【試し読み】新婚騎士夫婦の一途な純愛~初心な蜜月の憂い事~
あらすじ
「俺と結婚していただけますか。……できれば、褒賞とか王命などということとは関係なしに、あなたと夫婦になれたらとそう思っています」──背中の傷が原因で嫁ぎ遅れた男爵令嬢のウルリカ。没落寸前の実家の事情で、とある美術商との望まぬ結婚を余儀なくされていた彼女のもとに、ある日国王からの親書が届く。告げられたのは『騎士との結婚』。騎士のアレスは平民出身ながら大きな武勲を挙げ、爵位と財産、そして妻を与えられることになったのだ。その相手に選ばれたのがウルリカだった。突然の話に戸惑いながらもアレスとの結婚を承諾するウルリカだったが、一方でアレスにとってウルリカはずっと気になっていた特別な相手だったようで……?
登場人物
没落寸前まで困窮した実家のために、年の離れた美術商との望まぬ婚約をするが…
平民出身の騎士。戦での働きが国王に認められ、爵位や財産だけでなく妻も与えられることになる。
試し読み
序章
強烈に記憶に残るのは、緑と青空、自然の香り……そして、少女達の悲鳴。
ウルリカ・バークレイがその後の人生に大きく影響を与える災難に見舞われたのは、彼女が社交デビューしてほんの三ヶ月にも満たないころだった。
その日、友人である伯爵令嬢のカティアに誘われて参加した、とある貴族が主催する小規模なピクニックの場に、突然見知らぬ男達の襲撃を受けたのだ。
逃げ惑う人々のパニックに陥った甲高い悲鳴が辺りに響き渡る。
もちろんその場には付き添いである紳士淑女や使用人達の姿もあった。
けれど突然の襲撃で男達に囚われたのは、年若い令嬢ばかりだ。男達が積極的に少女ばかりを狙ったせいもあるし、その場で彼女達を守るために指揮を執れる人物が存在しなかったことも理由の一つとなるだろう。
逃げ惑う人々の中で唯一、素早く近くの警邏隊詰め所へ駆け込んだのは、付き添っていた使用人の中でも一番若いメイドであったという。
その囚われた少女達の中にはウルリカも含まれていた。
訳も判らないまま攫われ、どことも知れない森の古びた小屋の中に連れ込まれて、このまま売り飛ばされるのか、あるいは慰み者にされるのかと恐怖に震えていたとき、一人の勇気ある令嬢が声を上げた。
その令嬢の機転によってどうにか男達の隙を突いて、外へ逃げ出すことができたけれど、後で思えばその行動はいささか無謀な行いだった。安全面だけを優先するならば、大人しく騎士の助けを待てば良かったのだ。
しかし囚われていた令嬢達には、間もなく騎士団が到着することなど知る術もない。
今逃げ延びなければ、殺される。あるいは生きている方が辛い経験を味わうかもしれないと思えば、普段は到底起こせない行動にだって出るだろう。
皆必死だった。
けれど……我先にと外に飛び出していく令嬢達と共に、ウルリカも懸命に駆け出して間もなく、突然、前を行く誰かに突き飛ばされて、後ろに身体が傾ぎ地面へと転がる。
ウルリカが顔を上げて状況を理解するよりも早くに、逃げ出した令嬢達が離れていく後ろ姿が見えた。一瞬だけこちらを振り返りながら、すぐに背を向けて走り去っていくのは、この逃亡を提案した、あの勇気ある令嬢であり……そしてウルリカをこのピクニックに誘ってくれた、友人の姿。
自分を突き飛ばしたのもまた、そのカティアだったのだ。
まさか、と信じられない思いに呆然としながらも、とにかく自分も後に続かなくてはと慌てて立ち上がったとき、背後から伸びてきた男の手に髪を掴まれて、声もなく喉を詰まらせた。
人は本当に恐ろしいとき、すぐに悲鳴を上げることができない。殆ど無抵抗のまま、容赦なくその場で押し倒されて、地面に額を打ち付けたその瞬間に気付いた。
先程、友人が自分を突き飛ばしたのは、後ろから追ってくる男の囮にするためにわざと置き去りにしたのではないか、と。
いや、そんなはずはない。カティアがそんなことをするはずがない。
あれはたまたま腕がぶつかってしまっただけ。ウルリカが倒れたことに気付いても、引き返す余裕がなかっただけ。きっとそうに決まっている。
けれど自分に言い聞かせる間もなく、背後から獣のような男の荒い呼吸が耳朶を擽る。そのまま首筋に食らいつかれそうで、恐怖で視界が歪み、ガチガチと歯が鳴った。
怖い。怖い、怖い、こわい……!!
気がつくといつの間にか掴んでいた石を手に、無我夢中で背後の男に向かって振り下ろしていた。
ガツッと人の額を割る嫌な手応えに全身を震わせながら、それでもウルリカは必死に立ち上がろうとした。
けれど、思わぬ状況に恐怖で強ばり、初めて人を傷つけてしまった動揺で足は縺れて、思うように動いてくれない。
ウルリカが殆ど這うように距離を取ろうとしている間に、予想外の抵抗に憤怒した男が額から一筋の血の雫を流しながら、刃物を振り下ろした。
ウルリカの、無防備な背に向かって。
最初に感じたのは、衝撃と、背中に食い込む刃物の冷たさだ。
その冷たさはすぐに熱と痛みに変わって、ウルリカを三度地面に倒れ込ませる。
背中が、焼け付くように熱かった。
心臓が鼓動を刻む度、その血流に合わせて傷だけでなく、骨にまで痛みが響き満足に身体を動かすこともできない。
怖い。
怖い、死にたくない……!
懸命に地面に生えた草を掴み、土に爪を立てて、蹲る身体を再び起こそうとする。
その途端、息が止まりそうになるほどの激しい痛みに襲われた。地面に突っ伏したまま、ウルリカは苦痛の呻きを漏らす。身体がまともに動かない。
はっ、はっ、と繰り返し吐き出される浅い自分の呼吸音がやけに耳についた。
頭の中に家族の顔が浮かぶ。おっとりとした父と、ちょっとお人好しの母と、そして少し気弱だけれど優しい兄と。
もう、皆に会えないのだろうか。せめて最後に一目だけでも会えたら。
……目が霞む。このまま意識を手放してしまえたら、楽になれる?
弱気な思いが胸の内を過ったその瞬間、周囲の音が遠くなりかけたウルリカの耳に、ヒュン、と鋭く空を裂く音がかすかに聞こえた気がした。
直後、すぐ傍らから男の絶叫が響き渡る。
地面に突っ伏したままのウルリカの真横を軍靴が駆け抜けた。
瞬く間に視界から消えた軍靴の持ち主は、恐らくウルリカが額を割った男を含めた数人のならず者達との戦闘に入ったのだろう。先程聞こえた空を裂く音は、弓矢だろうか。
立て続けに響く剣戟の音を聞きながら、最後の力を振り絞るようにどうにかそちらへと目を向けたウルリカは、複数の男達を鮮やかな手並みで叩き伏せる一人の男の姿を認めた。
男の顔は視界が霞んではっきりとは見えなかったが、その出で立ちが王国騎士の制服であることは理解する。
背の高い、すらりとした体格の青年だ。きっと、まだ若い。
騎士は、手早く全ての男達の戦闘能力を奪った後、手にした剣を鞘に収めると、すぐさま踵を返して倒れるウルリカの元へ駆け戻ってくる。
冷静に男達を倒した人とは思えない、慌てふためいたように何か喋っている騎士の耳当たりの良い低い声が確かに聞こえるけれど、何を言っているのか上手く聞き取れない。その顔も見えない。
つい先程まで背中が燃えるように熱く、そして激痛に襲われていたのに、今は全身が冷たい水の中に放り込まれてしまったかのようだ。
助け起こすその手を掴む。
多分、自分は彼に、助けてと縋ったのだろう。
けれど他に何を言ったのかも記憶に残せないまま、ウルリカの意識は遠くなる騎士の声を聞きながら、すうっと暗闇に引き摺り込まれるように失われていくのだった。
第一章 騎士への褒美
古びた屋敷の裏手で、石鹸水に浸し、汚れを落とした大量の洗濯物を軽く絞って近くの籠に入れる作業を繰り返す、一人の娘がいた。
年頃は二十歳を越えたかどうか。既にその籠から溢れんばかりの洗濯物の量は、一人で片付けるには相当に難儀する量だ。しかしこの仕事を手伝ってくれる者はいない。
かつては多くの使用人を抱えていたこのバークレイ男爵家に、今残る使用人は下働きの下男と下女が一名ずつ。当然それで屋敷内が回るわけがなく、掃除も洗濯も必要最低限のみ。庭に至ってはいつ手を入れたのか判らないくらいに草木が生い茂り、男爵家が貴族としての体面を保っていた時期の面影が消え失せて久しい。
そうした実家の状況を憂いながらも、せめて僅かなりとも助けになればと、バークレイ男爵令嬢であるウルリカが雑役女中のように働き始めたのは、五年前に背中に負った傷が癒えて間もなくのことである。
本来ならこのような労働に従事する必要もなく、手を荒れさせることもなく、精一杯美しく着飾って夜会に繰り出し、少しでも条件の良い結婚相手を探す……それがウルリカの役目だったはずだ。
しかし彼女の周囲の状況が大きく変わったのは五年前に起こった事件が原因である。
友人に誘われて参加したピクニックで、貴族の若い娘を狙って襲撃してきた盗賊団の手によって攫われ、囚われる事件が起こったのだ。
幸いにして攫われた娘達はその後、報せを受けて駆けつけた国の正騎士団に救われ、傷一つなく無事に家族の元へ戻ることができたが、全ての娘達が無傷でというわけにはいかなかった。
果敢にも自らの力で逃亡しようとした娘達の中で逃げ遅れた者が襲われた。それがウルリカである。結果、背に大きな傷を負うことになった。
右肩から左腰に掛けて斜めに走るその傷は深く、一時は命さえ危ぶまれた状況であったらしい。何とか九死に一生を得たものの、その傷は今もウルリカの背にはっきりと痕を残している。
なぜあの盗賊団は昼日中、それも多くの人がいる場所で襲ってきたのだろう。攫った貴族の娘を高く売り飛ばすことが目的だったとしても、あまりにもリスクが高すぎる。
実際、その後すぐに騎士団に討伐されているのだ。盗賊団は結局何も得るものなく、ただ無駄死にしたようにしか思えない。
それとも他に目的があったのか……しかしそれをウルリカが知る術はなかった。
最も輝かしい年頃だったはずの十六歳だった少女時代は、デビューしてほんの三ヶ月ほどで黒く塗りつぶされてしまった。
更に不幸が襲い掛かったのはそれからいくらもしないうちのことだ。
両親が藁にも縋る思いで娘の傷跡を癒やせないかと、とある高名な医者を頼ったが、その医者に騙されて殆どの財産を失う結果となってしまったのだ。
かろうじて残されたのは猫の額ほどの僅かな領地と、古い屋敷と爵位くらいのもの。もちろんそれでは貴族としての生活を保てるわけがない。
娘を救うことができなかったばかりか、財産を失ってすっかり気落ちした両親は、家督を兄に譲り渡して隠居してしまった。
借金がないだけマシ、という経済状態の男爵家の生活をかろうじて支えてくれたのは、兄の妻である義姉とその実家である。
そのことには心から感謝している。あのままでは両親と三人、生活すらままならなかっただろう。しかし義姉にとっては、大きな不満しか抱かなかったらしい。
無理もない。結婚して一年も経たないうちに婚家が財産のほぼ全てを失い、その後始末が夫である兄と義姉の二人に押しつけられたようなもの。
その上義両親や、義妹の生活まで自分が面倒をみて実家に頭を下げて援助を頼み、それでも足りない分は持参金の中から工面しなくてはならなかったことを腹立たしく感じるのは当然のこと。
義姉は両親に対する不満を隠しもしなかったし、全ての原因となったウルリカに対しての苛立ちも隠さなかった。
そんな妻を兄は幾度か窘めてはくれたが、生活を妻に支えられている状況では強く言うこともできない。
嫁いできたときにはおっとりと微笑んでいた優しい義姉から、目を合わせるだけで射殺すような鋭い視線を向けられるようになって随分経つ。
肩身の狭い生活はそれだけで息が詰まりそうだったが、それでも他に行く当てもなく、生活できる手段もない以上はできる限り義姉の気に障らぬよう、息を潜めて暮らすしかなかった。
いっそ修道院に身を寄せた方が良いのではないかと考えもした。自分一人だけでも食い扶持が減れば、少しは生活も楽になるだろうかと。
けれど、両親に相談すると、充分な寄付金が用意できなければ修道院での生活は使用人以下の扱いだと大反対された上に泣かれてしまい、断念せざるを得なかった。
ならばせめて自分にできることをと家事を引き受けるようになったウルリカだったが、どんなに懸命に働いても義姉が認めてくれることはない。
恐らく義姉にとって自分は既に何をしても目障りな存在でしかなくなっていたのだろう。
怪我をした当初は随分同情的だったけれど、それも過去のこと。
あるとき、兄に吐き捨てている言葉を耳にしてしまった。
「どうせ傷も治らず財産だけを失うくらいだったら、いっそさっさと死んでくれていた方がよっぽど家のためになったのに!」
……さすがにこの言葉はショックだった。
しかしそれ以上にショックだったのは、妻の暴言を確かに聞いていたはずの兄が、一言も庇ってくれなかったことだ。
衣食住を妻に頼らねばならなかった兄の立場では、何も言えなかったのだということは判る。判るけれど、死ねば良かったとまで言われて心が傷つかないわけはない。
震える両手を握り締め、必死に自分に言い聞かせた。
仕方ないことだと。逼迫している財政状況の中、寝る場所と着るもの、食べるものを与えてもらえるだけでも有り難い。
追い出さないでいてくれる義姉には感謝しなくては……そう思うのに、時々、無性に虚しい気持ちが込み上げてくる。
働くことに不満はない。少しでも家族の助けになっているのなら充分だ。
でもお前のせいで、と疎まれながら生活するのはやっぱり辛い。
何度も考えてしまう。
ならず者に襲われたのも、傷を負ったのもウルリカの責任ではない。好きでこんな傷を背負ったわけじゃない。それでもやっぱり、姉の言う通りにあの場で死んでいれば、そちらの方が家族のためになったのだろうか。
誰にも吐き出せない思いを抱いたとき、ウルリカの心を僅かに慰めてくれるのは、うっすらと残る一人の騎士の記憶だ。
意識が朦朧としていて彼の顔や声も覚えていないのに、辛うじて聞き取った励ましの言葉はぼんやりと覚えている。
『大丈夫だ、もう少し頑張れ。必ず助かるから』と。
痛みで意識が落ち、なのにいくらもしないうちに同じ痛みで意識が戻るという不安定な中で、医者が駆けつけてくるまでの間、ずっと側にいてくれた。
背中の傷の応急手当てをしてくれたのも、その騎士らしい。
やっとまともにものを考えられるようになってから騎士のことを両親に尋ねてみたが、何も情報を得ることはできず、それきり彼のことは判らないままだ。
騎士団に問い合わせれば判るのかもしれないが、さすがにそこまでするのは気が引ける。
彼があえて名乗らず身を引いたのは、恩を売るような真似はしたくなかったからではないか、とも思えて。
でも、こんなことならたとえ痛みと熱に浮かされていたとしても、せめて名前だけでも聞き出しておくのだったと後悔している。そうすれば、きちんとお礼を言えたかもしれないのに……
あれから五年、既にウルリカは二十一になった。とうに少女とは呼べない年齢になってしまったが、自分の時間は、全て止まってしまっているような気がしている。
これから先もずっと、義姉に疎まれながら実家で働く日々が続くのだろうか。
漠然と考えていたウルリカが義姉に突然呼び出されたのは、水仕事の辛い冬の厳しさが、ますます本格的になり始めたころだった。
※この続きは製品版でお楽しみください。