【試し読み】寡黙な王太子の最愛政略婚~春を呼ぶ王女と呪われた雪の王国~
あらすじ
常春の国ストランドから、魔女に呪われ雪に閉ざされた冬の国ラヴィネンへ嫁ぐことになった王女シルヴィア。この婚姻は呪われた冬の国に春を呼ぶため、五十年に一度必ず交わされるものだった。夫となった王太子アルベルトがシルヴィアに向けるのは、まるで興味がないような素っ気ない態度。春の国ストランドの王族でありながら、氷のように冷たい銀髪と水底のような青い瞳というシルヴィアの姿にアルベルトもがっかりしたのだろうと落ち込むが──……彼は無愛想に見えただけで実はシルヴィアに一目惚れしていた。しかし二人は互いに嫌われていると思い込んでしまう。さらに、シルヴィアが嫁ぐことで訪れるはずの春は一向に来る気配がなくて……?
登場人物
春の国の王女。人前でも笑わないことから氷姫と呼ばれる。政略結婚により冬の国に嫁ぐ。
冬の国の王太子。強面で無愛想だが、性格は穏やかで優しい。シルヴィアに一目惚れする。
試し読み
プロローグ
──呪われろ、と魔女は言った。
長い髪を振り乱し、世界のすべてを憎むような表情で、その瞳は激しい怒りに燃えていた。魔女の声に応じるかのようにあたりはたちまち吹雪になる。
雪はすべてを飲み込むようだった。ほんの少し先の景色さえ見えなくなるほど吹雪いているのに、魔女の姿だけははっきりと見える。彼女の周りだけは雪の勢いが弱いのだ。
こちらは息すら凍りつきそうなのに、魔女の藍色の瞳から流れ落ちる涙は凍りもせずにその頬を伝う。
呪われろ、と。
愛しい男の亡骸を抱きしめながら、魔女は何度も何度も呪詛を吐いた。
「呪われろ、呪われろ、呪われろ! おまえたちの国にあたたかな春など与えてやるものか! 永遠に降りやまぬ雪の中で凍え死ぬがいい!」
それは間違いなく呪いだった。
そして間違いなく、狂おしいほどの魔女の愛だった。
かつて、世界には四人の有名な魔女がいた。
春告げの魔女、夏越えの魔女、秋暮れの魔女、そして冬枯れの魔女。四季の名を冠する四人の魔女は人々に畏れられてきた。
怒りを買えば呪われ、愛されれば囚われる。
北のラヴィネン王国がかつて冬枯れの魔女に呪われ、雪に閉ざされることとなった逸話は有名だ。もとより北国であったものの、呪われる以前はわずかばかりの四季の移ろいがあった。しかし今、ラヴィネン王国は一年のほとんどが冬。人々の暮らしは苦しいものになった。
魔女に近づくことなかれ。
それは人々に根付いた教訓だった。
──しかしそれも、数百年前の話。今となっては魔女なんて、おとぎ話のなかの存在である。
一 氷姫の婚姻
ストランド王の執務室には毎日花が飾られる。花瓶に活けられた花を見つめてシルヴィアは疎外感を覚えた。赤い花や桃色の花で彩られたそこに、当然のように青い花や白い花はない。
「おまえには、ラヴィネン王国へ嫁いでもらうことになった」
「……はい、国王陛下」
異母兄である王の告げたその言葉を、シルヴィアは無表情で受け止めた。青い瞳は静かな湖面のようにわずかにも揺らぐことなく、発せられる声には喜びもなければ怒りも滲んでいない。
常春の国ストランドでは、五十年に一度、必ず交わされる婚姻があった。
かつて魔女に呪われ、永遠に雪に閉ざされた冬の国、ラヴィネン王国との婚姻である。その五十年の節目が今年やってきたのだ。
ストランド王国には四人の王女がいたが、第一王女のマティルダには既に夫がいた。第二王女のエメリも昨年婚約したばかりだ。残されたのは第三王女であるシルヴィアと、その二つ下の第四王女アクセリナだけだった。
だから、シルヴィアはとうの昔に覚悟を決めていた。差し出されるのは自分なのだと。
そもそも王女のうちの誰かが嫁がなければならないことはずっと前からわかっていた。それなのにラヴィネン王国の王太子と一番歳の近いマティルダは結婚し、エメリも候補に挙がることすらなく婚約者を持った。末の王女アクセリナは兄王にたいそう可愛がられている。
これは無言の決定だった。
差し出すのはおまえだと。
冷たく凍える雪の王国は、花咲く常春の国の王族にとって厳しい大地だ。五十年に一度王女を差し出す代わりにストランド王国はラヴィネン王国の強大な軍事力に守られているわけだが、何代にも渡って続く婚姻関係はその重要性を失いつつある。
古くから決められていた面倒な婚姻は、常春の国に相応しくない王女を押しつけてしまえばいい。
(大丈夫、覚悟はできていた)
だから悲しくないし、辛くもない。そうなるだろうと思っていたことが、やはりそうなっただけのこと。
ただそれだけだ。
(……ラヴィネン王国は)
どんな国だろう。雪に覆われた大地とはどんなものなんだろうか。年中あたたかなストランド王国では雪なんて降らない。国の北にある山脈にはうっすら雪化粧が施されることがあるけれど、王宮から出たことのないシルヴィアは当然見たことがない。
「──出立は半年後になる。それまでに準備をしておくように」
ラヴィネン王国の季節はほぼ常に冬だ。そして今は一際雪深くなる時季らしい。吹雪の中の旅路は厳しいものになるからと、もう少し寒さの落ち着く半年後を向こうから指定してきたのだ。
「承知いたしました」
シルヴィアが平坦な声でそう答えると、話はそれまでだというように部屋の扉が衛兵によって開けられる。
「……まったく、顔色一つ変えないとは。相変わらず可愛げのない」
部屋を出るシルヴィアの耳にそんな兄の呟きが聞こえた。聞こえてもいいと思っているのだろう。
シルヴィアはそっと目を伏せて、聞こえなかったふりをした。そうすることが正しいからだ。今ここで兄王に噛みついても、あるいは涙を見せても、シルヴィアを取り巻く状況は何も変わらない。悪くなるだけだ。
シルヴィアは常春の国ストランドの王宮の片隅で、一人だけ冬に取り残された残雪のように小さくなる。いつか消えてなくなる日まで息を潜めて。
──それが半年前のこと。シルヴィアが兄王と一対一で会話をした最後の記憶である。
ストランド王国の中心である王宮にはいつも色とりどりの花が咲き乱れている。
その王宮にある庭園は庭師たちによって花がよりいっそううつくしく見えるように整えられている。この庭園を歩くことも、これでもう最後になるだろうからと思って部屋から出たのがいけなかったのだろう。
「──ああ、嫌だ! ここだけなぜか底冷えするように冷えるわ」
扇の下で囁かれたその言葉に、シルヴィアは眉一つ動かさなかった。水底のように深い青色の瞳でそっとその人を見る。シルヴィアに聞こえるようにわざと嫌味を言ったのは、第二王女エメリの取り巻きの一人だった。
シルヴィアはじぃっとその令嬢を見つめ、何か言うべきかと口を開く。しかしその唇から音が紡がれることはなく、すぐにまた閉ざされた。そして何事もなかったかのように銀の髪をなびかせながら歩き始める。
その様子に気づいていたのだろう、令嬢はシルヴィアが歩き始めたことに気づくと扇の下でため息を吐き出した。
「まったく、本当にこの常春のストランド王国の王家の方とは思えないわ。あの銀の髪、青い瞳! まるで氷のようじゃなくって? かの冬枯れの魔女はきっとあんな見た目だったんじゃないかしら」
「ちょっと、聞かれたらどうするの。一応あの方は第三王女なのよ」
窘めているはずの声はくすくすと笑っているように聞こえた。聞かれたら困るなんて、きっと本当は思っていないのだろう。
「平気でしょう。にこりとも笑わない氷姫のことなんて誰も気にかけていないじゃないの」
「そうね、母君はどこかの国の貴族だったんでしたっけ? 随分前にお亡くなりになられてしまって。後ろ盾もない、愛想もない、ないないづくしね」
心無い言葉が背後から浴びせられる。しかしそれらはどれも本当のことだった。
百花の王国、常春の国。花に満ちたこの王国の王族は、誰もがやさしくあたたかな色彩を持ち生まれてきた。腹違いの姉である第一王女マティルダは華やかな赤い髪で、大輪の花のようだった。第二王女エメリのふんわりとした淡い金髪はミモザの花のようで、第四王女アクセリナはストランド王国でも珍しい薄桃色の髪をしている。
ストランド王国の王族が並んだ姿を見て、まるで色とりどりの花のようだと謳ったのは百年ほど前の詩人だったか。ストランド王家は一人一人がうつくしい花なのだ。人々を魅了してやまない、明るくあたたかな春の花。
(……早く部屋に戻ろう)
シルヴィアは静かに息を吐き出した。早く令嬢たちの声が聞こえないところまで行きたかった。ただ庭園をのんびりと歩きたかっただけなのに、今日はタイミングが悪かったらしい。
いつもなら人の気配がないか確認を怠ることはなかったのに、疲れているのか──それとも気が緩んでしまっているのかもしれない。
「けれど良かったでしょうね。そんななんにも持たない王女様でも、一国の王の妃になれるんですもの!」
笑い声がシルヴィアの背に投げかけられる。
本来なら、不敬罪に問われてもおかしくないことだ。王族を嘲笑するなどあってはならない。
しかしシルヴィアには彼女たちを罰する力はなかったし、そうするつもりもなかった。態度に問題はあれど、彼女たちの言っていることは事実だ。
「あら、シルヴィアお姉様」
可憐な声がシルヴィアを呼び止める。第四王女であるアクセリナだった。
「……ごきげんよう、アクセリナ」
「ごきげんよう、お姉様。珍しいですね、お姉様が部屋から出ているなんて」
アクセリナがにっこりと笑うと、まるでその場に花が咲くような華やかさがある。薄桃色の髪はまさに春の花のようで、誰からも愛されていた。
「でもよかった! お姉様がラヴィネン王国へ嫁ぐ前にお会いできて。向こうは遠い北国ですもの。きっともうお会いすることもできなくなりますね」
「……そうね」
シルヴィアの里帰りを望むような人はいない。ストランド王国を発てば、よほどのことがない限りもう会うことはないだろう。
「どうなさったのお姉様? 顔色が悪いわ。それに、もう少しお喜びになっているかと思いましたわ。だって一国の王妃ですもの!」
アクセリナの明るい声がその場に響いている。そのたびにシルヴィアはどうしようもないほど居心地が悪くなっていく。
「でも私では絶対に無理だわ。雪に閉ざされた国なんて、想像しただけで寒くて凍えてしまうもの。お姉様にはぴったりね!」
何も悪いことは言われていないのに、アクセリナの声はシルヴィアを笑っているように聞こえる。いつだってそうだった。やさしい顔をしながら、お姉様と呼びながら、アクセリナはシルヴィアを姉と思っていない。
「……ええそうね。ありがとうアクセリナ」
シルヴィアは感情のこもっていない冷たい声で答える。腹を立てたり、悲しんだりはしない。そういう反応はアクセリナたちを楽しませるだけだったから。
アクセリナは面白くなさそうに小さくため息を吐いて去っていった。
王女とは名ばかりで、シルヴィアの暮らしは質素そのものだった。
八年前、母が儚くなったときはまだ良かった。それでも父王はシルヴィアのことを気にかけていてくれたから。
しかし父王も三年前に突然崩御した。そこからは転がり落ちるようにシルヴィアの暮らしは寂しくなった。もともと少なかった侍女はいつの間にかいなくなり、今では愛想のない女官が稀にやってくるだけ。おかげでシルヴィアは王女でありながら身の回りのことがたいていできるようになった。
シルヴィアの部屋は他の王女に比べて狭くて質素だ。どの部屋にも飾られているはずの生花もここにはない。花瓶に花を活ける侍女がいないから。
「荷造りを終わらせてしまいましょうか」
もとより質素な部屋は、よりいっそう質素になっていた。
ラヴィネン王国へ向けて出立する日も近づいていて、シルヴィアは身辺整理を進めている。愛着はないが、父王が亡くなってから三年間過ごした部屋だ。綺麗に掃除をして、私物は残していくものと持っていくものとで分けている。
本来ならば掃除も荷造りもシルヴィアがやることではない。指示を出し、侍女や女官がやるのだろう。一国の王に嫁ぐ王女が、自分で荷造りをしているなんて誰が思うだろうか。
(……持っていく物は、あまり多くないけど)
常春のストランド王国から雪に閉ざされた土地へ向かうのだ。今まで着てきたドレスはほとんど役に立たない。
兄王からは雪国でも着られるような厚手のドレスを何着か与えられた。ラヴィネン王国側にドレスの一着も持たずにやってきたなんて思われないための、形ばかりの品だ。
シルヴィアが持っていくのは母の形見の数少ない装飾品と、父王からもらった思い出の品だけ。
「……これだけは絶対に荷物に入れておかないとね」
大事にしている大きなテディベアを持ち上げて、シルヴィアは一度ぎゅうっと抱きしめた。父から贈られた、シルヴィアの宝物だった。
そのテディベアを衣装箱の中にしまい込む。少し窮屈そうだが仕方ない。
こんなときばかりは荷造りを手伝ってくれるような侍女がいなくてよかった。きっと、こんなものを持っていくなんて! と反対されただろうから。
兄弟姉妹は皆、シルヴィアを嫌っていた。あたたかな色彩を纏うストランド王家の中でシルヴィアの容姿は一人だけ寒々としていて、子どもたちにとってそれは恰好のいじめの的だった。
仲間はずれにされることは当たり前だったし、陰口を言われることも当たり前だった。父王が亡くなってからは、ストランド王家の血が流れているのかも疑わしいと噂され、きっぱりと否定できる両親がいないシルヴィアは一人でその苦境に耐えるしかなかった。
それももう終わる。
(もう周りの顔色を窺う必要もない)
兄王にしてみれば邪魔者を他所に押しつけただけの婚姻かもしれないが、シルヴィアにとってはこの環境を変えることのできる千載一遇のチャンスだった。
「ラヴィネン王国ではこの人見知りをどうにかしないとね」
ぐっと小さく拳を握りしめてシルヴィアは決意する。
笑わない氷姫なんて呼ばれているが、シルヴィアは何も感じていないわけではないのだ。極度の人見知り故に慣れない人の前ではうまく表情を作ることができず、まともに話せない。それをどうにか誤魔化そうとしてきた結果、無表情になってしまうだけで。
幼い頃から、他の兄弟姉妹から遠ざけられてきたせいで人との接し方がよくわからないのだ。冷たい印象を持たれやすい容姿のせいもあって、シルヴィアの噂はどんどん独り歩きしてしまった。
けれどラヴィネン王国では違う。シルヴィアを知る人はいないのだから、うまくやれば印象も変えられるはずだ。
政略結婚とはいえ、良好な関係を築きたい。愛を育むことができなくても、せめて互いを尊重し合えるような夫婦でありたい。
そしてもしも、ラヴィネン王国の王太子がとてもやさしく誠実な青年で、シルヴィアのことも好意的に迎え入れてくれるのなら──。
(恋を、できるかしら)
やさしくて、あたたかくて、誠実な人であったら。
そうであるのなら、きっとシルヴィアも好きになれるかもしれない。
◇・◇・◇
一人の王女がラヴィネン王国へ向けてストランド王国を発つその日、見送りはいなかった。
ストランド王国からラヴィネン王国まではほとんどが船旅だ。ラヴィネン王国の南端、冬の間も凍りつくことのない港町まで船で行き、そこから王都までは馬車の旅である。
ストランド王国からの付き添いはいない。護衛の騎士たちがいたのも船に乗るまでのことだった。ラヴィネン王国からの迎えの船にシルヴィアが乗り込んだあとはあっさりと引き上げていく。
「……侍女もいないのですか? 一人も?」
「ええ、私一人です」
ラヴィネン王国の迎えの使者は困惑しているようだったが、シルヴィアはいつもの通りの無表情できっぱりと答える。
「護衛の騎士はおりますが、生憎こちらも侍女は連れてきておりません。船の乗員に何人か女性はおりますが……」
「お気遣いありがとうございます。身の回りのことは自分でできますから、どうぞお気になさらず」
ドレスは一人で着ることができるデザインだし、シルヴィアは髪を結うことも得意だ。入浴もいつだって一人でしていたし、給仕を受けた記憶はもう遠い昔のこと。
このように丁重な扱いを受けることにも、シルヴィアはまだ慣れない。思わず緊張していつも以上に声が硬くなってしまう。
(海は初めて……船も)
こんな大きなものが、こんなにたくさんの人を乗せているのに沈まないのがとても不思議だった。独特の香りがする潮風も、海が波打つ様子すらも新鮮で、シルヴィアは表情には出さないものの、内心ではけっこう浮かれていた。王宮で感じていたような息苦しさも今はもう感じない。生まれ育った祖国を離れていくというのに、寂しさよりもほんの少し安堵が勝っている。
船が港から遠ざかる。
百花の王国。その名に相応しく、遠ざかっていこうとも、咲き乱れる花々の鮮やかさが海の上からもよく見えた。港町に立ち並ぶ白い家々の中に、赤い花がたくさん咲いている。さらに遠くには青々と茂る緑。
うつくしい国だ。シルヴィアも、この国を愛していないわけではない。
けれど一向に涙は出てこなかった。
ただただ小さくなっていく祖国を、シルヴィアはその青い瞳で静かに見つめ続けるだけだった。
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