに混乱をもたらすこともある。そして、命令があれば標的に手を下す。
普段、何の気なしに接している使用人の正体が間者であっても不思議ではない場所だ。
だが、おそらく見破られることはほとんどないはず。
そうでなければ務まらない。
「どうかお願いします。わたしとこの侍女を城外に連れ出して、王都を出る馬車に乗るところまで付き添ってくださるだけでいいのです」
ソリスが黙っていると、後ろに控えていたもうひとりの娘が言った。
「やめましょう、アーシアさま。わたしたちだけで大丈夫です。それに、その指輪は大事なお母上の形見。こんなことに使ってはいけません」
娘が呼んだその名に聞き覚えがあった。
「アーシア……? 国王の娘だな」
王女がらしくない装いで侍女をひとりだけ連れてこんなところにいることが不可解で思わず口にしてしまった。
「……わたしのことをご存じとは、やはり思った通りの方のようです。この国の民で、わたしが王女だということを憶えている人は、もうほとんどいないはずですから」
ソリスは潜入する場所についての情報は、あらかじめ頭に入れている。王族のことは特に重要な情報で、ひとり残らず記憶していた。
確か、アーシアという王女の母は愛妾だったが、すでに亡いはずだ。
「お願いいたします」
王女は真剣な眼差しでソリスを見つめている。
驕った頼み方では心動かされることはなかっただろうが、はじめて自分の正体を見破ってきたことに少し報いてやろうという気が起きた。
「……わかった。ついてこい」
ソリスの仕事は、暗殺ではなくこの反乱の成り行きをただ見守ること。依頼主はアルネルト王国の王で、この国が荒れれば多くの民が国境を越え避難してくるかもしれないことを危惧している。
特にこの機に王族をどうこうする予定ではなく、国の状況をありのまま報告することになっていた。
もはやこの城でやるべきことは残っておらず、ここで気まぐれにこのおかしな王女の頼みをきいてもいいだろうと思えた。
娘ふたりくらいこの混乱に乗じて城外へ連れ出すことなどソリスにとっては造作もないことだ。
「アーシアさま……」
侍女はソリスのことを警戒しているが、王女がなだめてついていくように促している。
慎重に通路を選んで進んでいると、突然目の前に立ち塞がる者が現れた。
「おまえたち……っ!」
まだ残っていたこの国の兵が、ソリスたちを見た目から略奪をしている民だと思ったのだろう、いきなり槍を突き出してきた。ソリスはその槍を素早く避け、兵が勢い余ったところ手にしたナイフで喉笛を掻き切ろうと構える。
「お待ちくださいっ!」
突然上がった叫び声に一瞬気をとられたが、すぐに体を回転させ兵を踵で蹴り飛ばした。
「なんだ?」
叫んだはずの王女が怯む。
「い、いえ、あの、危険なことは……」
「危険なこと? おまえは俺をなんだと思っている?」
睨みつけると王女は一瞬身体をすくませたが、すぐにこちらを見返してきた。
「ですが、兵も暴徒もこの国の民です。できれば、命までは……」
「手加減しろというのか?」
語気が強くなってしまったが、王女は引き下がらない。
「もちろん、そうはいかない場合もあるでしょうが……できれば」
王女の言い分を無視して踵を返そうとしたソリスに侍女が言った。
「あ、あなた、さっきから無礼ではありませんか、その口の利き方。この方が王女殿下だと知っているのに」
「いいのよ」
王女がすぐに制して、侍女は不満そうにしたが結局黙った。
「申し訳ありませんでした、お気を悪くさせてしまって。どうぞ案内してください」
その後、何度か兵や暴徒と鉢合わせそうになったが、事前にソリスが気配を察知し、避けることができた。ソリスは、暴徒に紛れてこの城に侵入したが、脱出する時のことも考え、あらゆる通路がどこに続いているか把握している。
ようやく建物の外に出ると、そこは庭園だった。
「庭だわ……」
王女が一度だけ足を止め、小さな庭を見渡している。
夜風が淡い金色の髪を乱していて、その表情までは見えなかった。
「こっちに目立たないが扉があるはずだ」
王族の目につかないように庭の隅の木の陰にひっそりとその扉はあった。狭い通路の先は堆肥や庭園からでた木の葉や枝を一時的に置いておく場所になっていて、そこからさらに細く坂になっている通路を降りていくと、城に運ばれてくる様々な物資が集まる広場になっていた。
馬車が通る門はすでに開け放たれていて、ここから大勢の使用人たちが逃げたことを表している。
辺りはまるで嵐が去った後のような有様で、あちこちに物が散乱していた。
だが、ソリスはその門は通らず、城壁に沿って進み、その先の運河から物資が運ばれてくる船着き場へ出た。
運河の横には人が通れる細い通路が城下町の中心まで続いている。
この非常時、馬が走れる道は危険だった。
城から逃げ出す者は、誰であろうと追われる危険がある。馬で追われた場合、女の足で逃げきるのは難しい。だが、この運河の脇の道ならば追ってくるのは船しかない。だが、いまのところ、川面に船は一艘も見当たらない。
「ここから城下町の広場へ行けるのですか?」
「そうだ」
王女とその侍女は、通路を進みながら後ろ髪を引かれるように何度も城を振り返っていた。
「着いたぞ」
思った通り、運河の通路は安全だった。
なんの危険もなく、城下の街に辿り着いた。ここなら乗せてくれる馬車くらい見つかるはずだ。
だが、街の中心にある広場は人でごったがえしていた。
皆、荷馬車に家財を積み込んで王都を脱出しようとしている。
どうやらメリア王妃の生国から援軍がくるという噂があるらしい。だが、援軍とは名ばかりで、この機に乗じて侵略するつもりなのだと。そうなれば、援軍は堂々と略奪を働くだろう、と商人たちは危機を察して逃げ出そうとしているようだった。
「ここで王都から脱出しようとしている人を見つけて一緒に乗せてくれないか頼みましょう」
路地から広場を見ていた王女が指を差した。
「あの荷馬車、ひとりくらいなら乗せてもらえそうだわ」
「……ひとり?」
呆然とした様子で侍女が問い返す。
「ひとりってどういうことですか? アーシアさまも一緒にって……」
うろたえる侍女を落ち着かせるように王女がその肩に手を置いた。
「逃げるのはあなただけよ。大事なあなたが逃げるのを見届けたかったからここまで一緒に来たけど、あなたを見送ったらわたしは城へ戻ります」
「なぜですか! 戻ってどうするのです!」
問い詰められても王女は困ったような顔をするだけだ。
侍女が言うように戻ったところでひどいことになる運命しかない。
「責任なんて、アーシアさまにはありません。もうずっと王女として扱われていないのに……どうして……」
「でも、王族は皆、城に残ったのだから、わたしだけが逃げるわけには……」
そこまで言って侍女が助けを求めるようにソリスを見る。助け船を出す気はなかったが、王女がどういう顔をするか見たい気もした。
「姉王女は王妃とともに、とっくに城を逃げ出している」
王女が息をのんでソリスを見た。
「……なぜご存じなのですか」
そう問うて王女はソリスが只者ではないことを思い出したようだ。
「それで、姉上たちは……無事に逃げたのか、ご存じですか?」
「暴徒たちに捕らえられて殺されたらしい」
王女が絶句して一歩後退った。
そのとなりで侍女が呻く。
「あ、あの姉王女たちが……?」
侍女が顔を両手で覆い膝から崩れ落ちた。
「そんな……アーシアさまをあんなに苦しめた、あの王妃と姉王女たちが……アーシアさまの味わった屈辱を少しも思い知らせることもできないまま……っ!」
王女は自分の顔色も真っ青になっていたが、顔を手で覆ったまま嗚咽を漏らす侍女に寄り添った。
「ネリー……いいの、いいのよ」
さめざめと泣く女ほど面倒なものはない。
ソリスはさっさとこの場を離れたかったが、契約は、馬車に乗るまで見届けることだ。
だが、このままでは埒があかない。
王女が目をつけていた荷馬車の主に話をつけにいくと、人の良さそうな男がひとりだけなら乗せていってもいいと応じてくれた。荷馬車には男の家族と思しき妻と娘たちがすでに乗っていて、これなら途中で騙されて身ぐるみをはがされることもなさそうだった。
「話はつけた。そんなには待ってくれないぞ、すぐに馬車に乗れ」
そう言うと侍女が取り乱してわめいた。
「どうか、アーシアさまも一緒に……!」
泣いて縋る侍女に、王女はゆっくりと頭を振った。
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