【試し読み】僕の天使が尊すぎて……無理!~拗らせ天才魔術師の盲愛衝動~
あらすじ
娼婦デビューを控えた旅芸人のネメシアは、野盗に襲われ逃げ込んだ森の中で、美しき青年魔術師ルカに助けを求める。彼が対価として求めたのは、おかしな呪いを絶つための『夜のお相手』!?――が、最初こそ傲慢だった彼は、いざベッドに入ると戸惑いテンパり、泣き言さえ吐きだす始末! それでも無事?夜を過ごしたが――ネメシアが『初めて』だった事に気づいたルカは、顔面蒼白で土下座する。しかも呪いは解けておらず、結果再び肌を重ねる事になるが……「ふふ……ネメシア、可愛い。顔、見せて」自他共に認めるルカの研究熱心さと天才的な器用さで磨かれていく手練手管に、ネメシアは散々甘く鳴かされることに……!?
登場人物
旅芸人一座の踊り子。野盗に襲われそうになったところをルカに助けられる。
魔術師。自らにかけられた呪いを解く為にネメシアに『夜のお相手』を要求する。
試し読み
一、出逢いは突然に─ネメシア─
一体、どうしてこんな事になったんだろう。
濃い緑の匂いと、獣の気配を感じる中、私は慣れない薄闇の森の中を駆けていた。
一際強い熱風と野盗の怒声に追い立てられ、足は止めず、背後を振り返る。
その拍子にフードから飛び出したピンクゴールドの長い髪が、薄暗い森の中だというのに目立つ気がして慌ててひっ掴んで中にしまい込んだ。だけど、そんな余計な事をしたせいで、バランスを崩して木の根っこに躓き、思いきり転んでしまう。
「いったぁ……!」
思わず叫んで蹲って熱い足首を押さえる。どうやら足を捻ってしまったらしい。
ああっもう最悪!
もう少し森の奥に逃げる予定だったけれど、こうなれば仕方がない。私は痛む足を引きずって、近くの大きな木の陰に小さくなって身を潜めた。荒い息を何とか落ち着かせようと、胸をぎゅっと押さえる。走りすぎて息が苦しい。
そろりと背後を窺えば、遠くの木立の奥で赤い炎が覗いている。目を凝らしてみるけれど、こちらに追い掛けてくるような人影はなくて、ひとまず身体から力を抜いた。
みんな、大丈夫かな……。
私、ネメシアは街から街へと巡業をしている旅芸人の一座に所属する踊り子だ。そして主催者の好みに合わせて演劇なり踊りなり変わる演目を披露した後は、本人と座長の合意があればいわゆる『夜のお相手』もする、よくある団体だった。他の一座と少し違う所があるとすれば、一座を纏める座長が比較的善人である事だろう。なぜなら団員でも未成年にはお客さんの夜の相手をさせる事はなく、たとえ大金を積まれたとしても、「お国が決めた法律ですからねぇ~」と、のらりくらりと煙に巻きつつ、きっちりお断りしてくれるからだ。
借金が無ければ一座を抜けるのも自由で、巡業先で本人曰く運命の出逢いをした相手と結婚すると辞めた団員もいる。食事は子供の見習いでも一日二食きっちりと食べられるし、噂で聞いたその辺の娼婦宿や、他の一座よりもはるかに居心地は良い。特に夜の仕事の取り分が多いので、結婚相手を探しつつ、長く一座にいるお姉さんもいるくらいだ。
そして今は春。何かと催し物が多いこの季節は、我が一座のスケジュールもぎっしりだった。今回の目的地は、初めて向かう街だけど、領主自らの招待という事で通行税は免除され、座長はとても張り切っていた。
……だけどそういう時ほど、トラブルが起きるのはお約束というもので。
城街の入り口である関所まであと少しという所で、四台連なって走っていた最後尾の馬車の車輪が壊れて傾いてしまったのである。当然ながらそれは罠であり、はぐれない様に前の三台の馬車が止まった途端、森の陰で待ち構えていた野盗に一斉に襲われてしまったのだ。
私は不運だったのか幸運だったのか、馬車が止まったついでに幌の紐に引っ掛けて乾かしていた洗濯物を回収しようと外に出ていた。慌てていたせいか、うっかりストールを風に飛ばしてしまい、追い掛けて少し離れていた私は、誰かの悲鳴に馬車の方を見て驚いた。
派手に上がる土埃と、たくさんの人影。『野盗だ!』と一座で雇っている用心棒の男の人が叫んでようやく理解した。用心棒の人や男性団員が戦う剣の音や、殴り合うような重たい音が響き、日も沈みかけているので、誰が誰だか分からない。その内、火がつけられたらしい馬車は瞬く間に燃え上がり、「関所の見張りがすぐに火に気付く! とりあえず逃げて隠れろ!」と叫んだ座長の声に、皆散り散りになった。
──そして、私は近くの森へと逃げ込んだという訳である。
座長が言った通り、関所までそれほど遠くないし、逆に火をつけられた事で見張り台からなら、よく見えるようになったはずだ。自ら呼んだ旅の一座を見捨てるなんて、領主としても外聞が悪いし、座長の言った通り、すぐに騎士団が来てくれるだろう。それまでしばらくどこかに身を隠してやり過ごすのが得策だ。
……皆、捕まってなかったらいいんだけど……。
なんだかんだと旅慣れしているメンバーだ。野盗に襲われた事も一度や二度ではないし、大丈夫だと思いたい。捨て子だった自分を拾って育ててもらった恩もあるし、逆に私が面倒を見てきた見習いの子供もいる。皆似たような育ちなので、それなりに仲間意識もあった。
細い月は明かりにもならず、しゃがみこんだ自分のつま先が辛うじて見えるだけ。不安を押し潰すようにぎゅっと身体を縮こませて、時間が経つのを待っていると、夜光虫が淡い光を纏って顔の横をふわりと飛んでいった。光の尾を追えば、もう一匹、最初の虫の後に続く。
もしかして、近くに水場があるのかな……。
もう一度周囲を見回してから、そろりと立ち上がり、ついていってみる事にした。手は煤で汚れているし、おそらく顔もそうだろうから洗いたい。それに煙を吸った喉も痛いし、出来るならうがいもしたい。
最初は二匹だった夜光虫は、三匹、四匹と増えていき、ついには数えきれなくなった。あまり見かけない種類だけど、そもそもここまで北の方に来たのは初めてだから、涼しい場所でしか生息しない種類なのかもしれない。
足の痛みを堪え、手近な木の幹を支えに辿り着いたのはやっぱり水場だった。水が流れる音もしないし、川ではなく、どうやら大きな湖らしい。
湖の真ん中に柱を作るように集まる夜光虫は夢のように美しく、疲労感と相俟って一瞬ぼんやりと見惚れてしまった。けれどつい左足に体重を乗せてしまい、足首の痛みに現実に引き戻されて、思わずしゃがみ込む。
水の匂いに鼻を鳴らし、俯いて確認する。
「暗すぎて綺麗か汚いかも分からないなぁ……」
水面にそっと手を沈めて水を掬い取り、クンと匂ってみるけれど、臭くはないし冷たい。手の煤を落として、思い切って顔も洗う。うがいもしたかったけれど、口に入れるには勇気が足りない。川のように循環しない湖の水は危険が高いのだ。
ようやく息を吐くと、水面が遠くから波紋を描いて揺れている事に気付き、顔を上げた。
魚? と目を凝らせば湖の向こう側に人影があった。一瞬追い掛けてきた野盗かと思って身体を強張らせたけれど、──それは明らかに違った。
湖の真ん中にいた夜光虫がいつの間にか、その人──彼を取り囲むように集まっているので、その風貌までよく見えた。黒いローブに、赤い瞳、おそらく白髪だろう髪は夜光虫の淡い光に照らされていて、何色にも輝いて見えた。
(え、神様……妖精? すごい綺麗な人……って、……きっと魔術師だ!)
まだ私が子供だった頃、王都へ巡業に行った時に、たまたま魔術師を見た事があった。お祭りの真っ最中で、皆それぞれ明るい色の衣装を身に着けているにもかかわらず、黒いローブを着ている男性は異様に目立っていて、座長に尋ねたのだ。
座長曰く──私が生まれたこの国には十数人の魔術師がいて、王城にある魔術塔で働いているらしい。魔術師のローブは魔力を抑える為の魔道具であり、魔術師の教育機関とされる魔術院で入学時に貰えるそうだ。日常生活で魔力を無駄に放出しないように、そして暴走させたりしないように、大抵の魔術師は生涯身に着けているという事だった。
そして卒業後は国に属さない魔術師も一定数いて、彼等は国の庇護──というよりは、監視を振り切れるほど強く、各々気に入った土地の領主と契約してそこに駐在したり、孤島や深い森の中に家を構えたり、大陸中を点々と放浪したりと、自由に過ごしているらしい。こんな辺境の森にいるという事は、彼もその中の一人なのだろう。
……皆を助けてくれるかも……!
彼の美しさに見蕩れていたのも一瞬。そう思いついて、私は痛む足を堪えて再び立ち上がった。王宮所属以外の魔術師は、対価次第で願いを叶えてくれる事もあると聞いた。ただし偏屈で変わった人が多いから、気を付けろ、と同時に注意された事も思い出したけれど、背に腹は代えられない。
私は大きく手を振った。
「魔術師様! こっちです! 助けて下さい!」
しかし答えたのは魔術師ではなく、狼の遠吠え。
ひっと悲鳴を呑み込み、慌てて口を押さえる。森なのだから夜行性の獣もいるのは当たり前なのに、すっかり忘れていた。遠吠えが聞こえた背後をそっと振り返る。息を潜めて続く遠吠えを注意深く聞けば、どうやら近くではなさそうだ。
ほっとして顔を戻し、今度こそ魔術師に呼び掛けようとしたけれど、──既にそこにはもう誰もいなかった。
「え!? やだ……っ」
目を離したのはきっと一分もない。もしや私に気付かず、魔法か何かで移動してしまったのだろうか。でもまだ近くにいるかもしれない。
追い掛けるべく足を引きずりながら、湖を回り込もうとすると、ドンッと硬い何かにぶつかった。
転びそうになって慌てて、その硬い何かに手を置き、身体を支える。
つるつるした触感に、珍しい木でも生えているのかと顔を上げれば、そこには木で出来たとんでもなく大きな人形がいた。ネメシアより頭二つ分は高い。関節には丸い木の玉が連なり、大きな操り人形のような風体だった。ただし服は着ておらず剥き出しの木肌で、顔部分は丸が二つ、目のようにくり抜かれていた。
それが暗闇にぼうっと立っていたのだ。叫ばないわけがない。
「きゃあああああ!」
大きな声を出すのは駄目だと分かっているのに、今度こそ抑える事は出来なかった。──が、よくよく見て、脱力する。
「もう……何なのよ……」
はぁ~~っと大きく溜息をつき、ぺしりと目の前の人形の木肌を叩く。どうやら大きいだけのただの木の人形らしい。なんという趣味の悪いオブジェだろうか。こんな大木の幹の暗がりに隠すように置くなんて悪意しか感じない……が、きっと畑にある烏避けの案山子的な意味合いでもあるのだろう。この湖で何か養殖でもしているのかもしれない。
私は驚かされた苛立ちをぶつけるように、人形の胸部分に置いた手に力を込め、押しのけて前へ進もうとした──が、その手を逆に掴まれた。
「!」
今度の悲鳴は限界値を超えて、音にならなかった。
……ホンモノ?
ガタガタと震え始めた身体は腰が抜け、その場にぺたりと座り込んでしまった。逃げる事も出来ず、私はおそるおそる視線だけ上げて、掴まれた手首を凝視した。
掴んでいたのは、たった今自分が押しのけようとした木の人形の長い指だった。
「……いやぁあああ! 突き飛ばそうとしてごめんなさい! 悪気は無かったんです!」
いや、あったけど! なんなら倒れればいいくらいの勢いで押しのけたけど!
そう言って平謝りするが、木の人形は許す気はないらしく、ぎっちりと掴んだまま離してくれない。あ、私、死んだ。
魂を飛ばしていると、人形は長い手をぐるりと回して私の腰を掴んだ。そのままひょいっと荷物を担ぐ様に広い肩に乗せられる。
ぐえっと圧迫された胃が悲鳴を上げる。
急に変わった体勢に、ひっくり返った頭がついていかず、ふっと意識が遠のく。だけどすごい勢いで走り出した衝撃がそれを許さなかった。むしろ意識が戻らなくても良かったと思うくらい、走る振動に合わせてぐわんぐわんと揺れる頭が、ものすごく気持ち悪い。
そもそもこの木の人形は一体どこに、何の為に自分を運んでるの!?
そして、あ、と、思いついた。
もしかしてさっき見た魔術師が操ってるんじゃない? きっとそうだ。こんな大きな人形を操れるなんて魔術以外のものであるわけがない。むしろそれ以外だったら怖すぎるし!
「ね、ぇ……!」
木の人形に尋ねようとしたところで、突然目の前が拓けた。目の前にあったのは小さめの洋館……というよりは少し大きなロッジハウス。
勝手に開いた外門にヒッと悲鳴を上げたけれど、木の人形は無視して、玄関の扉を開けた。かららんと状況にそぐわない、可愛いドアベルの音がする。
広いけれど短い廊下の壁には、色んなドライフラワーから薬草、絵画や、コートが雑多に掛けられていて、生活感が溢れていた。木の人形はそんな廊下を抜けていき、大きめの扉を開けると、身を屈ませ、ほぼ建物の中心にある部屋に足を踏み入れた。
そのまま部屋を横切り、下ろされたのは居間らしき場所のソファセットの一角。古いけれど清潔で、クッションカバーには可愛らしい刺繍が入っていた。
まだ春先の夜は寒いせいか、暖炉には火が入っていて、部屋の空気は暖かく、身体の強張りを少しだけ和らげてくれた。部屋全体も古いけれど掃除が行き届いていて、乾燥させる為か見たことのない植物や薬草が至る所に引っ掛かっている。暖かそうなラグに、揺り椅子。少し傷の入ったサイドテーブルには、籠一杯に季節の果物が積まれていた。
どこか懐かしくなるような、家族でゆったり過ごすのにぴったりな素朴な居間だった。そんな中、私はすっかり落ちたフードを被り直したものの、あらためて薄汚れた自分の姿を見てちょっと焦る。
せめて土埃を落としたいと思って、立ち上がろうとすると、木の人形が肩に手を置いて、押さえ込んできた。
実はこの木の人形、明るい所で見れば大きいだけで、そう怖くない。ぽっかりと空いた目は絶妙に離れ目で、どことなく愛嬌があるし、無理やり俵担ぎで運ばれた事以外は、特に乱暴される事もない。だからこそ、ちょっとくらいなら、って立ち上がってみたんだけど……、大人しく座り直すと手は離れ、また腰を浮かせると、さっと肩に手が掛かる。
「……動くな、って事ね?」
そう尋ねると、こくり、と木の人形の顔が上下に動いた。意思疎通出来るの!? と驚きつつも、そうならば逆に話が早い。
「転んじゃったから、マントと服に土がついていてソファを汚しちゃうと思うの。だから一度埃を払いたいから外に……」
出して──と、続けようとした所で、開け放たれたままだった扉の方向から、低くもなく高くもない少し早口な声が聞こえてきた。
「そんなの洗浄魔法使えば、すぐに綺麗になるけど」
私は木の人形から身体をずらし、その向こうにいるであろう、声の主を見る。扉から入ってきたのは、やっぱりあの湖で見た白髪の魔術師だった。家の中だというのに、黒いローブを身に着けたまま、私と同じようにフードを被っているので、きっと間違いない。
いくつかのカップを載せた重そうなトレイをぷかぷかと指先で浮かせていて、まずその事にびっくりする。もちろん木の人形が勝手に動く事にも驚いたけれど、それはそれで別として、こんなに分かりやすい『魔法』を、見たのは初めてだった。
不機嫌な顔をしているのが気になるけれど、白髪の魔術師様は思っていたよりも遥かに声も姿も若かった。自分とさほど年齢は離れていなさそうで、おまけに造作も整っており、白髪が逆に宝石のような赤い瞳を美しく際立たせていた。文句のつけようもない美青年というのは、きっと彼の事を言うのだろう。
「魔術師、様……」
自然と出た呼び掛けに、魔術師の青年はパチンと指を鳴らした。
一瞬身体が僅かに浮き、足元から起こった風が、私のマントとワンピースの裾をふわりと浮かせた。フードも被ったままだったのに、髪の毛まですっきりしている。お風呂上がりのような心地よさが身体全体を包んでいて、身に着けていたワンピースの汚れまでなくなっている。
なにこれすごい便利! 一座に一人はいて欲しい……! この魔法があれば、寒い中水浴びなんてしなくてもいいし、洗濯だってしなくてすむ!
両手を広げて見れば、落ち切れていなかった煤汚れも、爪に入り込んだ泥もすっかり消えていた。
「すごい……」
「なに。魔術師と会うのは初めてなの」
ソファに歩み寄ってきた魔術師様の言葉はどこか辿々しく、最初の印象に輪をかけて幼くてぶっきらぼうだ。魔術師は人嫌いが多くて偏屈……なるほど確かに。だけどこんなに綺麗な顔をしているのに、何だかもったいない気がする。
だけど私は職業柄、不機嫌な人も横暴な人も相手をするのは得意である。庇護欲のそそる控えめな笑みを浮かべて、口を開いた。声はあくまで小さめに遠慮がちなのがポイントである。
「えっと……偶然姿を見かけた事はありましたけど、……こうして自分に魔法を使ってもらったのは初めてで……嬉しいです。ありがとうございます」
そう、魔法を仕込んだ魔道具は存在しているけれど、高価過ぎて平民には縁がない。だからやっぱり珍しくてお礼を言いつつも、あちこち自分の身体を見回してしまう。
けれど刺すような視線に気づき、はっと我に返った。そう、こんな事をしてる場合じゃない。
私は前のめりになって彼に向かって両手を組んだ。
「魔術師様、助けて下さい! 私は旅の一座で踊り子をしてるんですけど、一座の仲間が森の入り口で野盗に襲われていて……」
「それならもう片付けて、領主にも連絡済。護衛含めて団員はみんな軽症だし、死人も出てない。君以外はみんな騎士団に保護されてる」
言い募る言葉の途中で魔術師様は口を開き、淡々とそう返してきた。あまりにも早口だったので、放たれた言葉を理解するまで時間が掛かった。──え? みんな無事?
「……ほ、本当に?」
あれだけの野盗がいたのに、仲間達はみんな無事なんて──ある意味奇跡ではないだろうか。
そう、旅も長ければ野盗に襲われる事なんて珍しくない。その中で失った命だって確かにあったから。
ふっと身体の力が抜けて、私はソファの背もたれに倒れ込んだ。顔を覆って、安心感にうっかり零れそうな涙を隠す。絞り出した声は弱々しかった。
「た、助けてくれたんですか……」
「森は『西の魔術師』である僕の家の庭だからね。コソ泥が入り込んだら退治するデショ。普通」
相変わらずぼしょぼしょと話す声は小さいけれど、とても静かなのでかろうじて聞こえる。言い方から察するに、別に積極的に人助けをしようとした訳じゃなかったみたいだ。魔術師は人嫌いだと言うから、彼の不機嫌な理由はここにあるのかもしれない。でも助けてくれたのは真実だし、それに『西の魔術師』なんて固有の名前がついている魔術師は魔力が強大で、稀有な存在だと聞いた事がある。……これは思っていた以上に大物だ。自分の身勝手なお願いは、きっと彼の機嫌を損ねてしまっただろう。けれど。
「……本当に、ありがとうございました」
今更ながら居住まいを正して、もう一度お礼を言って深く頭を下げる。
衣擦れの音に顔を上げると、二度目のお礼に魔術師様は何も言わず、指を動かしてトレイから一つずつコップを浮かせ始めた。透明のコップが目の前にふよふよと飛んでくる。透き通った水面に映った自分の顔は驚きに固まっていた。
「水」
「……水……」
端的に言われて、思わず顔を上げて繰り返す。
……飲んでもいいって事よね?
おそるおそる掴んで、そっと口に含む。
……冷たくもなければ熱くもない、常温の水なのにとても美味しい。半分ほど飲んだところで次は飾り気のない陶器のカップが、またふよふよと飛んできた。今度は湯気が上がっていて熱そうだ。ふわん、と甘い匂いが漂ってきて、口の中に唾が溜まる。なんだっけ。この香り……。
「えっと、……」
「薬湯と蜂蜜混ぜたやつ。煙が凄かったから。喉痛めてるかと思って」
え、魔術師様って優しい……!
イメージと全く違う。ぶっきらぼうながらも、気遣いを感じさせる魔術師様に、人間嫌いだとか偏屈だとか聞いたまま信じていた自分が恥ずかしくなった。とりあえず偏屈だって誤情報を与えた座長は後でシメる。
水の入っていたコップをテーブルに置いて、私は湯気の立つ陶器の縁にそっと口をつけて飲み込み、目を見開いた。薬と聞いて覚悟していた苦さはなく、ただただ蜂蜜の甘さに舌が蕩けるかと思った。蜂蜜は高級品だ。店に並んでいる瓶詰の蜂蜜は高価で買えなくて、たまたま蜂を追って旅をする養蜂家と街道で行き合う時に、中途半端に余った蜜蝋を安く譲ってもらう事しか出来ない。口にしたのもおそらく片手以下で、それもお姉さんからのお裾分けであり、一回一回が一舐めすれば、なくなってしまう量だった。
美味しい……甘ぁ……。
幸せをぎゅうっと圧縮したら、きっとこんな味になるに違いない。蜂蜜を舐める度にそう思っていたけれど、今回はそれを軽く越えてる。きっとこの薬湯に溶かされているのは高級品だ。苦みは少しあるけれど、甘さを引き立てる程度で舌触りも良い。何より花の香りが強くて、嗅いでいるだけでうっとりしてしまう。
みんなが無事だという安心感と、温かい薬湯の美味しさに緊張も解け始める。そんな状態だったせいか、私はすっかり忘れていた。魔術師に願いを叶えてもらうには代償が必要という、とても重要な事を。
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