【試し読み】くちづけは媚薬~冷徹Dr.の独占欲はズタボロ研修医を甘く癒す~
あらすじ
経営者一族に生まれたお嬢様の雛子。容姿も家柄も恵まれているが、彼女はひたむきに医師を目指す三年目の研修医。忖度なしで厳しい医師たちの指導に食らいつく毎日で、雛子は多忙による不眠に悩まされ、敏腕ドクター四宮の診察を受けていた。彼も厳しい指導医の一人だが、処置も判断も飛び抜けて一流で、雛子は『あんな医師になりたい』と憧れを抱いている。そんなある日、雛子は自分に想いを寄せる先輩医師に絡まれていたところを四宮に助けられ、突然口づけられてしまう。――「誰にでも、簡単にキスをさせる人?」熱を孕んだクールな瞳に、じっと見つめられたら……。
登場人物
研修医三年目。激務のため不眠に悩まされており、指導医・四宮の診察を受けている。
優秀な内科医。端正な顔立ちで女性に人気だが、厳しい指導医として恐れられている。
試し読み
1、出会いはトリアージ
都内にある総合病院の職員用駐車場に、真っ赤なスポーツカーが安全運転でやってきた。型は古いが流線型が美しい人気の車種だ。その車から降り立ったのは高身長で細身の美女。左右均等な小顔の造作は完璧で、化粧っ気がないせいもあり瑞々しい若さに溢れている。眉の少し上で切り揃えられた前髪が個性的なストレートヘアは、肩甲骨を覆う長さで艶々と輝き、すれ違う誰もが二度見する類の女性だ。
しかし、彼女の表情には若干の疲れが滲んでいる。それもそのはず。昨夜仕事を終えて自宅に戻れたのは午前一時、疲労が溜まっているせいかなかなか寝付けなかった。そして今日も早朝から仕事だ。重い足取りで建物に向かう途中、ふと立ち止まり目を細めて夏空を見上げた。
「空が青いなぁ……」
そう呟いてため息をつく。
彼女の名は、織部雛子。経済界の伝説的人物の孫で、大企業の社長令嬢でもある。しかしその実態は、研修医三年目のひよこ医師だ。
この派手な車は従姉から譲り受けたものであり、内心ではもう少し地味で小さめの車だったらよかったのにと思っている。
毎日患者の対応に四苦八苦し、看護師には冷遇され、指導医には怒鳴られている。そんな自分の現状を呪っていると、つい内心が漏れてしまった。
「今年はお祖父ちゃんの別荘にも行けないかも……くっそー!」
「……くそ? 誰ですか、朝から汚い言葉を使う人は」
背後から轟く低音に、自ずと雛子の背がシャキッと伸びる。
「し、四宮先生……! おはようございます」
「おはようございます。織部さん、悪態をつく体力がまだ残っていたんですか。なんなら午後からの漢方外来の手伝いをしますか?」
「滅相もない! 午後からは救命の当番なので、せっかくですが御免こうむり……じゃなかった、謹んでお断りします」
「残念ですね、難病患者さんの特別外来なんですが」
「難病ですか?」
「ええ。脳神経内科医を志している織部さんの参考になるかと思いましたが、研修が詰まっているのなら仕方ありません。他の研修医を誘います」
「……っ!」
雛子は唇を噛んで指導医の一人である四宮奏を見上げた。百七十センチの雛子が男性を見上げることは少ないが彼は別だ。四宮は身長がゆうに百八十五センチを超えている。長身の割には動きがシャープで、年齢不詳の美麗な外見とクールな態度で一部の熱狂的なファンがいるものの、冷やかとも見える言動で他人に対して薄いバリアを張りめぐらせている。少し長い前髪の隙間から涼やかな瞳がこちらに向けられると雛子の胸は大きく鼓動して、一瞬だけれど頭が真っ白になりかける。その美の破壊力は凄まじい。
外見だけを見てキャーキャー騒ぐスタッフもいるが、雛子達からすれば厳しい指導医でしかない。
しかし、研修医達が目指す診療科を熟知していて、時々こうして誘ってくれる細やかな心遣いのできる男でもある。
「漢方外来のお手伝い、私から興味のある同期に伝えましょうか?」
「いいえ、結構です」
「そうですか……」
実際に午後からは救急救命センターの当番なので嘘をついたわけではないのだが、雛子は断ったことを激しく後悔していた。
(後で同期から内容を聞いておこう。一体誰を誘うのかなぁ?)
脳神経内科医を志す雛子にとって、難病治療は大いに興味をそそる対象だ。救命当番でなければ是非手伝いたかった。傍目にもわかるくらいに雛子は肩を落としたのだが、四宮は曖昧な笑みを浮かべてこちらを眺めている。
「それじゃあ」
雛子に軽く手を上げると、四宮はその場を立ち去ろうとした。その長くて細い指を垣間見て、雛子の胸が一瞬ざわつく。慌てて目を逸らせて内心を悟られないようにした。
「失礼いたします」
雛子が踵を返そうとしたその時、四宮が声をかけてきた。
「織部さん、夕方にでも医局に来ますか? ご希望なら症例の説明をしますよ」
意外な言葉に雛子は驚いて立ち止まる。
「難病患者の症例だから興味があるんでしょう? なんなら他の研修医を誘ってもいいですよ」
「は、ハイっ! ありがとうございます。必ず伺います」
雛子はスキップをしかねない足取りで更衣室に向かった。さっきまでの落胆が嘘みたいだ。その後ろ姿を見送る四宮の頬が一瞬ゆるんだ。
雛子が四宮に初めて出会ったのは、前期研修医としてこの総合病院に赴任して半年が経った頃だった。
前期研修医にとって救急救命センターでの勤務は、常に恐怖と隣り合わせで強いストレスのかかる現場だ。雛子の救急救命センターでの研修が始まって数日が経った頃に大事故が発生した。高速道路での多重衝突事故だった。
事故現場に一番近く、大きな総合病院だという理由から沢山の患者が救急車で運ばれてきた。急遽外来診療の一部がストップし、手の空いているスタッフが救急救命センターに集結することになったのだ。
救命の経験の浅い雛子も前線に駆り出され、トリアージという患者の重症度を判断して選別する作業を命じられた。トリアージの真似事をしたことはあっても本番は初めてだった。
雛子は患者の命の選別をしなければならないと思うと、恐ろしくて始める前から体が震えていた。しかし次から次へと患者は搬送されてくる。待合から廊下にまで何台ものストレッチャーが並ぶ様を見て、雛子は完全に動けなくなった。
そんな雛子を救急救命センターの指導医である上甲が廊下の向こうから叱咤した。
「おいっ織部、とにかく動け! 後で俺がチェックするから行け!」
それでも、雛子はトリアージタッグを床に落とすほどに震えていた。それを見ていたベテランの看護師が駆け寄り、雛子が落としたタッグを拾い上げる。
「織部先生! 先生が動かないと患者さんが死ぬかもしれないんですよ。診てください」
「織部!」
指導医は反対の廊下側から患者のトリアージを行いながら雛子に声をかける。他のスタッフもそれぞれの作業を行いながら雛子の動きに注意をはらっていた。ベテランの看護師に手を取られ、声をかけられる。
「織部先生、自信を持って診てください。大丈夫、できます。私もお手伝いしますから」
雛子はその言葉にハッとした。こんな修羅場だからこそ、研修医を一人の医者として尊重しつつ育てようとする周りの気持ちに気がついたのだ。
「すみません、やります!」
雛子はまず、酸素マスクが装着されている患者の元に走った……。
その後他の科からも応援が入り、その場はさながら戦場と化した。雛子は緊張と恐怖で気を失いそうになりながらも懸命に患者の周りを歩き回り、一人一人に短い問診を行いトリアージタッグに記入して患者の右手首にゴム輪を通した。途中で、大学の先輩で上級医でもある田島も加わりトリアージを行う。
そんな皆が慌ただしく仕事をしている現場に、救急救命センター主任がやってきた。彼はセンターのナンバーツーでありながら、仕事よりも出世に欲のある人物で、皆から煙たがられていた。珍しく手伝いに来たのかと思いきや、雛子を手招きするとありえないことを言ったのだ。
「あちらにいらっしゃる大兼様を一番で診るように手配しなさい」
「は?」
大兼氏は打撲もなくかすり傷なので緑のカードを渡していた。緑よりも赤や黄色のカードの患者さんを絶対に優先しなければいけない。
「無理です。赤の患者さんがこれから処置室に入ります」
「君、大兼様が誰だかわかっているのか? これだから女は困るよ」
「えっ……?」
「あの方は厚生副大臣だぞ」
大兼氏の地位を雛子は知っていたが、どう見ても彼は軽傷だ。重傷の患者は他に沢山いる。だから雛子は咄嗟にお馬鹿なふりをした。
「えっ? 知りませんでしたぁ! あの~、ストレッチャーが通りますので先生どいてもらえますかぁ!」
そばにいた田島と一緒に、重傷患者を処置室に強引に運び込んだのだ。
「おい、君っ!」
センター主任が雛子を呼び止めたその時、背後から誰かの低い声が轟いた。
「主任、忖度は危険です」
「なにっ?」
「事故の取材のためにテレビ局が外で待ちかまえていますから、特別扱いは何かと面倒です。大兼氏を優先したいのなら、別室で個別に診療してください。今なら外科の外来も空いているでしょうからご勝手に」
邪魔だから患者と共に救急救命センターを出ていけと遠回しに言っているのだが、センター主任はその言葉を好意的に受け取った。
「そ、そうか、じゃあ……」
雛子は患者を救急処置室に運び込んだ後、そばにいた田島にセンター主任を諭した医師の名を尋ねた。
「田島先生、さっきのドクターは誰ですか?」
「え?」
「主任に忖度は危険って……」
「ああ、彼は四宮先生だよ。内科の有名人だ」
「有名?」
「うん。織部さんが彼を知らないとはねえ。さあ、患者さんをストレッチャーから移すよ」
「はいっ!」
雛子が廊下を覗いてみると、すでに主任と大兼氏の姿はなく、医師達がトリアージの確認をしながらレッドカードの患者を別の診察室に運び込んでいた。
すると……先ほどの四宮が滑るように雛子のいる処置室に入ってきた。入るなりストレッチャーから移したばかりの患者の下肢を診て、雛子に他の救命医の応援があるかと聞く。
「手の空いている人は?」
「いません! 他の患者さんの処置で手一杯です」
運び入れた患者は開放骨折が明らかで、すぐに手術が必要な状態だ。四宮は頷くとPHSで整形外科医を呼び出す。
「下肢の開放骨折と他にも多重骨折あり。おまけに内臓の損傷もありそうだけど、外来をストップして診れますか? OKならすぐに救命に来てください」
四宮は田島に視線を向けるなり、患者のCTオーダーを指示した。
「田島君、オーダー入れたら放射線科に緊急だと電話をしてください」
その直後、急激に呼吸状態が悪くなって運び込まれた別の患者の気管内挿管をやってのけ、田島に検査オーダーの指示をした。整形外科の医師が到着すると、患者と共に放射線科に向かわせて、さらに看護師に別の患者の呼び込みを指示したのだった。
その間、ほんの十数分……雛子は唖然と四宮の行動を見つめていた。できたことといえば、四宮の指示で患者の頭部を固定しただけだった。
四宮は汗一つかかずに一連の作業を流れるような動きでやってのけた。そして、挿管を終えた患者を病棟に送り出すと、呼び込んだ別の患者の診察を始める。その内に救急救命センターの医師が処置室に入ってきたので、四宮は彼らに後を託し自身の外来診療を再開すべく内科に向かった。
(ウソみたい……内科医なのに挿管も楽々できちゃうし、この人って超人?)
この騒動の数日後、医局で偶然見かけた四宮に頭を下げたのだが、反応は想像していた通りにクールなものだった。
「四宮先生! 研修医の織部と申します。先日はご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。センター主任に声をかけられた時にはどうしようかと……」
「あれは非常時ですし、織部さんに非は全くありません。……いや、問題あるか。権力に媚びない点は個人的には評価しますが、できれば少しだけ世間の垢にまみれた方が身のためですね」
「えっ、それはどういう……?」
雛子が戸惑いながら問いかけると、四宮は返事をせずにさっさと医局を出ていった。四宮の後ろ姿をボーゼンと見送る雛子の肩に誰かの手がかかる。
「織部さん、どうしたの?」
「あ、田島先輩……じゃなかった田島先生。そういえば、救命センターではお世話になりました」
「あー、あれは不運だったね。トリアージは初めてだったんだって?」
「はい。すごく濃い経験をさせていただきました」
「確かに濃かったね。あ、そういえば、センター主任には僕からとりなしたから心配はいらないよ」
「えっ? あの……どういうことですか?」
「織部さんのご実家の話をしたらコロッと彼の態度が変わったし、もう心配いらないから」
「私の実家って……あの、主任に私の家族のことを話されたんですか?」
「君の経歴は皆知っているし、ご家族の地位も公然の秘密だよ。今回はたまたま主任が織部さんを認識していなかっただけ」
「そうなんですか……。すみません、気を使わせちゃったみたいで……」
雛子は声を振り絞って田島に礼を言った。礼を言わなければならない理由は思いつかなかったけれど、田島からすれば『親切なことをしてあげた』と思っているに違いないからだ。雛子は誰にも家族の話をした覚えがなかったので、田島の言動は色々な意味でNGだと思うが……それに、家族の存在や祖父の地位など吹聴してほしくなかった。
感謝の言葉を伝えながらも、田島の無神経で押し付けがましい態度に雛子は嫌悪感を持ったのだった。
(優しい先輩だと思っていたのになあ。権力にすり寄るタイプなのかも……)
そんな……去年の出来事を思い出しつつ、雛子は自らを笑う。そういう田島をちゃっかり利用して、病棟での仕事を円滑に進めているのは自分だからだ。
(田島先輩のことを悪く言えないよなぁ)
しかし四宮は違う。雛子は彼を聖人のように崇めることはしないけれど、彼が権力に屈しなくても実力で今の地位を手に入れたことを知っている。漢方内科がこの病院において特異な存在であり、その象徴的な医師である四宮はあの若さですでに別格の存在だ。
(あんな医師になりたい……)
雛子はそう切望していた。
午前の研修を終え、院内コンビニに残っていたパサパサのサンドイッチを研修医室で食べていると、同期の御手洗恵がやってきた。ソファーに倒れ込んだあと微動だにしない。死んだふりをしているように見えるが、半分気を失っているだけだろう。雛子は最後の一切れを飲みこむと、御手洗に声をかける。
「大丈夫? 消化器外科の外来そんなにキツかったの?」
「うん。私、あの先生苦手……」
御手洗は、曲者揃いの研修医の中で希少種と言っていいほど穏やかな性格で、雛子から見れば庇護欲が湧く存在だ。一緒にいると落ち着くので、休憩中にはお互いが慰めあっている。
消化器外科のドクターは声が大きくてガサツなタイプが多いので、御手洗の気持ちも分からないではない。雛子は寝ている御手洗の肩をペシッと叩くと、明るく声をかけた。
※この続きは製品版でお楽しみください。