【試し読み】その逃亡姫、仮初の夫の手中

作家:鞠坂小鞠
イラスト:蜂不二子
レーベル:夢中文庫クリスタル
発売日:2022/2/18
販売価格:900円
あらすじ

「もう一度教えてほしい。君が、誰を好きなのか」──病に倒れた母の治療と引き換えに、佐橋家の養子となった美月。彼らが営む事業のために結婚を強要された彼女は、常識外れのお見合い相手から逃げ、通りすがりの男性に助けを求める。彼の助けによって何とか事無きを得た美月だったが、母への援助の打ち切りを匂わせられ、結局新しい相手とお見合いすることに。その会場に現れたのは、前のお見合いで逃げた際に助けてくれた男性だった。指一本触れないと約束され、美月は彼との結婚を決める。だが、次第に彼が特別な存在に変わっていってしまう。やがて涙とともに身の上話を打ち明けた美月へ、彼は「約束、破ります」と優しく手を伸ばし……?

登場人物
佐橋美月(さはしみつき)
急な病に倒れた母の治療費のため佐橋家の養子となるが、政略結婚を強要される。
加納博久(かのうひろひさ)
大手建設会社の社長子息。美月と利害関係が一致し、指一本触れないという条件で結婚。
試し読み

第1章 偽りの令嬢と救出

「はぁっ、は……っ」
 心臓が、今にも破れそうなほどに痛い。
 こうして走り続け、どのくらい時間が経ったのか……せいぜい五分程度といったところか。気が滅入りそうになる。
 胸につかえるような痛みが、頭にまで響く。頭痛は眩暈を引き起こし、そのせいで止まりそうになる足を、私はひたすら強引に動かし続けていた。
 慣れないヒール靴もまた、今の私には負担以外の何物でもない。圧迫されたつま先からはすっかり感覚が削げ落ち、麻痺している感じだけが残っている。
 運動不足の身体は、随分前から悲鳴をあげている。限界だった。けれど、だからといって止まるわけにもいかない。
 後方から響いてくる男の罵声が、疲弊した全身を貫く。だが、身を隠そうにも、そんなことができそうな場所は見当たらない。
 そもそも歩き慣れない街だ。この辺りは滅多に訪れない。駅の近くまで逃げてきたところで、周りになにがあるのかさっぱり分からなかった。
 ……あの男、いっそ車にでも轢かれてしまわないだろうか。
 物騒な考えが頭を過ぎったが、当然ながらそんな願いが実現するはずもなく、ほどなくして私は相手に捕らえられてしまった。
「ハァ……お前さ、マジでどういうつもりなんだよ? あ?」
 腕を掴まれて逃げ場のない私を、茶髪頭の男がげんなりと見下ろしてくる。
 なにを返す気もなかったが、それ以前に、息が切れてまともに話せる状態ではない。無言を貫いていると、相手はなおさら小馬鹿にしたような口調で続ける。
「こんなところまで逃げてきやがって。自分の立場とか分かってねえのか、お前」
「……放して」
「うるせえんだよ、馬鹿女。逃げればどうなるかぐらい、ちょっと考えれば分かんだろ」
 これ見よがしに溜息を落とされ、不快が過ぎた私は精一杯の目力で相手を睨みつける。
 この男に馬鹿などと言われる筋合いはなかった。息苦しさとは種類の異なる不快感が、ひと息に全身へ伝っていく。全力で走ったせいで乱れたカーディガンの合わせ目を、無意識のうち、私はきつく手繰り寄せた。
 全身が燃えるように熱い。薄手のそれすら脱ぎ捨てたい衝動に駆られ、だがこの街中ではさすがに躊躇してしまう。なにより、カーディガンの内側は、肩の露出したドレッシーなワンピース一枚のみ。この男の前で無防備な姿を晒すことは、絶対に避けたかった。
 私とそう齢の変わらない男は、多少息を乱してはいるが、ニヤニヤと人好きのしない笑みを浮かべているだけだ。軽薄そうなその表情が、私の神経をますます逆撫でする。
 ──虫唾が走る。
「放してください」
「は? つーかさっきから婚約相手になんて口利いてんだ、お前? もしかしてマジで馬鹿?」
 婚約相手。当然のように告げられ、ぐらりと視界が揺れる。
 私は了承していない──そう声高に叫んだとして、おそらく意味はない。話の通じる相手ではない、そのことは出会って数秒で察した。
 乱れた呼吸の隙を縫って零した自分の声は震えきっていて、我ながら迫力の欠片もなかった。
 これが今の自分にできる精一杯の拒絶なのかと思うと、情けなさに涙が滲みそうになる。なにより、目の前の男は、この程度の拒絶にあっさり心根を入れ替えるタイプでは多分ない。
 もう嫌だ。誰か助けて。
 誰でもいい。この窮地を切り抜けられるなら、誰でも。
 目だけを動かし、周囲に視線を走らせる。電車が発車したばかりの平日の駅前は閑散としていて、人通りも少ない。それほど大きな街ではないから、週末でもなければこんなものなのだろう。
 焦燥を呑み込みながら走らせた視線の先には、丈の短いスカートと明るい茶髪が印象的な女子高生がふたり。それから、腰の曲がったお婆さんがひとり。後は────
「っ、あ……」
 お婆さんの右隣、たまたま視界に入り込んできたスーツ姿のサラリーマンに、思わず目が釘づけになる。
 顔を覆う白いマスクが目を惹く。ときおり苦しそうに咳き込んでいるようで、皆一様に彼を避けて歩いていく。
 何度も繰り返される激しい咳とくしゃみ、遠目にも分かる赤い目。
 ちょうどいい。あの人なら、この男もきっと近寄りがたいに違いない。
 ……参っている自覚はあった。状況を知らないあのサラリーマンに、自分が助けてもらえるはずはない。自分こそが不審者扱いされて終わりだという意識も、十分にあった。だとしても。
 他に頼れる人も物も、なにもない。
 だからだ。普段なら絶対に考えられない博打ばくちじみた行動に、私が打って出たのは。
「あ、テメー!」
 男の手を振りきり、もつれる足を踏み出す。
 マスク姿のサラリーマンが近づいてくる。下を向いてゴホゴホと咳を繰り返していた彼は、走り寄ってくる女──私に気づくのが遅れたらしい。
 マスクの隙間から驚いたような双眸が覗き、しかしそのときにはすでに、私は彼の腕を取っていた。
「っ、来ないで!」
「あァ!?」
 チンピラと変わらない怒声をあげる男を睨みつけ、精一杯威嚇する。
 私に向けられている視線はふたり分だ。ひとつは、他人が勝手に決めた婚約者の、苛立ちの滲んだ視線。そしてもうひとつは、隣からの、明らかに狼狽した様子の視線。
「こ、この人が私の恋人です! ずっと前から結婚するって、や、約束してるんだからッ!!」
 乱れた呼吸は、いまだ正常な状態には戻りきれていない。自暴自棄になって張った虚勢を前に、掴んだ腕の主が、あからさまにそれを強張らせた。
 困惑げに向かいの男女を見つめる、カジュアルな服装の茶髪男。見も知らない女に突如腕を取られた、風邪をひいていると思しきサラリーマン。初対面の男性の腕にしがみつきながら茶髪男を睨みつける、ドレッシーな服装の私……傍からは相当シュールに見えたのではないかと思う。
 触り慣れないスーツの生地の感触が、対峙している現実から私を遠ざけようとする。それを追い払おうと躍起になればなるほど、縋る腕にますます力がこもってしまう。
 もうどうにでもなれ。これまで生きてきた二十一年で、今日ほど投げやりな気持ちを抱いた日はなかった。
 沈黙が続く中、少しずつ、頭が冷静さを取り戻してくる。
 逃げきれればそれでいい、そう思ってこんな行動に打って出た。だが、もしかしたらひとりで逃げ続けていたほうがましだったのでは、といまさら後悔を覚える。
 ……無理だ。私こそが不審者だ。
 当然ながら、このサラリーマンは私の事情など露ほども知らない。目の前の軽薄男のことも知らないし、私と軽薄男の関係だって知らない。どう考えても、私に合わせてくれるわけがない。
 再び激しい眩暈に襲われた。だが、どうあってもこの軽薄男に捕まるわけにはいかない。
 初めて顔を合わせた直後のこの男の行動を、私はおそらく生涯忘れられない。
 婚約者と初めて会う日の装いとは思えない、カジュアルな普段着姿……友達と遊びにでも行くようなラフな格好をひと目見た瞬間、血の気が引いた。
 私の知らないところで勝手に進められていく縁談、いつの間にか婚約者になっていた相手との初めての対面。あまりに理不尽な状況を前に、これまでごく普通の大学生として暮らしてきた私が動揺せずに済むはずもない。
 きちんとした格好をしてきた私こそが場違いなのでは、と混乱した。ああいう場では、たとえ一瞬だろうと先に怯んだほうが弱者になる。
 品定めでもするように、頭の先からつま先までをじろじろと這ったこの男の視線を思い出し、気が滅入った。しかもそれだけでは終わらず、あろうことか、この軽薄男はそのままホテルの客室へ向かおうとしたのだ。
 一体、どういう教育を受けてきたらそういう言動が取れるのか。
 気持ち悪い。触るな、話しかけるな、近寄るな。限度を超えた嫌悪のせいで、もうそれしか考えられそうにない。
 ──なにがどう転んだとしても、この男だけは絶対に無理だ。
 助けてください、風邪っぴきのサラリーマンさん。助けてくれたらなんでもします、なんでも言うことを聞きますから……こんな奴に密室に連れ込まれてしまうくらいなら、そのほうが遥かにましだ。
 そんな私の無言の懇願を、流れていた沈黙ごと引き裂いたのは、残念ながら眼前の軽薄男だった。
「は……ええ? いや、だって……お前、なに言ってんの? そいつ普通にただの通りすがり……」
 ……動揺はしているらしい。一気に歯切れの悪くなった話し方を前に、しかし私の嫌悪感は少しも拭われない。
 目の前の男から露骨に視線を逸らした、そのときだった。
「……連れがなにか?」
 隣から聞こえてきた鼻声に、堪らず私は目を見開いた。
 下手に驚いてみせてはならない、それでは軽薄男にバレバレだ……この状況でよくそんなことを考えられたと思う。は、と口を開けたきり間抜け面を晒した軽薄男へ向け、私はなんとか声を絞り出す。
「ほら、……だから言ったでしょ」
 震えが声に表れてしまわないよう、神経を尖らせてそれだけを零す。
 途端に、軽薄男の顔が醜く歪んだ。
「は、とんでもねえ女だな。ふざけんな、テメーみてえな可愛げのねえ女なんかこっちから願い下げなんだよ、クソが!」
 減らず口を叩く男の顔を、とても直視してはいられない。
 深く俯いていると、軽薄男は分かりやすく声に笑いを滲ませた。
「後悔すんなよ? お前さ、多分大目玉なんてもんじゃ済まねえよ。佐橋さはしのおっさん、今回の話、めちゃめちゃ乗り気だったっぽいし」
 佐橋、という名が耳に届いた瞬間、背筋が凍りつく。
 大目玉──知らない。私の知ったことではない。指の震えを堪えるために、そこへ強く力を込める。
 結局、この道を選んだのは私自身だ。その結果、私に課せられた代償は、一生をかけても取り返せないほど大きなものになってしまった。
 捨て台詞を吐いて背を向けた軽薄男の、最後の言葉は聞き取れなかった。ただ、もう会いたくないと強く思う。二度と見たくなかった。男の顔も、私にこの道を選ばせた連中の顔も。
 このとき、私は一体どんな顔をしていたのか。
 一度は堪えたはずが、自分の指がカタカタ震えていると気づいたのは、触れていた腕が離れたそのときになってからだった。それが自分の意思ではなく、掴んだ腕の主によるものだと思い至り、私ははっと現実に引き戻される。
「そろそろ放していただけますか……ゴホッ!」
 わざとらしい咳払いではなく、明らかに苦しげだと分かる声を前に、私はようやく自分が窮地を抜け出したのだと気づく。それが、誰によってもたらされたのかについても。
 今度は、別の意味で血の気が引いた。
「っ、す、すみません……っ!!」
 放った声は、自分のものとは思いがたいくらい震えていた。やはり震えたきりの指先を強く握り締め、私は地面にうずくまりそうになったところをなんとか耐える。
 顔は直視できない。合わせる顔がない。自分の言動がどれだけ常識を欠いていたか、唐突に思い至る。
 早くまともな謝罪をしなければと、逼迫ひっぱくした頭を必死に巡らせる中、しかし返ってきたのは拍子抜けするほど平坦な声だった。
「いえ。では、私はこれで」
「あ、その、きゅ、急にとととととっととんでもない失礼を……!!」
 勢いのまま、腰を直角に折り曲げて謝罪する。どもり放題の声が恥ずかしくはあったが、そんなことを気にしていられる心境では到底なかった。
 対する相手は、私とは対照的に、どこまでも冷静な様子だ。ときおり零れるくしゃみや咳、そしてすさまじい鼻声以外は。
「いえ。余計なお世話かもしれませんが、さっきのあれ、度が過ぎるならきちんと相談すべきところに相談したほうがいいと思いま……はっくしゅん!!」
「あ……だ、大丈夫ですか?」
「ああ、失礼。ただの花粉症ですので。では」
 顔を上げ、おそるおそる尋ねた頃には、マスクのサラリーマンは私に背を向けていた。
 颯爽と去っていく──ときどき激しく咳き込んではいるものの──後ろ姿を、私はしばらく呆然と眺めていた。その背が、徐々に混雑し始めた駅前の人混みに紛れて見えなくなった頃、はっと我に返った。
 まだ軽薄男が近くにいるかもしれない。怒って去っていったように見えたが、確実に帰ったという証拠はない。
 ……今日は帰ろう。
 軽薄男の口ぶりから考えるなら、婚約は白紙になるだろう。願ったり叶ったりだ。とはいえ、私の懸念は毛ほども解消されていない。
『あなたは道具なの』
 冷たく言い放つ女の声を思い出し、思わず身震いしてしまう。
 にっこりと微笑んだ顔、その内側を流れる血液は、決して温かいとは限らない。それを私が思い知ったのは、退路を絶たれた後のこと。
 窮地に陥ったあの日、差し伸べられた手のひらを救済のそれだと鵜呑みにした自分が、とにかく憎くてならなかった。
 タイミングが良すぎる。話がうますぎる。もう少し冷静になれていたなら、その程度、簡単に思い至れたのではないか……いつも後悔に沈んでしまう。
 父親も、その妻も、私の結婚が決まるまで干渉を続けてくるに違いなかった。彼らにとって最良の形で私を利用し終えるまで、絶対に。
 背筋を伝った薄ら寒さを紛らわしつつ、俯けていた視線を上げる。
 やはり、今日は帰るべきだ。駅は利用しないほうがいい。タクシーを使えばいい。どうせ私の金ではないのだから、節約を考えるのも馬鹿馬鹿しかった。
 父の妻を経由せず、直接父に交渉すれば、まだ話が通じるかもしれない。明日にでも連絡役の人に伝えなければ。私ではあなたたちの役には立てない、と。
 きちんと就職して、自立して、私と母のために工面してもらったお金を返していこう。学費、生活費、母の医療費……一般企業に勤めて得られる稼ぎだけで、果たしてどこまでそれが叶うのかは分からない。だとしても。
 決意を胸に、私は一歩を踏み出した。
 先ほどのサラリーマン風の男性を思い返す。名前も訊けなかったけれど、親切にしてもらえて助かった。
 見ず知らずの小娘を相手に、よく助け舟を出そうと思ったものだ。
 しかも、見返りを求めるでもなく颯爽と去っていってしまった。もちろん、見返りなど求められても困るが。
『ただの花粉症ですので』
 風邪ではなかったんだな、と思う。どうかお大事に、とも。
 名前すら知らない恩人へ、心の中で深く感謝を重ねながら、私はその場を後にした。

   *

 九月中旬。今日、私はある企業で面接を受けることになっている。
 例の軽薄男との騒動直後、運良く求人案内を見つけ、急いで履歴書を用意した。大学四年の九月、この時期に、こんな複雑な心境で就職活動を再開しなければならないとは……数ヶ月前までは考えもしなかった。
 夏季休暇が始まる前には、希望していた企業から内定をもらっていた。急遽、それを断らなければならない状況に陥ったというだけで。
 ふたりきりで暮らしてきた母親が、急な病に倒れた──それが悪夢の始まりだった。
 倒れる十日ほど前から、母は少し頭痛があるとぼやいていて、休暇が始まった私も気に懸けていた。数日は「大丈夫だよ」と特に気にしていなかった様子で、けれどその日、母はくぐもった悲鳴をあげてキッチンで倒れた。
 そのとき私はたまたま家にいて、混乱しながらもなんとか救急車を呼んだ。
 搬送された母はまっすぐ手術室へ運ばれ、私はただ、病院のソファでひとり呆然としていた。
 幸い、母は一命を取り留めた。ところが、長期的な入院が必要になると告げられ、仕事を辞めなければならなくなってしまった。
 母が倒れて数日。私は落ち着きなど露ほども取り戻せていなくて、これからどうすればいいのか、誰を頼ればいいのか、とにかくそればかりで心臓が押し潰されそうになっていた気がする。
 母がこのまま目を覚まさなかったら、という根本的な不安。これからの生活はどうしたら、という経済的な問題。そして、もしかしたら大学を辞めて今すぐ働き始めなければならないのではという、目を逸らしたくなるような現実。
 何本ものチューブに繋がれた母の痛ましい姿を、じっと眺めている気には到底なれず、病室前のソファで頭を抱えていた。
 そのときだ。佐橋と名乗る夫妻が、私の前に現れたのは。
 黒のスーツに身を包んだ、人の好さそうな笑みを浮かべた中年の男性は、「自分は君の父親だ」と言った。隣の夫人も、すべて心得ているといった顔で、口元に浮かべた笑みを絶やすことなく佇んでいた。
 男性──実の父親は、佐橋謙太郎けんたろうと名乗った。夫人は律子りつこと。
 父は、何代か続く会社の社長を務めているという。今回の件には自分も心を痛めている、入院や治療にかかる費用は私が負担するから安心しなさい……そう告げられ、ソファにうずくまったきり、私はぽろぽろと泣いた。
『大学にも今まで通り通いなさい。生活の心配もしなくていい』
『金のことはなにも気にするな』
 ──ただし、ひとつ条件がある。
 顔を上げた私へ、父が提示した条件。それは、養子縁組の手続きを受けて佐橋家の娘となってほしいというものだった。
 示された提案を、私は二つ返事で了承し、佐橋夫妻は晴れやかに笑んだ。
 あまりにも嬉しそうに笑うふたりを見て、違和感を覚えたのは事実だ。父だけならまだしも、律子さんまで嬉しそうにしていることが、少々不可解だったからだ。
 母の医療費に関連する手続きよりも、私の養子縁組を優先させたがる、その性急さにも面食らった。だが、私には選択肢など残っていない。ほとんど流される形で同意し、署名し、捺印した。
 手続きのすべてが済み、正式に佐橋家の娘となったその日、父と律子さんの態度は手のひらを返すかのごとく百八十度変わった。
 父は私と顔を合わせなくなった。何度か足を運んだ佐橋の自宅にも、二度と足を踏み入れる必要はないと、人づてに伝えられた。
 その後、姓が変わったことに関する学校の手続きのためにやむを得ず佐橋家を訪ねたとき、たまたま律子さんと顔を合わせた。
 いや、合わせてしまった、と言うべきか……汚らわしいものを見る目で私を睨みつける彼女は、病院で私に笑みを向けていた律子さんとはもはや別人だった。
『今後の連絡には専用の人間をつけるわ』
『私たちとは顔を合わせないでほしいし、直接連絡を取ろうなんて思わないでね』
 そう言い放った律子さんは、勝ち誇った表情を浮かべていた。
 なにに対して勝ち誇っていたのか……あっさり私を手に入れられたことに対してだろうか。その答えを知ったのは、私が佐橋の娘として求められた本当の理由を知ってからだ。
 ふたりは、私を体のいい駒として使いたかったのだという。
 事業の糧になる親戚筋を確保するため、結婚という方法で新たな縁を築く道具として、二十歳を過ぎた私に白羽の矢が立ったのだと。
『あなたは道具なの』
『せいぜい役に立ってね』
 蔑みの滲んだ態度を、律子さんはもう隠そうとしなかった。
 多分、少し考えれば分かった。夫が他の女性との間にもうけた子供へ、不快感を抱かない女性はきっといない。母も私も、律子さんにとっては視界にも入れたくないほどに憎い存在でしかない……そんな簡単なことに、どうして考え至れなかったのか。
 自分の選択は誤りだった。
 差し伸べられた手を取った、それ自体が間違いだった。
『どうせすぐ結婚するのよ、そこに勤めるわけじゃないんだからいいじゃない』
 内定の辞退を強要されたとき、なんでもないといった調子でそう告げた律子さんが、恐ろしくて堪らなかった。
 母の医療費は肩代わりしてもらえた。大学にも通い続けられるよう、学費と生活費の工面もしてもらえた。だが。
 私は、選んではならない選択肢を選んでしまったのだ。
 人生においてそう何度もないだろう緊急事態を前に、絶対に選ぶべきではない最悪の選択肢を。

※この続きは製品版でお楽しみください。

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