【試し読み】染めて、混ざって、愛されて。~御曹司はかりそめ妻のすべてが欲しい~

作家:櫻日ゆら
イラスト:緒笠原くえん
レーベル:夢中文庫セレナイト
発売日:2021/11/5
販売価格:700円
あらすじ

「これで、少しは俺を意識してくれるかな」――老舗呉服店の一人娘である茉白は、ある日父が祖母の形見を売ってしまった事で実家の深刻な経営難を知る。思い出が詰まった懐中時計だけは取り戻したいと焦る茉白の前に現れたのは、久住グループの御曹司・斗真。彼は、時計を買い戻す代わりに結婚してほしいと契約を持ち掛けてきた。しかも実家の経営も助けてくれると聞き、茉白は結婚を即決。契約結婚ながら優しい彼に安心感を抱いていく茉白だったが――斗真は「君と本当の夫婦になりたい」と告げ、突然口づけてきた! 「離す気はない」と独占欲をにじませてくる斗真に、茉白は真意が分からず戸惑いながらも惹かれていってしまい……?

登場人物
秋月茉白(あきづきましろ)
老舗呉服店の一人娘。倒産寸前の実家を救い、祖母の形見を取り戻すために斗真と契約結婚する。
久住斗真(くずみとうま)
世界的に有名な大企業の御曹司。時計を買い戻すことを条件に茉白に契約結婚を提案する。
試し読み

自分の未来よりも

「おじいちゃん、おばあちゃん。おはよう。行ってきます」
 毎日のお供えを終えた私は、お仏壇の前へ正座し、並ぶ祖父と祖母の写真に向けて手を合わせた。
 久しぶりに祖母が好きだった白檀びゃくだんの香りがする線香をあげてみたけれど、やはり祖母の存在を如実に思い出して恋しい気持ちが胸に込み上げてくる。
 祖母は、夏になるといつも扇子に白檀の香りを炊き込めていた。私にとってこのほかのなににもたとえ難い優しさを含んだ甘い香りは、祖母の匂いだった。
 祖母が亡くなってもう二年も経つのか。早いな。
 穏やかな面持ちで写る祖母の写真をしばらく見つめた私は、ろうそくの灯を消して立ち上がる。この部屋は祖母が生前使っていた部屋で、祖母が亡くなってからも私や母が定期的に手入れをしてそのままの状態にしてあった。
 六人用の座卓に、嫁入り道具で持ってきたと言っていた桐箪笥きりだんす。そして、部屋のいたるところには骨董品こっとうひんが置かれていた。
 骨董品集めは、私が生まれるとほぼ同時期に亡くなってしまった祖父の趣味だったらしい。
 祖母はよく、『私はあまり興味なかったけど、おじいさんが大切にしていたものだからどうしても手放せないわね』と懐かしむように言っていたっけ。
 私は桐箪笥の一番上の段から手のひらサイズの箱を取り出した。その古びた木製の箱を開けると、中には金の懐中時計が入っている。
 わずかに日に焼けセピア色になった文字盤をガラスの上からそっと撫で、私は箱を箪笥の中へと戻して部屋を出た。
 澄み切った明け方の光に照らされ、眩しさに一瞬目を細める。六月に入ったばかりの初夏の風は爽やかで、微かに水と緑の匂いがした。
「今日も頑張るぞ」
 心地よさにひとりつぶやいた私は、肩より少し伸びた栗色の髪をうしろでひとつに束ねながら庭に面した廊下を歩いた。
「お母さん、おはよう。あれ、お父さんは?」
「あぁ、茉白ましろ。おはよう。お父さんならもう工房へ行ったわよ」
「そうなの?」
 時刻はまだ五時を回ったばかり。今日はいつもより一時間も早く目が覚めたから、お父さんもまだ家にいると思っていたのに。今はとくに急ぎの仕事もなかったはずなんだけれどな。
 朝食を急いで済ませた私は、半そでの白いTシャツの上に薄手のカーディガンを羽織り、ラフなシルエットの黒いパンツのポケットにスマートフォンをねじ込んだ。
 家を出て徒歩三分ほどのところで、通りに面した切妻・平入りの町屋建築の建物が覗く。二階は全面格子状で、出入り口の上にある大きな一枚板の看板には、『あきづき染物店そめものてん』と書かれていた。
 私はいつも通りその建物の裏口から中へ入る。すぐに作業台に向かう父のうしろ姿を見つけ、私はその背中に声をかけた。
「お父さん。おはよう」
「茉白か。おはよう」
 顔だけ振り返った父が言う。
 壁際にあるテーブルに荷物と脱いだカーディガンを置いた私は、父の手もとを軽く覗き込み、小首を傾げた。
 ずいぶん早くに家を出たと聞いたからなにか作業をしているのかと思ったんだけれど、違ったのか。
 父の作業台には染色に使用する道具がずらりと並んでいた。
 道具の手入れはだいたい仕事を終えて夜に行うのに、今日はどうしたのだろう。
 いささか不思議に思いながらも、私は丸椅子を手に父のもとへ行き、隣に置いて腰を下ろす。
「私も手伝うよ」
 そう言ってまだ手入れを終えていなさそうな道具に伸ばした私の手を、父が制止した。
「これはいい。お前は自分の作業の続きをしてろ」
 ぽつりと言い放つ父に私は内心戸惑いつつも、「……はい」と返して普段自分が使っている、父とは背中合わせになるよう配置された作業台の前へと移動する。
 私の父──秋月あきづき一青いっせいは、この染物店とこの店の隣にある建物、『あきづき呉服店ごふくてん』という老舗呉服店の四代目だ。
 あきづきの跡取りに生まれた父が、染色家としてこの工房でたくさんのものを創り上げてきた。
 店や工房とともに創業時から受け継いできた伝統を後世に伝えていきたいと考えてきた父は、いわゆる職人気質で無愛想な堅物人間。
 接客にはあまり向かないタイプなので、呉服店には母が立っている。父は工房にいることがほとんどだった。
 しかし、父はお客様の要望にひとつでも多く応えるため、染色家の修行を終えてから二十年以上経った今でも日々新しいことに挑戦し続けている。よりたくさんの技法、染料、生地を扱えるようこだわりを持って努力していた。
 祖母はそんな忙しい両親に変わり、いつも私の面倒を見てくれていた。
 幼少期の私は、両親よりも祖母と過ごした時間のほうが圧倒的に長いと思う。祖母自身も店に立つかたわらで、私の学校のイベントがあるときには必ず参加してくれた。
 ときに工房にも入れてくれて、父が働いているところを見学させてくれたりもしたな。
 筆を走らせている父の職人の手つきを目にし、感嘆の声を放つ私にあるとき祖母が言っていた。
『茉白。伝統は守るものじゃない。たしかに技術は誰かが繋げていかなきゃならない。それをやめてしまったら、こんなに素晴らしくても過去になってしまう。それは寂しい。でも、本当にいいものは残るんだよ。自力で残るから伝統なんだ』
 その言葉は、幼かった私の心に深く刻まれた。
 そして、そんな祖母や両親の背中を見てきた私は、いつしか父たちがさらに磨き上げてきたものを絶やしたくないと思うようになっていた。
 幼い頃から店の手伝いをし、生地や染色技法について覚え、大学を卒業してからようやく本格的に父のもとで染色の修行をすることを許された私も、現在二十六歳。
 修行も四年目とはいえ、お客様に商品を提供するにはまだまだ技術が足りない。
 それに九時から十八時半までは呉服店で社員として働いているので、修行は仕事の時間以外に行っていた。
 だいたい六時に起きて工房に寄り、店での仕事を終え、余裕があるときは店を閉めてから再びここへ戻ってくる。
 染色の作業は重いものを運んだり、火の番で夏は大量の汗をかく。染料の処理などで肉体労働も多く大変なことも多いけれど、不思議と生地と向き合っているときは無心になれて、私は染色の仕事が大好きだった。
 いつか一人前の染色家になれたら、その姿を祖母にも見せたかったな。
 祖母は二年前、突然倒れてそのまま亡くなってしまったから、感謝の気持ちなど言いたいことはほとんど伝えられなかった。
 せめて早く成長して、祖母には天国で安心してほしい。
 私は気合を入れなおし、作業台の上にあった藍染めのエプロンを手に取った。

「おはようございます、社長。あの、銀行からお電話だと奥様から」
 私が工房に来て二時間以上経った頃、ワイシャツに黒いスラックス姿の男性が、電話の子機を手にひょっこりと工房へ顔を出した。
 あ、安吾あんごだ。
「……わかった。安吾、少し出てくるからここを頼む」
 男性から電話の子機を受け取った父は、そう告げて男性と入れ替わりに工房をあとにする。父のうしろ影が見えなくなると、ふいに男性と視線がぶつかった。
「茉白。おはよう」とこちらに薄い笑みを浮かべる男性に、私も「おはよう」と返す。
 たとえひとときでも父から工房を任されるこの男性は、木崎きざき安吾。身内以外で唯一のあきづきの社員だ。
 安吾との出会いは少し変わっていて、十五年ほど前、当時高校を卒業して専門学生になったばかりの彼は、ある日突然店にやって来てうちで働きたいと父に直談判した。
 うちは代々一族経営の小さな呉服店で、社員も祖母に父と母がいれば十分。募集は出していなかった。
 父はそう説明し、加えて学生のアルバイトは取れないと断っていたのだけれど、祖父の影響で織物、染物に興味を持ったという安吾も引かなかった。
 最後には『お金もいりません! 幼い頃から祖父と何度かここを訪れて、絶対にあきづきさんで学びたいと思っていたんです。お願いします』と深々と頭を上げたまま動かなくなり、そんな安吾に父が折れた。
 そして、父の教えにより週の半分は店に立って実際にお客様の声を聞き、残りの半分は父のもとで染色を学んでいた安吾は、伝統工芸を学べる専門学校の染色コースを卒業後、そのままうちへ就職した。
 今になっては、織物に対して深い情熱を持つ安吾を父もとても信頼しているはずだ。
 口数は多くないので具体的に思いを聞いた記憶はないけれど、自分の技術を教えているときの父はわが子へ接するようにときに厳しく、ときに穏やかな優しさを見せる。そもそも信頼していなければ、先ほどのように頼む、なんて言えないよね。
 私も同じ世界に夢を抱く人間が身近にいるのは嬉しかった。
 七個も年上の安吾に昔はよく遊んでもらったりもしたし、染色に携わるようになってからは先輩としてよく相談にも乗ってもらっていた。
 私にとって安吾は、他人ながら限りなく身内に近い、兄のような存在かもしれない。
「あ、安吾。髪」
 店に立つ日は軽くセットする安吾の前髪が額にひと筋垂れているのに気がつき、私は茶色のそれをすくってさっと整える。
「垂れてた」
 私が言うと、安吾は「おう。サンキュー」と鼻にシワを寄せて笑った。
「最近お父さん、頻繁に銀行の人と電話してるよね」
 私の言葉に、安吾の眉が一瞬ピクリと跳ねる。
「そうだな」と答えた安吾は、侘しげな表情を浮かべていた。
 父と母は私たちに隠しているけれど、店の経営はあまり上手くいっていないのだと思う。
 今朝のように父のところへ銀行から電話があったり、父や母が私たちに隠れて深刻そうに話していたり、同じ店にいるとそんな場面などを何度か偶然目にする機会はあった。
 互いに口には出さないけれど、私も安吾も店の状況がよくないのはなんとなく理解している。日本人の着物離れが加速している今、国内の老舗呉服店自体が年々減少し続けているのだ。
 少し前に和装がプチブームになっていたりもしたが、今は海外から輸入された化学染料を使用し、低コストで量産された着物などがリーズナブルな価格で手に入る。
 うちのように天然染料を使用して職人の手でひとつひとつ創り上げていく伝統的な染物店はどうしても価格もそれなりに高価になってしまうので、昨今経営においては難しい面があった。
 もちろん化学染料を使った生地は、鮮やかな色が出て保存もしやすいとメリットもたくさんある。
 しかし、価格は高くとも、草木で染めた生地は同じやり方をしてもひとつとして同じものにはならないし、重ねるたびに色が変わっていくところや、手作業ゆえの奥深さが私は好きなんだけどな……。
 私は作業台と反対の壁際に横に三つ並ぶ大鍋のほうへ向かい、大鍋のそばに置いたかめの前へとしゃがみ込む。
「藍染めか」
 背後から声をかけられて振り返ると、安吾はネクタイの先を胸ポケットに突っ込み、ワイシャツの袖をまくりながら私の手もとを覗き込んできた。
「うん。最近藍色の段階を勉強してて」
 言い終えた私は、甕から黄土色に染まった布を上げる。不思議なものでこの黄土色の布が空気に触れると酸化して緑色になり、水洗いにより藍色へ発色していくのだ。
 藍染めの原料であるダテ藍は、日本最古の染料と言われている。
 その色素は不溶性で、ほかの染料植物のように煮ても色素は取り出せない。そこで甕などに入れて発酵させたり、特別な薬剤を用いたりして藍液を作る必要があった。
『藍を建てる』という作業だ。ほかの染料を合わせることでも様々な色を表現できるので、藍は下染めにも多く使用されていた。
 子供の頃、初めて藍染めの工程を見たときはびっくりしたな。こうしてあとにならないと色が変化しないから、藍染めは濃淡の調整が難しい色のひとつだ。
 だが、それゆえに思っている色が表現できたときはものすごく嬉しいし、やりがいがあって楽しい。こういう楽しさや奥深さをもっと広めていければいいのにな。
 少し前に若い人の目に触れる機会が増えればと思ってホームページやSNSも活用してみたけれど、やはりうちの価格帯じゃ若い世代ではなかなか手が出るものでもなく、反応もほとんどなかった。
 かと言って化学染料を使って価格を下げた商品を置くのは、伝統を重んじるあきづきのやり方を大切にしている父も首を縦に振らないだろう。
 この店を大切に思っている両親のため、うちの技術や織物に対する思いに惚れ込んでくれている安吾のため、そしてなにより女手ひとつでこの店を守り抜いた祖母のためにも、私もどうにかあきづきを守っていきたかった。
 最悪の事態になる前に、もっと私にできることはないだろうか。
 そうだ。家の空き部屋を使って、着物の着付け教室でも開いたらどうかな。この時期だと浴衣を着る機会もあるし、実は和服を着てみたいけれど着られないだけという人も多いかもしれない。
 もしかするとこれがきっかけで和服に親しみを持ってもらえる可能性もあるよね。すぐに経営難を解決できるような案でなくとも、悪い話ではないと思う。今夜一度いろいろと調べてみて、実現できそうならお父さんに相談してみよう。
 胸に微かな期待が生じた私は、水洗いした布を干し、そろそろ呉服店へ出勤する時間だと手首まで藍色に染まってしまった手を洗う。
 手についた石鹸を流し終え、視界に飛び込んできた自分の爪を見てはっとした。
 考え事をしていたせいで手袋するのを忘れてた……。藍はたんぱく質をよく染める性質を持っているから、爪などにつくとなかなか取れないのに。
 爪はすべて藍色に染まっていた。こんなミスをしでかしたのは久しぶりだ。
 凄まじく血色が悪くなった私の爪を見て、安吾も笑っていた。

 私は来店した常連のお客様の接客を終え、お見送りをして店内に戻ってきた。
 ふと窓から隣の染物店を眺める。呉服店からは、工房の中がよく見えた。
 しかし、作業台に向かう安吾の姿は確認できても、どこにも父の姿がなかった。
 お父さん。まだ戻ってきてないの? もうお昼近いのに。
 疑問に思い、レジにいた母に声をかけた。
「お母さん。お父さん、まだ戻ってきてないみたいだけどどこへ出かけたの?」
 私の問いかけに、母は「えっ?」と上擦った声を上げて動揺を覗かせる。
 いつも明るい母の様子までおかしい。母は嘘がつけない性格なので、隠し事をしているときはすぐにわかった。
 私の胸に急な不安が押し寄せる。
 呉服店の開店準備が終わりしばらくして私が工房へ様子を見にいったとき、安吾は父から『悪い。もう少し頼む』と電話があったと言っていた。
 うちは要望があればお客様宅へ商品の販売や完成した商品のお届けも行っているが、それも主に母が担当していて、普段父が工房を長時間離れることなどなかった。
 なにかあったのかな。
「お母さん」
 迫るような眼差しを母に向けると、母の瞳が揺れる。
「なにかあるなら話して」
 私が問いただすと、母は一度唇を結んでからおもむろに口を開いた。
「……お父さんは、『藤光堂ふじみつどう』さんへ行ったわ」
「『藤光堂』さん?」
『藤光堂』とは、うちからそれほど離れていない場所にある古美術店だ。
 骨董品好きの祖父と『藤光堂』の主人の江口えぐちさんが懇意な間柄だったので、私も祖母に連れられて幼い頃から何度も店を訪れた覚えがあった。
 同じ街で商売をやっていることもあり、私の両親も江口さんをよく知っている。しかし、父が仕事中にわざわざ『藤光堂』に行く理由なんてないんじゃ……。
 戸惑いながら思考を回転させていた私の脳裏に、ある映像が浮かぶ。
 まさか……。
 ぞわりと足もとが冷たくなった私は、店を飛び出して自宅に向かい走った。母が私を引き留める声が聞こえてきた気がしたけれど止まれなかった。
 私は制服のワイシャツの上に着ている黒のベストから自宅の鍵を取り出し、玄関の鍵を開錠する。慌てているせいでうまく鍵が回らず手間取った。
 引き戸を破るように押し開けた瞬間、目的の部屋まで一直線に廊下を駆け抜ける。
 目的の部屋が見えてきて、私はその部屋の障子を思い切り引いた。ぴしゃりと大きな音がしたと同時に、視界に飛び込んできた光景に絶句する。
 ない。
 藤光堂の名前を聞き、決して当たらないでほしいと願いながらここへ来た私は愕然とした。
 今朝も訪れたばかりの祖父母の部屋から骨董品がすべて消えていた。
「そうだ。あの時計!」
 はっとした私は一目散に部屋の奥にある桐箪笥へ駆け寄り、一番上の引き出しを開けた。しかし、今朝仕舞ったはずの場所に、懐中時計の入った木製の箱はない。
「ない。なんでないの……」
 私は悲鳴に似た声を上げた。
 数時間前までたしかにここにあったのに。
 突然の出来事に、目の前が真っ白になった。そんなとき、引き出しを抱えるようにして動けなくなっていた私の背後で、廊下の床板がギッと軋む音がする。
 勢いよく振り返ると、そこには驚きの表情で立ち尽くしている父の姿があった。

※この続きは製品版でお楽しみください。

関連記事一覧

テキストのコピーはできません。