【試し読み】寡黙なイケメン主任から甘く愛されまして
あらすじ
諦めてしまった夢にもう一度挑戦したい──大学卒業し就職したけれどハラスメントに遭い人間関係に疲れて退職した鹿野灯里は、学生の頃に追いかけていた絵本作家になる夢を叶えようと再び動き始める。しかし働かないことには生活もままならず、期間限定で派遣の仕事をすることに。派遣先で出会ったのは、寡黙だけれど灯里が困っているとさりげなく手を差し伸べてくれる主任・猪岡陽介。彼と触れ合い灯里はしばらく忘れていた恋心を自覚。芽生えた想いは止められず自然と惹かれあう。彼との時間は穏やかで心地よくて──「声を出せばいい。むしろ、もっと聞かせて」甘い囁きに蕩け、幸せ。けれど、職場で陽介を巻き込む事件が発生して……!?
登場人物
絵本作家になる夢を叶えるべく奮闘中。生活のために期間限定で派遣の仕事をすることに。
灯里の派遣先の主任。くせ毛に眼鏡の地味な雰囲気で口数も少なめだが、穏やかで優しい人物。
試し読み
第一章
夏の香りが鼻腔をくすぐる季節。
鹿野灯里は派遣登録会社が入っているビルを後にした。
暑い日射しの下、派遣登録会社から紹介された派遣先の仕事内容が記載された紙を見つめながら、ため息をつく。
ビルの前でぼんやりと立っていたが太陽がジリジリと肌を焼いてくるので、灯里は近くのカフェへ入り冷たいアイスティーを飲みながらスマホを取りだす。
登録した派遣会社のサイトにログインをして、自分が希望する条件を選択し絞り出された会社の情報を眺めながら、二度目のため息をつく。
「はあ……」
灯里は現在二十七歳、新卒で入社した中小企業を辞めてから半年ほどが経つ。
ブラックというほどひどい環境ではなかったが、軽いセクハラやパワハラは日常茶飯事だった。最終的に異動した先の同僚とうまくいかず、人間関係に疲れてしまい辞表を提出したのだ。
しばらくは働かなくても生きていけるぐらいの貯蓄があったので、のんびりと過ごし自分が何をやりたいのかを改めて考える日々を送っていた。
最初の一ヶ月は、多くのことからの開放感で自堕落に過ごし、次の一ヶ月は今まで仕事で忙しく、できなかったことをした。
部屋の掃除をしている最中、クローゼットの奥底にしまってあった段ボールをみつけた。封印でもしているかのようにガチガチにガムテープで止められている。いったいなにを入れていたのか確認するのに開けてみると、懐かしさと苦しさで胸が締め付けられた。
大好きだった絵本と、アイディアが詰まったスケッチブック、描きかけの絵本の下絵。
幼い頃の夢は絵本作家になることだった。そのために専門学校や美大へ行こうと考えていた。けれど、オープンキャンパスでみた数々の作品に圧倒され、周りと自分の実力の差を目の当たりにし挫折して、逃げるように普通の大学を受験したのだ。それに、嫌な思い出があったのも原因の一つだろう。
あの頃を思い出すと苦い記憶が蘇り、自分の弱さと向き合えなかったことに情けなさを感じる。
スケッチブックを一枚一枚めくって、いろいろな感情が蘇り、ああ、自分がやりたいことは結局これだったのだと再確認をした瞬間だった。
不思議と夢が夢なのは変わらない。いや、変われずにいるといったほうが正しいかもしれない。叶えようとしなかったから余計に諦められないのだ。
だから叶えるために足掻くことにした。
それからは、ただただ絵本作りに没頭した。
何枚も絵を描いて話を作り、公募に応募したが落選続き。
才能がないのだと、そのたびに思い知らされている。
心が折れるまでは頑張るつもりだが、現実問題として貯蓄が心許なくなってきている。減っていく預金残高をみるたびに吐きそうだ。そのため慌てて仕事をすることに決めた。
けれど普通に就職するのでは、自分がやりたいことに時間を割けない。
なので、短い期間決まった時間で働ける派遣に登録することにしたのだ。
朝から夕方まで、長くても半年ほど、できれば事務作業。だが、やはり事務の倍率は高いらしく、決まるまでに時間がかかる可能性があると派遣会社の担当者に助言された。
先ほど担当者から貰った派遣先の概要が書かれている紙をじっと見つめる。
事務ではないが、三ヶ月ほどの短い期間で大手企業での軽作業を紹介されたのだ。
地下倉庫での書類整理が主らしい。
軽作業だと身体を使うということだ。慣れない仕事なので、疲れてしまうだろう。それに、帰ってきてから絵本を制作する余力があるのかが心配だ。
かといって、まだ余裕があるとはいえ、あと少しでギリギリの生活になりそうな今。できるだけ早く派遣先が決まればありがたい。
あまり外に遊びに行かないし、友人と食事に頻繁に行くわけでもなかったので、それなりに貯金はあると思っていたが、仕事を辞めてからというもの、現実はそう甘くないのだと実感した。
ただ、生きているだけでお金というものは、なくなってしまうらしい。お金に羽が生えているとはよくいったものだ。
仕事を辞めて精神的なストレスは無くなったが、入るものがなければ生きてはいけない。最終手段として実家に帰るという選択肢があるにはあるが、できればその最終手段は使いたくない。
たまに実家に帰るだけでも、やれ恋人はいるのかやれ将来はどうするのかと五月蠅いというのに、戻れば結婚しろコールがひどくなることは目に見えている。
灯里の母は女性の幸せは結婚にあると考えている典型的な人だ。たしかに、母はそれで幸せを手に入れたのだろう。父のことが大好きだというのもわかっている。
けれど、灯里には現在好きな人はいない。そうなれば、きっと母が知り合いに声をかけてお見合いをさせられる。お見合いをして、あちらに角が立つなどいろいろと考えるのは億劫で仕方がない。正直一人でいるほうがよっぽど気楽だ。
家族以外の他人と一緒に暮らすビジョンを今は描けない。
社会人になってから、出会いはあったが付き合うまでに至らなかったし、なんだかんだと日々忙殺されていた。
なにより社内で出会いが無ければ、他では無い。
ただ、それをいいわけに使っている部分はある。
自分でどこかへ出かけるなり、外での出会いを増やすなりの努力をするべきだ。
けれど女性の幸せは結婚だけでは無いし、灯里自身はやりたいことがあるので他に割く余裕だってない。だからといって、ずっと一人でいたいわけでもない。
なんとも矛盾している感情だ。
誰かと一緒にいるのは億劫だと思いながら、この先ひとり孤独でいるのも嫌だと思っている。
こんな生産性のないことを考えてしまうのは、多くの心配ごとに神経をすり減らし始めているからだ。
心身共に余裕がないと、どんどん荒んでいく。
現在の灯里はそんな状況だった。
この先のことを考えると、希望とは多少外れるが三ヶ月という短い期間だけ。割り切ってこの仕事を受けるべきだ。灯里は提案された軽作業の会社に派遣で行くことを決めた。担当者に連絡をして、数日後には派遣先の会社含めた顔合わせをし無事採用が決まり、翌週の月曜日から働くことになった。
自分の状況と提示された希望とは少し違う仕事。譲歩をして決めたことではあるがとんとん拍子で仕事が決まったことはありがたいことだ。これで、しばらくはお金のことを心配しなくて済むようになる。
いい年をしてなにをしているんだと思われそうだが、会社で働いていた時よりも気持ちが圧倒的に楽なのは僥倖だ。
出社する前日の日曜日。
夜の九時にはベッドに潜った灯里は、ぼんやりと明日のことを考える。
明日からの仕事への不安、人間関係がどうなるか、いろいろと考えると憂鬱になるが、人と出会うことでなにかしらのインスピレーションが生まれるかもという期待もある。
とにかく、明日から頑張ろう。
そう自分に言い聞かせながら、瞼を閉じた。
第二章
セミの鳴き声が街中に響き、少し歩いただけで汗が滴り落ちる八月半ばの月曜日。
灯里は寝不足な頭で起き上がる。昨日は早めにベッドに入ったがなかなか寝付けなかった。生活リズムが仕事をしていた時とズレていたし、緊張していたせいでもある。
気持ちをすっきりさせるため、それに暑さで軽く汗をかいてしまったのでシャワーを浴び、軽く朝食をとってから着替えと化粧をすませた。
軽作業と言われているので、作業用に動きやすい服と化粧が落ちた時のためのメイク道具などを鞄の中に入れていく。
きっちりとしすぎないようなオフィスカジュアルに、低いヒールのパンプスを履いて外に出た。朝早い時間にこうして外に出るのは会社に通っていたとき以来だ。暑さで多少憂鬱になるものの、やはり気持ちがいい。朝の空気を感じながら、派遣先の会社へと向かう。
会社は、有名な大手企業だ。
きっちりとしたスーツの男性や、華やかな女性が会社のビルへと入っていく。その中に混じって、場違いな自分が会社に入るのは少し緊張する。
ビルに入り受付へと向かって、事前に聞いていた担当の人を呼んでもらう。
五分ほどでやってきた男性の後について地下に降り、そのまた奥へと向かう。薄暗いその場所はさまざまな書類の置き場となっているらしい。担当の人いわくもう使わないが念のために残している書類や、マーケティングに使うための書類、社外秘のものもあるという。
そんな書類の整理を派遣に頼むのはリスキーなのではないかと疑問が浮かぶ。
「あの、私派遣ですが社外秘の取り扱いはどうすれば……」
「社外秘で機密度が高いものは、社員が整理するから大丈夫だよ」
「わかりました」
軽い説明を受けてから、書類倉庫を取り仕切っている男性に引き合わされる。
「今日から三ヶ月、書類整理の手伝いをしてもらうことになった派遣の鹿野灯里さん。軽く説明はしたけど、詳しくはなにも伝えてないから。鹿野さん、この倉庫作業の主任の猪岡」
紹介された男性の背は大きく、標準身長である百五十五センチの灯里よりも三十センチほど高い。首を上にあげなければ彼の顔は直接見えない。
くせ毛のショートヘアに、黒い縁の眼鏡をかけている。長い前髪の隙間から、わずかに覗く切れ長な瞳はとても綺麗だ。薄い唇からは色気が漏れているように感じてしまう。
「どうも、猪岡陽介です」
耳に届くバリトンボイスに、灯里は息が少しだけ詰まる。
なぜだかわからず、灯里は首元を軽く指の腹で掻きながら意識して息を吐き出した。
「それじゃあ、あとはよろしく」
ここまで案内してくれた担当の男性は、さっさと立ち去っていく。
「こっち来てもらっていいですか?」
「はい」
陽介の後についていき、倉庫の出入り口付近にある扉から中に入ると、机や椅子にソファーが並び、他にも給水器やロッカーなどがあった。どうやら休憩室兼荷物置き場のようだ。地下だということもあってか、掃除はされているが少し埃っぽい。
汚いわけではないが、綺麗だとも言いがたい場所だ。
「軽作業って聞いてる?」
部屋の中を見渡していると、陽介に声をかけられる。
「はい、もちろんです」
「そう」
いったいなにが、〝そう〟なのかいまいちわからない。
「服のサイズ聞いてもいい? 女性用はS・M・Lがあるけど」
「Mサイズで大丈夫だと思います」
陽介がロッカーの上に手を伸ばす。その手を追うように視線をやると、そこには雑多に物が置かれていた。袋に入った作業着であるつなぎを手に取って渡してくれる。
「更衣室は上の階にある。俺は面倒くさいからロッカーの裏で着替えてる」
ロッカーの右隣には人が一人通れるほどの隙間があり、突っ張り棒でカーテンが引かれ奥が隠されるようになっている。裏を見させてもらうと、カーペットが敷かれていて着替えるだけであれば特に問題がなさそうだ。
「人が使ってる時はカーテンを引くっていうのがルール。基本俺しか使ってないから、カーテン引いておいてくれれば開けない」
「更衣室は何階なんですか?」
「四階」
少し思案をする。ここは地下一階で、一度四階に寄って着替えてから地下へと戻ってくるのは正直面倒くさい。それに、移動時間を含めて早めに来なければならないと考えると、ロッカーの裏で着替えるのも有りだ。
「とりあえず、今日は休憩室の鍵閉めて裏で着替えてもらってもいい? あと、ロッカーは右から二番目が空いてるからそこを使って」
「わかりました」
陽介が休憩室から出て行ったのを確認してから、扉の鍵を閉める。指示されたロッカーに荷物を置いて、その裏へと行き靴を脱いでカーテンを閉めた。簡易に作られたもので、狭い場所にあるせいか閉塞感がある。素早く着替えを済ませてロッカーに服をしまい、鍵を開ける。
「お待たせしました」
「大丈夫」
着替えを終えた灯里のことを陽介がじっと見つめてくる。いったいなんだろうか、灯里は首を傾げてみせた。
「靴、は自前なんだ」
「靴?」
そこで、自分が今日履いてきた踵の低いパンプスが目に入る。たしかに軽作業をするに当たっては、あまり合理的ではない。
「申し訳ないけど、用意してもらえる?」
「わかりました」
ずいぶん前に購入した運動靴があったはず。それを持ってくればいいだろう。そんなことを考えていると、女性の声が割って入ってくる。
「ちょっと、猪岡くん。それだと説明不足だと思うわよ」
作業着を着た五十代ぐらいの女性が、こちらにやってくる。
「こんにちは、蜂谷です。今日から派遣の子がくるって聞いて楽しみにしてたのよ。私も同じ派遣なの、よろしくね」
「よろしくお願いします」
「説明の補足なんだけど、ここ埃っぽいのもあって汚れやすいの。だから、汚れてもいいような運動靴を、ここに置いておくのがいいわよ。靴箱もあるし」
「そうなんですね」
汚れやすいということを考えると、たしかに蜂谷が言うように靴を置いておき、ここで履き替えたほうがいいだろう。どうせ着替えるのだし、そこまで手間でもない。
「蜂谷さん、あとで彼女に更衣室の使い方を教えてもらっていいですか」
「いいけど。やだ、もしかしてロッカーの裏で着替えたの?」
「はい、特に不便でもなかったので」
「もー、事前に説明しなかったのね」
蜂谷が少し怒ったように言葉を零し、話を続けようと口を開いたが陽介の声で遮られた。
「蜂谷さん」
「はいはい、戻るわよ。そんな困った顔しないでちょうだい」
彼女は肩をすくめて自分の作業へと戻っていく。
「話すのが好きな人だから、面倒くさかったら適当に切り上げて」
「はい」
「じゃあ、業務内容説明する」
簡単に言えば書類整理が主な作業だ。古い書類が適当に保管されており、ラベリングもなければ課が違うものも混じっている状態らしい。それらを整理しラベリングをして棚に入れる。
課によって、箱に入れて整理するか穴を開けてファイルに綴じて整理するかそれぞれ違うようだ。思っていた以上に大変な作業に、灯里は天井を軽く見上げた。
簡単な仕事はないし、単純作業ほど大変だということはわかっているつもりだったが、甘くみすぎていたかもしれない。だから、彼は灯里に軽作業だと聞いているのかと確認してきたのか。
倉庫内を一周して簡単に棚の区切りを教えてもらう。通路の床には、整理待ちの書類の箱が乱雑に並べられている。その場で整理すると人が通れなくなるので、倉庫の奥と真ん中に作業台が二つずつ置いてあり、そこで整理整頓の作業をするようだ。
奥の作業台は、先ほどの蜂谷が使用しているので、真ん中の作業台を灯里と陽介で使うと教えてもらう。
「社外秘は別にしてあるから、なにを見ても特に問題はない。ざっくり課では分けてあるし、通し番号がついているから書類が順番通りかを確認して、ファイルに整理するところから始めてください。わからなかったら聞いて」
「わかりました」
陽介に指示された棚の場所は、営業課のところだった。営業課なだけあって、積み上がっている箱の数はとても多い。
灯里は目の前にある大量の書類が入った箱を両手に抱え、真ん中にある作業台へと向かう。そこで書類を広げて分類し、ページの順番や上下逆さまになっているのを整えていく。正直中身をみても、どう分類すればいいのかわからないので逐一陽介に確認する。
質問や確認をするとき、正直緊張してしまう。
前の職場では、何度も確認すると「自分で考えて」とか「教えたでしょう」と言われてしまうので質問しづらく、メモを確認しながら進めていたが、それで間違えれば「どうして確認しなかったんだ」と怒られることもあった。けれど、陽介は気にしていないのか、初日だからなのかきちんと教えてくれる。怒鳴ることも、不機嫌な声を出すこともない。
それだけで、灯里としては安心する。
できるだけ何度も同じことを確認しないように気をつけるし、メモだって取る。たった三ヶ月ではあるが迷惑をかけないようにしたい。
慣れない作業に戸惑いながらも頑張っていると、陽介に肩を叩かれる。
「お昼」
「あ、もうそんな時間ですか?」
「うん、一応規定で十二時にとることになっているんだ。近くにコンビニがあるからそこで買って休憩室でとるのでもいいし、どこかで食べてくるのでもいいよ。一応、上の階に食堂もあるから」
「わかりました」
陽介と共に休憩室に戻り、財布を手に取ってコンビニへと向かう。
コンビニでお弁当を買って戻ると、陽介と蜂谷とは別にもう一人男性がいた。
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