【試し読み】不器用な将軍閣下の獰猛すぎる求愛

作家:ととりとわ
イラスト:八美☆わん
レーベル:夢中文庫プランセ
発売日:2020/9/8
販売価格:800円
あらすじ

「一度ベッドを共にすればわかるさ」──夫を亡くしたばかりのフェリシアに持ち上がった婚姻話。今後は息子ジュリアンを立派に育て、教師の仕事に情熱を傾けていこうと決意した矢先だった。そして、なんと相手は将軍イザーク──亡夫の腹違いの兄。顔を合わせるなりまるで野獣のように唇を貪り求めてくるイザークにフェリシアは憤慨するが、精悍で逞しい彼は亡夫とまるで真逆。不器用だけれど深い愛情が溢れるイザークからの壊れるほどに獰猛な求愛に、フェリシアは葛藤し戸惑い……いつしか一途に愛される喜びに包まれるのだが──

登場人物
フェリシア
夫を病で亡くし未亡人となったばかり。将軍であるイザークの不躾な物言いと強引な求婚に憤慨する。
イザーク
フェリシアの亡夫の腹違いの兄。代々続く将軍家として国防を支えてきた精悍で逞しい美丈夫。
試し読み

 長らく降り続いていた雨がようやく上がった。
 その日の昼下がり、男爵家の娘フェリシアは、まるで地獄へでも向かう気持ちで馬車に揺られていた。王都のはずれにあるタウンハウスを出た時はこんこんと雨が降っていた。お陰で靴下が濡れていて、気分は最悪だ。
 今日のためにしつらえたグリーンのドレスは、少し襟ぐりが開きすぎているように感じた。この色はフェリシアの青灰色の瞳には合わないし、少しばかりレースが足りない。銀糸のようだと褒められる髪もうまくまとまらなかったし、なんなら、化粧のノリだっていまひとつで──
 ……要は、気がのらないのだ。
「今日はいいお天気ですこと」
「そうね」
 斜め向かいに座る侍女のラウラに、色のない声で返す。
 窓の外へ目を向けると、確かに彼女の言うとおり、空は神々しいまでに晴れ渡っていた。おまけにくっきりと鮮やかな虹まで現れている。
 こんな美しい日になるのなら、約束を反故にしてでも息子のジュリオンを連れて遠乗りに出かけるのだった。従僕を何人か連れて行けば狩りができるし、今年六歳を迎えたジュリオンにとっても、絶好の狩猟デビュー日和になったはず。
 フェリシアは眉を顰めて、車窓のガラスに頭をくっつけた。すると、わざとらしい咳払いが聞こえてくる。
「ごめんなさい」
 素早く謝ると、ラウラがびっくりした様子で目を見開いた。がたん、と車輪が何かを乗り越えた拍子にキャビンが揺れ、ふたり手を取って支え合う。
 ラウラは御者台のほうを睨みつけ、すぐにフェリシアに向き直った。
「……で、なんです? 急に謝って」
「いいえ。なんでもないならいいの。またため息をついてしまったのかと思っただけ」
 落ち着きなくうなじの後れ毛をいじるフェリシアに、ラウラが厳しい目を向ける。
「お嬢様。……いえ、奥様。今日はくれぐれも侯爵閣下に失礼のないようお願いしますよ。エルデラーハ家の、とりわけ、ジュリオン坊ちゃまの未来がかかっているのですから」
「わかってるわ、ラウラ。私だって十五やそこらの娘じゃないんだもの。ただ、夫の喪すら明けないうちからどうしてこんな話になっているのかと、納得がいかないだけ」
 ラウラは軽く息を吐いて肩を落とした。
「お気持ちは十分に存じております。ですが、これはまたとないチャンスなのですよ。こんなことを申し上げては失礼ですが、夫に先立たれた未亡人が、あのような素晴らしい身分の方に求婚されるなど、普通はあり得ません。閣下は侯爵にして──」
「先の大戦の英雄」
 ラウラの言葉尻をフェリシアが奪う。居ずまいを正して、きりりとした顔を侍女に向けた。
「確かに彼は、代々続く将軍家の長男で国王陛下の信頼も厚いわ。広大な領地を所有していて、大きなお城も、いくつもの田舎のお屋敷も、今向かっているように王都に別邸をお持ちなのもよく知っています」
 一気にまくしたてたあと、フェリシアはコルセットで締め上げられた胸に息を吸い込んだ。
 もううんざりだった。いくらグランフェルド侯爵がとてつもなく裕福でも、誰もがひれ伏すような地位と功績をもっていても関係ない。
 フェリシアの夫は、たった二週間前に病気で命を落としたばかりなのだ。悲しみに打ちひしがれていて当然の今、もう次の夫を迎えるなんてとんでもない話である。
 しかもその相手が、夫の腹違いの兄だというのだから笑えない。
「すみません。少し口が過ぎました」
 ラウラは静かに詫びて頬の緊張を緩めた。罪悪感が漂う彼女の顔には、至るところに年相応の皺が刻まれている。
 ラウラはエルデラーハ家に四十年はいるであろうという古株で、フェリシアの母が十代の頃に働きはじめた侍女だ。その母が、フェリシアの幼い頃に亡くなったため、今度はフェリシアの侍女に就くことになったのだ。
 フェリシアにとって、彼女は使用人のひとりというよりも、母親代わり兼コンパニオンのような存在だった。
 どこへ行くにも一緒の彼女に、できればもう少しいいドレスを作ってあげたい。しかし、エルデラーハ家の経済事情がそれを許さないのだ。
「いいのよ。私と家族のことを思ってもらえるのは、なによりもありがたいことだもの」
 フェリシアは心の底からそう思っているということを伝えるため、やや大げさに笑みを浮かべた。けれども、ラウラの顔には深い悲しみが張りついたままだ。俯き加減でスカートの皺を伸ばす彼女の目には、うっすらと涙が光っている。
「奥様のお気持ちはよくわかっているつもりなんです。わたくしは、あなたと旦那様がお小さい頃から仲良く遊んでいたのを、そばでずっと見ていたのですもの。さぞや悲しみに暮れていらっしゃることでしょう」
「ラウラ……」
 夫との昔の思い出が鮮やかに蘇り、フェリシアは胸の奥がずきんと痛むのを感じた。
 グランフェルド侯爵家の子息ギリアンと出会ったのは、貴族の子息が勉強を教わりに通う教会でのことだ。フェリシアが五歳、ギリアンが九歳の時だった。当時男爵家は、ギリアンの母親である侯爵家の第三婦人の屋敷近くにタウンハウスを借りていた。そのため、ふたりはすぐに毎日のように遊ぶ間柄になったのだ。
 それから何年ものあいだ、仲の良い兄妹みたいな関係が続いていた。それが変わったのは、フェリシアが十七歳で社交界にデビューした時。以来、急速に仲が発展し、その年の終わりにはもうプロポーズを受けたのだった。
 盛大に行われた結婚式からほどなくしてフェリシアは妊娠し、翌年にはひとり息子のジュリオンが生まれた。
 プラチナブロンドの髪にグリーンの瞳、優しい顔立ちをした六歳になるジュリオンは、驚くほど夫にそっくりだった。ギリアン亡き今となっては、息子の姿が子供時代の彼と重なるたびに胸があたたかくなる。悩みなどひとつもなかったあの頃のふたりは、確かに幸せだったと思えるからだ。
 馬車が揺れて、馬が足を止めたことがわかった。窓の外に見える景色はすっかり変わっていて、街なかの高級住宅地にいることに気づく。
「奥様、到着いたしました。お化粧を直してから向かいましょう」
 ラウラはそう言って、フェリシアの目の前にハンカチを差し出した。いつの間にか涙を流していたらしい。
「わかったわ」
 フェリシアは言われたとおりに彼女のハンカチで頬を押さえ、山羊やぎの毛でできたブラシでおしろいをはたいてもらった。ドレスに汚れがないか確認し、最後に胸元のレースを直す。
 こうして身だしなみを整えてはいるが、侯爵との結婚を喜んで受け入れるつもりなどさらさらない。貴族のはしくれとして、みっともない姿を見せるわけにはいかない──ただそれだけだった。

 王宮が見える城下町の静かな一角に、侯爵の別邸はあった。
 都市部の別邸と言っても、一般の貴族がもつようなテラスのついた集合住宅ではない。
 その屋敷は、馬車が横に並んで数台は通れるほど大きな門の中にあった。外壁は遠い北方の山奥でしか取れない貴重な石造り。尖塔や矢狭間やざままでついた立派な三階建ての建物は、もはや城と呼んでも差し支えないくらいの大豪邸である。
 屋敷の従僕の話によると、建物の裏手に広い庭園があるらしい。その真ん中にある睡蓮の池には、色とりどりの魚が泳いでいるのだとか。
 案内すると言われたが、またの機会に、と言って辞した。もちろん、ここをふたたび訪れることなど考えもしなかったけれど。
「ねえ、ラウラ。いくらなんでも遅くないかしら?」
 扇で口元を隠しつつ、フェリシアは隣に座る侍女のほうへ身体を傾けた。
 侯爵の権力をまざまざと見せつける豪華な居間の中だ。ドアの近くには客の要望にいつでも応えるべく、お仕着せのメイドが立っている。そのためラウラは一瞬咎めるような顔でフェリシアを見たが、メイドのほうをちらと確認すると、彼女から唇が見えないよう顔を背けた。
「確かに遅うございますわね。ま、お忙しいのでしょうけれど」
「忙しいのはわかるわ。王宮で開かれている議会に参加していらっしゃるのですもの。でも、侯爵閣下のほうから呼びつけたのに」
「しっ、奥様。今日はせっかくここまで来たのですから、もうちょっとだけ待ってみましょう」
 そうねえ、とため息まじりに言って、フェリシアは暖炉の上に置かれた金細工の時計に目をやった。
 ふたりがこの部屋に通されてから、早くも小一時間がたつ。
 フェリシアだって、はじめの十分ほどは、この部屋の豪華な内装や調度品が物珍しくて目を輝かせていたのだ。しかし、待ち時間が長すぎたせいで、ドーム型の天井に描かれた壁画も、きらびやかなシャンデリアも、優美なレリーフの施された暖炉もすっかり見飽きてしまった。
 こんな無駄な時間を過ごすなら、家で息子のジュリオンと遊んであげたかった。それか、明日の授業で使う資料を作るか……
「奥様、紅茶のおかわりはいかがでしょう」
 やってきたメイドが申し訳なさそうに尋ねる。フェリシアはラウラと目を合わせて、首を横に振った。すでに何杯もおかわりをしていてお腹がいっぱいだ。
「ありがとう。もうじゅうぶんだわ」
 気まずい気持ちで言い、落ち着きなく扇の縁どりのレースをいじる。
「あの……侯爵閣下はいつお戻りになるのかしら。もしもお忙しいなら、また今度出直そうかと思うの」
「はあ、お待たせして申し訳ございません。ですが、奥様には必ずお待ちいただくようにと仰せつかっておりまして──」
 メイドがそこまで言った時、廊下から複数の足音が聞こえてきた。ひとつは大柄な男性がわざとブーツの踵を鳴らして歩くような足音。もうひとつは、その人物に小走りでついてくる頼りない足音だ。
「ああ、お戻りになられたようですわ」
 メイドが安堵した様子で入り口を振り返った時、ドアが勢いよく開いた。
「待たせてすまない。議会が少々長引いたのでね」
 低く、部屋全体に轟くほど重厚な声に、フェリシアはびくりと肩を震わせた。
 普通、ドアは従僕が開けるものだ。それなのに、いかにも侯爵、いかにも堅物将軍といった具合の厳めしい大男が、自ら開けた扉の前で仁王立ちしている。彼の純白の軍服の後ろには、おろおろする従僕らしき男の姿があった。
 義理の兄とはいえ、フェリシアがグランフェルド侯爵に会うのは今日が二度目だ。一度目は、自分の結婚式が行われた日。それも、互いに名乗りあう程度の出会いであったため、彼の容姿はほとんど覚えていなかった。
 侯爵がコツコツと足音を立てて部屋に入ってくる。腰を上げたフェリシアは、数多あまたの勲章が輝く彼の胸元から、おずおずと視線を上げた。
 男性的なしっかりした顎に、横幅の広い薄めの唇。すっと通った鼻筋。髪と同じ色をした切れ長の眼差しは、噂どおり冷酷そうだ。鼻梁から頬骨にかけて、割合に目立つ古傷がある。顔立ちは精悍だが、その眉間には昨日や今日できたわけではない深い皺が刻まれていた。
 何よりも特徴的なのは、身体全体が大きいことだろう。彼は背丈だけではなく、辺境将軍の肩書にふさわしい立派な体躯をもっていた。
「グランフェルド侯爵イザーク・オルトヴィリスだ」
 フェリシアの目の前で足を止めた侯爵が、頭ふたつ分高い位置から見下ろしてくる。まるで、小さな獲物を前にした猛禽もうきんのような目つき。この黒々した冷たい瞳に睨みつけられたら、大抵の人は一瞬ですくみ上ってしまうだろう。
「今日はご足労いただきありがとう」
 そう言って侯爵が差しだした巨大な手を、フェリシアは冷ややかに見つめた。これまでに、挨拶をしてきた男性に握手を求められたことなど一度もない。
 彼は確か、三十三歳になるという話だ。社交界での経験をじゅうぶんすぎるくらいに積んでいるだろうに……一体なんのつもりだろう。
 フェリシアは彼の手を無視して、ドレスの両脇を摘み優雅に膝を曲げた。
「エルデラーハ男爵家の長女フェリシアでございます。閣下には以前に一度お目にかかっておりますが、覚えておいででしょうか」
「ああ、もちろん。だからこそ君に求婚した」
 彼はそう言うと、素早く距離を詰めてきた。握手をするために差し出した手で、いきなりフェリシアの手首を掴む。
 フェリシアは鋭く息をのんだ。彼はフェリシアの身体を引き寄せて、隣でびっくりしている様子のラウラに険しい顔を向けた。
「悪いが、ふたりだけにしてくれないか」
 イザークは一旦ポケットに忍ばせた手を出して、ラウラに何かを握らせた。自分の手の中を一瞥したラウラが、毅然とした顔でそれを突き返す。彼女の指のあいだから、イザークの手の上に金貨がすべり落ちた。
「エルデラーハ家からじゅうぶんいただいておりますので、お気遣いは結構でございます。──では奥様。わたくしは先に馬車でお待ちしております」
 しばらくのあいだ何かを言いたそうにしていたラウラが、諦めたようにきびすを返す。
 ラウラに続いて、イザークに促された従僕とメイドが出ていってしまうと、フェリシアは急に心細くなった。独身の男女が密室でふたりきりになるなんて、不謹慎極まりない。おまけにこの男は、突然何をしでかすかわからない衝動性を秘めている。
「どういうおつもりですか?」
 フェリシアは目の前に立つ男の顔を睨みつけた。握られたままの手首はうっ血し、じんじんと悲鳴をあげている。彼の鋭い目がすっと細くなった。
「どういう……? 婚約者とふたりだけで話したいと思うのは至極自然のことだと思うが」
「婚約者、ですか」
「ああ、そうだ。何かおかしなことを言っているか?」
 イザークの口の端がわずかに上がるのを見て、フェリシアは彼がびっくりするような悪態を浴びせたい衝動に駆られた。
 イザークは知っているのだ。エルデラーハ家の経済事情も、彼のような身分の男性が格下の女性との結婚を望んだ場合、相手がどんな状況にあろうとも断るすべを持たないことも。
 フェリシアは気持ちを落ち着かせようと何度か深呼吸をした。イザークの手をやんわりと振りほどき、不測の事態に備えてドアのほうへと足をにじる。
「念のためお聞きしてもよろしいかしら」
「なんなりと」
 イザークが鷹揚おうように答える。フェリシアはドアの横にある暖炉の上の調度品を眺めるふりをして、そこに近づいた。
「社交界には未婚の若くてかわいらしい女性がたくさんいらっしゃいます。それなのに、閣下がなぜ未亡人のわたくしなどをお選びになるのかわかりません。理由はなんですか?」
「理由はいくつかあるが──」
 突然真後ろに響いた低い声に、フェリシアはびくりとした。振り返ると、いつの間に近づいたのか、イザークが目の前に立っている。
 互いの身体が触れてしまいそうなほど距離が近い。白い軍服の胸元から立ちのぼる匂いは男らしくて、線の細い前の夫とは真逆のタイプだということを思い知らされる。
 彼は冷たい黒曜石のような目で、まっすぐにフェリシアを捉えた。
「一番大きいのは宗教上の理由だ。君の家では、家族ぐるみでカレドア正教を信仰しているな?」
「ええ、もちろんです。家族で国教を信仰するのは大切なことですから」
 ふふん、と彼がせせら笑う。
「かつては私も、貴族の大半に洩れずカレドア正教を信仰していた。だが、四年ほど前にベイルー教に改宗した」
「べイルー教に?」
 フェリシアは手探りで暖炉の角を曲がりつつ、眉を顰めた。
 カレドア正教もベイルー教も、同じ神を信仰の対象とする、もとはひとつの宗教だ。しかし、いつからかふたつの派閥に分かれ、貴族は主にカレドア正教を、庶民はベイルー教を信仰するようになった。侯爵ともなれば、カレドア正教を信仰するのが普通だ。『教義が野蛮』と言われるベイルー教などではなく。
「ベイルー教では複数の妻をもつことを禁じられているのは知っているな?」
「え、ええ」
 さらに距離を詰めてくる彼に向かって、フェリシアは震えながら答えた。イザークが舌で唇を湿らせる。
「代々に渡る将軍家の血筋を絶やすわけにはいかない。重婚も愛妾をもつこともできないのなら、子供を産んだ実績のある女性と結婚するしかないだろう」
 自分の唇があからさまに歪むのを、フェリシアは止めることができなかった。
 貴族であれば、親の勧めや政略がらみで結婚するのが普通だ。しかし、それでも建前上は相手に気があると匂わせるのが礼儀ではないのか。こうはっきりと跡継ぎだけが目当てだと告げられるなんて、夢にも思わなかった。
 大柄なイザークに気圧され、いつしかフェリシアはドアの横の壁に追い詰められていた。
 もう逃げ場はない。彼は冷静に話をするつもりがあるのだろうか。であれば、こんなにも距離を詰めてくるのは、一体なぜ……?
 フェリシアはごくりと唾をのみ込んだ。

※この続きは製品版でお楽しみください。

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