【試し読み】高嶺の花、恋に落つ。~いびつな約束から始まる、私たちの不器用な恋~

作家:鞠坂小鞠
イラスト:よしざわ未菜子
レーベル:夢中文庫クリスタル
発売日:2021/12/24
販売価格:800円
あらすじ

社内では「高嶺の花」と囁かれる仁那。しかし、家ではよれよれのルームウェア姿、冷蔵庫の中はほぼアルコールと、私生活はかなり雑。ある日の残業中、不摂生が祟った仁那は眩暈を起こして動けなくなってしまう。そんな彼女に声をかけたのは、総務部の冴えない眼鏡男・四条だった。彼の配慮はありがたい。ありがたいが、まずい。あの部屋を見られたら私のイメージが崩壊する──仁那の焦りなど露知らず、四条は彼女を送り届け、ゴミ箱状態の部屋にも動じず介抱を始める。彼の行動を訝しみ、何が目的なのか問いただすと、「僕の言いなりになってくれませんか」──四条の言葉に身構える仁那。ところが、彼が求めてきたのは……生活習慣の改善?

登場人物
柚木仁那(ゆのきにな)
ブライダル関連企業に勤務。社内では「高嶺の花」と囁かれるが、実のところ私生活は雑で家事全般が苦手。
四条逢弥(しじょうおうや)
総務部在籍の事務社員。不摂生が祟り倒れかけた仁那を自宅まで送り、彼女の部屋の惨状を知る。料理が得意。
試し読み

プロローグ

 こんなつもりではなかった──この一ヶ月で、もう何度そう思ったか分からない。
 目が覚めた時点で、隣の人物の気配は察せていた。昨晩、相手となにをしたのかも思い出せている。
 静かに上体を起こす。途端に、袖口の伸びきった緩々のルームウェアが目に留まる。そういえば、寝る直前に自分で着た。
 ……寝る直前。そのときの記憶がすぐさま脳裏を巡り、堪らず私は頭を抱えた。
 隣の男はまだ寝ている。ベッドからそろりと抜け出し、脱衣所で着替えることにする。その場で、というのはさすがに気が引けた。途中で相手が目を覚ましたら……無理だ。気が気ではいられなくなる。
 着替えてから髪を整え、メイクも終わらせる。手早く済ませた分、もしかしたら普段より不格好かもしれない。だが、これ以上時間をかけてもいられなかった。
 脱衣所を一歩出た辺りから、廊下越しにぼんやりと主室を眺める。
 綺麗になったな、と思う。ひと月前とは大違いだ。あの頃、ここはワンルームまるごとほぼゴミ箱状態だった。
 小さく息をついて主室へ戻り、私は早々に鞄を手に取った。
 朝食は途中で買えばいい。朝食用のシリアルは元々常備しているし、それでなくても、最近は冷蔵庫の中身だって充実してきている。けれど、彼が眠る部屋と仕切りのないキッチンで、今ガチャガチャと音を立てるわけにもいかない。
 気が引ける……いや、違う。相手に今起きられたとして、どんな顔をすればいいのか分からない。分からないから、相手が寝ているうちに家を出ようとしているだけだ。
 予定よりもだいぶ早い時間だが、これ以外に手段が見つからない。
 部屋の中にはもう視線を向けず、そろりそろりと玄関へ足を向けた──そのときだった。
「起こしてくれて良かったのに」
 ぴしりと背筋が固まり、間を置かず、固まったその背を包み込むように抱かれた。
 息を詰め、私はその抱擁を受け入れる。愛用のものと同じシャンプーの香りが鼻を掠めると同時に、昨晩強く感じた彼自身の匂いもして、うまく息を吸い込めなくなる。
「今日、出社だったんですね」
「……うん」
 派手に上擦った声で、もう行くね、と続ける。
 それなのに、彼は頑なに私を放そうとしない。いくらなんでも時間的に早すぎるのではと咎めている、そんな仕種にも思えてしまう。
 堪えきれず、腹に巻きついた腕を剥がそうとしたその矢先、耳に熱っぽい吐息を感じ、私はますます動けなくなる。
「つらくないですか?」
「……なにが」
「身体」
 背後から私を抱き込んだまま、彼の長い指が下腹を辿った。スーツを着込んでいるはずが、直に肌をなぞられたときと同じ感覚に襲われ、頬がカッと熱くなる。
 ……正直を言えばつらい。
 痛みはないが、とにかく違和感が強く残っている。まだ中に彼が入っているような、そういう感覚が抜けない。
「……別に」
 こんなひどい声では、どんな否定を伝えたとして、なんの意味も成さないだろう。
 確かにそう思うのに、一度思い出してしまったら最後、情熱的に愛されては鳴いた記憶が生々しく再生を始める。自分の意思では止められそうになく、私は思わず口元に手を添えた。
 ──いけない。
 仕事の前だ。詳細は、できるだけ思い出したくない。
「っ、もういいから……放して」
 下腹を辿る指を引き剥がし、逃げるように靴を履く。
 ニナさん、と呼ばれても振り返らなかった。今の自分の顔を見られたくない。相手の顔も、きっと黙って見てなどいられない。茹で上がった頭がそればかりで満たされていく……だが。
 腕を引かれ、振り返らざるを得なくなる。
 あ、とバランスを崩した身体を支えられ、間を置かず唇を塞がれた。昨晩、数えきれないほど交わした口づけ──そのどれよりも熱っぽい気がして、きつく支えられているにもかかわらず腰が砕けそうになる。
 ようやく離れた唇と唇の間を銀糸が伝い、震える吐息が零れた。
 頭が朦朧とする、今にも気を失いそうになる──生まれて初めてそういうセックスをした。
 たったひと月前まで、隣の部署の空気のような男という認識しかなかった、この相手と。

第1話 恩は確かにあるものの

「ありがとうございます。それでは、明日の五時にお待ちしております、……はい、失礼いたします」
 通話が切れたことを確認してから、ゆっくりと受話器を置く。
 挙式を予定している女性客からの、ウエディングドレスの試着予約に関する電話だった。顧客情報をまとめたファイルをペラペラとめくりながら、花嫁衣装に対する相手側の意向を改めて確認しておく。
 卓上カレンダーに新しい予定を記入していると、またも自席の電話が鳴り出した。内線電話だ。資料をデスクへ置き、私は再び受話器を取る。
「はい。柚木ゆのきです」
『お疲れ様です。柚木さん宛てに、デザイナーの穂積ほづみさんからお電話が入ってます。外線二番です』
「はーい、了解です。……お電話代わりました、柚木です」
 切り替わる電話に応じながら、ふと時計に目を向けた。
 今日の昼休憩は、あれよあれよという間に午後三時になってしまった。確かに忙しくはある。とはいえ、捌ききれないほどかと訊かれればそこまででもない。このくらい忙しないほうが楽しい気さえする。
 ここ二、三年で、個人の美容師やデザイナーとのやり取りもだいぶ増えた。今電話がかかってきた穂積さんもそのひとりだ。
『ニナ、久しぶり。今お時間は大丈夫?』
「こんにちは、穂積さん。大丈夫ですよ、どうされました?」
『ええと、お願いしてた件なんだけど、そろそろ用意が整いそうでね。それで、先にあなたの予定を聞いておきたいな~と思って』
 軽やかな穂積さんの声を聞き、思わず頬が緩んだ。
 連絡を心待ちにしていた件だ。
「あ、完成されました? 嬉しい、すっごく楽しみにしてたんです!」
『ふふ、良かった。まだ最後の仕上げが残ってるんだけど……そうね、じゃあ来週のどこかで一度……』
 受話器を片手に再びカレンダーを手に取り、交わしたばかりの約束を新しく書き込む。スマートフォンのカレンダー機能でスケジュールを管理するよりも、こうして手書きで紙に記すほうが、私の場合は記憶にもよく残る。
 曜日と時間を復唱すると、穂積さんはふふ、とまた受話器越しに笑った。
『私も楽しみにしてるね。じゃあ、また』
「はい。失礼します」
 そっと受話器を置き、通話を終える。
 ……と、今度はフロント係から内線が入った。鳴りやまない電話を前に、苦笑が零れそうになる。
 時刻は午後四時三十分。予約客が来店したのだろうと思いつつ応じると、案の定、来客の連絡だった。
 今行きます、と手短に返事をした後、あらかじめ準備しておいたバインダーファイルを手に取り、私は自席から立ち上がった。

 柚木仁那にな。貸衣装店の老舗である当社に入社し、今年で六年目になる。
 ちょうど私が入社した年から、現社長が、海外や観光名所での挙式・写真撮影などを手がける企業との取引を開始した。その結果、事業の幅が大きく広がり、傾きかけていた業績もある程度持ち直していると聞く。
 私が在籍しているのは、本社の隣に建つ衣装店の本店だ。現在営業している店舗は、県内と近隣二県の計五店舗。来年の春にも、他県で新しい店がオープンする予定だ。
 従来の働き方から大きく変化した部分も多く、やり方が合わず退職を選んだスタッフも少なくなかった。けれど、私には合っていたみたいだ。
 六年目にもなると、個人の判断に委ねられる重要な仕事も数多く任されるようになる。プレッシャーはあるものの、今のところは楽しさのほうが勝っている状態だ。
 時刻は午後八時を回っている。
 自宅マンションの駐車場に車を停め、私は小さく息をついた。
『これからご一緒しませんか。ご馳走しますよ』
 帰り際、社員用の通用口を出たところで、本社の男性社員と鉢合わせた。にこやかに誘われたものの、丁重に断った。
 下心の透けて見える相手は苦手以外の何物でもないが、やんわりと断る術を身につけて久しい。八時間プラス残業分の仕事よりも、一分にも満たないそのやり取りのほうが、私に疲れを覚えさせる。つい溜息が零れてしまう。
 今の住まいは、職場からさほど離れていないエリアに建つ、ワンルームの賃貸マンションだ。オートロックのエントランスを抜け、階段を上り、三階の角部屋に辿り着く。
 鍵を開けてドアを開いた瞬間、はあ、と安堵の声が零れた。
「ただいまぁ」
 誰もいない部屋の中、無駄に声を張り上げる。
 ひとり暮らしを始めて、かれこれ八年あまり。誰もいないと分かっていても、なんとなく、実家で暮らしていた頃のように挨拶してしまう。
 歩いて通えない距離ではないが、退社時刻が遅くなればなるほど、どうしても危機感は高まる。遅くなる日も多い仕事だからこそ、私はずっと自家用車での通勤を続けている。
 都会とは呼びがたい地方都市だが、夜道まで安全だとは思わない。というより、そういうものには都会も田舎もきっと関係ない。
 ……なんにせよ、単身生活は気楽だ。都心の大学への進学を機にひとり暮らしを始め、卒業後は地元の近くまで戻ってきたけれど、実家には戻らなかった。
 理由は、ひとりのほうが気楽だから。そのひと言に尽きる。
「あ~~~~~疲れたァァァァ」
 夜分であることを気にしながらも、仕事上がりに腹の底から声を出すと気持ちがいい。
 だらだらと洗面所へ向かってメイクを落とし、シャワーを浴び、大学時代から着続けているよれよれのルームウェアに着替える。髪を乾かしてから、キッチンに常備しているシリアルを軽く掻き込んだ。
 食後にフェイスパックを手に取り、顔へ貼りつける。パックは好きだ。疲れた肌に、良質ななにかがじわっと染み込んでくる感覚を味わえるからだ。食事よりも遥かに良いものを吸収できている気分にさえなれる。
 パックを顔に貼りつけたまま、冷蔵庫のドアを開いた。
 中には食料などない。あるのは缶ビールと、缶酎ハイと、おつまみにつけるマヨネーズと……さっきシリアルにかけた分で牛乳がなくなってしまったから、ほぼそれだけだ。
 缶ビールを片手に主室へ戻り、プルタブを持ち上げ、ひと息に缶を傾ける。
 仕事上がりの一杯はやめられない。このなににも代えがたいひとときも、今の環境がなかったらきっと叶っていない。実家だったら、確実に母が悲鳴をあげるだろう。
 私の母は、彼女の世代の女性としては模範に当てはまるのだと思う。家事が得意で、特に料理が上手だ。日頃から、あれこれと手間暇をかけてはご馳走を作る。
 もちろん美味しい。けれど、結局のところ、母は私にも自分と同じようにできてほしいのだ。
 それを匂わせる視線が苦痛で、実家にはあまり帰れていない。ただでさえ苦痛に感じる家事全般の中で、料理は最も苦手な部類に入ってしまうから、余計に帰りにくかった。
 それよりなら、仕事のほうが断然好きだ。
 スケジュールは、すでに再来週まで隙間なく埋まっている。プレッシャーもあるにはあるが、やりがいがその先を行っている。
 お客様からの評価や評判は上々、上司や取引先との関係も良好。開催まで二ヶ月を切った店内イベント「新作コレクション」の企画係も担っている。日中に連絡があった穂積さんも、そちらへの展示を予定している新作ドレスに関する話を伝えてきたのだ。
 そういう部分に対する反動なのだと思う。
 こんなに頑張ってるのに、家でまで頑張る必要、ありますか──そう思ってしまう。どうしても。
「……別にいいよね、ちょっとくらい」
 ひとり呟いてから戸棚を開け、備蓄しておいたさきいかの小袋を手に取った。他人に覗かれたら中年かよとツッコミを受けてしまいそうだが、好きなのだから仕方がない。
 今夜はこれ以上なにも食べずに寝ようと思っていたのに、まったくもって意志が弱い。でも仕方がない。今日は頑張ったし、褒美のない生活なんて苦しいだけだ。
「えっへへ。いただきま~す」
 口に入れる直前、つい浮かれた声が出た。
 ふと、壁にかけたカレンダーへ視線を向ける。もうすぐ十月も終わりだ。夏から今まで、なんだかあっという間だった。
 秋は挙式・披露宴のシーズンだ。担当カップルの衣装の手配ももちろん手を抜けないし、来年以降に挙式を予定しているカップルも、これから続々来店するだろう。衣装合わせに、諸々の相談に、美容師やカメラマンの手配に……目まぐるしい日々の訪れを想像し、思わず口元が緩んだ。
 彼らの、一生に一度きりの晴れやかな一日へ、華やかな彩りを添える。
 ……悪くない。つまるところ、純粋に仕事が好きなのだ、私は。
 ふふ、と笑みを落とした後、半分まで中身の減ったビールを、ひと息に喉の奥へ流し込んだ。

   *

 ──しくじった。
 くらくらと揺れる視界に耐えられず、私はデスクに片肘をついた。
 週が明け、月曜。朝から続いている眩暈を、気にするほどではないだろうと甘く見ていたのがいけなかったらしい。
 定時で帰ろうか迷ったものの、今日中に済ませてしまいたい残務があったから残った。
 その選択が間違いだった……いや、朝の時点で不調を感じていたなら、早々に対処するべきだった。まだ大丈夫、まだ大丈夫、そう思っているうちにすっかり身動きが取れなくなってしまった。
 とにかく目が回る。瞼を閉じていないと吐きそうになる。
 吐きそう、といっても腹にはなにも入っていない。今日は朝からなにも食べていなかった。今朝、体重計に乗ったら一キロ弱増えていて、焦ったからだ。昼も食べていない。もちろん、夜も。
 この体調では、残務を終わらせるなど到底ままならない。明日には穂積さんとの約束も控えているのに……思わず舌打ちしたくなる。
 ここ一、二年は、不摂生が祟っていると実感せざるを得ない機会が激増していた。
 当然といえば当然かもしれないが、肌も内臓も、二十代前半の頃に比べて音を上げるのが明らかに早くなってきている。
 こんな職業に就いている身だ、美容には相当に神経を割いている。太りたくない、体型を維持したいという一心で、軽率に食事を抜いてしまう……入社当時からの悪癖だ。
 まずいな、と思った瞬間、一層眩暈が深まり──そのときだった。
「……あの」
 声が聞こえた。おそらく、左側から。
 顔を上げるのもひと苦労だ。耳に遠かった声を辿り、なんとか声の主に視線を定める。
 揺れる視界の中、朦朧としながらも、誰だったかなと記憶を巡らせる。
 顔はなんとなく覚えている。眼鏡をかけた、同年代の男性だ。三人いる総務スタッフのうちのひとり、冴えない感じの、……確か。
「……五条ごじょうさん……?」
四条しじょうです」
 ……だいぶ惜しい。
 目元を押さえたきりぼんやりそう思ったが、人の名前を間違えておいて惜しいもなにもない。彼からの内線電話だって何度も受けているはずなのに、申し訳なさでいっぱいになる。
 すみません、と白目を剥きそうになりつつ零すと、相手はそれどころではないだろうとばかりに眉を寄せた。
「いえ、……大丈夫ですか。顔、土みたいな色してます」
「土……?」
 土気色。青褪めている、といった次元ではすでにないということか。相当に危険な感じがするな、と他人事のように思う。
 改めて、弱った頭を無理に動かし、目を細めて相手を見つめた。
 総務の五条……ではなく、四条。下の名前は記憶にない。二、三年ほど前、中途採用で入社してきた人だった気はする。もしかしたら他の誰かと思い違いをしている可能性もあるから、言いきる自信はないが。
「帰れそうですか? タクシーを呼んだほうが良ければ呼びますが」
「……あ、お願いします……ありがとう」
 四条の声は落ち着いていて、流れるように問われたから、つい私も流れるように返してしまった。
 どのみち、残務をどうこう言っていられる余裕はない。チカチカと光の揺れる視界を片手で塞ぎながら、私は彼の申し出に純粋に感謝を覚えた。
 しんと静まり返ったフロア内、隣の総務部とはパーテーションで簡単に仕切られているだけだ。それ越しに、タクシー会社に連絡を入れていると思しき四条の低い声が聞こえてくる。
 社内には、もう私たちしか残っていないらしい。そのことにさえ気づけないほど弱っていたのかと思うと、薄ら寒さを覚えてしまう。
 以前は、少し座っていればある程度落ち着いたのに……今日はいつもより危ない状態にあるのかもしれない。
「もうすぐ着くそうです。歩けますか」
「……多分大丈夫です」
「立てます?」
「多分……」
 細かく尋ねてくる相手が少々煙たく思えてきて、謎の苛立ちを抱えながら立ち上がる。だが結局、間を置かずにデスクへ手をついてしまった。
 ……思った以上にひどい。相手もそれを察したらしく、掴まってください、と腕を差し伸べてくる。格好がつかないが、四の五の言っていられる状況ではない。おとなしく助けを借りることにした。
 荷物は、残業を始める前に、ロッカールームから持ってきておいた。鞄の取っ手を握り、介助を受ける病人よろしく、私は四条に腕を引かれて進んでいく。
「……あの、四条さんのお仕事は……」
「大丈夫です。ほとんどあなた待ちでした」
「……それは本当に申し訳ない……」
 周囲が碌に見えていないまま残務に向き合っていた自分が恥ずかしくなり、私は堪らず謝罪した。
 とはいっても、四条の声に嫌味っぽさはない。怒っている感じも、煙たがっている感じもなかった。どこまでも平坦な、プラスもマイナスもない印象の声色だ……芯の霞んだ頭で、そんなことをぼうっと思う。
 タクシーは、社員用通用口の前に停まっていた。
 通用口に手早く鍵をかけた四条は、またも私の腕を取り、タクシーまで引率してくれる。そして、ふらふらとした足取りで歩く私を乗せた後、彼もまた隣に乗り込んできた。
「送ります。途中で倒れられても困りますので」
「……ありがとうございます……」
 細い声を落とした後、私は再び瞼を片手で覆った。身体を動かしたせいか、嘔吐感は幾分か和らいでいるが、眩暈は一層深まっている。
 タクシーの運転手へ最低限の道順を伝えながら、黙って家への到着を待つ。
 ほどなくしてマンションに着き、財布を取り出そうと鞄を漁ったけれど、いかんせん手元が覚束ない。見かねた四条が「立て替えておきますね」と代金を支払ってくれた。なにもできない子供の頃に戻ってしまったみたいで、気が滅入った。
 タクシーを降り、また腕を引かれ、そこで私はようやくはっとした。

※この続きは製品版でお楽しみください。

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