【試し読み】琥珀の鳥籠~偽りを蕩かす初めての恋と秘密~

作家:鞠坂小鞠
イラスト:鍋木
レーベル:夢中文庫プランセ
発売日:2020/3/6
販売価格:800円
あらすじ

成り上がりの平民・チェルニー家の庶子リディエ。病気という名目で幽閉されていた彼女は、我侭な異母妹の身代わりとして公爵家に嫁ぐことになる。ところが、身代わりは予見されていて……!? 到着早々、公爵本人に身体を検められるが――「リ、リディエ……?」告げていないはずの名を呼ばれ、彼女は自分が公爵の〝初恋相手〟だと知る。幼少時の病のせいで出会いの記憶を失くしているリディエは戸惑うが、公爵の真摯な愛と思いやりに触れ、次第に彼に惹かれていく。「僕が愛している人は君だけだ」――仲を深めていくふたり。彼とともに過ごすうち、やがてリディエは幼い頃の記憶をぽつぽつと思い出すように。また、この婚姻にはある目的が……?

登場人物
リディエ
異母妹の身代わりとして公爵家に嫁ぐ。幼少時の病のせいで過去の記憶がほとんどない。
ヴィンセント
ある事情により瞳を包帯で隠している。初恋相手であるリディエを思いやり真摯に接する。
試し読み

プロローグ

 月を隠す雲が、水面に広がる波紋のように揺れ動く、どこまでも静かな夜。こういう夜を、あなたは他のどんな夜より好む。
 蝋燭の明かりがひっそりと部屋を照らす中、あなたの指が、私の濡れた髪を緩く梳き始める。
 侍女に毎日手入れしてもらっている髪を、夜が巡るたび、あなたはまた濡らす。自身の手で香油を馴染ませ、指を差し入れることが好きらしい。
 背まで伸びた私の髪は、まるでそれ自体が意志を持っているかのように、喜んであなたの指を受け入れる。するりと指が滑る感触に満足したのか、あなたは吐息で静かに笑った。
 私は私で、触れられるだけで吐息が零れる、そういう身体になってしまった。
 震えるそれがあなたの頬を掠める。ひどい熱がこもっているはずで、そう自覚した途端、羞恥のせいで息苦しくなった。
 あなたの顔へ──否、目元へと指を伸ばす。
 あなたの両眼を覆う白い包帯は、怪我のためにつけているものではない。目的は、瞳を隠すというそれのみ。そうしなければならない理由についても、すでにあなた自身から聞いている。
 両目が塞がれた状態でもおおよそのものは見えると、以前あなたは言った。現に、私が今あなたの目元に指を伸ばしていることにも、難なく理解が及んでいる様子だ。
 なんの変哲もないこの白い布を、あなたは、私とふたりきりの夜にだけ外す。
 そうしてほしいと伝えたのは私だ。どんなあなたでも受け入れたいと伝え、あなたもまた、私の意を正しく汲んでくれた。
 吐息で笑う声がまた聞こえ、髪を梳いていた長い指が離れていく。自身の目元へと指を動かしたあなたは、日中、いかなるときにも外すことのないそれへと指をかけ……そして。
「……あ……」
 先刻、雲の切れ間から覗いた今宵の月と似た色をした両目に、まっすぐ射抜かれる。
 蝋燭の弱々しい明かりを吸いながら、瞳は熱っぽく揺れ、私は最初、それを蝋燭が映り込んでいるからだと思って、けれどどうやら違ったらしい。
 琥珀を濡らしたような瞳に見入っているうち、あなたの唇が私のそれに降りてきた。触れるばかりの口づけを幾度か繰り返した後、唇を割られ、舌を差し入れられ、私もまたそれに応じる。この感触にも、もう随分慣れた。
 唾液と唾液が交ざり合い、溶け合う。沈黙に包まれた部屋の中に、その音だけが満ちていき……しかし。
「……リディエ」
 恍惚と口づけを受け入れていた唇から、一瞬で熱が失われた気にさせられた。
 不意に外れた唇から紡がれたのは、私を呼ぶ声。刺すような痛みが胸を走り抜けていく。
 目を閉じて口づけを受け入れる今の状態で、私のこの動揺までは伝わっていないものと思う。同時に、人の心の機微に敏いあなたに、いつまで隠しきれるだろうとも思う。
「リディエ」
 もう一度、先刻よりも熱のこもった声で呼ばれ、私はますます逃げ場を失っていく。目を開けば最後、月とよく似た色をした瞳は、私の欺瞞ぎまんも嘘も瞬時に暴いてしまうに違いない。
 目を閉じたきり、私は自分から口づけを深めた。
 私から求めることを覚えたのは、つい最近だ。こうすると、あなたはあっさりと理性を手放してしまう。
 案の定、あなたは焦ったような素振りで私を押し倒した。背に柔らかなベッドの感触が伝い、上体がそこに沈んだことを理解する。
 焦燥に満ちた仕種を覗かせながらも、私の後頭部に丁寧に手を添えるあなたは、きっと今日も私を、意識の判別がつかなくなるまで愛してしまうのだろう。
「……ヴィンセント様」
 上擦った声が喉を通り抜けていく。
 お慕いしています、という言葉はかろうじて呑み込んだ。私に愛されても、この人は幸せにはなれない。なぜなら、私は。
 私の名はそれではないと──私はあなたの愛するリディエではないのだと、今宵も私はあなたに伝えられないまま。

第1章 身代わりの花嫁

 チェルニー家の人間にとっては、所詮は形だけという話に過ぎないのだろう。
 とはいえ、先代が一代で巨万の富を成した富豪・チェルニー家の愛娘、マルツェラ=メイ=チェルニーの輿入れだ。見るからに豪奢な馬車が用意されるさまを眺めただけで、リディエ=チェルニーはすでに二の足を踏みそうになっていた。
 二頭引きの馬車など、書物以外では見ることさえ初めてだ。幾分か質素な馬車──普通の馬車に比べれば十分豪奢と呼べるが──には、同行の侍女が五名。加えて、他の供が二十人あまりか。
 想像以上に仰々しい旅路になるようだ。溜息が零れそうになったところを、リディエはかろうじて堪えた。
 異母妹いもうとであるマルツェラの身代わりとして、リディエは今日、隣領・ノエレ領を治めるノエレ公爵のもとへ嫁ぐ。
 リディエは今年で二十二歳、マルツェラは十九歳。三つも齢の若い娘に扮することに抵抗を覚えなくもなかったが、そもそも彼女に選択肢など与えられてはいない。いずれどこかに嫁がされるのだろうと薄々思っていたものの、よりによって貴族のもとへ、しかも妹の身代わりとして……リディエの憂鬱ににわかに拍車がかかる。
 マルツェラと同じ白金に髪色を染められた上に、マルツェラが好む艶やかな深紅のドレスをまとわされた。身体が軋むほど締めつけられたコルセットのせいで、先刻から眩暈が続いている。
 マルツェラよりもさらに細身の体型であるリディエの腰を、ここまで締めつける必要は皆無だ。つまりそれは、この状態での長旅をリディエに味わわせたいという、マルツェラによる嫌がらせに他ならない。侍女を使ってそんな嫌がらせをしかけてくるほど、異母妹は、妾の子であるリディエを毛嫌いしている。
 出発は、早朝になった。
 予想通りといえば予想通りだったが、見送りには父親の姿も妹の姿もない。供の侍女のうちひとりに促され、リディエは馬車に乗り込んだ。
 港町に軒を構えるチェルニー家は、先代の主が、海を挟んだ隣国との交易によって財を成した、いわゆる成り上がりだ。王都レシェの北東に位置するオレアド伯爵領、その海沿いに屋敷を構えている。
 オレアド領は元々漁業が盛んな地方であったが、現在は、チェルニー家の交易による利益が領地の収入を支えている状態だ。
 一方、オレアド領の内陸地は、小さな集落がひっそりと軒を連ねる程度。土の質に恵まれず、農耕に適さぬ土地には、土着の民以外ほとんど移り住まない。数少ないその民たちも、痩せた土地でも比較的育ちやすい作物を作り、細々と暮らしを繋ぐような、恵まれているとは言いがたい日々を送り続けているという。
 内陸地の一部は、大陸と陸続きになっている。だが、そちらには「迷いの森」と呼ばれる険しい森が広がっており、民は遭難を恐れて滅多に立ち入らない。
 チェルニー家で働く者たちの中には、内陸地出身の者もある。その者たちとて、恐れゆえ、この森について多くを語りたがらない。
 オレアド領とノエレ領は陸続きであり、その日のうちに領境を越えることは十分に可能だ。陸路、中でも馬車での移動が主流だという。とはいっても、ノエレ公爵家は郊外に軒を構える屋敷。早朝に出発しても、ほぼ一日がかりの旅路になるだろうとは聞いていた。
 ノエレ領に入ってからのほうが、移動にかかる体感時間は長かった。きつく締め上げられた腰に響く揺れが、先ほどまでよりも気に懸からなくなったからかもしれない。道の状態は、オレアド領の内陸地よりも遥かに良いようだ。
 リディエの隣に座る侍女──カタリナは無言のままだ。
 彼女は、不運にも今回、公爵家までリディエを送り届ける係に任命されてしまった侍女だ。病で喉を痛め、それ以来ほとんど声を出せなくなったという。ゆえに、リディエ自身、実際にカタリナと言葉を交わしたことはなかった。表情の硬い娘で、正直、なにを考えているのかよく分からない。
 そんな彼女もまた、相当に気を尖らせているものと思われた。同一国内とはいえ、文化も条例の類も異なる別領地へリディエを送り届けた上、そのまま新たな地でリディエ付きの侍女として務めを果たさなければならない……それで気の滅入らない者などおそらくいない。そのことは、リディエ自身も承知の上だ。
 公爵家への到着は、夕刻になった。
 エントランスでは、執事がひとり、それから侍女らしき女性が数人、客人の訪れを待っていた。
 手入れの行き届いた庭を抜け、馬車から降り、挨拶を交わす。チェルニー家の離れ──リディエが暮らし続けてきた質素な住まいで、しつこいくらいに繰り返させられた口上だ。
 形ばかりのそれをリディエが伝え終えるや否や、同行していた供たちは、それぞれが乗り込んできた馬車に戻り始めた。
 ……露骨だ。早々に見破られてしまうのでは、という不安も覚えた。リディエがマルツェラの身代わりだと露呈すれば、結局、頭を抱えることになるのはチェルニー家の人間だろうに。
 せめて父はこの場に居合わせるべきだった。娘を送り出す父親の顔を、そういうポーズを、本心はどうあれ取らなければならなかったのだ。
 一行が去り、その場には公爵家の出迎えの面々、そしてリディエとカタリナのみが残った。
「……ようこそ、マルツェラ=メイ=チェルニー様。お待ちしておりました」
 穏やかなバリトンボイスが、場に落ちた沈黙をそっと裂く。
 続けて話すノエレ公爵家の執事の、その言葉の半分もリディエの頭には入らなかった。朦朧とする頭をなんとかして動かしたいのに、一日がかりで蓄積した疲れと今しがた降って湧いた不安のせいで、リディエの息は詰まる一方だ。執事が名乗った名前すら碌に頭に残らない。
 隣に控えるカタリナは話を聞いているようではある。だが、それだけだ。黙ってリディエの隣に立っているだけ。
「それでは、どうぞ中へ。当主がお待ちいたしております」
 言いながら、執事はリディエに手を伸ばした。それを丁重に断りつつ、リディエは一歩足を踏み出す。途端に、身体がくらりと眩暈に揺れた。
 生まれて初めて乗った馬車の揺れが、まだ体内に残っているかのような眩暈だった。よろけたリディエへカタリナが手を伸ばしたものの一瞬遅く、わずかな差で、先に執事がリディエの腕ごと上体を支える。
 ……眩暈が深まり、リディエはますます息を詰めた。
 オレアド領内では、未婚の女性に対して男性が不用意に触れることは失礼に当たる。はっとしたリディエが隣に視線を向けると、案の定、カタリナは露骨に執事を睨みつけていた。
「ああ、失礼いたしました。オレアドではこういった作法はタブーなのでしたね」
「……いえ」
 執事は謝罪を口にしたが、カタリナに睨みつけられていることも含め、さして堪えてはいないようだ。
 それどころか、睨みを利かせるカタリナを鼻で笑うように視線を向けたらしい。カタリナの震える拳が視界の端を掠め、リディエは思わず息を呑んだ。零れそうになった溜息を、彼女はやや強引に噛み殺す。
 ノエレ領ではこれが普通なのだろう。リディエもカタリナも、この地で生活していくことになる以上、文化の違いは受け入れなければならない。
 そもそも、リディエは世間を知らない娘だ。望まれない子供として生まれ、人生のほとんどすべての時間を、屋敷の離れでひっそりと過ごしてきた──そんな状態だから、彼女はオレアド領内の常識にさえ疎い。
 せめて、チェルニー家の娘として最低限の振る舞いをせねばならない。
 そればかりを考えながら、リディエは促されるまま、屋敷のエントランスに足を踏み入れた。

 広間には誰ひとりいなかった。
 コツ、と自身の足元で鳴る靴の音に、リディエは内心で首を傾げる。公爵は忙しい人物だと聞いている。もしかすると、挨拶は今ではなく明日以降になるのかもしれない……だが。
「当主をお呼びしてまいります。ここでお待ちを」
 執事の声が、わずかに抑揚を欠いたように聞こえたのは気のせいか。
 マルツェラの身代わりとして役目を果たすことに全霊を傾けてばかりだったリディエは、小さな違和感にふと気を取られ、眉根を寄せた。
 ……静かだ。
 先刻出迎えに現れた侍女たちは、今入ってきた扉の前に立ったり回廊の前に立ったりと、奇妙な動きを見せている。言うなれば、各々の持ち場につくかのごとき無駄のない仕種だ。
 まるで、自分とカタリナの逃げ場を封じ、動きを止めたがっているかのような──そこまで考えたリディエが背筋に薄ら寒いものを感じ取った、まさにそのときだった。
「ようこそ、マルツェラ=メイ=チェルニー嬢……ああいや、もし良かったら本当の名前を教えていただけるかな、レディ?」
 執事のそれとは異なる柔らかなテノールボイスが、広間の沈黙を唐突に裂いた。
 目を見開いたリディエが反射的に視線を上向けた先、広間の前方に、階段の踊り場で足を止める人物が覗く。
「……あ……」
 目を見開くリディエを、相手は口元を緩めて眺めているらしかった。
 らしい、というのは、彼の両目が包帯に覆われていたからだ。途端に、異母妹のヒステリックな声がリディエの脳裏を過ぎっていく。
『包帯に目を包んで、邪眼を封じているのよ。なんておぞましい』
 マルツェラは、邪眼と称した。だが。
 布に塞がれているはずの両目が、それでもまっすぐにリディエを捉えている。それに、今、彼はなんと言った?
 ……こんな安っぽい身代わりの結婚など、はなから失敗するに決まっていたのだ。相手は、王家との血縁を持つ極めて重要な貴族。この程度の茶番など、ひと目で見破られて当然だった。
「……ノエレ、公爵……」
 喉から絞り出したようなリディエの細い声が、広間の沈黙を静かに漂った。

※この続きは製品版でお楽しみください。

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