【試し読み】この愛は偽装……? それとも真実ですか?
あらすじ
「いたってノーマルだ。コスプレをしろとも言わないし、縛らせろとも、目隠しもなしだ。普通に君を抱く。なんなら今試すか?」高級ホテルの客室清掃のバイトをしていた涼夏は空室のはずの一室で、全裸でバスルームから出て来た男と鉢合わせをする。再会したホテルのハプニング男は誰もが一目置くエリートのサラブレッド、桐谷の御曹司、要だった。怜悧な雰囲気を崩さない氷の美男子から契約恋愛を持ちかけられるが……。官能小説家の涼夏は傲慢な彼の態度に憤慨し、拒絶するも、執拗に彼に口説かれていくうちに彼の意外な一面に心が揺れて……。心も体も彼に捕らえられていくが、彼には涼夏に惹かれる理由があった。桐谷兄弟シリーズ第三弾。
登場人物
本業は官能小説家だが、生計を立てるために客室清掃のバイトしている。要と衝撃的な出会いをする。
容姿端麗・頭脳明晰だが、冷たい印象で近寄りがたい雰囲気。涼夏に契約恋愛を持ちかける。
試し読み
出会いは突然素っ裸で
間接照明が優しく廊下を照らし、毛足の長い絨毯が全ての音を消し去っている。ブランド物のアメニティ、真っ白なタオルやバスローブを積み込んだカートを引きずるキャスターの音などもちろんしない。
さすが、星が5つの高級ホテルだけあると感心してしまう。ホテルの客室清掃の仕事に就いてまだ1週間、普通なら二人一組で仕事をするところを、相手が病欠の為、独りで行うという試練に直面していた。
今朝方までコンビニでバイトしていた疲れが今頃出てきて、あくびが出てしまいそうになるのを、奥歯を噛みしめて堪える。
別にここであくびをしていても誰に見られることもないけれど、万が一宿泊客に見られてしまったら目も当てられない。客室清掃の仕事にも品が求められる高級ホテルなのだ。なぜか、若くて見栄えの良い女性が揃っているのである。そのことに驚きはしたけれど、確かに若い女の子がメイド服もどきの制服を着ていた方が、高級ホテルには適しているのかもしれない。大したこだわりようだと感心してしまう。平均年齢22歳のメンバーの中、あたしは少し年上の25歳。微妙な年齢ではあるが、まだ若いと思っている。だからバイトを掛け持ちして、結構ハードなスケジュールもこなしながら生計を立てているのだ。
さてと、次は1625室か。
カートを部屋の前に置くと、もう一度部屋の番号を確認し、カードキーを差し込み中に入った。
「失礼しまーす。清掃です」
誰もいないとわかっているが、一応声を掛ける決まりである。
しんと静まり返った部屋に入るとまず目に入るのは、正面にある全面ガラス張りの窓だ。東京の煌びやかな夜景が堪能できるに違いない。
応接セットにはワインのボトルと、グラスが2つあった。
ホテルで用意されたクリスタルのワイングラスだ。赤ワインの香りが微かに部屋に残っていた。
ふむふむ、ひとつだけグラスの縁に口紅がついているという事はカップルだったんだ。と、妄想を膨らませる。こんなお洒落な部屋で東京の摩天楼を眺めながら赤ワインなんて、ロマンティックじゃないか。あー、あたしにもだれかそんな素敵な夜をプレゼントして!
なんてことを脳裏でコントのように繰り返しながらベッドに近づいて行った。
テーブルを片付ける前にまずベッドのシーツを取り払い、バスルームの汚れ物を取り出す作業から始めなくてはならない。
さてと、がんばろー!
ダブルベッドのシーツをめくったその時、ガチャっとドアが開く音が背後でした。
ドキンと心臓が大きく飛び跳ねた。
あまりに驚きすぎてビクンと肩を揺らし背後に振り返る。
「ひっ」
思わず鋭く息を吸い込み、予想外の状況に腰を抜かしてベッドに座り込んでしまった。
目の前には長身で、手足の長い、程よく筋肉がついた、すらりとした──裸体の男性が、タオルで頭を拭きながらバスルームから、出て来たのである。
裸体と言ったら、そのとおりすっぽんぽんだ。
小説的に言えば一糸まとわぬ艶やかな姿。水も滴るなんとやら。
いや、違うそうじゃなくて、確かに男性にしては、肌はすごく綺麗だし、毛深くもないけれど……。それに、あ、あれが……!
あたしの視線は男性の下腹部へとついつい向いてしまい、その人が頭を拭いていて自分に気がついてないことをいいことに、ドキドキしながら男の体を観察してしまっていた。もちろんこれは無意識にで、なんと言うか、不可抗力とでも言うか……。こういう時は可愛らしくきゃーとか言って顔を隠した方がいいのかもしれないが、いや、それが一般的な25歳の女性の反応なのかもしれないが、あたしの場合、これも勉強! とかそんなことを考えてしまって、つい目線はそこにくぎ付けになってしまったのだ。
男性経験がそんなに多くなく、どちらかというと奥手な方で、こんな風にまじまじと観察したことはなかった。つまり男性のそれを。男性の裸をこんな目の前で、全身を見たのは初めてかもしれなかった。
心臓が激しく打ち付け、息苦しくなり、手の平に汗が滲む。たぶん首筋まで真っ赤になっているに違いない。ドキドキするのにその人の体から目が離せなかった。
彼は誰かがいることに全く気付いていない。
そして髪をある程度拭き終えると、タオルをベッドに放り投げた。それがあたしの膝の上に上手い具合に落ちてきた。
そしてあたしの方に視線を向ける。それはまるでスローモーションのようにゆっくりとした動きで、あたしの心臓は止まったように動かなくなった。口をあんぐりと開けたまま男性の視線を受け止める。
彼の眉間に皺が深く刻まれた。目を細めてこちらを凝視している。
う、うわっ
お、怒ってる。凄く怒ってる。ど、どうしよう。謝るべき? やっぱりこういう時は平謝りしないとだめなのかな?
混乱しているあたしの前にその人は全裸だというのに堂々と仁王立ちし、威圧感のある冷淡な視線を向けている。
何か言わないといけないのに、全く声が出ないし、体にも力が入らないしで動くこともできない。まるで蛇に睨まれた蛙状態である。
いや、またそんな小説風に自分で解説しなくていいんだけれど、ついついいろんな場面を小説に見立ててしまう癖がこんな緊急事態でも出てしまう。
「まだいたのか? 契約は今日で終わりだと言ったはずだ。さっさと出て行ってくれないか」
良く響く低い声で辛辣にそう言った。
あまりに唐突だったものだから、言い返す言葉も浮かばない。というか、明らかに何か勘違いしているようなのだけれど、全く持って使い物にならないあたしの口は誤解ですと訂正するタイミングを逃してしまう。
呆れたような顔をした後、怒りのオーラを纏いながらその人はクローゼットに向かって行った。まだ全裸のままだ。
恥ずかしくないのかなぁ……? と、また余計なことを考えてしまう。しかし目線は素晴らしく引き締まった肩甲骨辺りから臀部にくぎ付けになってしまう。ごくりとはしたなく喉が鳴った。
その人はというと、スーツの内ポケットから財布を取り出している。こちらに向き直り、戻って来るや否や、諭吉を3枚ほど投げつけられた。
「タクシー代だ。これで金輪際俺たちは無関係だ。いいな」
な、なんかすごくないですか? この人。女性に対してこの扱いっていったいどうなの? なんだか沸々と怒りが湧いてきて、あたしは手を震わせ、万札をかき集めた。
「あ、あのっ、こ、これ受け取れません。なんか、誤解してるみたいだし」
渾身の想いを込めて震える手で投げつけられたお札を突き返した。まだ腰に力が入らないのでベッドに座ったままだ。
彼は眉間に深い皺をくっきり刻み込んだまま、堅気とは思えないような目つきの悪さで、目を細めてあたしの顔を凝視している。そして、ベッドのサイドテーブルにある眼鏡を取ってかけた。
なるほど、目が悪いのか。と、この時目つきの悪さに関しては納得したのだが……。
眼鏡をかけ、改めてこちらを見たその人は、目を見張るようにして両目を開けたまま固まった。
まさに固まっている。全裸で。瞬きもせずあたしの顔を凝視している。まるで幽霊でも見たかのように、驚愕した様子で身動き一つしない。
「き、君は……誰だ?」ときた。
なるほど、彼はあたしを恋人と勘違いしていたらしい。いや、契約とか言っていたから娼婦を買っていたのだろうか? まぁそんな黒い事情はこの際どうでもいい。やっと赤の他人だと気づいてもらえただけで心底安堵した。
「あ、あの……まず、何か着られたほうが」
座っているあたしの目の前に仁王立ちしているものだから、あの場所が凄く近くにあって目に入ってしまうと、ドキドキしてしまう。あたしの全身は、真っ赤に染まっているに違いない。
彼は「ああ、すまない」と、あっさりした返事をすると、クローゼットに向かい下着とワイシャツ、スーツのボトムを素早く身につけた。
ああ、やっと普通の格好になってくれた。
これであたしのこの挙動不審も収まることだろう。と、ひとまず安堵のため息が漏れた。
彼がこちらにやってきてまたじろじろとあたしを観察し始める。
「このホテルの客室清掃員か。どうしてここに入ってきた? あ、いや、言わなくていい。あの女が勝手にチェックアウトして帰ったんだろう。とんだとばっちりだったな。驚かせて悪かった」
あれ、何だか突然紳士的な態度に変わった?
いきなり紳士的になったものだから、あたしの方が呆気に取られてまた言葉がすぐに出てこない。
「あ、あの、いえ、それはそうですが、あの、み、見なかったことにしますので、ホテルの方にこのことについて何も言わないでおいていただけたら……」
せっかく見つけた仕事を1週間でクビになりたくなかった。
「ああ」と彼は頷いた。
あたしは手に持っている3万円をとにかく早く返したくて、再度彼に突きつけた。
「あの、これ」
彼が3万円を掴んでいるあたしの手をぎゅっと握って押し返してくる。
3万円を押し返されたことよりも手を握られたことに、穏やかになった心臓がまた早鐘を打ち始める。
「それはチップだと思って取っておけばいい。こちらも不愉快な思いをさせて悪かった。お互いこのことは忘れよう」
彼はそう言うと、身なりを整え始めた。あたしは呆然とそれを見ていたが、我に返りゆっくりと足を踏ん張って立ってみた。思いのほかしっかりしていてほっとする。
どうやらぎっくり腰というわけではなさそうだ。ただびっくりしすぎて足の力が抜けたただけのようだ。
そうこうしているうちに、彼の準備は終わったようで、何も言わずに部屋を出ていってしまった。何とまぁ、あっさりしたものだ。
出て行ったドアに向かって慌てて声を掛ける。
「行ってらっしゃいませ」
聞こえてなかったかもしれないな。と、思いながら手の中の3万円に視線を落とす。
3万円のチップって言われても……。いいのかなぁ……。
これはそのつまり、口止め料なんだろうけど、そんなことをする必要はあの人にはないのになぁ。
しかし、どういう人なんだろう。スーツ姿はどこぞのエリートって感じだったし、短髪の髪を整えたところはきりっとしていて、まさに隙のない実力者って感じだった。
それで女性と契約したお付き合い? つまり、娼婦を買っていたってことだろうか。
うわぁー、なんかすごく小説のネタになりそうな感じじゃない?
あたしは別の意味で興奮していた。
実は、本職は小説家なのだ。あまり大声で言えないから仕事場では誰にも言っていないのだけれど……。だって、女流官能小説家です。って言ったらそれこそセクハラまがいのこともされかねない。大学時代にストーカー被害に遭ったことがあり、そのせいで少々被害妄想が強いことは否めない。神経質になってしまっていることも自覚している。だから尚更、官能小説家だということを隠しているのだ。
エリートリーマンと娼婦の恋かぁ……。
あたしはすっかりそのアイデアが気に入ってしまって、脳内でドラマを作りながら、掃除に励んだ。
やっぱりこういうバイト経験って役に立つんだよね。コンビニのバイトも人間観察にもってこいだし、たまに入るホステスの仕事は裏の事情を垣間見れてとても勉強になる。
こんなその日暮らしのような綱渡りの生活だけれど、あたし自身は今の生活にそれほど不満があるわけではない。本が売れないこと以外はとても充実した生活を送っていて満足している。
悩みといえば、つまり本が売れない。官能小説家としてパッとしないこと。そしてその理由もなんとなくわかっていた。担当編集の菊池さんにもダメ出しされたりする。つまり、もっと経験を積めと、その、恋愛の方の経験である。
そうなんだよなー、自分の恋愛経験の乏しさは致命的である。奥手ではあるけれど何とか想像力を駆使して今までやってきた。
スタートはよかったのだ。
妄想だけで突っ走っていた大学時代。周りの友達の話を聞いてその妄想だけで書き上げたBDSM系の官能小説を官能小説文学賞に出したところ、見事新人賞を受賞しデビューを果たしたのだ。しかも映画化の話まであったことはあった。しかしあっけなく流れ、それ以降官能小説家としてのキャリアはパッとしていない。
結構話題になったので、夏坂涼という名は知られている。それも、その頃の自分が大学生だったから話題になったのだということも良くわかっている。女子大生が書いたBDSM官能小説。意外性があり、話題性がある。その2つが揃えば、絶大な宣伝効果を発揮するのだ。
夏坂涼というペンネームは本名の坂口涼夏の漢字をちょっと入れ替えただけで作ったペンネームだ。男か女かわからないところが気に入っている。この名前で是非ともまたヒット作を生み出したい。見捨てられる前に。
最近ジワジワと背筋から首元へと焦りが這い上がってくるのだ。
スタートはよかったんだけどなぁ。どうも、官能部分がマンネリらしい。
「本気の恋を知ったら絶対よくなります!」と、菊池さんに言われたのはつい最近だ。
本気の恋って言われてもねぇ、そんなの、望んでぽん! なんて出てくるわけでなし。どうやったら恋が降ってわいてくるっていうのよ。
今はバイトでの経験を糧に妄想を膨らませるしかない。
そう自分を納得させると、例の部屋を出て隣の部屋へ向かった。
※この続きは製品版でお楽しみください。