【試し読み】幼馴染みを理想の夫に躾けようとしたら逆襲されました
あらすじ
「旦那様を躾ければ良いのよ。上手に、こちらの望みを聞いてくれるように」──とある事情から男嫌いで有名な伯爵令嬢のルルティアは縁談の全てを片っ端から拒否し続けてきた。しかし、ついに両親から「望む相手がいないなら縁談を進める」と言われ咄嗟に幼馴染みの名前を上げてしまう。爵位のない次男のジオレイドとの結婚を両親が許すはずもなく多少の時間稼ぎになるかも──と思った目論見とは裏腹に彼との婚約はトントン拍子に進んでしまう! 後戻りできなくなったルルティアは友人の言葉を思い出し、結婚するなら『理想の夫』としての振る舞いを彼に求めることにしたけれど……あれっ? これって私のほうが『理想の妻』に躾けられてない?
登場人物
アイヤード伯爵家の末娘。男性への苦手意識があり、許容できるのは幼馴染みのジオとごく限られた身内だけ。
グレイソン侯爵家の次男。赤銅色の髪が特徴的でルルティアの幼馴染み。正騎士として将来を期待されている。
試し読み
序章
結婚ってなんだろう。
周囲の夫婦や言い寄ってくる男性を見ていると、いつもそんな疑問が湧いてくる。
貴族の家に生まれたからには結婚は義務。家と家を結びつける婚姻はもっとも手っ取り早い契約だ。そんなことは判っているけれど、心のある人間同士が結婚するのだもの。
聖書や神話、あるいは物語に出てくるような素敵な恋をして結ばれたいって思うのは自然なことでしょう?
でも、私は男の人が嫌い。
傲慢で、乱暴で、自分達が一番偉いから何をしても良いと思っているみたいで。
物語に登場する、ただ一人の人を生涯愛し守り続けてくれるような、女性が理想とする旦那様なんてどこに埋もれているのやら。多くの男性は上品に微笑みながら、その笑顔の下でいつも女を馬鹿にしている。
どうせ女一人の力では生きられないだろう。
養って欲しければその足を開き、子を産み育てて家を守り、そして男のアクセサリーとしていつでも美しく微笑め。
どんなに優しそうな人でも心の中ではそう考えていそうで、男性の顔を見るだけで身震いがするようになってからしばらく経つ。
私、アイヤード伯爵家の末娘、ルルティアが男性に対して一方的な偏見と嫌悪に近い感情を抱くようになった最初のきっかけは、私のお父様だった。
一応娘として先に弁明しておくなら、私のお父様は決して悪い人間ではない。私を含めた三人の子供達に厳しくも優しい愛情を注いでくれる人物だ。
だけど私がまだ十を超えたばかりの幼い頃、お父様には懇意にする女性の家と、妻子が暮らす伯爵邸とを頻繁に行き来していた時期がある。
当時、愛人の元へ向かう夫の姿を見送りながら、お母様が涙を零している姿を何度も目にした。
「どうしてお父様はよその女の人のところへ行くの?」
きっとお母様は私がまだ何も判らないと思っていたんだろう。こんな質問をぶつけられて随分驚いたように目を丸くしたけれど、すぐに涙を拭い、懸命に微笑みながらこう言った。
「仕方ないの。男の人には、幾人かの女性が必要なこともあるのよ」
何が仕方ないのか、私にはさっぱり理解できなかった。
これで両親が心の通わない政略結婚だったというのならまだ納得もできる。でも両親は互いに望んで結ばれた恋愛結婚だったはず。
なのに、どうして「仕方ない」の言葉一つで簡単に裏切ることができるの?
愛の誓いがそんなに軽いものだとしたら、何だか嫌な感じだ。
それでもこのときは釈然としない思いを抱えながらもお母様がそう言うのなら、と無理矢理自分を納得させようとした。
大好きな両親を、嫌いにはなりたくなかったから。
でもそれからしばらくして、また私は目撃してしまう。今まで以上に泣いて夫に強く訴えるお母様の姿と、その妻を叱りつけて、縋る手を振り払おうとするお父様の姿を。
「どうかもう、あの方の元へ行くのは止めてください! どうしても無理だと仰るなら、どうぞ離縁してください!」
以前私には仕方ないと言っていたお母様なのに、やっぱり本心は違ったんだ。
後は言葉にならない様子で嗚咽を漏らすお母様の姿に、気がつくと私は二人の前へ飛び出し、お母様を庇うように縋り付いていた。
「お父様なんて大嫌い!」
後にも先にもお父様にそんな言葉をぶつけたのはこのときだけ。それから数ヶ月にわたって私は一言もお父様と口を利かないどころか目も合わせない日が続くことになる。
そうしたお母様の涙の訴えが応えたのか、あるいは幼い娘の拒絶が効いたのか。お父様が不貞行為をぴたりと止めたのはそれから間もなくの頃だった。
今でこそ両親は仲の良い夫婦として寄り添い、過去の出来事などなかったように振る舞っている。お母様も二度とお父様の過去の不貞行為について言及することはないし、私ももうあえて触れたりはしない。
複雑な気持ちはあれど結果的に両親がやり直す道を選んでくれたことにはホッとした。
けれど、お父様の行いを忘れたわけではない。
私の中で最初に男性への疑念の火が灯ったのはこのときだ。
これ以上何事もなければいずれは鎮火しただろう小さな炎。でもその火を更に大きくする出来事が起こる。
お爺様の誕生日を祝うために親戚や友人知人一同がこのアイヤード伯爵家の本邸に集まって開かれた祝賀パーティでのこと。
深夜まで騒ぐ大人達に付き合いきれず、一足先に広間から自分の部屋へと戻ろうとした。その途中で若い男性に呼び止められ、近くの空き部屋へと引っ張り込まれそうになったのだ。
男性からはぷん、と鼻を突くようなきついお酒の匂いがした。
抗えない強い力で突然襲われて、激しい恐怖に身が震え、助けを求めようとしても声が出なかったことを今でもはっきり覚えている。
当時私はまだ十二になったばかりだった。
身長が伸び、胸も膨らみ始め、少しずつ女性らしい成長を見せ始めていたけれど、まだまだ幼い、男性の欲望の対象となる年齢にはほど遠い子供だったのに。
幸いにして私の後を追ってきた幼馴染みの少年がすぐに気付き、助けてくれたおかげで大事に至ることはなかった。けれどその幼馴染みの腕の中で震えながら泣いた私の心に、異性への恐怖とさらなる嫌悪感を植え付けるには充分な出来事だった。
震えの収まらない私を抱き締めて、お母様はこう教えてくれた。
社交界では女性に対して不埒な行いをする男性がいる。だからこそ女性は、そうした男性の餌食にならぬよう、隙を見せずに貞淑に身を慎まなくてはならないって。
それを聞いて私は、しみじみと思ってしまった。
男とはこうも節操のない生き物なのだろうかと。いくらお酒に酔っていたとはいえ、年端もいかない子供にまで手をつけようとする行為を仕方ないと思うことなんてできない。
この時点で私が自分の身近にいることを許容できる異性は、危機を助けてくれた幼馴染みの少年を含めごく限られた身内だけになっていた。
それでも時が過ぎ、歳を重ねれば、私も結婚を意識しないわけにはいかない。
男性への苦手意識は相変わらず存在していたものの、きっと誠実な男性もいるはずだと自らを励まし、全く気が進まず渋々ながらもようやく重い腰を上げて、十六で社交界デビューしたけれど……そこで、また事件が起こった。
私の二つ年上のソフィーア姉様が婚約者から、突然婚約破棄を告げられたのだ。それも大勢の人がいる前で、姉様には何一つ責任のないことを理由に。
もう三ヶ月後には式を挙げる……そんな時期の出来事だった。
第一章 まんまと嵌められました
賑やかに笑いさざめく家族の声が聞こえる。
本格的な社交シーズンを二ヶ月後に控えた冬の終わり、領地にある我がアイヤード伯爵邸は喜びの声に包まれていた。
その声の中央に座し、私の両親や兄夫婦、叔父や叔母夫婦、従兄弟達などの親族に囲まれて、ひときわ幸せそうな笑顔を浮かべているのは、このアイヤード伯爵家の長女であり、現在は嫁いで人妻となった私の姉、ソフィーアとその夫のカートレイ伯爵だ。
姉様が結婚して今年の夏には三年になる。三年前の春に、突然の婚約破棄宣言で関係者を騒がせた姉様とその婚約者は、結局は予定どおり結婚式を挙げ、そのまま夫婦となった。
そして今、姉様の腕には新たな命が抱かれている。
今はその喜びを親戚一同で分かち合うための、ささやかな晩餐会を兼ねたお披露目会だ。
無事に結ばれ、子供にも恵まれた若い夫婦の姿は幸せをそのまま絵画にしたよう。
両親や兄を含めた人々が二人と新しい命を祝福している中で、なのに私が義兄となったカートレイ伯爵に向ける眼差しはかなり冷ややかだ。
あからさまな軽蔑の眼差しは、もちろんこのめでたい場には相応しくない。
幾度かハラハラとした様子でお母様や叔母様達に窘めるような無言の視線を向けられて私なりになんとか取り繕う努力はしたけれど、自然と滲み出てくる嫌悪感を隠しきることがどうしてもできなかった。
だって私はまだ、三年前のあの出来事を忘れていない。むしろどうしてみんな当時のことを忘れたように笑っていられるの?
でもいつまでもそう考えている私のほうがおかしいと言わんばかりのこの状況が、更に私の心を冷たく凍えさせていく。
その原因は、全てあの義兄にある。
姉様の夫であるカートレイ伯爵は、涼しげな切れ長の目と、その目元の泣きぼくろが色気のある、容姿端麗な青年だ。
人当たりも良く、いつもたくさんの人に囲まれているような社交的な人物で、しっかり者だけど少し内気な姉様を上手にリードしてくれるお似合いの男性。
……だと、当時は私も素直にそう思っていた。
でもあの婚約破棄騒動で全ての印象が覆された。
きっかけは小さな、くだらない噂だった。でもその噂はあれよあれよと大きく広がって、こちらが把握した頃にはあまりにも事実とかけ離れた、言いがかりとしか言えないものになっていた。
曰く、アイヤード伯爵令嬢ソフィーアは将来を約束した婚約者がいながら、他にも複数の男性とふしだらな関係を持っている身持ちの悪い女性である、と。
突然婚約者から呼び出しを受けて出向いた姉様がしばらくして暗い顔をしながら帰ってきたことがある。姉様は大丈夫だと気丈に笑っていたけれど、きっと噂は事実かときつく問いただされたのだろう。
当然姉様は否定したはずだし、そんな事実はないのだからすぐに解決すると思っていた。
でもカートレイ伯爵はそうやって姉様を問いただすだけでは満足しなかったらしい。その後幾度となく呼び出しを受け、そのたびに同じ質問を繰り返されて、次第に姉様は大丈夫だと取り繕って笑うことすらできなくなるほどに追い詰められていった。
そして極めつけがあの夜の舞踏会だ。
頑なに噂を否定する姉様の言葉を信じられず、嘘を吐いていると決めつけたカートレイ伯爵は大勢の人の前で姉様を糾弾し、そして婚約破棄を宣言したのだ。
必死に違うと訴える姉様の言葉に、耳も貸さずに。
結論から言って、全ての原因はカートレイ伯爵に想いを寄せた別の令嬢による狂言だった。つまりカートレイ伯爵は物の見事に性悪女の口先に騙されてしまったというわけだ。
あんまりだと思う。元々はあちらのほうから姉様を見初めて始まった交際だったのに、愛する女性の不名誉な噂を、どうして伯爵は否定することも、守ることもしてくれなかったのか。
糾弾の場となった舞踏会の会場には私も居合わせていた。そして姉様を責めるカートレイ伯爵の背後で、問題の令嬢がこっそりと浮かべた会心の笑みを、この目で確かに見た。
一般的に美人と称しても良いほどの美貌の持ち主のはずなのに、その歪んだ笑みを浮かべた令嬢の顔は、物語に出てくるどんな年老いた魔女よりも醜く感じた。
一方、どれほど否定しても、婚約者に全く信じてもらえない姉様の瞳から、とうとう絶望の涙が零れ落ちる。
私が見ていられたのはそこまでだ。それ以上は我慢ならないと、近くにいた給仕のトレイからシャンパンの入ったグラスを奪うように掴み取ろうと手を伸ばす。
その中身を伯爵のお綺麗な顔にぶちまけてやろうと思ったのだ。それで少しは頭を冷やせば良いって。
でもまるで私の行動を先読みしたかのように横合いから伸びてきた第三者の手に制止される。何をするのと声を上げる寸前で口を噤んだのは、そこにいたのが私の幼馴染みの青年だったからだ。
目が合うと、幼馴染みは私を宥めるようにシルバーグレイの目を細めてゆっくりと首を横に振る。
止めろと、そんなことをしても何一つ良いことはないと無言で告げる彼の表情に、私は唇を噛み締めて改めて姉様とカートレイ伯爵を見つめる。このまま大切な姉を侮辱されて黙って傍観なんてしていられない。
直後、怒りに満ちた瞳のまま二人の間に割って入った私に、カートレイ伯爵が一瞬気圧されたようにその顔を歪めた。でもそれは本当に一瞬だけ。すぐに苦々しい表情で告げた。
「……余計な口出しは止めてもらいたい。ルルティア、君には関係のない話だ」
「気安く私の名を呼ばないでください」
吐き捨てるように告げた私の、心底軽蔑した声音と言葉をカートレイ伯爵はどう感じただろう。姉様の婚約者として、いずれ義兄になるはずだったその人と私もそれ相応に親しい関係を築く努力はしているつもりだったし、彼も義妹として親しくしてくれていたはずだった。
姉様が嫁いだ後も、いつでも気軽に遊びに来て欲しいと朗らかに笑っていたあのときの言葉が嘘のよう。私ですらそう感じるのだから、婚約者の変貌に誰よりも衝撃を受けているのは姉様自身だと簡単に想像が付く。
それをよくも。
「私はそこにいるソフィーアの妹。いずれあなたの義妹となるはずだった者ですが、それでも無関係だと?」
私が関係ないというのなら、伯爵の後ろで醜く笑っている令嬢のほうはどうなんだ。
「姉様は違う、と何度も答えているはずです。それにもかかわらず婚約者の言葉は信じずに、それこそ部外者であるはずの他の女性の言葉は信じるのですね。あなたは姉様が不貞を犯したと責めるけれど、私からすればそちらの女性とあなたのほうがよっぽどただならぬ関係なのではと疑わしく思いますわ」
「何を……! 無礼がすぎるだろう!」
カッとカートレイ伯爵の表情が怒りで歪むのが判った。
彼の鋭い視線に、負けるものかと姉様を背に庇いながら両足を踏ん張る。内心周囲から注がれる視線と、正面から向けられる怒りの眼差しに、ドレスの内側で足が震える思いだった。
そのとき私と姉様の前に立ち塞がる人の背があった。
「……ジオ」
赤銅色の髪が特徴的なその人は先程、私の手を止めた幼馴染みだ。
名を呼ぶと彼は私達を振り返り、先程と同じく視線だけで会場の出入り口を促してくる。
姉様を連れてここから離れろと、そう言っているのだと判った。
確かに、姉様はいつ倒れてもおかしくないほど真っ青な顔色をしている。今ここで口論を続けても状況が改善することはなく、それどころか好奇心に満ちた人々の前で姉様が辱め続けられるのも耐えがたい。
「……幼馴染み殿が何か? ここで庇うということは、つまりそういうことですか?」
カートレイ伯爵は、ジオに対してもどこか威丈高に皮肉めいた言葉をぶつけてきた。
ジオことジオレイドとその兄セオドアのグレイソン侯爵家の兄弟が私達姉妹の幼馴染みであることはカートレイ伯爵も知っている。我がアイヤード伯爵家とグレイソン侯爵家は互いの父親が若い頃から親しい友人同士の、家ぐるみでの付き合いだ。
それを承知で、つまりそういうこととはどういう意味だろう。まさかジオが姉様の浮気相手の一人だとでも言いたいのか。
姉様だけでなく幼馴染みまでも下品な勘ぐりで侮辱されて、私の頭の中が真っ赤に染まる。怒りの感情のまま再び口を開こうとしたものの、まるで私の行動を察していたのか、ジオが私の言葉を制止するように小さく肩を竦めると、冷静に言葉を紡いだ。
「今のあなたには何を申し上げても無駄のようです。ですが信じる相手をお間違えになると、近い将来必ず後悔なさいますよ。二度と取り返しのつかないことになる前に、あなたが正気に戻られることを願っています」
それきりジオは表情を歪ませるカートレイ伯爵に背を向けて、私達を振り返った。
「ほら。帰るぞ」
「……姉様、歩ける?」
まだまだ言いたいことはあるけれど、これ以上はぐっと堪えて、今にも崩れ落ちそうな姉様を抱えるように助け起こした。
私達が会場の出入り口に向かって進むのに合わせて、人々が波のように割れていく。ジオが隣で庇うように歩いてくれたけれど、四方八方から突き刺さる好奇心という名のナイフのような人々の視線を防ぎきれるものではない。
やっとの思いでどうにか会場の外へ辿り着いたその途端、張り詰めた心の糸が切れたのか、ガクッと姉様の身体が傾ぐ。
もはや自力では歩けなくなった姉様をジオが横抱きに抱えて馬車に運び込み、共にアイヤード伯爵邸まで付き添ってくれた。
お陰で無事居心地の悪い場所から去ることができたけれど……ホッとするよりも、ただただ悔しい。
あんなにたくさんの人がいたのに、結局声を上げて私達姉妹を助けてくれたのはジオだけだった。同情的だったり批判的だったりする眼差しを向けてくる人もいたけれど、大半の人はまるで見世物を楽しむかのような悪趣味な好奇心に満ちあふれていたように感じる。
そんな人達の視線から一番姉様を守らなくてはならなかったはずの人が、守るどころか逆に責め立てて晒し者にしてくるなんて、一体どんな茶番だろう。
カートレイ伯爵は姉様の何を見ていたの?
姉様が何をしたって言うの。
姉様は少し臆病な、内気で控えめな性格の人だ。でも芯はしっかりとしていて、心優しく愛情深い。私が知る限り今までお付き合いしていた男性は伯爵一人だけで、とても複数の男性とふしだらな関係を持つことができるタイプではない。
なのに噂を信じたってことは、結局カートレイ伯爵は姉様のことを何も判っていなかったってことになる。
おまけにジオまであんなふうに言われるなんて。
激しい怒りと悔しさに奥歯を強く噛み締めながら、隣でしくしくと泣き出した姉様をぎゅっと抱き締める。零れそうになる涙を懸命に堪えた。
泣くな。今私が泣いたって仕方ない。
今一番辛いのは姉様だから、とにかく姉様の気持ちが落ち着くよう支えなくちゃ。
そう思いながら家に帰り着くまでの間、ずっとその背を擦り続ける。
私が全身から力を抜くことができたのは、無事に帰宅して、両親にことの成り行きを簡単に説明し姉様をお母様に任せた後のこと。
とぼとぼと一人、自分の部屋に戻ろうと廊下を歩くその先にジオがいた。
私達を屋敷に送り届けてくれたのに、そう言えばお礼の一つも言っていなかったと、潤み始めた目元にぐっと力を込めて、彼の元へ歩み寄ったそのとき。
ぽん、と私の頭を大きな手が撫でてくる。
よしよしとまるで小さな子供にするかのような仕草に、せっかく懸命に堪えていた私の涙の防波堤が決壊したように流れ落ちた。
ジオは何も言わなかった。
でも私が両手で顔を隠そうとするより先に彼の両腕が伸びて胸に抱き寄せられ、私が姉様にしたのと同じように、今度はジオが何度も私の背を撫でてくれる。
小さな頃からいつも私が隠れて泣いていると、どこからともなく現れて見つけ出し、傍にいてくれるのは彼だった。きっと今も姉様の見えないところで、私が一人で泣くと判っていたんだ。
姉様の婚約者は変わってしまったのに、昔と全然変わらないジオにどうしようもなくなって、結局私はそのまま胸を借りながら、わあわあと声を上げて泣いた。
泣きながら身を震わせる間中、私の背を大きく温かな手が擦る。それは私の涙が収まるまで、ずっと続けられたのだった。
その夜の出来事は私達姉妹の心に、確かに深い傷を残した。両親が伯爵の行いに眉を顰めつつも、姉様を責めるようなことはせずにそっとしておいてくれたことが唯一の救いだっただろうか。
そのまま粛々と婚約破棄の手続きが進むのだろうと思っていたのに、思いがけない方向に状況が変わったのは突然の婚約破棄宣言から一週間ほどが過ぎた後のこと。
カートレイ伯爵が屋敷へと訪れて、お父様とお母様、そして姉様に頭を下げたのだ。
曰く、自分が耳にした話は全て偽りであったと。姉様には何の落ち度もなく、全ては心ない罠に嵌められた結果のことだったのだと。
あの後、ジオだけでなく周囲の良識ある人々からも遠回しに諫められ、私達のお父様からも強い抗議を受けてようやく冷静さを取り戻したカートレイ伯爵は、改めて自分が耳にした噂の真偽を調べたらしい。
そして噂話や証拠として説明を受けていたものが何の裏付けもない、でっち上げられたものであると知ったという。
少し調べただけで判る嘘を、なぜ騒ぎにして大事にする前にきちんと調べなかったのかとお父様に指摘されて、カートレイ伯爵は項垂れるようにその肩を落とすとこう答えた。
「嫉妬で、我を忘れてしまいました」
と。
その場で同席し、伯爵の釈明を聞いた瞬間、カッと頭に血が上ってソファから立ち上がっていた。あと少し私の理性が足りなければきっと彼に掴みかかり、その頬を張り倒していただろう。
「帰って! 帰ってください、二度と姉様の前に現れないで!」
「待ちなさい、ルルティア! 落ち着きなさい!」
「何が嫉妬で我を忘れたよ! あんな大勢の人の前で姉様を辱めておいて、よくもそんな言葉を大まじめに口にできますね!?」
手を振り上げるのは何とか堪えても、感情を完全に抑え込むのは難しい。すっかり激情した怒りの感情のままに叫ぶ私をお母様が懸命に宥めようとするけれど、叩き付ける言葉は止まらなかった。
※この続きは製品版でお楽しみください。