【試し読み】(偽)淡白スパダリと溺あま契約~幼馴染ドクターは添い寝をご所望です~
あらすじ
「ほんとうの俺はドライじゃないって、しっかり分からせてあげる」――デビュー作以降ヒットに恵まれず、バイト暮らしをしている絵本作家の芽衣。ある日風邪を引き病院で受診すると、疎遠になっていた幼馴染のドクター正輝と再会する。イケメンで優秀だと老若男女から評判の彼は、芽衣の看病を買って出るが……「献身的な看病の報酬がほしいな」芽衣はファーストキスを奪われ、そのまま高められてしまう。もしかしてキスの先までご所望なの!? しかしなぜか彼は一線を越えることなく、芽衣を甘い指先で翻弄するだけ。そんな彼から提案されたのは、添い寝の契約……!?
登場人物
絵本作家。デビュー作以降の作品はヒットせず、バイトの給料でギリギリの生活を送る。
幼馴染のイケメンドクター。体調を崩した芽衣の自宅を訪問し、献身的に看病する。
試し読み
一章 噂のドクター
「よろしく……お願いします……」
「はい。では順番にお呼びしますので、椅子にかけてお待ちくださいね」
「……はい」
問診票を書き終えて内科の受付を済ませた芽衣は、気だるい体を沈めるように待合室の長椅子に腰を下ろした。
──あ~、やっぱり混んでる……待ち時間、長そうだなぁ。
熱でぼぉっとする視界には、老若男女の患者の姿がたくさん映る。パッと見た感じ、五十人くらいだろうか。付き添いの人もいることを鑑みても、診察待ちをしている患者は三十人ほどいるようだ。
ここは近隣の市からも多くの患者が診察に訪れる総合病院。
町のクリニックのほうが診察もスムーズだろうが、内科を検索した結果、芽衣のアパートから一番近い病院がここだった。
なんせバスで一駅、仮に歩いて来たとしてもそう時間はかからない距離なのだ。
──だけど……これじゃ、少しくらいきつくても、遠くにあるクリニックにした方がよかったかなぁ。
移動時間の短さが魅力だったが、少々後悔してしまう。
中待合に呼ばれる人数は毎回三~五人ほどだ。今日はドクターが少ないのか、それとも患者当たりの診察時間が長いのか。いずれにしても、あと一時間以上待つことになりそうだ。
ふぅっと鼻から漏らした息が熱い。問診時に測った熱は三十七度五分だった。
一般的には、それほど高熱とは言えない体温。けれど発熱したのは高校生の時以来で、そのせいか、かなりつらい。
昨夜はごく普通の体調だったのに、朝目覚めたら異常に体が重かった。ベッドから下りるのも、よろけてしまうほどにヘロヘロだった。
熱で働かない頭と体をなんとか動かし、病院に行く段取りをしながらバイト先に休みの連絡をした。
寒さを感じてTシャツの上に長袖のシャツを羽織り、マスクをして家を出たのだった。
今は六月下旬。夏日になることもあるし、蒸し暑い日もある。それなのに、寒さに震えるなんて普通じゃない。
──重い病気じゃないといいな……。
スマホで時間を確認すると、今は九時を少し過ぎたところである。待つ間、少しなら居眠りしてもよさそうだ。
芽衣は静かに目を瞑った。
それからどれくらい時間が経ったのか。ふと浮上した意識に女性の話し声が流れてきて、芽衣は目をそっと開けた。
声の主は、上品な笑顔で話している身形の良い中年の女性たちだ。向かい側の長椅子に座っていて、芽衣のようにぐったりはしておらず、表情は比較的明るい感じである。
「今日の先生は人気あるからねぇ、やっぱり、いつもより混んでるわね」
「ほんと、若いのに丁寧だし、親切だし、診たてもいいし。なんといってもイケメンですものねぇ。目の保養になりますわ」
「そうそう。病院に通うなんて気が重いだけなのに、先生が素敵だと気分的に明るくなるもの。唯一の救いよね」
「ええ、ほんとうに」
そう言ってクスクスクスと笑い合う。話の内容から察するに、ご婦人方は定期的に通っている患者らしい。
看護師やレントゲン技師などについても、「あの人は優しい」とか「あの子は綺麗」などと、噂話に花を咲かせている。
その中でもイチオシは、今日の外来担当のドクターらしい。
──そっかぁ……今日はイケメンのドクターがいるんだぁ……どんな人かな。
お喋りしているご婦人方の表情を見ると、素敵な男性に心をときめかせるのは、若い女性と変わらないなあと思う。
同時に、芽衣は男性にときめく心を忘れていることに気づいた。
五年前に実家を出て独り暮らしを始めてから、ずっと男性との縁はない。
恋愛から遠ざかっているのは、芽衣の行動範囲が狭いことも原因にあるだろう。出かける用事といえば居酒屋のバイトくらいで、あとはたまに必要なものを買いに行く程度なのだ。
それにバイト以外の時間は在宅ワークに費やしていて、恋をしている暇がないのも一因だろう。ときめきも潤いもない、カラカラに乾いた生活をしている。
二十八歳の女子としては、あるまじき日常かな……なんて思いつつ、中待合からのアナウンスに耳を傾ける。
まだ、芽衣の名は呼ばれない。
──がっかり……あ、でも……あの人私の前に受付してた人っぽい?
少し猫背気味の背の高い男性が中待合に入っていく。ドアを閉める際、横顔から特徴的なマスクが見えた。黒地に白のラインが入った布製のマスクはよく覚えている。
彼が中待合室に入ったならば、きっと間もなく芽衣の名前が呼ばれるだろう。先が見えたことにホッとし、スマホに視線を落とした。
──あ~……もう十一時過ぎてる……。
イケメンドクターの話をしていたご婦人方は、いつの間にか姿がなくなっていた。
まわりをそっと見ると、待合室にいる人も少なくなってきている。けれど、長椅子はほぼ埋まっている状態だ。
さすが総合病院は患者の数が桁外れ……というよりも、腕がいいと噂のイケメンドクターのせいかもしれない。
──病院選び、失敗しちゃったな……。
スマホをポケットに仕舞い、ため息をつきつつ背もたれに身を預けると、斜め向かい側に若い女性が座った。三歳くらいの女の子と一緒なので、芽衣は病気を移さないようにずれたマスクをしっかり直した。
「ママ~、これ読んで~」
「またこの絵本にするの? あいちゃんは、『こばと めいか』さんのご本が好きだね~」
「うん! だって、絵がすごいかわいいもん!」
「じゃあ、ちゃんと椅子に座って、お行儀よくしてね。読むのはそのあとだよ」
「は~い」
『こばと めいか』というワードに興味を惹かれ、芽衣はそちらに目を向けた。
女性の膝の上に置かれているのは淡いピンク色の表紙の……。
──あ! あれは!
漏れた声がマスクに遮られてくぐもる。
赤いワンピースの少女と白うさぎのぬいぐるみが描かれた本は、間違いない『リサとウサギのみったん』だ。
ひとりでお留守番をすることになったリサが、擬人化したウサギのぬいぐるみと一緒に、『留守番オバケ』と闘うお話だ。
絵本大賞の新人賞を取り、三年前に出版された芽衣のデビュー作である。『こばと めいか』はペンネームだ。
──わあ、〝好き〟なんて、すごくうれしいな。
発売日に書店に行って、平台に並べられた本を見てとても感激したのを、昨日のことのように覚えている。
本棚から離れた位置でじっとお客さまの様子を見て、購入されると思わず『よっしゃあ!』なんて拳を握って喜んだものだ。
けれど、実際に絵本を読まれているのを見るのは今日が初めてだ。
気恥ずかしさと喜びが胸に広がって欝々としていた心が急浮上する。絵本に夢中になっている女の子の様子を見て、自然に顔がほころんだ。
──うん、また頑張ろう。というか、まだ……まだ頑張れる。
待ち時間の長さに辟易する気持ちが吹き飛ぶくらいの元気と創作意欲がもらえた。やはり今は恋愛よりも仕事の方が大事である。
「……悠木芽衣さ~ん、中待合にどうぞ」
「は……はい」
受付を済ませてから約二時間半。ようやく名を呼ばれ、芽衣はのろのろと立ち上がった。ずっと座っていたせいもあって、立ち上がると自分の体の重さをずっしりと感じてしまう。ふらふらする体をなんとかコントロールして、中待合室に入った。
部屋の中には椅子が六脚ほどと、パーテーションとクリーム色のカーテンで区切られた個室が三か所ある。
診察室は三つあるうちの二つが稼働中らしく、ドクター名の書かれたプレートがはめ込まれていた。芽衣の目の前にある個室には唐沢とある。もう片方は奥にあり、プレートに光が反射していて文字が読めない。
どちらが噂のドクターなのか興味はあるけれど、診察してもらえるのならどちらでもいい。体が楽になるならば、外見の良し悪しなど関係ない。
早く治して良い絵本を描きたい。
あんなふうに、〝好き〟と言ってもらえる物語を書きたい。
女の子の言葉を心の中で噛みしめていると、奥にある診察室から名前を呼ばれ、ふらつきながらも急いで立ち上がった。
駆け寄ってきた看護士が「大丈夫ですか?」と体を支えてくれて、担当のドクター名を確かめる余裕もないまま、クリーム色のカーテンをくぐった。
「……お願い、します」
ドクターはパソコン画面に向かっていた。キーボードの上を長い指先が軽やかに躍っている。
「はい、もう少しだけ待っててくださいね」
ドクターの声は小さいけれど凛としていて聞きやすく、語尾には待っている患者への気遣いが感じられる。
──あれ……もしかして、この人が噂の人なのかな……?
睫毛が長くて鼻が高い。シャープな顎のラインは精悍で、短く整えられた髪は清潔感がある。椅子から伸びた脚は少々持て余し気味で、相当に背が高いんだろうと思えた。
「お待たせしました」
パソコンの入力を終えたドクターは、すぐに芽衣のカルテと思われる紙の束に手を伸ばした。
「……悠木……芽衣、さん?」
「はい」
ドクターの視線がカルテと芽衣の顔を何度か往復した後、やおら聴診器に手をかけた。
看護師に胸を出すように促されて服をまくり上げると、ひんやりとした感触が肌にあたって少し体が震えた。
耳を澄ませているドクターの顔が間近にあって、ぼんやりと綺麗な顔だなあと思う。
整った眉の下にある切れ長の目は、少々冷たい雰囲気が漂っているが、生気に満ちてきらきらと輝いているように見える。
横顔から感じた通りインテリ系のイケメンである。
「自覚症状は発熱のみですか? 腹痛や吐き気はありませんか?」
「ありません……けど、すごく体が重くて……つらいです」
なんとかしてほしい。そんな思いを込めて見つめると、ドクターは芽衣の顔をじっと見返してくる。
──この目の感じ、なんか覚えがあるような……? 気のせいかな……。
観察されているような、身の内を探られているような、少し怖いような視線。
ふと湧きあがった感覚に違和感を覚えるものの、すぐに患者を診るドクターに有りがちな目線だと思いなおした。
「今朝、食事はされましたか?」
「……食べてないです。食欲が、なくて」
「そうですか」
呟くように言って、椅子ごと近づいたドクターの手が芽衣の頬にそっと触れる。
「少しの間、じっとしていてください」
両手でやさしく頬を包み込み、僅かに目を細めて顔を見つめてくるから、芽衣はまぶしさを感じて思わず目を閉じた。
「口を開けて舌を出してください」
あーんと口を開けると金属的なものが舌に当たる。喉の奥を見られる一般的な診察だけれど、気のせいか器具が舌をするすると擦っている感じがする。
唾液の検査かな? と思っている間に器具の感触が消え、ドクターの手が首元に触れた。何かを確かめるようにするタッチが柔らかく、とても心地よく感じられる。
──ずっと触られてても、全然嫌な気持ちにならない。丁寧な診察って、こういうことかな……。
ご婦人方の話を思い返して、噂のドクターはこの人だとほぼ確信した。
首元の確認を終えたドクターの手が芽衣の手を握り、甲を見たり表に返したりと慎重に診ている。最後には指を一本ずつ撫でるように触って「うん……」と唸るように呟いた。
内科を受診したことは数えるくらいしかないけれど、このドクターの診察は過去の経験に比べても時間をかけていると思える。待ち時間が長いのも納得の診察内容である。
「爪の色が悪いですね。あと肌の質感も同様です。相当体力が落ちているようですね。心当たりはないですか? 例えば常に食事を抜いている……とかは?」
ドクターの目が急に鋭くなったように感じて、芽衣はギクッとして思わずうつむいた。
「あ……あり、ます……その……普段から、食パン一枚ですませることも、あって……」
恥ずかしいけれど、病気に関係があるのなら事実を伝えなければならない。
「意識的に食べないようにしていますか?」
「いえ、あの……買い物する余裕がないだけです」
絵本の締め切りに追われて徹夜が続き、時間に追われて買い物もままならないこともある。今はバイトの給料日前。金欠であることも重なって、ここ数日の間は食事もろくにしていなかった。
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