【試し読み】主任と私、28日間の攻防~変わり者上司は私の肌を甘やかす~
あらすじ
「肌だけじゃなくて、君の全部、もう他の誰にも見せたくない」化粧品会社の総務部で働く灯子は、スキンケア商品のモニターに選ばれ研究所の商品開発部へ異動することに。そして主任の瀬多から直接肌チェックを受ける羽目になる。端麗な顔立ちで有名な瀬多は、実は自他ともに認める変わり者で、肌に異常なほど執着を示すいわゆる“肌フェチ”だった。灯子の肌に陶酔する彼に、ふたりきりの研究室で頬を撫でられ唇が触れそうなほど顔を寄せられて、緊張は最高潮に。胸の高鳴りから目を逸らし続ける灯子だったが――「……ごめん」ある夜、謝罪とともに口づけられ…?※本作品は過去に出版されていた別タイトルの作品を加筆修正したものです。
登場人物
スキンケア商品のモニターに選ばれ、商品開発部の主任・瀬多から直接肌チェックを受けることに。
端正な顔立ちをしているが、性格は自他ともに認める変わり者で、生粋の“肌フェチ”。
試し読み
プロローグ
ひやりとした感触に、思わず肩が震える。
もう何度も同じことをされているのに、いまだにこういう反応を示してしまう自分が恥ずかしい。頬をなぞる指の主が口元を緩めて微笑む様子を想像しそうになり、目を閉じたまま、私は躍起になってその思考を振り払う。
頬を緩くなぞる長い指は、目を閉じているから見えない。まだ開けられない。
息が詰まりそうだ。今日も、吐息がかかるほど近くに顔を寄せられている。今にも唇が肌に触れてしまいそうな場所から、じっと見つめられている。
とはいっても、見られているのは別に「私」ではない。この人はただ単に、良質な被験体が──その肌が、新商品のサンプルをどんなふうに吸い込んでいるかを見ているだけだ。
それを虚しいなどと思うこと自体、間違っている。頭では分かっている。それでも。
……日に日にごまかしが利かなくなってきている。一旦頬に熱が集まってしまえば、当然、それはすぐには引かない。こんな触れられ方をされては、そうなる前に手を打とうにも無理がある。
傍目にもはっきりと分かるほどに赤くなっているはずの私の頬について、相手は言及してこない。その事実が余計に私の心を乱し、複雑な感情を引き連れてきてしまう。
いっそ早く終わってくれないものかと切実に思う。けれど、どうしたってそれは叶わない。
一クール二十八日間のモニタリングは、まだまだ中盤なのだから。
1st week 変人上司×普通肌な私
やや手狭な事務室内に、帰宅の挨拶を交わす同僚たちの声が響き合う。
私はといえば、残務に追われながら、もうそんな時間かとつい溜息を零しそうになっていた。
……十月も間もなく中盤。時期外れの部署異動を言い渡されたのは、先週の金曜日のことだった。
現状、翌週から新しい部署に移ることよりも、自分が抱えている仕事を同僚に引き継ぐことにこそ気を取られている状態だ。
とはいえ、引き継ぐ相手は、私がこの経理課に配属された当初から在籍しているベテラン同僚。私だけに任されている業務の大半が、その人から引き継いだものだ。現在の進捗や詳細、当時から微妙に変化した内容を伝える程度で済むのはありがたかった。
当社は、多数の化粧品ブランドを手がける会社だ。
大元は家庭用洗剤やオーラルケア製品類など、一般家庭向けのさまざまな製品を製造・販売している大手企業で、そこからさらに複数のグループ会社に枝分かれしている。
私が勤めているのは、そのうちのひとつ。化粧品やヘアケア・ボディケア製品を手がけるグループ企業の地方支社だ。その総務部経理課に、私は三年前から在籍していた。
異動指示を受けたときの衝撃は相当だった。なにせ、ようやく今の仕事環境に慣れてきたところなのだ。しかも、異動先は今通っている支社ビルではなく、ふた駅隣の郊外に建つラボ──研究所だという。
『商品開発部の事務を担当していただきたく』
その通達を目にしたときは眩暈がした。せっかく今の職場に近い場所へ引っ越したばかりなのになんたる仕打ちだ、という思いもある。
とはいえ、あれこれ愚痴を零しても、異動の話がなくなるわけではない。
引き継ぎの時点で気が滅入りかけているが、むしろ本番はこれからだ。異動先ですぐに新しい仕事を覚えなければならない以上、愚痴を零している暇など私には一秒たりともない。
不幸中の幸いは、今と同じ事務のポジションへの異動であること。その点は私にとって救いだった。
実際には事務以外の業務も任されるらしいが、詳細はまだ聞いていない。開発中のスキンケア商品のモニタリングに関連する業務だ、と教えてもらった程度だ。
四年前、入社後に直営店舗の売り場スタッフとして配属された私は、事情により一年も経たないうちに総務部経理課へと異動してきた。
思い返せば、支社の業務とは無縁だった売り場出身の私に、総務部の先輩たちは懇切丁寧に仕事を教えてくれた。もうしばらくこの環境が続くものと信じて疑っていなかっただけに、日に日に切なさに似た気持ちが降り積もっていく。
感傷に浸っている場合ではないことくらい、承知の上ではあるけれど。
引き継ぎ用のノートに最後のひと文字を書き終え、静かにそれを閉じる。
終わった。これで最後だ。後は、不明なことがあればその都度電話かメールで確認してもらうしかない。そんな状況にはまず至らないだろうが。
時計を見ると、時刻はすでに午後八時を回っていた。
フロア内にはまだ数人のスタッフが残っている。凝った肩をぐるりと回してから自席を立つと、何人かがデスクから顔を上げ、お疲れ様でした、と声をかけてくれた。
この環境、結構気に入ってたんだけどな……ふと胸を過ぎった寂しさを振りきり、私もまた皆に声をかけてからフロアを出た。
ぼんやりと階段を下りていく。ここを歩くのも最後かもしれない、などと感傷に浸りかけていると、最初の踊り場でスーツ姿の人物と腕がぶつかった。
すみません、と声をかけようとした瞬間、つい言葉に詰まってしまう。
最初に目に映ったのは、節の目立つ長い指だ。徐々に視線を上向けていくが、私の視界はなかなか相手の顔に辿り着かない。微かに首に痛みを感じる辺りまで見上げたところで、ようやく、相手が相当な長身であることに思い至った。
そこにいたのは、端正な顔立ちをした男性だった。眼鏡の奥で細められた切れ長な両目が、訝しそうに私を見つめている。
……こんな格好いい人、うちの会社にいたっけ。思わず見惚れてしまう。
時間にすればせいぜい二、三秒のことだったとは思うが、ぼうっと相手を見つめてしまっていた私は、はっと我に返って慌てて口を開いた。
「……っ、す、すみません」
咄嗟に伏せた視線の先に、白い布が覗いた。右腕に抱えられているシーツのようなそれは、どうやら白衣らしい。ということは、この人はきっとラボのスタッフだ。
相手に比べて頭ひとつ分……いや、それ以上に小さな私は、必然的に彼に見下ろされる形になり、なんだか萎縮してしまう。
居心地が悪い。早々に目を逸らし、軽く会釈をしてから立ち去ろうとしたそのとき、ぐ、と右腕を掴まれる感触があった。
思いもよらない接触を前に堪らず零れそうになった声を、私はすんでのところで呑み込んだ。
「もしかして、潮野 灯子さんですか?」
前触れもなにもなく名を呼ばれ、目を見開く。顔見知りでもなんでもない相手に、すれ違っただけで名前を呼ばれるなんて、想定していなかった。
相手がラボのスタッフであることは予想できた。異動先であるラボにて一緒に働くことになる人だろうとも理解が及ぶ。ただ、残業の疲れのせいか、まともな判断がどうにも鈍る。
「あ……はい?」
「そうですか、君が……話に聞いていた通りです」
掴まれた腕を強く引かれ、ヒールの足元がぐらりと揺れた。相手の予想外の行動に、今度こそ戸惑いを隠しきれなくなる。
白衣を持った手で私を引き寄せた彼は、さらに私を困惑させる行動に打って出た。腕を掴んでいるほうとは逆の手が、頬に向かってまっすぐ伸びてきたのだ。
「っ、え?」
素っ頓狂な声が出た。長い指はそのまま頬に触れ、私は露骨に固まってしまう。
……初対面だ。間違いなく。そんな相手の、節の目立つ長い指が、私の頬と目尻の間を緩々と振れながら泳ぐ。
信じがたい状況ではあったけれど、絹にでも触れているかのような気遣わしげな感触だったからか、私の頬は空気を読まずに熱を持ってしまう。
な、なんでだ。見ず知らずの男性に、どうして私はここまであけすけに触れられている。
はくはくと口を開けては閉めるしかできなくなった私に、男性は浮かされたような声で呟きを落とす。
「ハリ、きめの細かさ、色味、毛穴の状態、ツヤ……素晴らしい。どこを取っても普通だ」
「普通」
触れられたきり、うっかり鸚鵡返ししてしまう。
恍惚とした相手の表情が、なおさら私の混乱を深くする。うっとりした顔と声で、しかも職場の廊下で、この人は一体なにを口走っているのか。
だいたい、今の流れなら、普通はそこで褒めるかお世辞を言うかの二択だと思う。それを普通とは……だんだん、おかしいと思う自分の感覚こそがおかしいのでは、という気がしてくるから不思議だ。
事実、現場の仕事を離れて以降、丹念に肌の手入れをする機会はほとんどなくなっていた。そこは否定できない。だが、「どこを取っても普通」という表現があまりにも引っかかる。
相手は、私から指を放すことなく、いつの間にか蕩けるような笑みを浮かべていた。
突拍子もない言動が続いたせいですっかり忘れていたが、やはり顔は非常に格好いい。そんな男が、輝きに満ちた満面の笑みを湛えて私に触れているのだ。普通なら見惚れたりときめいたりしてもおかしくない状況だとは思う。しかし。
固まる私を熱っぽく見つめながら、彼はうっとりと口を開いた。
「モニタリングを行う上でこの上なく好条件なんです。本当に理想的だ、まさか社内にこんな逸材が潜んでいたなんて……経理課恐るべしです、他にもスカウトをかけたほうがいいかな……いや、年齢的に当てはまるスタッフは他にはあまり……なら経理課以外は……人事課なんかはどうだろう……いや、でも……」
喋りながら、ご自分の世界に入ってしまわれたらしい。
悩ましげにこめかみに指を添える相手を横目に、いっそ今のうちに立ち去ろうかとも確かに思った。けれど、さすがに実行はためらわれてしまう。
「モニタリング……ですか?」
おずおずと問いかけてみる。すると、相手ははっとした顔で再び私に視線を向け、少々意外そうに口を開いた。
「おや、詳細はまだ聞いていませんか? ラボに移ってもらった直後から、君には開発中のスキンケア商品のモニターをお願いする手筈になっていまして」
「あ……ええと、モニター? ですか?」
「ここまでとは想像していませんでした、本当に素晴らしい。適度な肌荒れと乾燥、年齢にしては早めに現れ始めている目尻の皺……いい……ちょうど良すぎる……」
相手の視線がうっとりと揺れる。
だんだん怖くなってきた。顔はこんなに格好いいのに。
「は、はぁ……」
「週明けからよろしくお願いしますね……あ、申し遅れました。私、商品開発部ビューティケアシステム課主任の瀬多 直純と申します」
すかさず名刺を渡され、私は若干引き気味にそれを受け取った。
……テンションが高すぎる。午後八時過ぎまで職場に残っている人間のそれとは思いがたいし、さらには失礼だ。乾燥やら目尻の皺やら、余計なお世話にもほどがある。
瀬多──間違いない。直属の上司になると伝えられている人物と同じ姓だ。
眩暈がした。勢いに任せてその場にうずくまりたくなったものの、なんとか踏み留まる。
いわれてみれば、先週だったか先々週だったか、アレルギーの有無について先輩同僚に尋ねられたことがあった。それから、肌トラブルに関してもいろいろ訊かれた。もしやあれらは、この件に関する話だったのか。
支社内に配置されている部署とは異なり、商品開発部はスタッフが少ない。そのため、課の事務業務はほぼひとりで行うことになる上、事務のみの上司は存在しないと聞いていた。課やチームの直属の上司がいるだけだ。
つまり、この男が私の新しい上司ということになる。
「……はぁ。こちらこそ、よろしくお願いします……」
腰が引けそうになりつつも、無理やり挨拶の言葉を絞り出す。
その間、相手の指はなおも私の頬に触れたきり。挙句の果てに、緩々とそこを撫でてくる始末だ。
解せない。擽ったいからやめてほしい。というより、それ以前の問題だ。せめて挨拶を述べているときくらいは放していただきたかった。
引きつった顔で挨拶を済ませた私に、彼──瀬多主任はにこやかに微笑んだ。
異動前から嫌な予感しかしないのは、私の考えすぎだろうか。
*
今の会社に就職したのは、短大の卒業後。
最初に配属されたのは直営店だ。支社ビル近くの店舗で、私は販売員として働くことになった。
学生時代には商業系の学業を中心に重ねていて、関連する資格も取得した。けれど、私は自ら、それらとはあまり関連のないこの仕事を選んだ。
昔から、私は両親や親戚、友人など、周囲の人間にとにかく流されがちだった。事務関連の資格を持っていれば間違いないとか、将来結婚して再就職するにも有利だとか、例に漏れずその手の意見にあれよあれよと流されていた。
私が本当にやりたいことって、なんだろう。
初めてそう思ったのは、短大に通っていた頃──就職活動を開始する直前のことだ。リクルートスーツに身を包んで、日頃はあまり力を入れていないメイクを丹念に重ねて、そこではっと気づいた。
転機は、メイク用品の新調のため、とある化粧品ブランドの直営店に立ち寄ったときに訪れた。後に私が勤めることになった店舗だ。
いいな、という気持ちは、からっぽな未来像と重なって簡単に憧れに成長する。洗練された店内の雰囲気も、スタッフの凛とした立ち居振る舞いも、薄っぺらな気持ちのまま周囲に合わせる形で就職活動を続けていた私の中に瞬く間に居場所を作った。
それが、人を納得させるに足りる動機だったかは今も分からない。とはいえ、困惑を掻き消しきれない状態でどこか現実味のない就職活動を繰り返していた私が、「これが自分のやりたいことだ」と言い張れる程度の武器になったことは事実だった。
そこからは、私にしてみればなし崩し的。周囲には突然の変貌に見えたかもしれない。
企業情報、エントリーシートや履歴書の書き方、面接時の注意事項、敬語や謙譲語の使い方の果てまで、とにかく調べては練習して……私の人生において、あれほどなにかに打ち込んだことはおそらく他にない。難関と囁かれていた資格試験への対策を練っていた頃よりも、遥かに真剣に取り組んでいたと思う。
そうして、私は念願の内定を勝ち取った。
配属は、希望通りの販売部門。例の直営店で勤務することになった。
希望が通ったといえばその通りではあったが、女性社員の大半は、入社後の研修を兼ねて売り場スタッフの経験を積まされる。私も、単にその風潮に当てはまっただけだ。
けれど、望んだ仕事に就けた私は本当に嬉しくて、ただただのめり込むようにして日々の業務に励んでいた気がする。
──あの頃のことを、いまだに夢に見るときがある。今日もその例に漏れなかった。
見慣れた天井をぼんやりと見つめながら、荒く乱れた呼吸を元に戻そうとするだけで精一杯。ぎりぎりと痛む胸を押さえ、ベッドから起き上がることなく、私は臓腑の底から吐き出すような深い溜息を落とした。
ひと言で表すなら、今朝の夢は、紛うことなき悪夢だ。
「……なんなの……」
思わず零れた声は、自分のものとは思えないほどに掠れきっていた。
要らない記憶なんて消してしまえればいい。そう思うのは、決まってあの頃の夢に魘されて目覚めた朝ばかり。
実際のところ、経理の仕事は私に向いているのかもしれなかった。
私が店舗から支社に異動した本当の理由を知る数人の先輩たちは、過保護なのではと恐縮してしまうくらい丁寧に仕事を教えてくれた。そもそも、細かい数字を相手に電卓を叩いたり、パソコンに向かったり、そういった業務に対して苦手意識はない。
売り場の仕事に就いた当初よりもずっと早く、私は経理の仕事に慣れた。向き不向き、適材適所。こういうことなのかもしれない。
売り場の仕事を離れ、かれこれ三年が経過しようとしている。とはいっても、忘れた頃になると、忘れさせまいとばかりに悪夢が私に牙を剥く。
「……はぁ」
息が詰まる。月曜の朝からこれでは、精神的につらい。それでも。
罵声、視線、非難。かつて私を追い詰めたそれらの悪意は、私の心の底にこびりついて残ったきり、今なお蠢き続けている。
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