【試し読み】落ちこぼれ淫魔は退魔師の甘い支配に陶酔する

作家:皆原彼方
イラスト:獅童ありす
レーベル:夢中文庫プランセ
発売日:2021/7/16
販売価格:800円
あらすじ

淫魔第四班四十九番──それが私の名前だった。クリミナ王国侵攻部隊の部隊長シャイラ様の下で働く私は、淫夢を操ることもできない落ちこぼれの淫魔。そんな私に突然、フランドの退魔師アルフォンソ・ウィシャートの討伐任務が与えられる。『フランドの救世主』の異名まで持つ凄腕の退魔師を篭絡などできるはずがないと思いながらも、彼の家へ侵入することに成功した私は、彼が眠っている間に討伐を試みるが……「寝込みを襲うなんて、随分大胆だな……?」──彼の精気に陶酔させられ、作戦はあえなく失敗に終わってしまう。退治されることを覚悟した私に彼は〝レティ〟という名前を与えると「君のこと、飼うことにしたから」と言ってきて……?

登場人物
レティ
落ちこぼれの淫魔。天敵であるアルフォンソの討伐に失敗し、飼われる羽目に…
アルフォンソ
若き青年退魔師。『フランドの救世主』の異名を持ち、淫魔の魅了が一切効かない。
試し読み

 ────淫魔第四班四十九番。
 生命の息吹までもが眠り始める、どこか寒々しい秋の午後。ウィスリア大陸北部、タキアの森にて。
 『勤め先』である大きなお屋敷の、冷たい石畳の廊下をふわふわとした足取りで歩いていた私の背中に、ひどく味気のない単語の羅列が投げかけられた。
 音を紡いだのは存分に聞き覚えのある声音。その持ち主のことを思うと、ご機嫌とまではいかないまでも、そこそこの良好だった気分が一息に落ち込んでいって、思わず溜息を零しそうになってしまう。
 振り向きたくない。でも振り向かなきゃいけない、────その単語の羅列は私の識別番号であり、固有名詞であり、名前だ。故に呼ばれてしまえば私は振り返らざるを得ないし、返事をせざるを得なかった。
「聞いているのか、淫魔第四班四十九番」
「……はい」
 弱々しい私の返事に、振り返った先に立っていた『彼』がゆるく鼻を鳴らす。その些細な反応にさえ胃が竦むような心地がしてしまって、私は会釈に合わせてそっと視線を逸らした。
 シャイラ・イスカローズ。私の上司であり、絶対的な支配者。
 朝日に煌めく湖面のようなプラチナブロンド、片方を失っても尚美しい薔薇の真紅の如き瞳、傷を物ともしない怜悧な美貌。およそ人間離れした彼の造形は、見る者に羨望と陶酔を与え、何としてでも彼を手に入れたいと思わせるような魔力を秘めていた。
 それもそのはず、────シャイラ様は人間ではなく、魔族である。
 魔族の中でもエリート血族と名高い『悪魔族』と、魔族の中ではかなり下に見られている『淫魔族』のハーフという難しい出自の彼は、私のような淫魔族、所謂サキュバスやインキュバスを従える、『クリミナ王国侵攻部隊』の部隊長の一人だ。
 そしてその彼の指揮する、クリミナ王国侵攻部隊淫魔第四班に所属する四十九番目の淫魔が、私だった。
「いつ見ても平々凡々で面白みのない顔だな。見ているだけで気が滅入るわ」
「はは……」
 笑うしかない。
 淫魔族は人間の精気を吸わなければ生きられないもので、精気を上手く掠めとるために美しい容姿をしている。時には人間に成りすまし、その美貌と性的魅力と手練手管で。時には魔力を使って夢に侵入し、相手の望む姿かたちになって惑わせて。そうやってあれこれ手を尽くして人間の精気、────すなわち生命力を、様々な体液から頂戴しているのだ。
 そんな淫魔にとって『顔が平々凡々で面白みがない』というのは致命的で、人間の力を削ぐどころか淫魔としての生命維持活動すらも覚束ないということになる。もはや存在意義すら危うい。
 私の顔だって別に見られないほど悪いわけではない。それでもプライドの高いシャイラ様からすれば、私のような淫魔が自分の配下にいるだけでも業腹なのだろう。おかげさまで私は一年前、行き倒れていたところをシャイラ様に拾ってもらい、この彼の下で働くようになってから一度もろくな扱いを受けたためしがなかった。
 ろくでもない扱いの筆頭たるものが、『名前』だ。行き倒れた際に頭でも打ったのか、私は自分がどこの誰なのかをさっぱり覚えていなかった。名前も生まれも、厄介なことに行き倒れるまでの全てのことが、脳味噌の中からすっかり失われてしまっていて、────シャイラ様は、そんな私に『淫魔第四班四十九番』という名前を与えた。これがろくでもない扱いでなければなんなのだろう。拾ってもらったことこそ感謝しているものの、呼ばれるたびにしくりと胸が痛むのは、誤魔化しようのない事実だ。
 今だって、彼は私のほうをちらとも見ずに手元の書類を捲りながら話している。この場で私が尊重されていないことの証左だった。言えるはずのない文句を舌の上で転がして、私は愛想笑いを引っ込めて口火を切る。
「それで、私に何かご用事でしょうか?」
「お前に退魔師の討伐任務を与える」
「退魔師の討伐任務……?」
「そうだ」
 あまりに予想外の言葉にオウム返しになる私に、シャイラ様はやっぱり書類から視線を動かさないまま頷いた。
 ────退魔師とは読んで字の如く、魔族を退けるものである。
 ここウィスリア大陸において、魔族と人間は長年敵対し、小競り合いを繰り返していた。大陸の北側を魔族が、南側を人間の国『クリミナ王国』が支配し、それぞれの支配領域を広げて相手を支配下に置かんと考えている状態だ。人間のほうが圧倒的に数は多いけれど、魔族には人智を超えた魔力がある。武器を振り回すことしか知らない人間を襲うぐらいは朝飯前で、大昔には南端の一部の街を除いて魔族が支配したこともあったという。
 それが今膠着状態に陥っているのはひとえに、退魔師の登場があったからだ。
 退魔師になる人間には、他の人間よりほんの少し魔力が多い。少なくとも武器に魔力を込めたり、簡単な魔術を使ったりができる程度に魔力がある。王国はそんな『魔力のある人間』をかき集め、魔力を込めることによって退魔の力を有するという『結晶石』で錬成した武器を持たせて、魔族の討伐に当たらせていた。
 シャイラ様が部隊長の一人を務める『クリミナ王国侵攻部隊』は、そんな退魔師と戦い、領土を広げるのが使命だ。配下の魔族には当然、退魔師の討伐任務が回ってくる。回ってくるのだが、できるかと言われるとそれはまた話が変わってくる。
 退魔師とは基本的に、人間の中でも戦闘のエキスパートで、身のこなしから判断能力まで何もかもが人間離れした者の集まりだ。その一方で、私は戦闘能力がなく淫夢とかいう搦め手しか使えない淫魔族、しかも色々な面で『落ちこぼれ』。
 どう考えても討伐任務なんてこなせるわけがない、────青ざめ、淫魔らしい黒く細い尻尾をしんなりと萎れさせる私を余所に、シャイラ様は手元の書類にさらさらと何かを書き付け、こちらに押し付けてくる。恐る恐る受け取って書面を確認すれば、そこには討伐すべき退魔師の情報が並んでいた。
「『フランドの退魔師、アルフォンソ・ウィシャート』……シャイラ様、流石にこれは……」
「我が儘を言うな」
「でも……この退魔師は、第一班から第三班まで壊滅させた人でしょう」
 悪名高き退魔師の名前に、ただでさえ竦んでいた胃がさらにぎゅう、と絞られるような気がして、私は思わず半泣きになる。
 アルフォンソ・ウィシャートは、私たちが今いるシャイラ様の屋敷からほど近い街、フランドを守っている退魔師の一人だ。シャイラ様にとっては片目を奪った怨敵でもある。着任して二年の間に私の先輩淫魔の姉様たちを軒並み倒してしまった、凄腕の、若き青年退魔師。鬼神じみた動きで、魔族を一太刀の元に切り捨てる『フランドの救世主』。
 しかし私たちにとって、彼の恐ろしさの真髄はその強さではなく、────淫魔の魅了が一切、これっぽっちも、効かないところにある。
「一番美人なウルスラ姉様でも一番肉感的なルイザ姉様でも駄目、スレンダーなジル姉様も愛らしいキティ姉様も、幼い見た目のリリィ姉様の魅了にも靡かず、淫夢のエキスパートのシータ姉様も返り討ち……そんな人を、私がどうこうできるはずがないと思うのですが……」
 淫魔が人間を害する手段は、基本的にその美貌や淫夢で魅了して精気を吸いきる、もしくはその隙に攻撃してダメージを与えるというものだ。魅了に靡いてくれないのでは到底勝ち目がない。
 偵察に行った姉様によれば、人間の中では顔立ちも整っており、街の女性にも大変人気で遊び相手も腐るほどいるという話だったのに、どうも淫魔相手となると勝手が違うようだった。
 ただ女性に優しいというのは本当らしく、女性体であるサキュバスは殺しまではしないものの、淫魔としてやっていけないように魔力の元である翼を斬り落とすという。私からすればその時点で震え上がるほどに怖い。
 私の慄きように、シャイラ様もほとほと呆れたような重苦しい溜息を吐いた。
「確かにお前は魔力もろくになく、淫夢すら操れない上に、一度として単独での人間狩りも成功させたことのない筋金入りの落ちこぼれだが……今回ばかりはお前の、その顔が役に立つ」
 散々な言われようだが、これは全て事実だ。
 魔族の魔力量は翼の大きさによって一目で分かる。シャイラ様の黒翼が、彼の身体を覆い尽くせるほどのものなのに対し、私の翼はせいぜい手のひら程度の大きさ。羽搏かせたって地面から数センチしか浮くことができないので、私は屋敷に詰めているシャイラ様の配下の中で唯一、自分の足で歩いている。
 魔力がなければ淫夢は操れない。それでいて顔も平々凡々、男女の駆け引きもよく分からず、そういう手練手管もないとなれば、どう頑張っても人間から精気を頂くのは難しい。シャイラ様の言う通り、私は一度だって一人で『食事』にありつけたことがなく、姉様たちのおこぼれをたまに貰うだけ。魔力量が少ないだけに、必要な精気の量も少ないのが唯一の救いだけど、常に空腹を抱えているような状態だった。
 そんな私が、アルフォンソ・ウィシャートを篭絡などできるはずもない、────普通なら。
「……平々凡々で面白みのない顔で魅了できないか試してみよう、ということですか?」
「まあ……そんなようなものだ」
 私の質問に、シャイラ様の声音が微かに愉悦を帯びる。どことなくくらさの滲む響きに、言い知れない嫌な予感が湧き上がった。
 シャイラ様は失敗を嫌い、策を弄する性質だ。一見無謀と思えるこの任務にも、何か裏があるのかもしれない。ただどちらにせよ、きっと私は捨て駒なのだろう。
 だって、ここでの私はひどく無価値だ。失敗すればそのまま切り捨てられ、もし本当に何か策があって、アルフォンソ・ウィシャートに一矢報いることができたとしても、────そのとき、私の身体や精神が無事である保証はない。
 それでも、私はこの場では頷かざるを得なかった。断れば、身体や精神が無事じゃなくなるのが『いつか』ではなく『今』になってしまうから。
「いいか、淫魔第四班四十九番。討伐に成功するまで帰還を禁じる。同時に討伐において『著しい障害』になり得る事態が起きた際は、必ずこちらに報告することだ。……たまには、拾ってやった恩に報いてみろ」
「……はい」
 呻くような私の返事を聞いたか聞かないかのところで、彼が颯爽と踵を返す。書類を握りしめたままその背を見送る私へ、シャイラ様は最後に意味深な囁きを残していった。
「────案ずるな、あの男は必ず油断する」

***

 その日のうちに、ほんの少しだけの荷物とナイフ一つを持ってシャイラ様の屋敷を出た私は、夕焼けの中を重い足取りでフランドの街を目指していた。
 フランドの街はクリミナ王国のほぼ北端に位置し、魔族の支配地の目と鼻の先だ。タキアの森から徒歩で二時間もかからない。支配地の境目は砦こそあるものの、きちんと迂回すれば、私のような小娘一人ぐらいは見つからずにすり抜けられてしまう。
「ああ……やだなあ……」
 いよいよ見えてきたフランドの街の入り口を前に、思わず足が止まる。煉瓦造りの家々が目立つ大きな街は、シャイラ様の屋敷とは違って陽気で賑やかだった。日陰者には少し眩しすぎる、温かな営みに満ちたざわめき。それを見ているだけでも胸の奥がうずつくような感覚がして、私は自分の中の複雑な感情の精査を放り出す。
 胸を占めていくこの感情が何なのかは分からない。ただ何となく、────この街並みに好感めいた感傷を覚えたのは確かだった。
「……まず街に入って、それからアルフォンソ・ウィシャートを探す」
 事前に考えてきた任務の手順を諳んじながら、私はそろそろと足を進めた。姉様たちは、街への侵入の際は魔術で美しすぎる容姿を変え、翼や尻尾を見えなくしていたらしいけれど、私には必要ないだろう。翼も尻尾も服の下に隠れるし、そもそもそんな高尚な魔術が使えるはずもない。
 街の入り口の目の前まで来ると、いよいよ心臓が痛いほどに騒ぎ始めた。外まで聞こえてしまいそうな音を少しでも誤魔化したくて、無意味だと分かっていながらもつい胸の上を押さえてしまう。
 ここで魔族だとばれてしまったらどうなるのだろう。やっぱり退魔師に退治されてしまうのだろうか。そのときの痛みをついつい想起してしまって、緊張が高まっていくのが分かった。
 怪しまれないように堂々と前を向いて、衛兵らしき人間に軽く会釈をして、そそくさと足を進めて、────ふっと息をついたときには、私の身体は既にフランドの街の中にあった。
「はあ……」
 行き交う人々の波の合間で、今更のように震える指先を握り込む。何度か深呼吸を繰り返せば、暴れていた心臓も緩やかに鎮まっていった。
 なんだ、やればできるじゃない。ぺらぺらの紙のような自尊心が少しだけ回復したのを感じながら、私は小さく笑う。ただ街への侵入に成功しただけなのに、何か大きなことを成し遂げたような気分だった。
 最後にもう一つ深呼吸をして、地面へ向けていた視線を水平まで持ち上げる。ひとまずこれで第一関門は突破だ。次はアルフォンソ・ウィシャートを探さなければ、────私はシャイラ様に渡された書類を頼りに、『フランドの救世主』の自宅を目指して歩き始める。
 私が考えてきた作戦は、至ってシンプルだ。夜、アルフォンソ・ウィシャートが寝静まるのを待ってから、眠りを深くする魔術をかけて、その間に精気を吸うというもの。失敗する可能性は当然あるけれど、私が取れる手段はこれぐらいしかない。他のありとあらゆる手段は、もうとっくに姉様たちが試しているだろうから。
 姉様たちは基本的に『意識がない人間を襲うのはつまらない』という考え方をする。反応がないと張り合いがない。たとえ拒否されても魅了して堕とすのが楽しい。堂々とそうのたまっていた姉様たちは、淫夢を見せるでもなく、純粋に眠っているアルフォンソ・ウィシャートに手を出したことはないはずだった。藁にも縋るような希望ではあるものの、全く勝ち目のない方法よりはまだ可能性があるだろう。
 もし失敗して、アルフォンソ・ウィシャートに捕まり、翼を斬り落とされてしまったら、────そのときは、いっそシャイラ様の元に戻らずに、どこか遠い街で人間のふりをして生きるのもいいかもしれない。
 そこまで考えて人知れず笑みを浮かべた私は、手元の書類に今一度目を落として、目的地が近いことを確認した。
「……あれかな」
 他の家々と然程変わりない、二階建てのこぢんまりとした一軒家。街の喧噪からは少し遠い場所にあるこの家が、私たち淫魔を震え上がらせているアルフォンソ・ウィシャートの自宅なのだろう。そっと近寄っていって窓から中を覗き込めば、何をするでもなくソファーの上に転がった人影が見えた。
 ────あれが、アルフォンソ・ウィシャート。私たちの天敵。
 くすみのない柔らかな色の髪。すみれにも似た美しい紫の双眸。人であることは間違いないのに、ひどく心を惹き付けて止まない甘さを含んだ面差しは、どことなく憂いを含んでいる。均整の取れた身体つきも含めて、姉様たちが骨抜きになるのも納得の、所謂『上玉』と呼べるような容姿、────それらを知覚した瞬間、私の心臓がどっと激しく脈打ち始めた。
 敵と相対した緊張とは違う、ときめいているのとも違う、胸を掻きむしりたくなるような感覚。居ても立っても居られないような衝動が胃の腑からこみ上げてきて、私は思わずその場にしゃがみ込んだ。息が荒くなり、こめかみの奥がずきりと痛む。耳の奥では、心臓がうるさく騒ぎ立てるのが分かった。
「っ、なんで……なん、で、」
 なんで、こんなに苦しいの。呻くように呟いた私のこめかみから、つう、と一筋の汗が伝う。ほんの少しでも動けば身体がバラバラになってしまうのでは、と思うほどの胸の痛みに、視界が歪んだ。
 アルフォンソ・ウィシャート、貴方は何者なの。どうして『逢えた』だけでこんなにも、私を掻き乱せるの、────
「こんなところで蹲って、どうかしたのか?」
 思考を切り裂くように、低い声音が耳を打った。
 反射で顔を上げると、そこにはこちらを覗き込んでいるかんばせがあって、────私の見間違えでなければ、それは先ほどまで家の中にいたアルフォンソ・ウィシャートの顔とよくよく似ていた。
 ぽかんと口を開けたまま呆ける私を見下ろしたその人は、こちらが顔を上げたことで、ようやく私の顔を把握したのだろう。平淡だった表情が、徐々に形を変えていく。信じられないものを見るように見開かれた瞳と、痛みを堪えるかのような、それでいて何がしかの感情が溢れ出てしまいそうな、複雑な表情。そこに浮かぶ思いを読み取ることは難しいけれど、ただ一つ私にも分かることがあった。
 きっと彼は、────泣いてしまう。
「……大丈夫?」
 どうしても、そう言ってあげなければならないような気がした。
 私の台詞に、彼がずるりと腰が抜けたかのようにしゃがむ。その菫色が微かにけぶっているのが見えて、ああやっぱり泣いてしまいそうだと思った。そっと伸ばした手が、その頬に触れる。滑らかなのにひやりとした肌が無性に悲しくて、胸が苦しくて、労わるように輪郭のラインを指の腹で撫でていく。
 そんな顔しないで、という私の囁きに、彼は一度強く目を瞑った。整った顔がくしゃりと崩れ、眉間にぐっと皺が寄る。
 そして次に瞼を持ち上げたとき、彼の顔に浮かんでいたはずの感傷は綺麗さっぱり消え去っていた。
「……それはこっちの台詞だな。かなり顔色悪いけど、大丈夫?」
「え、」
 眉を下げてくすりと笑った彼、────アルフォンソ・ウィシャートが、私の正面にしゃがみ込んだまま額にそっと触れてくる。優しい手つきとベルガモットの香りに、私は知らずのうちに、ほう、と息を吐いていた。
 今のは何だったのだろう。彼にあんな顔をさせる心当たりがないだけに、何となく居心地の悪いような、据わりの悪いような感覚が付き纏って、心臓が妙にそわそわする。
「俺の家で休んでいくか……それか、医者にでも連れてこうか。家が近いなら送っていくけど」
「……」
「……あー、聞こえてる? 本当に具合悪そうだな……」
「あ……ええと、」
 未だ混乱も収まっていないところに、予想外の言葉を投げ込まれてしまった私は、うろうろと視線を彷徨わせる。まさかあのアルフォンソ・ウィシャートに、こんな心配のされ方をするなんて。状況を整理すべく、私は大急ぎで絡まった思考の糸をほどき始めた。
 恐らく彼は、私が窓から覗いていたのも、急にふらついたのも見えていたのだろう。体調が悪いのかと心配してわざわざ出てきて、そして今『アルフォンソ・ウィシャートの家で休む』か『医者に行く』か『自分の家に帰る』かの三択を私に迫っている、────こんなところだろうか。心配してくれたことや、提案の内容から鑑みても、どうやらアルフォンソ・ウィシャートは私を普通の人間だと思っているようだった。
 それならここは、その勘違いに便乗するべきだろう。
「すみません、休めばよくなると思うので……少しだけお邪魔してもいいですか?」
 今回のアルフォンソ・ウィシャート討伐において問題だったのが、『どうやって夜中に彼の家に忍び込むか』だった。それを考えれば彼の提案はまさに渡りに船で、私は一も二もなく話に飛びついてしまう。厚かましいと取られてもおかしくないお願いに、それでも彼は人の良い笑みを浮かべてみせた。
「全然いいよ。……運んであげるから、大人しくしててな」
「はい……、えっ?」
 勢いで頷いた私が内心で『ちょっと待てよ』と声を上げるのと、彼が私の膝裏と背中に腕を回すのが、ほとんど同時だった。
 次の瞬間には身体がふわりと浮き上がり、視界が一息に広がる。アルフォンソ・ウィシャートによって恭しく抱き上げられているのだと気付くまで、おおよそ十秒ほどの時間を要した。細身ながらしっかりと鍛え上げられているらしい身体は、私一人分の体重ぐらいはなんてこともないらしく、少しの危うげもないまま玄関のほうへと引き返していく。
 私のほうはと言えば、ようやく自分の状況を理解すると同時に、初めてまともに触れる『男性の身体』に淫魔の本能が疼いて、暴れることすらできずに運ばれるだけ、で。
「随分軽いな。ちゃんと食べてる?」
「た……食べ、てます! あの、下ろしてください……」
「だーめ。大人しくしててって言っただろ」
 気安く、親しげな声音と台詞はどことなく甘ったるいくせ、くすくすと鳴る喉はしっかりと男の人のものだから、また心臓がうずついてしまう。ゆるりと眇められた目が私を見つめて「俺ので悪いけど、ベッドのほうがいいよな」とお伺いを立ててくるのだって、私の心の柔らかな部分をくすぐって止まない。この男が『街の女性に大変人気』というのも頷ける話だ、────現金にも早鐘を打ち始めた心臓と、じわりと赤く染まり始めた頬を何とか鎮めようと苦心しながら、私は胸の内で呟いた。
 アルフォンソ・ウィシャートの足は、彼の家のリビングを通過し、寝室へと差し掛かる。どことなく埃っぽい空気が肺に流れ込んできたのと、ゆっくりと下ろされた先のシーツがいやに硬いことから、この寝室自体があまり使われていないような印象を受けた。
「はい、到着」
「……ありがとうございます。ベッド、お借りしちゃってよかったんですか?」
「ああ、俺はいつもそこのソファーで寝てるから。遠慮せず、いくらでも休んでいっていいからな」
 じゃあ、おやすみ。
 とびきり甘ったるく笑ってみせたアルフォンソ・ウィシャートが、ひらりと手を振って、至極あっさりと寝室を出ていく。ばたんと音を立ててドアが閉まるのを見届けた私は、大きく溜息をついて、そのまま仰向けにベッドへ転がった。

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